神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会

ニュース No.2 1994年04月15日発行

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 「追悼する会」は、昨年7月の発足以来、神戸電鉄本社に所蔵資料の調査(社史編纂のときの資料、谷上資料室)、また時には舞鶴まで出かけて体験者の聞き取り調査など、積極的に活動を進めてきました。その中で、韓国に一九二七年の東山トンネル事故と、一九三六年の藍那トンネル事故の犠牲者の遺族が韓国におられること、当時直接朝鮮人労働者を雇用していた下請の日本工業合資会社と当時の神有電鉄(現在の神戸電鉄株式会社)との関係など、新たな事実がわかってきています。今号では、それらの新たな事実についてレポートをいくつかまとめてみました。
 また、神戸電鉄株式会社に対して、去る3月24日、9頁のような、神戸電鉄として追悼の意を表し、追悼碑を建立することを要求する「要望書」を提出しました。それは、私たち「追悼する会」の事務局が、調査の過程で一三名の朝鮮人労働者が犠牲となっていること、そして当時、その工事を実際に請け負ったのが日本工業合資会社であったとしてもその小林一族と現在の神戸電鉄株式会社との間に密接な関係があり、神戸電鉄としても「下請の仕事だったから‥‥」ということではすまされないことではないかと考えたからです。
 私たちは、今年の8月、神戸電鉄大池駅の興隆寺で行なわれる神戸電鉄関係者の法要に遺族を招待することを要求していますが、神戸電鉄がもし招待しない場合には、「追悼する会」として招待したいと考えています。いずれにしても今年は、「神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会」の運動も大きな山場を迎えることになると考えています。
★     ★     ★
 当面の取り組みとして、藍那トンネルの事故を目撃された李秉萬さん(舞鶴在住)をお招きして、当時のお話を聞く会を開きます。
 李秉萬さんは当時小学生で鈴蘭台に住んでいましたが、李さんのお父さんは、神戸電鉄敷設工事のときに労働者として働いていました。一九三六年11月25日の藍那トンネルの落盤事故では、6名の朝鮮人が犠牲となりましたが、李さんは、その事故の現場にかけつけ、救助活動を目撃されています。(6頁の李秉萬さんの聞き取り参照
 「囲む会」では、あわせて、これまでの「神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会」のその後判明した調査の結果を報告いたします。

神戸電鉄藍那トンネル事故の目撃者
  リ ビョンマン
 李秉萬さんを囲む会
◆と き 5月12日(木)午後7時
◆ところ 神戸学生青年センター/TEL 078-851-2760
          (阪急六甲下車、北東徒歩2分)



藍那トンネル落盤事故から57年
「追悼する会」の追悼式・中間報告会開かれる

 神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会は、昨年7月22日発足後、会としては初めての追悼式を11月21日に神戸電鉄藍那トンネルで行ないました。以下に追悼式、中間報告の内容を要約して報告します。
 11月22日午前10時、神戸電鉄新開地駅前の妙法華院から追悼隊が出発し、神戸電鉄本社前でサムルノリが行なわれました。続々と集まる参加者と共に神戸電鉄で一路藍那駅に向い、藍那駅で待ちかまえていた新たな参加者を加え、追悼隊を先頭に朝鮮人労働者11名が生き埋めとなり、内6名が死亡した(1936年11月25日)藍那トンネルに到着。
 藍那では雨が降っていたので、複線化のために工事中のトンネルの中で急遽追悼式を行なうことになった。追悼式は飛田事務局長の司会で始まり、「追悼する会」の落合重信代表が追悼文を朗読しました。

追 悼 文

 
 陽鮮やかでうるわしい豊な国朝鮮に生まれ育った若者であったあなた方が、神戸電鉄敷設工事に動員され、藍那トンネル工事の事故で犠牲になったのは一九三六年十一月二十五日のことであります。
 このトンネル工事は、民族的蔑視と劣悪な労働条件の下で行なわれ、突然の大音響とともに高さ十五メートルのがけが崩壊し、朝鮮人労働者十一名が生き埋めになり、六人が死亡、五人が重軽傷を負ったと記録されています。
 しかし、犠牲になった六人の遺骨の行方はいまだもって不明のままで、神戸電鉄の社史には一行の言及もなく、周辺寺院の過去帳にもなんらの記述もないまま、虫けら同然の扱いで、人間性は抹殺され五十七年の歳月が流れました。
 当時、きびしいこの神戸電鉄敷設工事に、千数百人の朝鮮人が関わりました。
 これは日本の朝鮮植民地支配によってなつかしいふる里を追われ、糧を得るため日本各地の炭坑、鉱山、工場での労働土木工事などに従事させられ、人間としての尊厳を奪われ牛馬のごとく酷使された実態と切り離しては考えられません。 私たちは、日本の近代化と今日の繁栄が、あなた方の貴い血のにじむ犠牲を抜きにしては語り得ないと思っています。 私たちは、過去の歴史の真実を闇に葬りさることなく真相を明らかにし、二度と再び同じような罪過が繰り返されないよう教訓とし、両国の友好関係の絆が更に強められるよう努力しなければならないと決意を新たにしています。
 犠牲者の皆さんのご冥福を心より祈念いたします。安らかにお眠り下さい。


  一九九三年十一月二十一日

  神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会
                           代 表  落合 重信


 続いて妙法華院の新間智照住職が読経されるなか、参加者が続々に拝礼(焼香)を行ない、最後に神有・三木電鉄敷設工事で死亡した13名の朝鮮人労働者を追悼するサムルノリ(四物ノリ)がトンネル内に響きわたりました。
 午後2時からは場所を変え、妙法華院で中間報告会開き、「追悼する会」からこれまでの調査結果を説明、更に調査を進め、追悼碑を建立するために運動を盛り上げよう、と確認した。

「何も知らずに3年間も神鉄に乗って」
       −追悼式に参加して−

 神戸電鉄敷設工事に多くの朝鮮人が関わり、多数の犠牲者が出たということを知って、これまで何も知らずにいたことを詫び、私にも何か出来ないかと考えました。その時、事務局の李さんから追悼会の日に四物ノリとパレードをしないかと声がかかり、それなら出来ると思い仲間に相談しました。是非やりたいという長田マダン、韓青同のメンバー、天満から駆けつけた李美鈴、追悼式の当日は他の公演があって参加はできないけれど「私たちがやるべきことだと思う。しっかり頑張るように」と言った「サムルノリ」の人たち、みんなの気持ちを本当に嬉しく思いました。
 しかし当日は雨……。楽器を雨に濡らすのは心配だったけれど、私たちのパレード隊が妙法華院を出発する頃には雨は止み、四物を打ち鳴らすことができました。そして「今日はしっかりとやってくれよ」と天から声が聞こえました。
 神鉄に乗り、新開地から藍那まで窓から雨の降る景色を見ながら、私は何も知らず高校生活の三年間、この電車に乗って通っていたのだなと思い、何か申し訳ない気持ちになってしまいました。そして、この鉄道は私たちの同胞がつくったんだと、多くの同胞に教えたいと思いました。さまざまな思いのなかで藍那に着き、やっぱりその時雨は止んでいました。
 藍那トンネルに着く頃、雨が降りだし、トンネルの中で演奏することになりました。私は十三名の亡くなった方たちにこの四物ノリの音や私たちの思いが届くように演奏しました。
 私たちはそんなに巧くないけれど、少しは供養できたのではないかと思います。
 最後に、多くの同胞にこのことを伝え、一日も早く追悼碑が出来るように祈ります。
(林 久仁恵)イラスト1

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神戸電鉄谷上資料館を訪れて

 さる一月二〇日、追悼する会のメンバー四名で神戸電鉄の谷上駅にある神戸電鉄谷上資料室を訪れた。
 資料室には有馬線や三木線の営業許可証、総会報告書、労働争議に関する新聞資料、社内誌、関連雑誌などが展示されている。
 総会の資料を調べてみると、神有電鉄株式会社と三木電鉄株式会社の筆頭株主は、この工事を請け負った日本工業合資会社の小林長兵衛社長と小林秀雄親子であることが判明した。
 このことによって、日本工業合資会社の小林が単なる下請会社の社長ではなく、神戸電鉄の中枢を占める経営陣のひとりであることが明らかになった。
 この資料室は誰でも自由に見学することができる。入場料は無料である。

日本工業合資会社の小林親子と神有、三木電鉄

 小林長兵衛は一八七二(明治 5)年八月、滋賀県東浅井郡虎姫町に生まれた。阪鶴鉄道(現、JR福知山線)及び、黒部渓谷(宇奈月)の発電土木工事に従事し、一九〇六(明治39)年には朝鮮で小林組を創立。同地で各種の建設工事に携わった。また、咸鏡南道の利原鉄山を買収、経営すると同時に朝鮮マグネシヤ会社も経営。一九一四(大正 3)年に日本工業合資会社を設立した。
 一九二六(大正15)年三月二七日、北摂平野の開発と、「天下の泉郷」と称された有馬温泉への遊客誘致、小部(現、鈴蘭台)の別荘経営を目的に神戸と有馬間を結ぶ鉄道敷設工事として神戸有馬電気鉄道株式会社が発足する。設立総会では発起人のひとりである神戸財界の名士、川西清兵衛が経営不安から一万株の予約取消しを申し出るというハプニングがあったが、その際、全線の建設工事を請け負っていた小林長兵衛が一万株を引き受けている。
 小林長兵衛は「この工事を請負い、その工事費を以て金を貰わず、株券に換えて神有電鉄の大株主になろうという契約」があったと言われ、一九四一(昭和16)年六月には七代目の社長に就任している。しかし息子の小林秀雄が一九三〇(昭和 5)年に取締役に就任していることから、当初から小林親子が経営に深く関わっていたことがわかる。
 小林長兵衛は一九二六(大正15)年の設立の際、神戸有馬電気鉄道株式会社総持株一〇万株(九一三名)の内、五〇〇〇株(総持株の5%)、息子の小林秀雄は二〇〇〇株(同、2%)を保有、個人持株では最高位を占めている。
 また、一九三六(昭和11)年六月に設立された三木電気鉄道株式会社の第一回総会資料では、総持株一万二〇〇〇株(一五三名)の内、神戸有馬電気鉄道株式会社が二六〇〇株(21%)、小林長兵衛は一〇〇〇株(8・3%)、小林秀雄は一一四〇株(9・5%)を専有していた。
 小林長兵衛は一九四三(昭和18)年四月に死亡し、実子小林秀雄ら三名の常務取締役が合議制で経営に当たり、小林秀雄は一九四六(昭和21)年四月から一九六〇(昭和35)年五月まで、九代目の社長に就任している。


神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者に関する/聞き取り調査の報告

 「追悼する会」が発足した昨年の夏以降、当時の神鉄の事故を知る二人の方から貴重な話を聞くことができました。おひとりは神戸市垂水区在住の藤井包子さん。もうおひとりは京都府舞鶴市在住の李秉萬さんで、お二人とも当時のことを鮮明に記憶されており、事故の生々しい様子を窺い知ることができました。
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 藤井さんは、「追悼する会」のことが朝日新聞に報道されたことから、会に当時のことを書いたお手紙をくださりました。李秉萬さんは、兵庫朝鮮関係研究会編『在日朝鮮人90年の軌跡−続・兵庫と朝鮮人−』の出版記念会に参加され、その時少しお話をうかがったが、その後お手紙をいただき舞鶴に聞き取りに行くことになったのです。


三木線工事の爆破で朝鮮人がたくさん死んだ
 −藤井包子さんの手紙より−(抜粋)

 先日朝日新聞紙上で拝見しました。私は一九三五年頃から二〇余年鈴蘭台に住みました。当時、父が「三木線工事の爆破で朝鮮人がたくさん死んだ」と言って帰ってきました。私は小学校の一年生で、一九三六年頃だったと思います。
 鈴蘭台の駅前で合同葬が行われましたが、日本人の葬式と違うので、それが強烈な印象として残っています。ちょうど舎利容器のような形で棺をのせ、四隅から飾りが垂れ下がりみこしのように担いで行きます。その後から「アイゴー、アイゴー」と大きな声で泣きながら続いていた様子が今でも思いだされます。

「アイゴー、アイゴー」と大きな声
    −藤井さんからの聞き取り−

−目撃した事故についてお聞かせください。
 当時、私の父が「三木線工事の発破の爆破で朝鮮人がたくさん死んだ」と言ったことを憶えています。私は小学校の一年生で、一九三六年頃だったと思います。
−事故後の葬儀のことをよく記憶されているそうですが。
 ええ、鈴蘭台の駅前で葬儀は行われました。当時、駅前は経営地と呼ばれる神鉄の所有地で、盆踊りや映画会がよく行われていました。日本人の葬式と違うので、それが強烈な印象として残っています。ちょうど舎利容器のような形で四隅から瓔珞の飾りが垂れ下がった棺を何人かで担いでいました。その後から白装束の人たちが「アイゴー、アイゴー」と大きな声で泣きながら続いていた様子が今でも思いだされます。
−どれくらいの人たちが葬儀に参加されていましたか。
 何人かは憶えていませんが、見物人を含めるとたくさんの人たちが集まっていたと思います。
−日本人の犠牲者はいたのですか。
 そうしたことは聞いていませんが、「発破の事故」と聞きましたので監督の日本人はいたと思います。
−事故に遇った人たちがどこに住んでいたのかご存知でしたか。
 当時、鈴蘭台の南外れの川沿いに朝鮮人部落があり、私の同級生が何人かそこに住んでいました。事故にあった人たちがそこに住んでいたなら、学校でも大きな騒ぎになったと思いますが、そんなこともありませんでしたし、おそらく飯場で暮らしていたのだと思います。


犠牲者は一三名だけではない
 −李秉萬さんの手紙より−(抜粋)

 出版記念会に参加させていただきました。その時に三木電鉄藍那トンネル工事中の落盤事故の記事がありましたが、この中の三木線工事に私の父とその兄弟三人や家族が土木労務者として従事したのです。
 事故が起こったとき私は小学生でしたが、藍那トンネルでの犠牲者を私はこの目で見ました。犠牲者は一二人や一三人ではありません。その犠牲者の取扱いについての会社と労働者側とのやり取りも、幼い時でしたが、いまだに私の耳にこびり付いて残っています。また、労賃についての解放後の話し合いも交渉の途中で終わっていると思います。

男も女も総出で掘り起こした
 −李秉萬さんからの聞き取り−

−いつ頃鈴蘭台に行かれたのですか。
 大阪から、小学校の四年生のときで、冬の頃だったと思います。鈴蘭台小学校に六年生頃までいました。
−当時の様子をお話してください。
 学校の昼休み時間、キムチばっかりの弁当だったので級友たちに見られるのが嫌で弟と二人で国旗台の下で冬の寒さに震えながら食べていました。ある時、担任の先生がコップにお茶を注いでくれて……、その時の先生の顔が神様に見えました。全校で朝鮮人は私と弟の二人だけでした。学校では黒川光太郎という通名でした。
−その当時に目撃された三木電鉄の事故についてお話ください。
 工事は鈴蘭台近辺から始まったのですが、工事が進むにつれて私たちの住むバラックも移動しました。それで朝は五時半に起きて、弟と二人で線路沿いに学校まで一時間半かかって通いました。帰りは行きと同様にすっかり暗くなっていました。
 当時のバラックというのは床のない藁敷きだけの、とても人間の住むところではありませんでした。鈴蘭台から工事が始まって、最初のトンネル工事の際一人か二人が事故に遇ったようです。三つ目か四つ目の事故(一九三六年一一月二五日の藍那トンネル事故と思われる)のときはトンネルの両方が塞がるという大きなもので、男も女も総出で、スコップや素手で掘り出しました。やっとの思いで掘り出したときはもう冷たくなっており、遺体を抱いて「アイコー、アイゴー」と泣き叫んでいました。怪我をした人たちは周囲に病院がないことからトロッコに乗せて街まで汗だくになって運びました。
−亡くなった人たちや怪我をした人たちはどこから来ていたのですか。
 飯場の所帯は全部で五つか六つ、二〇人から三〇人はいました。監督だけが日本人で偉そうに命令ばかりしていました。炭坑から逃げてきた人がほとんどで、独り者が多かったようですが、新婚さんでひとり犠牲者がいてほんとうにかわいそうでした。
−事故直後の会社とのやりとりについてはどうでしたか。
 アボジとアボジの弟が中心になって、朝鮮に家族がいるだろうから遺骨を送ってあげなければ、ということで、会社側に掛け合ったそうです。しかし会社側はそんな金はないと突っぱねるし、結局物別れになって、三日間工事は中断したそうです。アボジは会社から交渉を扇動したとの理由でクビを言い渡され、神戸の脇浜に移り住んで川重(川崎重工業)で働きました。まあ、今になって考えても、安全性を全く無視した危険な労働に従事させられた、ということですね。
−事故のその後の様子はどうでしたか。
 解放後、私が除隊した一九四六年に、神有電鉄に事故の責任と補償を求めて交渉に行きました。外にもいろいろと朝鮮人がかつて働いていた企業を回ったのですが、真っ先に交渉に行ったのが神有電鉄でした。交渉は金ビョンヒョンと、そのアボジで当時の朝鮮人会の西神戸地区の責任者であった人(名前不祥)と私の三人で行いました。当時、湊川にあった事務所で神有の専務と話し合いましたが、「補償しなければならないのはわかるが、当社は赤字で、補償するだけのお金がない。なんなら貴方がたで経営してくれてもよい」という回答でした。私たちは、「断固補償を要求する」という姿勢で臨みましたが、なにぶん戦後の混乱期だったし、その後交渉が朝鮮人連盟に移行**したこともあって、三回交渉しただけで途絶えてしましました。あの時、もし私たちが神有を譲り受けていたら…‥‥(笑)。でもすぐにGHQに接収されたでしょうが。

**編集部注 一九四五年九月六日に神戸で〈兵庫県朝鮮人協議会〉が結成され、ほとんど同時に大阪を中心に関西、中国地方の代表約六〇名で〈朝鮮人連盟関西準備委員会〉が結成されている。また、民族的な大同団結のため、九月一〇日には〈在日本朝鮮人連盟中央結成準備委員会〉〈同中央結成準備常務委員会〉が構成された。兵庫では同年九月上旬に金海健が中心となって〈兵庫県朝鮮人委員会〉の結成が進められ、一方、一〇月上旬に〈在日本兵庫県朝鮮人協会〉、一一月上旬に〈在日本朝鮮人連盟兵庫県本部〉、一二月二日に〈在日本朝鮮人連盟兵庫県本部東神戸支部〉が結成されている。

声なき声を明らかに
  −これまでの調査活動を振返って−

 普段何気なく利用している神戸電鉄で多くの朝鮮人が犠牲になっていたという事実は、私にとって耐えがたいものでした。慣れない異国で苦しい労働の毎日であるばかりか、命まで落とした朝鮮人同胞の無念と望郷の想いは、想像を絶するに余りあります。
 これからも調査活動を通じて歴史のなかに埋もれている事実を検討し、声なき声を明らかにしていきたいと思います。 (高祐二)
イラスト2






犠牲者の遺族がわかりました
「追悼する会」では訪韓し、
8月の追悼行事遺族が参加できるよう努力します


 「追悼する会」では、調査活動の一環として、敷設工事の過程で犠牲となった朝鮮人労働者の遺族を探していましたが、この度、13名の犠牲者のうち3名(内ふたりは父子で犠牲)の遺族2名がわかり、「追悼する会」事務局では、その遺族に去る4月4日手紙を出しました。会としては、5月中には訪韓し、遺族からの聞き取り調査を行なう一方、8月の追悼行事への遺族の参加を実現させるための努力を行ないたいと思います。
 敷設工事の過程での犠牲者は、別紙のように13名が新聞記事により確認されています。今回遺族が判明したのは、(4)黄範寿さんの孫・黄善済さんと、(9)金鳳斗さんの子であり(10)金東圭さんの弟である金漢圭さんの二人です。黄範寿さんは一九二八年1月15日の神戸市兵庫区の東山トンネルの落盤事故で犠牲となり、金鳳斗さん金東圭さん父子は、一九三八年11月25日の藍那トンネル事故で犠牲となられました。
 現在、新聞記事のより明かとなっている神戸電鉄敷設工事の過程での犠牲者は左の表のとお りです。会として更に調査を進めますが、新しい情報、手がかりなどがあれば、ご連絡下さるようお願いします。

→犠牲者の名簿を見る


神戸電鉄株式会社に要望書を出しました


 「追悼する会」ではさる3月24日、神戸電鉄株式会社の一本松康雄社長あてに、以下のような要望書を出しました。神戸電鉄は毎年、8月に北六甲の神戸電鉄大池駅近くにある興隆寺(通称/聖天さん)で、神戸電鉄関係の犠牲者のための法要を行なっています。会としては、現在の時点で13名の朝鮮人労働者が明らかになっているので、かれらの名前を法要の際に銘記して、遺族をその法要に招待することが必要であり、さらに、神戸電鉄は、朝鮮人犠牲者の存在を無視してきたわけですから、その責任をとる意味でも自らが建立碑を建立することを要望しました。

要 望 書


 神戸電鉄株式会社 社長 一本松 康雄 様

神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会 代 表 落合 重信

 日々ご健勝のことと存じます。
 私たち「神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会」は、昨年七月の発足以来、調査活動を続けております。この間、貴社が 資料提供にご協力くださったことに感謝しています。
 すでに新聞記事等から明らかにされていますように、神戸電鉄の敷設工事の過程で十三名の朝鮮人労働者が犠牲となっています。私た ちは、この事実に対して貴社としても追悼の意思を表明されることが必要であると考えており、毎年夏に神戸市北区の興隆寺で行なわれ ている神戸電鉄関係物故者の法要において、敷設工事の過程で犠牲となった朝鮮人労働者も共に追悼することが当然のことであると考え ています。
 そして、朝鮮人犠牲者の存在が明らかになった以上、貴社自らが、朝鮮人犠牲者のための「追悼碑」を、建立すべきであると考えてい ます。この建立は、両国間の過去の不幸な関係を正し、これからの両国の真の友好を築く上で有益なことと確信しています。
 「追悼する会」は、貴社に以下のとおり要望いたします。
一、本年8月に興隆寺で行なわれる法要に、朝鮮人犠牲者の名を銘記し追悼すること。
二、同法要に、朝鮮人犠牲者の遺族を招待すること。
三、朝鮮人犠牲者の追悼碑を建立すること。
 以上の要望に対する貴社のお答えを、四月二〇日までに、文書でいただくようにお願いします。
         一九九四年三月二四日



芦屋マダンに参加しました
   −力作のパネルです−

 去る三月二一日「ふれあい芦屋マダン」に、追悼する会より神鉄敷設事故の資料をパネル構成して出展しました。
 パネル構成の内容は(1)事故当時の歴史的資料(新聞記事などのコピー)(2)調査や追悼活動の紹介(写真や聞取り調査文など)(3)イラストをつかった今後の活動宣伝など、四ツ切り(四〇〇mm×五四〇mm)サイズの二四点組みです。
 敷設事故のことや私たちの調査・追悼活動について、より多くの人たちに少しでもわかりやすく伝えたいという思いで、事務局の総力挙げてパネルを制作しました。今後も機会があれば、どしどし情宣材料として活用していきたいと思っています。パネルの「サンプル写真版」を作りましたので、ご希望の方にはお貸しいたします。
 もちろんパネル本体も貸出し可能です。皆さまにも利用していただければ幸いです。次回は四月二四日、長田マダンにて展示します。ぜひご覧ください。 (若宮まさこ)


「追悼する会」編/資料集

『神戸電鉄敷設工事と朝鮮人労働者』

 93年 7月発行/B5/20頁/300円
 新聞記事、写真を再録し敷設工事と朝鮮人労働者について記述。関連年表付き。


事務局日誌(2)

93・10・25

「追悼する会」ニュースNo.1発行

11・17

サンTVで「追悼する会」の調査活動が放映される

11・18

追悼式打ち合せ(於/学生センター)

11・21

藍那トンネルで追悼式→学習会(サン、関西TVおよび神戸、産経、朝日、統一日報、東洋経済日報等で報道される)

12・01

『たたかう仲間』91号に追悼式のことが掲載される

12・02

第9回事務局会議(於/学生センター)

12・10

神戸電鉄本社訪問(全、飛田)

12・23

李秉萬さんの聞き取り調査に舞鶴へ(全、高、飛田)

94・ 1・--

兵庫県在日朝鮮人人権を守る会ニュース1月号に関連記事

1・20

神戸電鉄・谷上資料室訪問(全、金、高木、李)

1・27

第10回事務局会議

2・24

第11回事務局会議

3・--

『自然食通信』59号に「追悼する会」のことが掲載される

3・--

『ミレ』59号に「追悼する会」(金慶海)の記事が掲載される

3・08

神戸電鉄本社へ写真依頼に(後日入手)

3・10

芦屋マダン出典のための作業(1)

3・17

芦屋マダン出典のための作業(2)

3・21

芦屋マダンでパネル展示

3・24

第11回事務局会議

4・--

『歴史と神戸』No.183(94年 4月号)に「神戸電鉄敷設工事の朝鮮人たち」(金慶海)が掲載される



〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内

Tel 078-851-2760 Fax 821-5878

メールの送り先:rokko@po.hyogo-iic.ne.jp

 

神戸学生青年センターのHP