一九二〇年代〜三〇年代に神戸電鉄敷設工事の過程で13名の朝鮮人労働者が犠牲となりました。昨年七月に結成された「神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会」(代表/落合重信)の調査活動で、13名の犠牲者のうち3名の遺族の消息が判明しました。今年の夏、そのうち6名を日本に招待して追悼式を催します。
お招きする遺族は、一九二八年1月15日の東山トンネルの事故で亡くなられた黄範寿さん(当時30歳)、および一九三六年11月25日の藍那トンネル事故で親子が同時に亡くなられた金鳳斗さん(当時47歳)、金東圭さん(当時24歳)の遺族です。
黄範寿さんの遺族から、黄範寿さんの娘の黄戊順さん(釜山在住、事故当時3ヵ月)、息子の嫁の尹福祚さん(蔚山在住、一九三二年生)です。黄範寿さんの遺族であとおひとり、黄戊順さんあるいは尹福祚さんの息子さんが来られます。
金鳳斗さん、金東圭さんの遺族から、父と兄を同時に失った金順牙さん(慶尚南道固城郡在住、当時21歳)および金漢圭さん(同、当時8歳)と奥様(一九三三年生)の3名です。
訪日の予定は次のとおりです。
8月 | 26日(金) | 午後 韓国金海(釜山)空港より大阪空港へ |
27日(土) | 午後 東山および藍那のトンネル事故現場を訪問 | |
夜 会食会 | ||
28日(日) | 午前10時 興隆寺(神戸電鉄大池駅下車)で追悼式 | |
午前11時 同所で記者会見および報告集会 | ||
29日(月) | 休息 | |
30日(火) | 大阪空港より帰国 |
去る 5月12日、神戸学生青年センターにおいて「藍那トンネル事故の目撃者・李秉萬さんを囲む会」が開かれました。当日は鈴蘭台駅前で事故当時に朝鮮人犠牲者の葬儀を目撃していた藤井包子さんも参加して下さいました。
12日午後 2時から藍那トンネルの事故現場、李さんと藤井さんが通っていた小部小学校(今年一二〇周年)、葬儀の行われた鈴蘭台駅前、当時飯場のあったところ等を見てまわりました。
李秉萬さんは、藍那トンネル前で、当時のことを思い浮かべ、「早くこの場を去りたい」と嘆いていました。小部小学校では李さん藤井さんのふたりは小学校時代のことをなつかしく語りあっていました。また、飯場跡ではむしろで囲っただけの「タコ部屋」のことを詳しく話して下さいました。
午後七時からの集会では、事務局から韓青同の高祐二君から、当時の生々しい状況と一三名の犠牲者のうち二遺族が判明したので、韓国に調査に行くことなどの報告があった。
そして李秉萬さん、藤井包子さんから当時の体験を話していただきました。
参加者からは「日本の学校等では学べない本当の歴史をこのような集会でしか知ることができない」等の意見も述べられました。
また、神戸電鉄株式会社に、興隆寺での法要時に 朝鮮人犠牲者の名を銘記し追悼すること、同法要に朝鮮人犠牲者の遺族を招待すること、追悼碑を建立することなどの要望をしましたが、良い返事が得られなかったため再度要望書を出したことが報告されました。(李相泰記)
北海道や九州の炭鉱。黒部立山のダム工事。日本各地の鉄道や道路。トンネル工事‥‥。身近なところでは武庫川の河川敷工事、そしてとうとう神戸市内の神戸電鉄敷設工事で、朝鮮人労働者が犠牲になっていたことが調査され、この「追悼する会」が作られた。神戸在住の私にもこの会の発起人にと依頼があり、名を列ねたが、未だ出席する機会がなかった。偶々、会が開かれる日に他の約束が重なった為もあるが、こういう追悼の会というのを考えるだけで、最近医学的に大いに吹聴されている活性酸素というのが身体をかけめぐる気がする。憤怒で我を忘れるかも知れぬ会への出席を躊躇する気持ちがあるのも確かだ。
在日朝鮮人の私にとっては、強制連行をはじめ慰安婦や劣悪労働による犠牲者のことは、とうの昔から知っていたことである。同じ体験をしたり、その本人から聞いたという身近な在日一世達の伝聞によるものだから、犠牲者の名前や年齢、正確な人数が分っているというのではない。この会のように当時の新聞記事等で事実を綿密に調査し、まるで裁判の時の証拠のように目の前に示すことはもちろんできない。多分に情趣的なものだろう。
だけどこの情趣は、当時の苛酷さとは比較にはならないにしても、現在も尚その根本的なものは変っていない気がする。ある日本人が私に日朝(韓も含めて)間の感情はいつ氷解するだろうかと聞いたことがある。私は即座に、今の日本の制度のままでは絶対に有り得ないと答えた。現在、北の共和国の核問題から朝鮮人女学生が多数、匿名のいじめにあっている。変りようがどこにあるというのか。
しかし、この会や他の地道に発掘調査をする活動が、犠牲者の名前や遺族の存在を明らかにすることで、人間が一人一人生まれて死ぬことが見えてくるという当たり前のことを改めて思い起させ、日本人と朝鮮人とが共に全国で展開している小さな証拠の積み重ねの努力が、少しづつではあっても氷を解かす熱になるだろう。
一九七九年から約一〇年間、私は神戸市西区(転居当時は垂水区からの分区以前)の住民で、神鉄粟生線で通勤していた。西鈴蘭台を過ぎると車窓は突然山の中になる。山から抜けて木津駅を過ぎ、次の木幡が私の下車駅であった。
通勤をはじめた頃、藍那駅周辺の風景の印象にすっかり感動してしまったことを憶い出す。線路の北側は通路をはさんで昔の庄屋屋敷を思わせる旧家と小さな墓地、北側は旧斜面にへばりつくように並ぶ、相当余裕のありそうな農家風の家並。豪雪対策のためであろう、急勾配で高い瓦屋根が目立つ。
古い地図をみると、藍那は急行停車駅になっている。沿線の在来型集落として、大きなほうに属したのだろう。
駅前に、義経と弁慶が駒をつないだという大木がある。満員電車の車窓が、北側にむいた時はその大木、南側をむいた時は大きな崖というのが、トンネルを出た瞬間にホッとした気持ちにさせる駅のホームだった(トンネルが複線になるのは私の大阪転居後である)。
最初の秋、北側の崖からホームに垂れ下がる見事な紅葉に感激し、冬には、崖の全面を覆うつららの林に圧倒された。
あのトンネル工事に多くの朝鮮人が働き、悲惨に死んでいったこと、その事実が隠され続けて来たことを、愚かにも私は知らなかった。恥かしいことだと、今にして思う。
あのつららはその朝鮮人たちの「恨」を表現しているのだろうか。故国を想う「涙」だったろうか。いまようやく「恨」を解く仕事がはじまっている。つららを憶いながら我が身を恥じ、関係諸氏の活動に深く感謝したい気持ちである。
遺族の黄善済さんは蔚山(ウルサン)市、金漢圭さんは固城(コソン)郡に住んでおられる。いずれも慶尚南道である。釜山への飛行機の手配をしてから、韓国の遺族に日本から電話をし、訪問予定の日を知らせた。
五月一七日の夕方、釜山に到着すると、むくげの会とは長い付き合いである釜山外国語大学の林(イム)オンギュさんと釜山滞在中の出水(いずみ)さんが出迎えてくれた。本当にありがたいことに林さんが固城まで自家用車で同行してくれるのである。空港から固城の金漢圭さん宅に電話を入れると、夕食も用意しているので食事をせずにすぐ来るようにとのことだ。固城郡はとても広いが、目的地の下二面(ハイミョン)はその西の端にある。三千浦(サムチョンポ)のすぐ東である。車は金海空港から馬山(マサン)、晋州(チンジュ)を通って三千浦に向う。三千浦は海岸沿いにあり、夕焼けがとてもきれいだった。空港から二時間ほどかかって下二面につくと、金漢圭さんが道まで出迎えに来て下さり、昨年九月に借金をして建て替えたという家に案内してくれた。家の隣には農耕用の牛がいる納屋があった。
金漢圭さんは一九三六年の藍那トンネル事故のとき九歳で、亡くなられた父の金鳳斗さんは当時四七歳、兄の金東圭さんは二四歳だった。金漢圭さんの家で私たちを待っていて下さったのは、金さん、金さんの奥様の李今年さん、近所にいた親戚の趙〓旭(チョヨンウク)さん(妹が金漢圭さんの兄と結婚、事故当時一一歳で葬式のことを覚えている)、それに事故当時二一歳であった姉の金順牙(キムスナ)さんの四名である。金順牙さんは戸籍では生存も確認できてなくて、お会いできるとは考えていなかった方である。
そこで伺ったお話は次のようなことだ。
日本には、金鳳斗さんとその兄、それに息子の金東圭さんが、事故の五年ほど前に行った。金鳳斗さんは、渡日後奥さんが亡くなられたりして何回か朝鮮に帰ってこられており、その後再婚もされている。当時朝鮮で貧しい暮らしをしていて働くために渡日したという。金東圭さんは、日本に勉強するために行ったが、朝鮮には一度ももどらずに事故で父と一緒に死んだ。二人とも村で評判のいいほど頭がよく、村の人たちは、もったいないことをしたと言っていた。遺骨は、後妻の崔始女(チェシニョ)さんが(?)日本に引き取りに行き、二〇日後ぐらい後に持ち帰ったという。当時貧しかったが質素な葬式をし、山に二人の墓を作った。金鳳斗さんの墓は今でも近くの山にあるが、そこはもともと金鳳斗さんが父のために購入していた百坪ほどの土地である。金東圭さんの墓はすぐその下のところに作ったが、そこは人の土地で、数年前に地主が墓を壊して畑にしてしまった。金順牙さんは、墓が急な坂の上にあり、また、行くと悲しくなるのでこの二〇年間行っていない。事故があったのは、旧暦の一〇月一二日で、今でもその日に祭祀(チェサ)をしているという。
事故のあったとき九歳の金漢圭さんは、同時に父と兄を失い、後妻の崔始女さんがその後実家にもどり、姉の金順牙さんもその後結婚して、金漢圭さんはひとりで大変苦労したという。金漢圭さんの兄=金龍圭(キムヨンギュ)さんも日本に行ったまま行方不明で、今も龍圭さんの奥さんはひとりで暮しているという。
夜は、三千浦の旅館に泊るつもりだったが、どうしても泊っていけというので、その日は三人とも金漢圭さんの家に泊めていただくことにした。
(〓…金偏に、つくりは傭と同じ)
翌一八日には、朝はお墓参りをした。お墓は家から二、三kmの、村を見渡すことができる山の中腹にある。墓標のない土まんじゅうのお墓の前で朝鮮式のお参りをし、私も日本から持ってきたお酒をささげた。金漢圭さんと奥さんは、日本から五八年ぶりに日本人が訪ねてきたことを報告した。すぐ下にあったという金東圭さんのお墓のあったという所まで行ってみたが、そこはもう畑になってしまっていた。
金鳳斗さんの奥さんが一〇年ほど前に亡くなられたということで、金漢圭さんらはもう一〇年前に来てくれていたらという思いも語られていたが、一方で、もう一〇年遅かったらこのような出会いをすることができなかったかもしれないと話し合った。
昼食もしていけという金漢圭さんらと別れて、一一時ごろわれわれは釜山に向った。釜山では以前智異山を案内してくれた釜山日報の黄桂福(ファンケボク)さん、そして次の日に蔚山に自分の車で連れて行って下さる慶南工業専門大学の金大植(キムデシク)さんにお会いしていろいろな話をした。夕食には「元祖・参鶏湯」を食べ、その日は、釜山駅前のアリランホテルに泊った。
一九日は、蔚山に黄範寿さんの遺族を訪ねる日である。朝、ホテルに金大植さんと日本に留学していた金河元(キムハウォン)さんが迎えに来てくれた。蔚山までは車で一時間ほどの距離だ。蔚山のホテルでは、黄範寿さんの息子の奥様=尹福祚(ユンボクチョ)さんが待っていて下さった。手紙や電話のやり取りをした黄善済さんは仕事でソウルに出かけていて、残念ながらお会いできないとのことだった。黄範寿さんの息子の黄海龍(ファンヘリャン)さんは、尹福祚さんと一九五一年に結婚されたが、六〇年に亡くなられた。尹福祚さんも、今回の訪問を大変喜んでくださり、事故のことなどは伝え聞いただけとのことだが、いろいろ話して下さった。そして、事故当時、生まれて八ヶ月だった娘の黄戊順(ファンムスン)さんが釜山に健在で、是非会うようにとのお話だった。蔚山で午前中に尹福祚さんからお話を伺ってから、また釜山に引き返し、夕方に今度は黄戊順さんとホテルで待ち合わせた。黄さんは娘さんと一緒にホテルに来て下さった。
尹福祚さんと黄戊順さんからうかがった話は次のような話だ。
黄範寿さんが亡くなられたのは、陰暦の一二月二二日で、亡くなる前の晩秋に日本にいき、その冬に亡くなった。神戸の炭鉱で、落盤事故のため亡くなったと聞いていたが、今回、それが、電車のトンネル事故であったことがわかった。骨壺と銅銭ひとにぎりが小包で、死亡後、三ヶ月くらいして届いた。黄範寿の奥さん=蒋容順(チャンヨンスン)さんは、死亡後に大変な苦労をしたが、黄戊順さんを小学校まで出させてくれたという。
黄範寿さんが亡くなられた東山トンネルでの事故は、一九二八年のことだから実に六八年前の話である。黄さんの遺族は、まさに思いもかけない「関係者」の出現を、心から喜んで下さった。
その夜は、金大植さんのお宅に泊めていただき、翌二〇日には空港に行く前に釜山大学の教師で『鴨緑江の冬』の訳者でもある青柳純一さんとその学生たちと話をした後、あわただしく神戸に戻ってきた。今回の訪問では、予想していなかった方にお会いすることができた。固城の金順牙さんと釜山の黄戊順さんである。その意味でも訪韓の目的は充分に達せられたと思う。
それにしても聞き取り調査の中での慶尚道方言(サッツリ)は、自分でも情けなくなるくらい理解できなかった。金漢圭さんの息子さんや黄善済さんは、私とそれほど年も変らず電話で話しても、私の朝鮮語でも問題なかったが、上の世代の言葉は本当にむつかしかった。取材旅行のジャーナリストとしては失格だったようだ。
いま「追悼する会」が進めている神戸電鉄敷設工事の朝鮮人犠牲者の調査活動は、一九二〇年代、三〇年代のことであり、調査は困難な面も多いが、いくつかの幸運に恵まれていると思う。朝鮮戦争のために植民地時代の戸籍が焼失している場合も多いと聞いているが、今回の遺族が固城郡、蔚山郡と朝鮮半島の南東部にあったので当時の戸籍がそのまま残っていたのかもしれない。また、今回の訪韓では「追悼する会」事務局では私だけが時間を都合して行けることになったが、古くからの友人のいる釜山が調査のベースであったことも幸いなことでであった。
また、韓国の遺族に朝鮮語の手紙を書くとき、また、録音してきたテープを聞いてもらったりするのに私の後輩に当る神戸大学農学部の留学生・鄭燦圭(チョンチャンギュ)さんにも大変お世話になった。今回の旅は、持つべきものは友達だ、と、改めて感じさせてくれた旅でもあった。
「追悼する会」が、3月24日付けで株式会社神戸電鉄にたいして「要望書」を出したことは、ニュースNo.2でお知らせした。その内容は、
本年8月に興隆寺で行なわれる法要に、朝鮮人犠牲者の名を銘記し追悼すること、
同法要に、朝鮮人犠牲者の遺族を招待すること、
朝鮮人犠牲者の追悼碑を建立すること
の三点である。
それにたいし、4月20日、総務部長・佐藤至彦の名前で、次のような回答があった。
興隆寺での法要は、役員を含む社員の在職中の死亡および当社の運行に基づく死亡者を対象としております。また慰霊碑は今までどの死亡事例についても建立しておりません。/従いまして、貴会のご要望については、上記取扱いに照らし、とも、お応えいたしかねる次第でございます。
この回答に納得のいかないわれわれは、5月2日、再要望書を出した。その中では「いずれ遺族も来日されることになり、この問題はさらに大きく社会問題として取り上げられることになると考えられます。貴社としても、たとえば『当時、下請けの業者が行なったことで本社とは一切関係がない』というようなことでは、貴社のイメージダウンになるのではないかと思われます」というようなことも書き、最終的に次の二点を質問した。
興隆寺での法要等に「お応えしかねる」との回答がありましたが、それでは、神戸電鉄敷設工事の過程で犠牲となった朝鮮人労働者を貴社として、どのような追悼行事(法要、遺族の招待、追悼碑の建立など)をされるのでしょうか。 | |
追悼行事の必要性を認めないというのであれば、敷設工事の過程での朝鮮人労働者の犠牲が、貴社と無関係であると表明されたことになりますが、そうお考えであれば、その理由をお聞かせ下さい。 |
貴会の計画されている追悼行事を興隆寺でしていただき、その中で当社の弔意の表明として、同寺の過去帳に犠牲者の名を記載させていただきます。 | |
追悼行事の費用の一部を「お供え」として負担させていただきます。 | |
当社は、慰霊を興隆寺の法要のみで行い、他に追悼碑は建立しておりませんので、当社主体での追悼碑の建立はできかねます。 |
神有電鉄(一九二〇年代)と三木電鉄 (一九三〇年代)など、今の神戸電鉄の敷設工事にかかわる朝鮮人労働者たちの労働と犠牲についての実態を、より正確に知るための聞き取り調査を行っている。
その労働者たちの飯場跡が神戸市長田区 源平町(神戸電鉄の丸山駅を鈴蘭台に向ってすぐの線路の東側)にある。そこには現在、朝鮮人の三つの密集地があるが、そこでの調査を中心に聞き取りを行っている。 それは彼らが、どのようにして密集地を形成し、どのような生活をしたのかを調べるとともに、現在起こっている立ち退き問題についても調べることを目的にしている。
最盛期には、百数十戸あったと思われる が、現在は三つ合せて三十戸ぐらいと推定される。 ちなみに、ここの朝鮮人たちは、線路の下をくぐっているトンネルを通って 村に入るが、丸山駅より北に向って「アレッくれ」(下トンネル村)、「カンくれ」(間トンネル村)、「ウッくれ」(上トン ネル村)とも呼んでいる。
アレッくれは韓青同(担当・高祐二)、 カンくれは韓学同(担当・梁龍成)、ウッくれは留学同と金慶海が受け持って調査を 進めることにしたが、まだ、全体の調査が終わっていない。とりあえず、今年の五月 と六月に行った調査をまとめて中間報告と する。
一九一一年生まれ、83歳。慶尚南道蔚山郡出身。神戸市兵庫区里山町在住。
そこは神戸電鉄ひよどり越駅下車すぐのところでアレッくれには入らない。
▽ 有馬温泉の近くに兄がいたので仕事を求めて一九三五年二月一五日、日本に来た。そのあたりの団地をつくるための土方仕事を一日一円でした。
▽ 日当がいいからと聞き、翌三六年に三木線の工事に行った。日当は一円二〇銭だった。鈴蘭台から三木に向ってすぐの、小さなトンネルを掘る仕事で、砂やバラスを運んだ。監督は日本人で、私は日本語がよくわかないので指示どおりに仕事をした。飯場はいくつかあったが、私のいた飯場には、一〇人くらいの朝鮮人がいた。
▽ 藍那トンネル事故(一九三六年11月25日)については、当時親子が亡くなったということを聞いたが、親が先に働いていてあとで息子を呼んだという。事故のことは、遺体が積まれて鈴蘭台に来たときに聞いた。葬式は鈴蘭台でしたらしい。
▽ 三木線の工事が終わったあとは、日本全国に土方の仕事を求めて旅から旅の生活だった。市有地にあるこの家に住んでから三三年になる。
( 5月26日、高祐二の紹介で金慶海が聞き取り)
ウッくれには現在、五家族が住んでいる
が、そのすべてが朝鮮人である。そこに
住む金旦石(高橋正男)さん(60歳)の
はなし
▽ 祖父母がすでにここに住んでいた。親と自分たちは敗戦直後、大阪からここへ帰国の準備のために集まったが、そのまま住みつくようになった。電鉄敷設工事のための飯場は、このウッくれでは三戸だけだったと聞いている。
▽ 三、四年前から清水建設とアジア産業が地上げに来ているが‥‥。
▽ 他の四名も戦後にここに移り住んだ人たちで、敷設工事にはかかわっていない。
6月30日、長田福祉事務所ケースワーカー
の山崎さん、高橋さん、小西さんと高祐二
が聞き取りに行く。
▽ 源平町には、一九世帯ほどの朝鮮人が住んでいる。地主が許可していないため電話は引けなので、病気などの緊急時には道が狭く車が入れないほどで不安である。電気は通っているが電圧が低いためクーラーが使えない。水道はある時期に無許可で引いたらその後、神戸市がメーターをつけにきた。下水道は整備されていない。カンくれでは、孫さんが有機農業で野菜をつくっているよ。
▽ 一時、藍那に住んでいたが藍那トンネル事故のことは知らない。
▽ 戦時中は、元町あたりで憲兵の指導のもと軍事訓練に携わった。いろいろ戦争に協力したのに、骨まで絞るだけ絞って、後は知らんふりというのは許せない。私たちは、牛馬のようにこき使われた。今となっては祖国にも帰れないし、好きでここに住んでいるのではない。日本は単一民族社会というが、世界のどこにもそんな国はない。アメリカのインデアンや日本のアイヌのように、大国が力の強いものが先住民族を支配し、同化・抑圧を行ってきた。在日朝鮮人問題もこれに似ており、日本政府は一日でも早く補償をすべきである。私たちは職もなく年金もなくしかたなく福祉を受けている。追い討ちをかけるような地上げはやめてほしい。
「追悼する会」のことが報道された94 年 5月23日の毎日新聞を見て、田中文子
さんが、 6月 8日、神戸学生青年センタ ーに来てくださった。父(河原さん)が 神有電鉄敷設工事に従事した朝鮮人たち
について知っているとのことであった。 6月21日、飛田と高祐二が河原さんを訪 ね、現地を案内してもらった。
河原郁夫さんは、神戸市北区谷上在住 79歳。娘の田中文子さんも谷上在住。
▽ 一九二七年ごろ、神有電鉄敷設工事のための谷上付近の線路の土盛りの土木工事に朝鮮人労働者が従事した。西側の谷上より少し標高のある今の大池駅あたりからトロッコで土を運んでいた。有馬街道と立体交差するため、五〜七m盛土する大工事だった。トロッコは四〜五〇cmの車輪に心棒をつけただけの簡単なつくりで、畳一帖ほどの大きさで、高さは七〜八〇cm程度だった。二人で空のトロッコを大池まで押し上げ、そこで土を積んでブレーキをかけながら谷上あたりまで下り、そこで台ごとひっくり返した。
▽ 谷上−花山間に朝鮮人の飯場が三ヶ所あった。川沿いの北区下谷上五〇番地、花山東町それに花山駅下の水車小屋跡の三ヶ所だ。飯場で四〜五〇cmほどの平鍋で白米を炊いていて、私は焦げたところをもらって食べたことがある。ぼうだらをほしたりもしていた。朝鮮人の女性が先のとがった靴を履いていたことを印象深く覚えている。日本人は、働いていなかったように思う。
▽ 私は、「追悼する会」の資料にある一九二七年八月一日の土砂崩れによる二名の朝鮮人労働者の死亡事故のことは知らなかった。「武庫郡山田村下谷上の高さ八間の竹薮切り取り工事中」とあるのは、現在の谷上駅西約一〇〇mの付け替え工事以前に線路のあった急勾配の竹薮か、谷上駅から西へ三〇〇mほどのところにあり砂利採集所であった現在の地下鉄車庫付近の竹薮のことではないかと思う。それ以外に当てはまりそうな竹薮はない。
「ひとつになろう。民族のマダン(広場)で」を合言葉に第5回長田マダンが去る4月24日、神戸市長田区の神楽小学校で開かれ、「追悼する会」は神戸電鉄敷設工事過程での事故、労働争議を中心にパネル構成して展示しました。
パネル構成の内容は、事故、労働争議など当時の新聞資料、調査や追悼活動の紹介などの二〇数点です。
当日は好天気に恵まれ、多くの人が熱心にパネルに見入っていた。
また、4・24阪神教育闘争(一九四八年当時、西神戸朝鮮学校即ち現在の神楽小学校など神戸市内の三朝鮮学校の閉鎖方針に対する闘い)についても兵庫朝鮮関係研究会のパネル展示が行われた。
5月22日(日)、神戸元町のひょうご共催会館において、「94平和と生活をむすぶつどい阪神地域集会」を開催しました。
朝鮮半島の軍事緊張が一段と高まり、それを口実にした日本の有事体制づくりが公然と進められる中、約七〇名の参加者は侵略を二度と許さないために、過去の真実を明らかにし戦後補償実現の運動を広げていくことを確認しました。
第一部では、兵庫朝鮮関係研究会の金慶海氏から「兵庫県の近代化に尽くした朝鮮人」と題して講演していただきました。「兵庫県下の河川、水道、鉱山、鉄道など、まず朝鮮人がかかわっていない所はありません。橋を渡るときちょっと考えてほしいです。三菱の鉱山はひどかったですよ。リンチを同胞にやらせたりしました」と詳しい報告をしていただきました。
第二部では、「朝鮮人の血がにじむ枕木〜神戸電鉄の過去から未来を見つめ、ともに生きる社会を」と題して、劇を行いました。在日の青年が日本人の若い女性を案内して、神鉄のトンネルや源平町を見て回るという設定で、トンネル事故や争議の再現シーンを折り混ぜながら、素人ながら熱演しました。
この劇は日本人と在日の仲間で一緒に作って練習し、本番に臨みました。劇の中で、「百年も一緒に暮らしているのに、今もずっと差別が残っている。世の中にある厚い壁のことは差別されている人に接しないと分らないのね」という日本人の女性役の台詞を受けて、在日の女性が寄せてくれた手紙を紹介するシーンがあり、胸にひびきました。そして、就職差別、チマ・チョゴリへの暴行などが絶えない社会をかかえる気持ちを込めて、劇の最後は「平和な未来をともに生きていこう!」としめくくりました。
参加者から「小林長兵衛(元神鉄社長)をけちょんけちょんに、けなしているところがいい」(金慶海氏)、「私達が差別を残してきたのかしらという台詞が印象に残った」、「手紙がよかった」などの感想が寄せられました。
集会後、三宮センター街をデモ行進し、チャンゴのリズムに合わせて、「戦後補償実現、改憲・有事体制反対」とアピールしました。
(松谷卓人)
4月29日、神戸三宮の東遊園地は絶好のお祭り日和に恵まれ、ステージではプンムル(農楽)や様々なイベントがにぎやかに行われました。周囲にはおいしく、楽しい出店が並び、各グループがご自慢の手づくり品を競いあっていました。
木陰に設けられた展示コーナーでは、「追悼する会」をはじめ3団体程の出典がありましたが、それぞれ力作でパネル前に歩みをとどめる人々が多く見受けられました。カンパを下さった方もありました。ありがとうございました。
事務局手づくりのパネルは、サイズ(40×52cm)をそろえてあるので展示しやすいのがジマンのひとつです。皆さまの身近でもご活用いただければ幸いです。
94・04・15 |
「追悼する会」ニュースNo.2発行 | |
04・20 |
神戸電鉄本社訪問(第一次要望書に対する回答) | |
04・24 |
長田マダンでパネル展示 | |
04・28 |
興隆寺訪問/事務局会議 | |
04・29 |
反原発ひろば(於/神戸市東遊園地)でパネル展示 | |
05・12 |
李秉萬さんを招いて集会 | |
05・17 |
〜20 | 飛田事務局長訪韓 |
05・22 |
むすぶ会集会で神戸電鉄朝鮮人犠牲者関係の演劇上演 | |
05・23 |
毎日新聞に訪韓のことが報道される | |
05・24 |
神戸新聞に訪韓のことが報道される | |
05・26 |
金鳳寵さん聞き取り調査/事務局会議 | |
05・29 |
むくげ通信一四四号に訪韓の記事 | |
06・03 |
神戸電鉄本社訪問 | |
〃 |
社会新報に李秉萬さんの記事掲載される | |
06・07 |
興隆寺訪問 | |
06・09 |
臨時事務局会議 | |
06・11 |
源平町聞き取り調査/神戸北野町の萌の館(旧小林邸)調査 | |
〃 |
パネルづくり(第二次) | |
06・15 |
サンテレビ遺族訪問のこと放映 | |
06・16 |
源平(ウックレ=第3トンネル)聞き取り調査 | |
06・21 |
谷上駅周辺で聞き取り調査 | |
06・23 |
神戸電鉄より再要望書への回答が届く/事務局会議 | |
06・20 |
〜25 | 神戸朝日病院(神戸市長田区)職員食堂でパネル展示 |
06・26 |
「在日朝鮮人への弾圧を許すな!」集会でパネル展示 | |
06・30 |
源平町(アレックレ=第1トンネル)聞き取り調査 | |
〃 |
神戸電鉄訪問 | |
〃 |
在日本大韓民国民団兵庫県本部、興銀神戸支店訪問 | |
07・01 |
社会新報に訪韓のこと等が掲載される | |
07・03 |
神戸市北区の自治会のMさん聞き取り調査 | |
07・04 |
在日本朝鮮人総聯合会兵庫県本部訪問 | |
07・07 |
事務局会議 | |
07・15 |
兵庫県在日朝鮮人の人権を守る会ニュースに記事掲載 | |
07・21 |
有馬口で聞き取り調/興隆寺訪問 |
〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
Tel 078-851-2760 Fax 821-5878
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