神戸・南京をむすぶ会
第4回訪中団・報告集
<目次>
発行に際して
訪中団名簿
旅行感想記
門永三枝子訪中団名簿
番号 |
氏名 |
性別 |
ローマ字 |
|
1 |
団長 |
佐藤 加恵 |
女 |
SATO KAE |
2 |
秘書長 |
飛田 雄一 |
男 |
HIDA YUICHI |
3 |
太田 拓 |
男 |
OTA TAKU |
|
4 |
尾上 勝 |
男 |
ONOUE MASARU |
|
5 |
川口 真紀子 |
女 |
KAWAGUCHI MAKIKO |
|
6 |
河野 友里 |
女 |
KONO YURI |
|
7 |
小城 智子 |
女 |
KOJO TOMOKO |
|
8 |
小城 塁以 |
女 |
KOJO RUI |
|
9 |
小柳 玲子 |
女 |
KOYANAGI REIKO |
|
10 |
佐藤 飛文 |
男 |
SATO TAKAFUMI |
|
11 |
波戸 雅幸 |
男 |
HATO MASAYUKI |
|
12 |
福島 俊弘 |
男 |
HUKUSHIMA TOSHIHIRO |
|
13 |
三木 恵野 |
女 |
MIKI AYANO |
|
14 |
宮内 陽子 |
女 |
MIYAUCHI YOKO |
|
15 |
門永 三枝子 |
女 |
MONNAGA MIEKO |
|
16 |
門永 秀次 |
男 |
MONNAGA SHUJI |
|
17 |
山内 充江 |
女 |
YAMAUCHI MITSUE |
8月13日(日)【1日目】(三木恵野)
11:40 関空Gカウンター前集合
母と新快速などを乗り継ぎ到着。結団式に出席しなかった私にとっては、みんな、初めてみる顔ぶればかり。
歳の近い、河野友里さんとお話するも、緊張と不安のあまり、顔が強張ってしまった。
太田君によると、「涙ぐんでた」情けない顔で、出発となった。しかし、陽子さんや、友里さん、ルイちゃん、太田君、想像よりはるかに笑顔な飛田さんたちのおかげで、次第に打ち解けられ、なんとかやっていけそうな気がしてきた。
12:40 搭乗手続き等 MU516便→上海
銘心会南京の方々と同じ便になるようだ。
13:40 機内に入る
右側がルイちゃん、左側が陽子さんという席順で離陸を待つ。飛行機が大好きな私は、二人が飛行機が怖いと言うのを聞いて、ちょっとびっくりした。
出発まで、補習などで忙しくて、南京の事を全く知らずに来たため、社会の先生である物知りな陽子さんにいろいろ教わった。それに、機内ではボートリンの冊子を読ませてもらった。そのおかげで、現地でしっかり勉強しないと、と思った。
15:00 上海到着 (時差1時間)
いつもの(?)戴さんと徐さんのお出迎えにも無事会えて、待望の中国入りである。やはり、むわっと熱気が包み込むような暑さで、バスに乗り込む。スーツケースが落ちてきそうでなかなか怖かったが、南京へ出発。高速道路に乗ったが、周りの民家の様子をみているだけでもわくわくしてくる。田んぼが多く、池に白いものが規則正しく並んでいる。何かと訊ねると、魚の養殖をしているのだという。二階建てで煉瓦造りの家が多いのも、この地方の特徴なのかな、と思った。お隣の陽子さんに、いろいろ話を聞くが、やはり、わたしは知らなかった事だらけである。自由主義史観と言う言葉も今日初めて学習したくらいだ。反対隣の福島さん(後の副会長)も、去年中国に行かれたみたいで、とても勉強しているようだった。
17:35 ドライブイン 休憩
友里さんが現地のトイレにかなりショックを受けていた。わたしはカイロの頃から汚いトイレには慣れっこだが、やっぱりきついものはきつい。陽子さんが美味しそうなウーロン茶を購入していたが、なんと、甘いものだった!!こっちでは甘いお茶が存在するらしい。
陽子さんに731部隊の本を借りて黙々と学習。知識がまた増えた。しかし、知らなかったのも問題だ。
19:30 南京到着
ほとんど暗くなってしまってから、南京の中山門が見えてきた。南京市内は賑やかで、洋風の建物もあり、北京とはまた違う印象だった。私達が滞在するのは古南都ホテルで、とても綺麗な内装で、すごく良さそうだった。私は友里さんと同室でお世話になる事になった。
20:00 夕食
ホテル2Fのレストランで夕食。今回初めての中国料理だ。特に物珍しく、驚いたのは、鴨血(茶色のレバーのようなもの)と、鴨掌(コリコリした鳥の足)と、粉皮(米の粉だそうだが、ところてんのようだった)である。これから1週間、いろいろ挑戦して食べていこうと思った。
21:00 市内散策
水餃子を食べに行こうと出かけたものの、こんなに大人数で4人前の注文はいかんだろうと止めになり、市内をぶらっと歩いた。途中、ラーべの旧家や、南京大学などの横を通る。やはり夜になっても市内は活気があると思った。コンビ二のような店を見てから、ホテルに戻る。みんな、歳は離れているけれど、いい人ばかりのようで、この1週間学ぶ事が多そうだと思う。
1日目、終了。
8月14日(記録者=門永三枝子)
順調に南京の一夜があけた。古南都飯店の朝食はバイキング。ちょっと薄味でなかなかおいしい。
7時40分 バス出発。
8時45分 大阪の団の宿泊先虹橋飯店に到着。下車もせずすぐ出発。なぜここへ来たのかよくわからない。
9時30分 南京師範大学(旧金陵女子文理学院)着。入り口で朱成山南京屠殺紀念館館長、続いてついこの前(7月3日)学生センターでお会いした張連紅教授が歓迎の挨拶。50数人がぞろぞろと構内を順次案内して頂いて、歩いて見て回る。
中へ入ると緑の広い芝生の庭を囲むように三、四棟の建物がある。大学学舎とは思えない中国古来の建築物は、平安神宮を思い出させる大きな瓦屋根だ。裏側には水をたたえ、蓮の葉の浮かんだ美しい池があり、回りの緑が映えて、ただ眺める分にはすてきなデートスポットといった感じ。63年前ここに1万人もの女性や市民たちが逃げ込み、難をのがれるために息をひそめた場所とは信じられない。混乱と不安のようすは、映画「南京1937」の1シーンを思いだして想像するほかない。
華夏教育図書館の建物の中に入り、ボードリンたちが本部としていた部屋へ案内してもらう。今は蔵書や書類の倉庫(?)のようになっていて、ここだけはクーラーがきいていた。木の階段は角がすり減って、日本兵を追い払うため何度もこの部屋と構内を往復したであろうボードリンの憂欝を思う。
11時10分 バス乗車。大学をあとにする。
11時30分 昼食まで時間があるので、漢中門あたりで途中散策。漢中門の碑は反対側の歩道に建てられていて目立たない。みんな車中からパチパチ写真を撮る。道路にいた人がビックリしてのいてくれる。
12時 金城飯店で昼食。魚の甘酢あんかけ、トマトときくらげと卵のスープ、小蟹の唐揚げ、穴子風から揚げ甘煮、ベーコン風オードブル、大根とかしわのがらいりスープ、ナツメのいためたの、骨ばっかりのスペアリブ、青菜といろいろな醤油煮込み、チンゲンサイふう青菜のいためもの、カリフラワー。
1時 南京師範大学講堂で、経盛鴻教授の講演。正面に「熱烈歓迎日本銘心会訪中団」の赤い横断幕がかかっている。ペットボトルの飲み物も用意され、ありがたく持って帰る。
3時15分 丁栄声さんの証言。通訳は張連紅教授だ。
(講演と証言内容は別掲)
4時20分 大学を出る。
5時20分 中華門着。もう入れないかと思ったが、10分くらいならとOK。みんな大急ぎで広場へ上がって南京の町を眺める。
5時50分 姑蘇大酒楼で夕食。こじんまりとした部屋の壁に胡志明(ホーチミン)と店主らしき人物の写真が飾ってある。主席の60歳を祝って宴が行われたとのこと。味もよい上に、度々小皿を取り替えてくれてなかなか気持ちのいいサービスの店である。
7時 雨の中を店のまわりで買物。飛田さんが、中にドライバーが大小4つも仕込まれている金色のかなづちを見つけてきて、一同3つで10元という安さにびっくり。われもわれもと購入する。(宮内さんは、これは帰路の上海空港で凶器として機内持込みが許可されず、没収されてしまった)
8時 古南都飯店帰着。(三々五々くつろぐが、門永の部屋では、川口、小城、河野、三木、宮内、太田らは去年門永の交流した学生李珍さんの来訪を得て、自主交流で楽しいひとときを過ごす)。
8月15日(火)(記録/川口真紀子、山内充江、河野友里)
8:15
南京古南都飯店出発。今日は8月15日で、追悼集会に出席する予定。少し、緊張する。が、動くと隣に立っている団長に叱られるのでじっと辛抱していたL。「銘心会」の松岡さんがあいさつの途中で涙ぐんだ時、カメラマンが一斉に彼女に殺到したのには驚いた。式後、職業大学の学生が持っていた横断幕に一人一人、メッセージを書いた。私は「世界平和を祈る」と書いた。
12時30分 バス出発
12時40分
改定世界ー水族園のとなりー昼食
みやげ物を日本語上手で商売っ気満点の店員さんに「安いよ」と勧められた。
食事中に通り雨
14時 出発
明孝陵や明の城壁(3.3Km)を見ながら紫金山天文台へ
天文台
中国で3番目に古い。清の時代に気象観測として使われた。
灯台を思わせるような石造りの建物がいくつもあり、古くて大きくて、竜の装飾のあ るとても立派な観測機などが展示してあった。
ここにまで日本軍が侵攻して奪ったり荒らしたというが、具体的な記述の展示などは なかったように思う。
360度見晴らしのよい展望台では、南京市が一望できる。やや霞んでいるのが残念だ ったが、眼下に広がる大きな市街地や紫金山頂に向う長い長いリフトなど、六甲山から見える狭い神戸の市街地や大阪湾を隔てた紀伊半島に比べると、中国大陸のスケールの大きさが印象に残った。
14時55分 出発
15時40分 長江大橋到着(以上、山内充江)
15:36 南京長江大橋に着く。
中に入ると毛沢東の石像が出迎えてくれた。お土産屋さんを少し見回り、その後、載さんから南京長江大橋の説明を300分の1の模型を見ながら
聞いた。1959年〜1968年の末、9年がかりで長江大橋が完成した。大橋の長さは、6772m。
16:23 バスに乗車。
16:45 邑(手へんに邑)江門(ゆうこうもん)に着く。
邑江門叢葬地記念碑に移動。皆で1分間黙とうし、記念撮影をした。
17:05 バスに乗車。
17:45 上新河遇難同胞記念碑に着く。
軍の施設の中にあるため、急いで記念撮影を済ませ、バスに乗車した。私達の様子をずっと、軍の人達が見ていたことが印象に残っている。
18:30 交流会の会場である南京職業大学に着く。
学生の皆さんと共に夕食。4人の大学生と住所交換をし、交流した。夕食後のカラオケで、小城塁以ちゃんと私は、チャゲ&アスカの『Say Yes』を熱唱した。照れたが、楽しかった。
20:00 交流会、終了。
20:10 バスに乗車。
20:30 ホテルに着く。(以上、河野)
8月16日【水】/ 4日目 【記録/小城塁以】
5:00 モ−ニングコ−ル 頑張って起きる
5:30 朝食 豚マンが美味しいかった。目玉焼きに塩、胡椒がかかってなかった。
6:10 南京のホテル出発 みんな眠たそう
(南京古南都飯店) 南京、最後のバスの中で若者感想述べる
佐藤さん、太田君、三木さん、小城さん、
河野さん、川口さん
河野さん「両国の架け橋になれるよう頑張りたい」
6:50 上海空港到着(青島経由)南京でお世話になったタイさんと涙のお別れ、また、来年宜しくです〜
9:08 青島到着 一旦、飛行機から降りる
10:30 青島離陸 飛行機の中で、配られてる新聞に侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館で追悼集会に参加してる記事が載っていた。飛田さんと私は何回もスチュウワ−デスさんに新聞を下さいと言ったので怒ってたもよう・・・・・・
11:48 ハルビン到着 人が乗るバスと荷物を乗せるバスが別々だった。が、一個座席が壊れてた〜
13:00 スワンホテル到着 鴨と鵞鳥の区別で討論
13:30 昼食(ホテル) 酢豚が美味しかった
14:40 ホテルのロビ−集合 お腹もいっぱいになって満足
15:10 ロシア正教教会、ロシアに占領された時造られた。中国とは思えない町並みだった。
16:30 新潟とハルビン友好公園 日本の庭園が造られてた。そこでは、着物を着て記念撮影してる、中国の人が沢山いた。
17:15 太陽島記念碑 1997年洪水の時みんなが協力しあった時に造られた記念塔のある松花江湖畔を散策
18:15 夕食 中国に来て初の餃子 焼き餃子、水餃子を食べた。美味しかった〜
20:05 ホテル到着
8月17日(木) 記録者:佐藤飛文
各自で起床。8時頃から、ホテルで朝食。洋食中心で、黒パンや魚のから揚げなど。コーヒーはインスタントだった。油をたっぷり引いて目玉焼きを作っていた。
9時10分にホテルを出発し、平房へ向かう。本日の予想最高気温は30度とのこと。
10時に侵華日軍第七三一部隊罪證陳列館に到着。接待部主任の劉春生さんが館内を説明。陳列館は写真を主とした展示となっている。1928年の張作霖爆殺事件から1931年9月18日の満州事変、七三一部隊の創設過程、施設の説明、細菌実験や生体実験の内容、証拠隠滅の過程と戦後の影響などについても説明してあった。部隊の敷地は約6平方キロメートルであり、神社や少年隊・支部隊も存在し、かなり大規模に活動していたことがわかる。「研究」という名の下で大量殺人がおこなわれていたのだ。細菌培養に使われたフラスコやピンセット、ガスマスク、凍傷実験の場面のろう人形なども展示してあった。
館内を一通り見学した後、副館長の金成民さんが質問に答えてくださった。
本部は戦後は学校として使っていたが、その学校を移転してそこを陳列館にしたいと考えているそうだ。来年夏ごろに見学が実現できるとのこと。世界遺産に登録することを目指し、戦争遺跡と関係のない部分の撤去・移転・整備がすすめられている。
ここで、若いメンバーが黒龍江放送からの取材を受けた。
Q とてもつらく気持ち悪いものですが若い人たちはどう思いますか。
答 残酷だと思います。ナチスを思い出します。
Q ハルビンにこういうものがあることを知っていましたか。
答 知りませんでした。
Q 日本人としてどう思いますか。
答 事実を知らせたいと思います。
各自、写真集やCD−ROMなどを購入。
11時頃から、劉さんの案内で本部とボイラー室跡を見学、記念撮影をする。本部は改装中のため入れなかった。ボイラー室跡では鉄骨が多く剥き出しになっており、かなり頑丈な造りであったことがわかった。
陳列館は以前は本部跡の学校の校舎内に臨時展示室として陳列をしていたが、戦後五十周年の95年8月15日に陳列館を開館した。1年間で日本人が約4千人、中国人が4〜5万人ほど訪れているとのことである。実際、私たちが見学している間にも、別の日本人観光客の一団が見学していた。さらに多くの日本人に見学してほしいと願う。
11時55分、バスでハルピンへ出発。12時30分に民航大厦の「ワシントンの間」で昼食。ホルモン、豆、イカ料理、ハンバーグスープ、特注の水餃子などを食べる。
13時45分、出発。
14時05分、烈士記念館を見学。大衆教育部副主任の那継賢さんが案内をしてくださった。ここは1931年に日本軍が占領し、満州警察署として使われていた。1948年に開館して以来、2400万人が訪れている。1998年に開館50周年をむかえ、改装中のため、展示されている資料も少なくなっている。一軍の軍長として関東軍と戦い35歳の時に吉林省で銃殺された楊靖宇、楊靖宇の部下だった陳翰章、陸軍軍官学校出身で第三軍軍長としてゲリラ活動に従事した趙尚志、六軍政治部主任だった李兆麟、女性幹部の趙一曼の5人についての簡単な展示を解説してもらう。今年は戦後55年のためか、ここにくる日本人が多いそうだ。下階は洪水時の記録を展示してあった。地下の拷問室などは2年後ころに展示再開の予定とのこと。
15時30分、文廟(孔子廟)を見学。ちょうど「殺人魔窟」という、旅順監獄についての展示がされており、これから見学に行くハルピン駅での安重根による伊藤博文射殺事件の予習にもなった。
16時30分、ハルピン駅に到着。特別に駅構内に入ることが出来た。飛田さんの友人の証言をたよりに、安重根の銅像のあった台座のコンクリート(と思われる跡)を発見(飛田注、これは飛田の勘違いで伊藤博文の銅像でした)。植木鉢が載っていたがそれをどかして記念撮影。
17時10分、麻製品の販売店の前で解散。麻の服やシーツをショッピング。
18時10分、肥牛火鍋京魯川粤大連海鮮という、しゃぶしゃぶ専門店で夕食。普通は羊肉だが、日本人向けに牛肉も出してもらう。タレにごま味噌か辛味噌かラー油を好みに合わせて入れる。タレはコーンスープのように白く濁っていて、クコの実やピータンなども入っていた。肉の他にハルサメや豆腐やじゃがいも、野菜なども入れて食べる。肉と野菜を追加注文。満腹。
20時ごろにホテルに到着。まだ鍵は出来ておらず、ホテルの人に開けてもらう。
8月19日(土)/7日目(記録/福島俊弘)
8月13日(日)
11:42(日本時間) 関西国際空港Gゲート前、参加予定者全員がそろい改めて結団式を行う。
13:53 MU516便で上海へ向かう。
15:30(北京時間) 上海虹橋机場に着き、徐明岳(国際友誼促進会)・戴國偉(南京国際交流公司)の迎えを受けて瀘寧高速を通り南京へ向かう(310q)。
17:40 常州・芳茂山のドライヴ・インで休憩をとる。
19:00 南京市に着き、暫く走って19:20ころ中山門から南京城内に入る。
宿舎の古南都飯店に着いて夕食を済ませ、全員で広州路・中山路を歩く。旧ラーベ寓は夜間の外からの見学となる。
8月14日(月)
朝食前、南京師範大学前−寧海路を散歩する。飯店で朝食を済ませて、
8:40 虹橋飯店(中山北路)で銘心会南京と合流し南京師範大学へ向かう。
9:30 南京師範大学(金陵女子大学旧址、1937年当時は金陵女子文理学院)では、朱成山(江東門紀念館館長)・張連紅(南京師範大学歴史社会系副教授、今年7月来神)らの出迎えと歓迎の挨拶を受ける。ミニー・ヴォートリンの足跡を軸にした現地見学の案内は張連紅。ヴォートリンの日記に出てくるいくつかの建物がほぼ当時のまま残っている(建物の名称が混乱しています。誰か教えて!)。日記に記述のあった南山公寓(教職員宿舎)―ヴォートリンの宿舎であった南山甲楼は現在は取り壊され他の建物が建っているが、隣接の南山乙楼(1936年建)は現在も使われており、当時の様子を偲ぶことができる。
11:30 金陵大厦(漢中西路)、昼食までの時間を利用して漢中門付近を散策する。しかし虐殺紀念碑を探したが発見できず昼食に戻る。昼食後大厦で、鎌田茂男(紀念館でアウシュヴィッツ・南京をテーマの絵画展)や顔馴染みの江東門紀念館の職員と出会う。
漢中門紀念碑(侵華日軍南京大屠殺漢中門外遇難同胞紀念碑) 師範大学まで戻る途中、戴國偉の案内で車中から所在が確認できた。場所は漢中門の西、秦淮河に架かる橋の畔にあった。
13:20 南京師範大学に戻り、講演と証言を聞く。
司会を芹沢明男(ノーモア南京の会事務局長)が務め、松岡環(銘心会南京)が開会挨拶をする。基調講演は、経盛鴻(南京師範大学教授)が「アメリカ国籍が見た南京大虐殺」と題して行った。そのあと15:15から幸存者の証言が用意されており、張連紅副教授による解説と幸存者=丁栄声の証言が行われた。
張連紅 証言するのは丁栄声さん、82歳。1937年日本軍が南京に入って来る前は市の中心部王府園に住んでいた。いったん東の中山陵のところまで逃げたが、親は「結婚した女は安全」と考え、丁さんを結婚させたうえで市内に戻ることにし、親戚12人で五台山を目指した。その過程で日本軍の暴行を目撃した。ある日、五台山の空き家に身を隠してるところへ日本兵がやって来た。家人が壁を破り人が入れる場所をつくり中に隠れていたが、赤ちゃんを連れた女性を入らせなかったのが見つかって輪姦されてしまった。その夜、もっとも安全な場所ということで金陵女子大に行った。門番がもう中はいっぱいで入れないと入れてくれなかったが、一家12人で門の前に座っていた。一家は父母をのぞくと若い女性(2歳〜20歳)が多く不安だったからだ。女子大の車が来て、門が開いた隙にやっと中にもぐり込むことができた。丁さんは1年以上女子大にいた。父母は中に入ることはできなかったが、外から食べ物を届けたりした。当時のヴォートリンの考え(女子大は収容者でいっぱいで、若い女性しか受け容れなかったこと)は仕方がない。
丁栄声 兵隊の様子を見て市内から中山陵付近へ逃げたが、8月15日頃また市内に戻ってきた。そのときはおじ・おば含め一家12人だった。漢中路(国際安全区内)に2軒空き家があって、その夜はとりあえずそこに身を落ち着けた。翌朝、母方のおじが外へ出てみたが叫び声をあげて戻ってきた。日本兵がいたるところで花姑娘を探しているということだった。家の部屋には屋根はなかったが、壁に穴を開けて身を隠すところをつくった。午までは革靴の音は聞こえたが何もなかった。飴を売っているおばあさんが自分のところの嫁を一緒にかくまってくれと言ったが、おじは断った。正午前、7人の日本兵がやって来た。(隠れているところからは外の様子が多少見える。)母は私たちを守るように椅子に座っていたが、怖くなって逃げだした。その椅子に日本兵が座っているのがはっきりと見えていた。飴屋の嫁は強姦され、兵隊たちは2時頃に帰っていった。/もっと安全なところへ行かなければならないということで金陵女子大へ行ったが、中に入れてくれなかった。1台の車が来て、中に入れるために門が開いたときにもぐり込んだ。しかし中に入ったら男と年寄りは駄目だと言われ、若い女性だけ12人?が残った。22歳の義理の姉が泣き出して辛くなったが、その日は100号楼と200号楼との間に回廊があって、12人がそこで一夜を過ごした。夜が明けると職員がやってきて、机などを運び出して200号楼の2階に収容場所が確保された。12人も2階に上がり、この日から1年ちょっとをここで生活した。毎日お粥の炊き出しがあり、それで過ごすことができた。1年経って炊き出しもなくなり、家に帰った。
質問と回答
Q なぜ1年も金陵女子大にいたのか?
A 怖かった!中山陵付近から漢中路に戻ったとき、部屋は潰され、中の木製・竹製のものはすべて焼かれていた。ある日、日本兵が来て広場に連れ出され頭を殴られた。日本兵に会うのが怖い。鬼子に会うと本当に怖い!
Q 女子大の中で難民登録をやっていたと思うが、そのことを覚えているか?
A 芝生のところで、机は3台くらいあったと思う。1人1日では済まない。怖いので登録は止めた。
Q M.ヴォートリンの印象は?
A 200号楼に住んでいて、毎日のように出入りは見えた。背の高い、いい人でいつもにこにこしていた。野草を探す作業があって、一緒になったこともあった。
南京師範大学での日程を終え、
17:20 中華門を散策したあと夫子廟近くの姑蘇大酒楼で夕食をとる。夕食後、あいにくの雨だったが近くの土産物店で買い物などする。
19:55 古南都飯店着、秘書長室で恒例の反省会をひらく。門永室では昨年交流した金陵職業大学学生の李珍の来訪を受け、有志による交流も行われた。
8月15日(火)
朝食前、寧海路を付近を散歩する。寧海路5号にある安全区国際委員会の事務局が置かれていた元国民党外交部長・張群邸を目指したが、離れすぎていて断念する。あさの食材市場での商品の豊富さには感心させられる。
8:20 飯店を出発し江東門紀念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)へ向かう。紀念館に着くと敷地の東端の壁に、去年はたしか見えなかった「前事不忘 后事之師/以史為鑒 開創未来」の文字が彫られていた。
8:40 紀念館前で追悼集会が始まる。参加は日本から神戸南京心連心会・銘心会南京・婦人民主クラブ・長崎の市民団体の4団体と、中国から紀念館・金陵職業大学学生たちほかで、60カ年(1997年)の時とは比べようもないがこぢんまりとしたとした集会だった。集会は山内小夜子(東史郎裁判を支える会)の司会で進められ、朱成山館長と日本の4団体を代表して銘心会・松岡環が挨拶をした。犠牲者への献花が行われ、神戸南京心連心会は太田卓・三木恵野が代表して献花をする。そのあと参加者全員でそれぞれが思いを馳せながら沈黙の時をもつ。終了後、金陵職業大学の学生がつくった「以史為鑒 共創未来」(横断幕)へ全員が署名・寄せ書きを行う。
紀念館は、まだ観たことのなかった記録映画を鑑賞したのち館内を見学する。ことしは一昨年来発掘調査・保存を進めてきた館内の“万人坑”遺址が完成し、公開されていた。屋外で《東史郎日記》案資料展も開催中で、日本の最高裁判決を意識してか「東史郎,南京人民支持?!」の横断幕も掲げられている。今回の南京での主題の一つがM.ヴォートリン(魏特琳)にあったので、紀念館の中の展示資料もその視点から見ることができた。今回は、なぜか絵画「血染江流」(黄正南)の印象的だった。また機会があれば金山衛の「在日軍第10軍登陸処所建的紀念碑」は一度行って見たい。
12:00 東郊叢葬地紀念碑(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞東郊叢葬地紀念碑) ことしは比較的手入れが行き届いており、清掃作業はなしに沈黙の時をもつ。
中山陵付近の南京海底世界で昼食を済ませて市内現地調査へ出かける。
14:00過ぎ 紫金山へ。はじめて紫金山(天文台)に上る(といってもバスで)。ここは南京城内を一望する戦略的要衝であり、1937年の南京防衛戦では蒋介石直属の国民党軍最精鋭部隊−教導総隊が南京防衛の陣を布いた。しかし12月12日、日本軍第6師団の攻撃によるもう一つの要衝=雨花台の陥落とともに第16師団の猛攻の前に紫金山も陥落し、南京城攻防戦の事実上の帰趨は決した(松井石根の陣中日誌には紫金山占領が12月8日・9日との記述があるが、紫金山には主峰の他に2〜3の小峰があり、その一部の占領のこと。12日まではなお主峰に拠る抵抗が続いた)。蒋介石の前に南京死守を誓った防衛司令長官・唐生智は12日夕の師長以上の軍官会同で南京撤退を下令、自身はいち早く渡江したが、戒厳部隊と撤退部隊との間で同士討ちを惹起するなど大混乱に陥る。現地に立っても、事前の調査・準備不足に加えて時間的制約もあり、実際に当時教導総隊が布陣した跡を確かめるというところまでは望むべくもなく、天文台に上り360度の景色を見ながら想像するほかはなかった。当日の天候は高温多湿、靄がかって眺望はあまり利かなかった。持参の双眼鏡も低性能で、紫金山天文台からの城内地形の把握は思ったほどできなかった。しかし天文台も歴史・景観から一見の価値はある。また思いがけなく天文台の南側、?山第三峰に太平天国天堡城があったことを知り、南京と太平天国・洪秀全との関わりを思いだす(夫子廟そばの膽園には太平天国紀念館がある)。
15:33 草鞋峡紀念碑近くの上元門を通って長江大橋へ。塔に上がって長江の景色を眺める。
16:44 和記洋行・煤炭港の傍を通って?江門へ行き、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞?江門叢葬地紀念碑の建立地を訪れる。碑の前で沈黙の時をもち、記念撮影をする。
17:40 上新河を訪れる。侵華日軍南京大屠殺上新河地区遇難同胞紀念碑はまだ訪ねたことのなかった紀念碑で、人民解放軍の施設に隣接した、長江の支流の畔に建っている。戴國偉も初めてだったようで、探すのに一寸苦労があった。戴國偉が地元の人に聞いたところによれば、碑の建っている場所の地名は上新河ではなく棉花堤というらしい(資料で確かめると上新河鎮棉花堤となっていた)。われわれの現地調査を注目してくれた解放軍の軍人たちと手を振り合ってエールを交歓したが、かれらには日本人のわれわれはどのように映っただろうか。
18:20 金陵職業大学に到着する。金陵職業大学の学生と党委員会書記、朱成山や紀念館職員など中国側と神戸南京心連心会はじめ日本側との会食交流が行われる。食後は定番のカラオケで交流会の二次会も用意されており、司会は去年の交流にも参加していた劉君と、立ち居振る舞い・容姿ともにプロでも通用しそうな女子学生が務める。カラオケのトップは予想通り朱成山で、神戸南京心連心会秘書長のオカリナのソロ演奏も披露されたが、神戸からの若者たちはそれぞれの仕方で中国の学生たちと思い思いの主題で交流に没頭する。(大学の建物の中に民主党派のサークル室のような部屋があり、現地にいてともすれば忘れがちになる中国の政治体制に思いいたる。そういえば南京師範大学でも、学長執務(弁公?)処の隣の部屋は党委員会書記処だったように思う。)
20:40 古南都飯店に帰り着く。
8月16日(水)
6:55 南京机場に着き、出発までの時間を利用して江蘇省の地図と全国地図を求める。江蘇省の地図は、上海上陸から南京攻略戦の日本軍の経路を確かめるのに役に立つかも知れない。
7:55 WH2839便で出発する。
10:55 青島机場でいったん着陸、暫時休憩ののち哈爾濱へ向かう。
11:50 哈爾濱机場に到着する。哈爾濱での案内・通訳は李勝彬(黒龍江省人民政府外事弁公室・人民対外友好協会日本處科長)で、彼は出向で一時期新潟県庁で働いた経験があるそうだ。市内と空港を結ぶ高速道路は建設中であったが、道の両側にポプラ並木の続く既設の道路を通って市内に向かう。いったん宿舎の天鵝飯店(中山路95号)に入る。
14:40 昼食を終えて飯店を出発し、市内観光に向かう。哈爾濱建築芸術館(元索菲亜教会)や保養地としても有名な太陽島公園を見学したあと、音楽祭の準備で賑わう斯大林公園に行き、付近や松花江岸を散策する。江はどちらに流れているか、かつて訪れたことのあるハバロフスク(アムール川)はどっちの方向かなどとユーラシア大陸東部の地理がまったく頭に入っていないことを露呈しながら、松花江の流れに手をつけてみた。水は濁っている。
18:15 哈爾濱市内の餃子専門店で夕食。その後天鵝飯店に帰還、泊まる。
8月17日(木)
朝の散歩は飯店の少し南東側にずらりと並ぶ朝市に出かける。東北地方に来ると、南京などとは違って朝市に散髪・血圧測定・簡単な傷治療などの店?が見受けられるのは面白い。
朝食を済ませていよいよ平房区へ向かう。
10:00 侵華日軍七三一部隊罪証陳列館に到着。劉春生(接待部主任)の案内で館内を一通り見学する。部隊の敷地は6平方qだったが周囲120平方qが特別軍事区域に指定され、通行する住民は良民証明書携帯が義務づけられていた。当時の遺跡は全部で23カ所が残っている。731部隊の本部はそのままで、ボイラー室は煙突と壁が残っていることなどの説明を受けた。そののち金成民(副館長)の話をきき交流する機会があり、陳列館は1992年に基礎ができ1995年8月に正式に開館したことや、世界遺産指定の関係ではすべてを申請するとすれば、住民の移転や直接に遺跡に関係のない構築物などを除去する必要が生じたいへんな負担が予想されることなどの説明を受け、見通しについて少々悲観的に考えているように感じた。この席で黒龍江省のラジオ放送局が、訪れた日本の若者に取材をしたいということで4人の若者が構えていたが、インタビューは太田卓・小城塁以の二人でおしまい、「日中の架け橋になりたい」と言っていた人のところまでは順番がまわってこなかった。731部隊跡の見学は、まず本部が置かれていた建物に行く。ついさきごろまでは中学校として使われていたもので、世界遺産指定の動きもあってか中学校は近くに移転し、この建物を新しい陳列館に整備しようという工事中であった。この日は責任者が不在で中に入ることはできなかったので、実験用のマルタが監禁されていたという建物などを見ながら動力班遺址へ移動する。1945年8月9日ソ連軍侵攻で、罪証隠滅のために8月12日、部隊の構築物は徹底的に破壊された。しかし破壊できなかったボイラー室の二本の煙突と壁、非常に印象的な史蹟が残っている。
12:30 哈爾濱市内に戻り民航大厦で昼食をとる。
14:05 東北烈士紀念館(南崗区一曼街241号)を訪れる。案内は?継賢(東北烈士紀念館・黒龍江省革命博物館宣教部副主任)。紀念館は1948年10月10日に開館し、現在までに2,400万人が訪れたということである。図書館として使われたこともあるが、元は満州警察の警察署だった。中華人民共和国の建国は1949年だが紀念館は1948年にできていたのかという問いには、哈爾濱には1946年時点でもう国民党はいなかった。つまりすでに解放されていたとのことで、だったら1948年に開館しても不思議ではない。館内には楊靖宇(実は2年前撫順で、宿舎=撫順友誼賓館の傍を流れる渾河の畔の紀念碑とは対面済みだった)・陳翰章・趙尚志・李兆麟・趙一曼の烈士の写真・資料が展示されていた。趙一曼が刑死する直前に息子に宛てた遺書はとても感動的だ。烈士に郭沫若が詩を寄せていた。
頭顱可断腹/可剖烈愾難/消志不磨碧/血青蒿兩千/古於今赤旆/満山河
右詠楊靖宇将軍 一九四九年五月書泰 東北烈士紀念館 郭沫若
15:30 文廟の見物。当初あまり気乗りのしなかった市内観光の一つ孔子廟。しかし幸運なことに中に入ると、アカデミックな場所に似つかわしくない「殺人魔窟」なる看板が目に飛び込んできた。見ると「旅順日俄監獄旧址陳列」とあり、この建物が黒龍江省民族博物館で旅順日俄監獄陳列館と一緒に「殺人魔窟」と銘打った展示を行っていることが了解された。中の展示は、旅順が安重根が拘禁、極刑を執行された監獄でもあり、安重根に関する資料展示がひときわ目立っていた。旅順監獄ははじめロシアのツァーリズムが建設し、のち日本軍国主義が使用した、いわば帝国主義による中国東北の植民地(的)支配の道具だった。われわれ一行にとっては次の予定、安重根が伊藤博文を狙撃した哈爾濱站を見学する前の恰好の予習となった。
16:30 哈爾濱站に到着。李勝彬の骨折りにより切符なしで駅のホームに入ることができ、飛田氏の友人の示唆を頼りにホームにあったという安重根の像を探し回った。ほどなく像が立っていた跡を見つけることができた。そのときは安重根の像はここにあったと確信したのだが実はそれは誤解であったことが判明。斎藤充功『伊藤博文を撃った男』(1999年,中公文庫/初刊は1994年,時事通信社刊)には「第二次大戦まで、現場には射殺地点を示すプレートがプラットホームに埋め込まれ、鉄筋のケージで囲われていた。中国解放後は撤去され、その跡はコンクリートで円形に埋められ、マンホールの蓋と見分けがつかなかった」とあった。真相はこんなところかなと思うが、場所からいって安重根の狙撃(1909年10月26日午後9時30分頃)の現場といって間違いがないと思われる。日本の教科書では安の行為は「暗殺」とされる。しかしわれわれは安重根が今もって朝鮮民族の英雄であり続けることを素直に評価し、もう彼の刑死から90年が経ったが哀悼を捧げたい。
18:10 市内での買い物に少し時間をとったあとしゃぶしゃぶの夕食をする。天鵝飯店に戻ったが、機械の故障とかで投宿中ずっと部屋の鍵を貰えずに不便この上ない。
8月18日(土)
この日も朝の散歩に出かける。ほぼ前日と同じ道程を歩きながら、飯店の朝食もいいが時にはこういう露天で食事をするのも悪くないなどと思う。
哈爾濱机場に行くまでの時間を利用して最後の市内観光、中央大街へ。かつてロシア人のつくった街で、石畳の通りがつづき道の両側あちこちに当時のロシア風の建物が残っている。
哈爾濱机場 FM652便で上海へ飛ぶ。
上海・浦東机場 はじめて浦東机場を利用する。けっこう商売気旺盛な女性ガイドの案内で豫園へ行く。時間が遅く中には入れなかったので付近で買い物をする。
外灘近くのレストランで食事をとり、宿舎の良安飯店へ着く。
中国旅行最後の夜は、飯店のバーで反省会を行う。
8月19日(日)
8:10 虹橋机場からMU515便で帰国の途に着く。
13:05(日本時間) 関西国際空港 無事到着し団を解散する。報告・交流会は9月22日を予定。
南京師範大学で講演と証言を聞く(記録;門永秀次)
司会;芹沢明男(ノーモア南京の会)
開会挨拶;松岡環(銘心会南京)
@講演「アメリカ国籍が見た南京大虐殺」 経盛鴻(南京師範大学教授)−省略−
A幸存者の証言を聞く−張連紅副教授による解説と丁栄声の証言
<張連紅>
証言するのは丁栄声さん、82歳です。1937年日本軍が南京に入って来る前は、市の中心部王府園に住んでいました。いったん東の中山陵のところまで逃げたのですが、親は「結婚した女は安全」と考えて丁さんを結婚させたうえで市内に戻ることにしました。一家12人で五台山を目指し、その過程で日本軍の暴行を目撃したのです。ある日、五台山の空き家に身を隠していたら、日本兵がやって来ました。家人が壁を破り入れるところをつくってくれて中に隠れていましたが、赤ちゃんを連れた女性を入れなかったのが見つかって、輪姦されてしまいました。その夜、もっとも安全な場所ということで金陵女子大に行きました。門番がもう中はいっぱいで入れないと入れてくれなかったのですが、一家12人で門の前に座っていました。一家は父母をのぞくと若い女性(2歳〜20歳)が多く、不安でしようがなかったからです。女子大に車が来て門が開いた隙に、やっと中にもぐり込むことができました。丁さんは1年以上女子大にいました。父母は中に入ることはできませんでしたが、外から食べ物を送ったりして援助しました。
当時のヴォートリンの考え(女子大は収容者でいっぱいで、若い女性しか受け容れなかったこと)は仕方がなかったと思っています。
<丁栄声>
兵隊の様子を見て市内から中山陵付近へ逃げたのですが、8月15日頃また市内に戻ってきました。そのときは、おじ・おば含め一家12人でした。漢中路(国際安全区内)に2軒空き家があって、その夜はとりあえずそこに身を落ち着けたのです。翌朝、母方のおじが外へ出てみたのですが、すぐに叫び声をあげて戻ってきました。日本兵がいたるところで花姑娘を探しているということでした。家の中は屋根はありませんでしたが、壁に穴を開けて身を隠すところをつくって貰いました。昼までに革靴の音は聞こえましたが、何事も起きませんでした。飴を売っているおばあさんが、自分のところの嫁を一緒に匿ってくれと懇願していましたが、おじは断りました。
正午前、7人の日本兵がやって来ました。(隠れているところからは外の様子が多少見えます。)母は私たちを守るように椅子に座っていましたが、怖くなって逃げだしました。その椅子に日本兵が座っているのがはっきりと見えていました。飴屋の嫁は強姦され、兵隊たちは2時頃に帰っていったのです。
もっと安全なところへ身を置かねばならないということで、金陵女子大へ行きましたが中には入れて貰えませんでした。1台の車が来て中に入れるために門が開いたときに、やっともぐり込むことができました。しかし中に入ったら男と年寄りは駄目だと言われ、若い女性だけ12人?が中に残ることができました。22歳の義理の姉が泣き出して辛くなったのですが、その日は、100号楼と200号楼との間に回廊があって12人がそこで一夜を過ごしました。
夜が明けると職員がやってきて、机などを運び出して200号楼の2階に収容場所が確保されました。12人も2階に上がり、この日から1年ちょっとをここで生活したのです。毎日お粥の炊き出しがあり、それで過ごすことができました。1年経って炊き出しもなくなり、家に帰りました。
【質問】
Q なぜ1年も金陵女子大にいたのか?
A 怖かった!中山陵付近から漢中路に戻ったとき、部屋は潰され、中の木製・竹製のも のはすべて焼かれていました。ある日日本兵が来て広場に連れ出され、頭を殴られたこ とがあります。日本兵に会うのが怖い。鬼子に会うと本当に怖かったのです!
Q 女子大の中で難民登録をやっていたと思うが、そのことを覚えているか?
A 芝生のところで、机は3台くらいあったと思います。1人1日では済まなかったよう に覚えています。怖いので登録は止めました。
Q M.ヴォートリンの印象は?
A 200号楼に住んでいて、毎日のように出入りは見えました。背の高い、いい人でい つもにこにこしていました。野草を探す作業があって、一緒になったこともあったと思 います。
旅行感想記 門永三枝子
今年の南京旅行では私の目的は3つ。
一つめ。4年目にしてようやく南京の地図が頭に入ってきたので、安全区と虐殺記念碑のあるところを、今ひとたびこの目で見て心に刻むこと。(今までみんなについて歩くだけで、どこがどこだかあんまりわかっていなかった。)そのために旅行前にボートリンの『南京事件の日々』と、「戦争犠牲者を心に刻む会」編『七三一部隊』を読了しておいたが、やはり読んでおいてよかった。同じものを見て同じ経験をしてもそれを受けとめる力は個人のものであること、当たり前だが改めて痛感した。
七三一ボイラー跡はやはり不気味だった。今にも崩れてきそうな煙突の下に立って、いましがた聞いた紀念館 劉説明員さんの分かりやすい日本語の説明が、感情を抑えた語調とともによみがえる。
「馬路太(マルタ)は、薬の効果を正確に見るために、麻酔無しで解剖されました……。」 人間の、日本人の犯した犯罪の、現在につながる医療界の体質の、底のみえない恐ろしさを思う。
そして抗日烈士志紀念館では、超一曼という女性八路軍兵士の説明が心に焼きついた。日軍に捕えられたが、病院から脱走し、再び捕えられて激しい拷問を加えられ、市中を引き回されたあげく殺されたという。死の前日獄中で幼い子どもに残した手紙がかかげられてあり、この翻訳文を聞いていてわたしは涙があふれてきた。説明された5人の抗日烈志たちは、みな30代の若さである。五四運動も三一運動も、「聞けわだつみの声」の学生も、「ひめゆり」の女生徒も、安重根も樺美智子も、みんな若くして殺された。なんというもったいないことだろう、歴史を前へ進めるのはこんなに犠牲を払わなくてはならないのかと、とりとめもなく涙だけが出た。
館は今改装中とのことで、数枚の写真の展示だけだったが中身はとても充実していて、七三一部隊跡が世界遺産に登録され、改装されたあかつきには必ずもう一度ここハルピンにやってこようと心に決めた。
二つめ。去年家庭訪問させて頂いた金陵職業大学の学生李さんと再会すること。
文通やプレゼント交換をして、直前にもはがきをだしていたが、本当にあえるかどうかわからないと思っていた。ホテルまで来てくださった李さんだけでなく、交流会では思いがけずもうひとりの劉さんとも会えて本当にうれしかった。
三つめ。1週間の旅行期間中できるだけたくさん中国語に触れ、耳からいれて体にためること。いれてもいれても抜けていく50の手習いの語学学習者にはこれしかないのである(通訳の徐さんにはほんとうにおせわになった)。
やっぱり今年も予想通り楽しかったヨ! 明年、我們一起再去南京口巴!
20歳 2度目の中国 小城 塁以
私は、今回の訪中で2回目となります、初めて伯母に連れて行ってもらったとき(高校2年生)は南京大虐殺について全く知識がなく参加しましたが、今回は前回吸収できなかったところと大学で専攻している中国語の勉強も兼ね参加しました。
南京大虐殺記念館を訪れるのは、2度目になりますが初めて訪れたときの気持ちに再びよみがえりました。同じ日本人がした恐ろしい行いに度々目をそむけたくなりました。 同じ人間、同じ日本人がしたことを信じたくありませんでした。この人たちは、人間ではない…でも、中国の人を平気な顔をして銃殺した人、女の人を強姦した人、武器を捨てた兵士・老人・子供見境なく惨殺した人も日本に戻れば誰かの父であり、夫であり、兄であり、弟であり、子供である…戦争というものは、とてつもなく人間を恐ろしい殺人鬼に変えてしまうことを改めて感じました。
日本の政府は、中国に謝罪しないばかりか南京大虐殺自体を否認し続ける人達がまだまだいます。私は、証言者の聞き取りや資料などを見聞きしてきて感じましたがこんなにたくさんの(中国の人、日本の人)証言者がいて資料もあるのに何故、否認し続けるのでしょうか。又、私は南京大虐殺を初めて知ったときとても恥ずかしく思いました。中国の大学生に聞いたところ中国の人達はみんな幼い頃から南京大虐殺のことは知っていたと言っていました。南京大虐殺記念館を訪れる家族連れもたくさん見かけました。それに対してまだまだ日本人は中国にきても南京大虐殺のことを聞きたがる人は少ないとガイドのタイさんはおっしゃっていました。日本人の若い世代小学生・中学生・高校生・大学生でも知らない人の方が断然多いでしょう。
私は、第731部隊という存在とその部隊が細菌部隊といわれる人体実験を行っていたことを今回初めて知りました。1939年から1945年の間、各種類の実験によって虐殺された中国の人、ソ連の人、朝鮮の人は少なくとも3000人は達したそうです。人が密集している部屋にペスト菌を散布したり冷却した部屋に人をとじこめたり毒ガス弾を研究したりいろんな種類の細菌を注射したりとても驚いたのはこの時代に人工授精の実験をしていたことです。日本軍はこんな残虐なことをたくさんしてきたのに1945年8月15日、日本天皇が正式に無条件降伏したときそれらの犯罪行為を証明できる建築をすべて壊すことを命令しました。そのとき、残酷にも毒ガスで四方楼監獄の中に拘禁されたままの数百人ものひとを虐殺した。日本軍は専用列車に乗り急いで日本に帰ったそうです。
こんな恐ろしいことを日本はしてきたのに対し中国の人達は「心の奥底の傷・悲しみは変えることのできない歴史と共にいつまでも消えることはないが、私たちは、同じ地球上にすんでいる兄弟なのです。あなたたち、南京大虐殺を見ていない若い人達の心に本当にあった歴史を知ってくれるだけで十分です。」とおっしゃっていたのが深く深く印象にのこっています。南京大虐殺を否認している人達は、一体なにを見聞きしてそのようなことをいえるのでしょうか。
今回の訪中で私は二度とこのような過ちはしてはいけない戦争をしない日本であってほしいと強く思いました。私たち若い世代が歴史の事実に背をむけてはいけない。
今回もこのような勉強の場を与えて下さった、お姉ちゃん、お父さん、お母さん、佐藤さん飛田さんはじめ団員のみなさんありがとうございました。
中国語はまだまだ勉強不足でした、もっと勉強して中国の人達と英語ではなく中国語でいろんな話ができるよう頑張ります。
「忘れる事なかれ」 三木 恵野
2回目の中国の地を踏んだ時はやはり、胸がわくわくして、期待でいっぱいだった。
しかし、中3の時とは趣旨も違う、メンバーも違う。遊びに行くのならいつでも行けるが、大切な勉強をしに行ったのだ。
日本が戦争中一体どんなことを中国の地でしてしまったのか。それをこの目で確かめに行くというものだからだ。正直言うと、私は南京大虐殺や、731部隊などについて、全くといって良いほど、知識、理解がなかった。歴史の時間にさらっと説明されたのみで、この会に参加しなければ、きっと知らないまま過ごしていたかもしれない。それを思うと、自分は参加できて本当に良かったと思う。また、今回の訪中には力強い先輩方がいらっしゃった。やはり、皆さんに助けられたのが大きいと思う。
初回からずっと参加されている方々の話を聞く事によって、ただ見るだけでは分からなかったさまざまな事を同時に知る事が出来た。
まず、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館での見学で、あまりの凄まじさに言葉が出なくなってしまった。記念館の広い敷地の中に立つ、虐殺された人々がそのまま埋められてしまった、今では遺骨陳列館になっている場所。夥しい数の骨、骨、骨・・・・。どうして??何のためにここまで酷い事を??同じ日本人であるのに、私にはその心理が分からない。しかし、資料展示館では私は更に大きな衝撃を受けた。日本軍による大量虐殺のパネルや、婦女子の強姦についての展示を見ていったが、どれも恐ろしく、非人道的で、残忍で・・・直視する事が出来なかった。特に、飛行機の中で冊子を読んで予備知識があり、昨日見学した金陵大学での丁さんの話を聞いてばかりで、見学前に見てきたフィルムの映像がフラッシュバックしたのを覚えている。それから、酷い強姦を受け、精神崩壊してしまった私と同じくらいの少女の写真が目に焼き付いている。
今現在の私達の世代では、全く考えられない事がこの少女には起こってしまったのだ。うつろで、焦点の定まらない彼女の目に日本兵はどのように映ったのだろうか。
731部隊の遺跡の残るハルビンでも、私はさまざまな事実を知ることが出来た。それまで、731部隊の事をよく知らなかった私は本を貸してもらい初めてその恐ろしさを知った。そして、現場を訪れたことにより、やはり自分の目で確かめる事の重要性を悟った。人体実験を行い、その死体を焼いたというボイラーが、何より私にとっては、訴えられるものがあった。このような人を焼き捨てるようなおぞましい行為は決して許されるべき事ではないのだ。いくら研究のためとはいえ、戦争のためとはいえ、生きている人々を解剖したり、細菌を散布する実験に使ったりしたなんて、あまりにも非人道すぎる。しかも、軍事機密のために内部で起こっていることを、日本の人々は知ることがなかった。そして、戦争を全く知らない世代の私達でさえ、731部隊のしてきた事を知ることはなかなか出来ない。それは、日本の戦争に対する意識の低さの現われではないだろうか。謝罪するだけでなく、国民全員が正しい歴史を知り、反省しつづける事が、必要なのではないか。現に、南京大虐殺がなかった、と主張する日本人がいるという事は、その一番の証拠である。
今回の訪中に参加して、本当に自分のためになる事を山ほど持って帰る事が出来たと思う。
初めはかなり緊張していたけれど、団員の皆さんのお陰で、本当に貴重な体験をさせてもらえたと、つくづく思う。同じ女子高生でも、こんなに自分の枠を広げられた夏休みを過ごせた人はなかなかいないと思うくらいである。この、貴重な体験を同じ世代の人々に伝えていくのも、現地を見てきた私達の任務だ。きちんと遂行したい。
ちょっと残念だったのが、4月からの中国語講座での勉強があまり生かせなかったこと。せっかく、交流会で南京の友達が出来たけれど、ほとんど英語で、中国語を話すことが出来なかったのが、かなり心残りである。が、いつかまた中国語を自由自在に使いこなして(門永さん、陽子のように!)また、中国の地を踏みしめたいと思う。
石に刻みこまれた300000/福島俊弘
しわぶかい、やわらかい手だった。82歳の戴栄声おばあさんと別れ際に握手ができた。1937年のことは忘れようとしても忘れられないことだろう。20歳の戴さんにとって日本軍は南京をこわし占領するだけの存在ではなかったのだ。
上海におりたった私たちは、南京への310kmの高速道路を時速120kmで走りぬけた。63年前、同じこの道を第16師団が進んだという。16師団38歩兵連隊は私の地元奈良の部隊だ。時々小高い丘があるだけでほとんど平地だ。ところどころに川あり沼あり池がある。何kmおきかに集落があり二階建ての家がならぶ。60年前も家や道こそちがえど、静かなくらしがあったことだろう。そこへ日本軍が、奈良の部隊がやってきたのだ。
ある日、戴栄声さんの隠れていたところに日本兵7人がやってきた。壁にかくれてのぞくと、ひげをはやした顔が見えた。銃剣が見えた。戴さんらは見つからなかったが、そばにいた飴屋の嫁が輪かんされた(奈良の部隊との関連は不明)、と証言。南京のこの事件は、単に大虐殺ということだけではなく(このことだけでも体が震えることだが)性暴力や捕虜や一般市民の虐殺という、国際法上見逃しにできない許しがたい問題があるということを現地で確認することができた。
8月15日。侵華日軍南京大虐殺遭難同胞紀念館の石に刻みこまれた300000の数字、そして大虐殺の文字。私たち日本人の心の中にもしっかりと刻みこまなければならない。通訳・ガイドをしてもらった戴國偉さんが日中合同追悼集会に向かうバスの中で朝刊紙の記事を紹介してくれた。「目を大きく見ひらいて警戒して日本を見つめよ」という見出しのあと@日本が魚釣島の侵略をもくろんでいるA日本政府の中の『右翼』が少数派ではないB日本は核武装戦略に走っている?C日本の軍隊は『防衛』との口実で海外に自衛に行く、という記事だ。(『現代快報』8.15付け) 外国から警戒され、信用されない国とはなさけない。
戴國偉さんがこの旅の初めに、「私のおじいさんも南京大虐殺の犠牲者です」と言われた。その戴さんが、日本人を案内している時にこんなことを言われますよ、と別れ際に教えてくれた。戴さんが案内中に南京大虐殺のことに触れると、「楽しい旅行中になぜそんな話をするんだ」という人がいる。悲しいというか、なさけない話である。
このギャップをうめるために、『8月15日の旅』を続けなくてはならないようだ。
はじめて中国を訪問して 佐藤飛文
南京に行きたいと思ったのは、昨年12月に、東京の国立市公民館の12・8記念世代間国際交流事業で「中国からの証言・南京1937」というビデオ上映会を開いたことがきっかけである。私はこの集いの司会をしたのだが、「南京大虐殺を一方的に肯定するビデオ上映会を公民館の主催で行うべきではない。中止しろ。」という右翼の脅迫が公民館に殺到し、当日も数台の街宣車と数十人の右翼たちに妨害されながら会を持った。そこまでして彼らが否定しようとする南京大虐殺とはなんだったのか、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の足で歩いて考えたい、そう思ったのである。
南京は思っていた以上に広いところだった。よく虐殺否定派の人びとは、虐殺の範囲を南京城内に限定して数を矮小化しようとするが、大量虐殺が起きた現場の多くは、城の外(周辺)であったことも確認することができた。おばあさんから生の証言を聞くこともできた。ミニー・ボードリンのことも初めて知った。初めての南京訪問にしては大変収穫の大きい旅だったと思う。
ハルピンと聞いて私がすぐ思いついたのは、七三一部隊のことよりも安重根のことだった。安重根が伊藤博文を撃った現場であるハルピン駅を訪れることが出来たことも大きな収穫だった。私が高校生の時に使用した山川出版の日本史教科書には、「1909年に伊藤博文がハルビン駅頭で韓国青年に暗殺される」と、安重根の名前すら出ていなかった。今では安重根の名前は19種ある日本史Bの教科書のうち17の教科書に載っているそうである。しかし安が伊藤を「暗殺した」と書いてある教科書が多い。「暗殺した」という文章を読んだ生徒達は、どのような「暗殺」を想像し、どのような安重根像を持つのだろうか。あれは「暗殺」じゃない、堂々とした「射殺」だったのだ。今回の旅で、そのことを確認することができた。日本では未だに事件のことを知らない人や、射殺の理由をよく知らない人、その事件をもとに韓国併合を正当化しようとする人も少なくない。私の勤めている学校にも「伊藤博文は植民地支配反対論者だったのに、安重根が伊藤を殺したから韓国を併合したんだ」と主張する教員がいる。伊藤が植民地反対論者だとしたらなぜあんなに強引に第二次日韓協約を強要したのだろうか。安重根についての研究と議論がさらに進むことを願わずにはいられない。
今回の旅の中で、金陵職業大学の学生と交流することが出来たが、日本の歌手や俳優の話しやカラオケで盛り上がってしまって歴史の話しをすることが出来なかった。お互いに言葉を学び、交流を深めていくことによって、そのような突っ込んだ話しも出来るようになるのだろう。出会いと交流は、まだ始まったばかりなのだ。
日本が15年戦争に敗戦して55年が経過した。私は大学生の時に、中国帰還者連絡会の三尾豊さんから、「私は捕らえた中国人を731部隊に送り殺害した殺人者です。」という、戦争の加害体験を聞き、大きな衝撃を受けた。その三尾さんも、今はこの世にいない。戦争体験者から直接話しを聞くことの出来る最後の世代が私達なのではないか、と最近強く感じる。そんな今だからこそ、戦争体験のない私達はアジアへ行き、幸存者から証言を聞き、戦争を追体験しなければならないのだ。――そんなことをあらためて感じさせる旅でした。どうもありがとうございました。
「僕たちが知っておくべき事」 太田 拓
最初、僕はこの神戸・南京を結ぶ会に参加するかどうか迷っていた。むしろどちらかというとあまり行きたくなかった。過去に広島や沖縄などの戦場だった場所に行き、防空壕を見たり被爆者の話も聞いたことがあったので、今さら中国まで行って、勉強する必要はないように思われたからだ。しかし、考えてみると戦争関係で自分が行ったことのある場所は、日本が被害を受けたところがほとんどで、日本が加害した場所には行ったことがなかった。だから、日本がしたことを現地で直接見てこようと思い、参加する決心をした。このように最初はあまり乗り気じゃなかったこの旅行も、今考えるととても良い経験になったと思う。南京大虐殺を含め戦争についても、自分が知っているのはほんの一部で、まだまだ知らないことがたくさんあるということが分かった。
戦争のこと、特に日本がアジアにした残虐で非道な行為は、幼い頃から父に教えてもらっていた。 だから今回の南京大虐殺のこともある程度知っていたし、それと同じぐらいのことは自分と同世代の人なら知っている・・・これが当然だと思っていた。しかし実情は違っていた。日本に帰り、中国に行って来たことを友達に言うと、「何でそんなとこに行ったん? 」「中国人ってなんかイヤじゃない?」など驚く答えが返ってきた。よくよく聞いてみると、南京大虐殺のことなどもあまり知らないらしい。戦争は過去のこと、だから自分にはあまり関係がない、そう思っているようだった。はっきりいってショックだった。みんなが知らなかったということもそうだが、それ以上に中国人に対してものすごく差別と偏見があったということだ。中国で会った人たちはほとんどがいい人たちばかりだった。特に交流会で知り合った人たちとはとても仲良くなれたのに、その人たちまでが差別・偏見の対象にされていると思うと、すごくはがゆかった。日本と中国の国交はもうだいぶ回復してきたとは言うけれど、1人1人の中国人に対する意識は未だ差別意識が根強く残っている事が分かった。今後それをなくしていかなければ、真の国交の回復とは言えないんじゃないかと思う。
それにしてもなぜ知らないんだろうか。考えてみれば確かに学校ではサラッと触れただけで、あまり詳しいことまで学ばなかった。肝心の教科書にも一応書いてあることは書いてあるが、詳しくは書いていなかった。それに最近、「中学校の歴史の教科書で旧日本軍の加害の記述が減る」という記事を新聞で見た。若い人たちが積極的に歴史を知ろうとしなければならない今、なぜ教えようとしないのか理解できない。こういう事実を隠そうとする人がいるから、なにも知らない子どもたちが増え、中国などのアジアの国に対して差別・偏見の意識が生まれれてくるのではないのかと思う。それに対し、広島・長崎での原爆や沖縄での事はみんなよく知っているし、学校でもしっかりと学んだと思う。そのせいか、若者は日本は被害者であるという意識が強い人が多い。しかし、被害者である前に加害者ということを、まず第1に教えなければならないと思う。ドイツの中学生は校外学習でアウシュビッツ収容所を訪れる、ということを聞いたことがある。ナチスのやったことを、自分たちの目でしっかり確かめるのだそうだ。歴史を隠そうとする人さえもいる日本と、歴史の事実を見つめ、若者にそれを学ばせようとするドイツ。いつか日本も、修学旅行などで南京を訪れるようになる日が来ればいいと思う。多くのことを学ばせてくれた一週間でした。
訪中感想 宮内陽子
1,若い人の中に未来がやどっている
4度目の訪中をしました。3度目でひとくぎり、今年はいくら何でもと考えていたのですがやっぱり出かけました。理由はいろいろ。本場の中華料理はおいしい、南京が懐かしい、ハルビンに行ってみたい、731部隊のことを現地に行って学びたい…などなど。でも一番大きな理由は、若者が参加したから。
昨年一緒に訪中した同僚のむすめさんで高二の恵野ちゃん。中二のとき担任し、今年大学生になったばかりの友里ちゃん。そして、キリスト教学校に勤める若い友人の真紀子さん。
三人とも、私がわあわあ中国のことを話したことが一つのきっかけになって、今回の訪中団に参加された人たちなのです。それなのに私が参加しないのはおかしい、という周りの声に半ば脅され、半ば励まされるように、訪中の申し込みをしました。
空港に集合したときすぐ、参加したのは正解だったと思いました。恵野ちゃん、友里ちゃん二人とも、初対面の人の中で泣き出しそうな顔で緊張しているではありませんか。一人一人に声をかけると、心細そうな声でこの先の不安を訴えます。たしか二人ともホームステイもしてこういう状況には慣れているんじゃないの? でも、大人も一緒の旅というのはまた別なのかもしれない、もうこれは二人を引きあわせるしかない、後は若者同士すぐ仲良くなるさ、私は先生として来てるんじゃないから、引き合わせたらそれで引率責任は終わり、と考えはしたのですが、そのときにはもう完全に保護者意識が目覚めてしまい、以後ずっと「引率教諭」をやってしまいました。二人の他に、高一の拓くん、大学生の塁以ちゃんも合わせて四人、お目付役がいたからさぞうるさかったことでしょう。ごめんね。
しかし、この4回目の訪中は、4人の若者のおかげで訪中の意味を再認識させられました。若者が「自虐史観」に侵されている、とかなんとか言っている人もいますが、ご安心下さいませ、進んで訪中しようという彼ら、彼女らですら、侵略の歴史については、具体的にはほとんどなんにも知らないと言っていい状態でした。そんな「今風」な4人が、行く先々で、話を聞き、参観し、これはもっとちゃんと考えなくてはならないことじゃないか、と思い始めているのを横から見ていて、事実の重み、出会いの大切さを感じました。とりわけ、南京職業大学の学生さんたちとの交流会では、若者の持つ柔軟さ、受け入れていく能力の豊かさに感動させられました。初対面なのにすぐに打ち解け、片言の中国語、英語と、身振り手振りや、筆談で話し合い、帰る時間が来ても去りがたいほど仲良くなってしまいました。
その様子を見ていて、若者は未来そのものだなあと、本当にうれしくなりました。ある人が「固有名詞で付きあえる人を世界のあちこちに持つことが、平和を創っていく上でとても役に立つ」と言われましたが、南京での一夜、語り合ったことは、その内容が日中のアイドル情報といった他愛のないものであったとしても、生身の日本人、中国人の印象を作るのに大いに役立つでしょう。そして、それぞれが相手の国のことを考えるとき、まず思い浮かぶのが、恵野ちゃん、友里ちゃん、塁以ちゃん、拓くんであり、王さん、周くんであるとしたら、争い合う理由は限りなく少なくなっていくと考えるのは、楽観的すぎるでしょうか。百歩譲って楽観的すぎるとしても、そうやって未来を創っていく方が、恐れと猜疑とで身を固くし、軍備拡張に奔走するよりもっと建設的なことではないでしょうか。
憲法「改正」=第9条廃棄が論議され、核兵器廃絶は必ずしも絶対的な正義ではないといった、一見言論の自由を主張するようでいて社会を確実に戦争に導いていく論調が幅を利かせ始めたかのように思える昨今、小さな一歩であれ、このような試みを続けていくことは大きな意味があると思います。グアムやハワイもいいけれど、そのお金があるなら、なかなか海外に出られない中国の人々の代わりに、来年もまた多くの日本の若い人が中国を訪れたらいいな、また一生懸命呼びかけてみなくてはとの思いを強くしました。
2,体験を継承するということ
中国をまわりながら、自分は第二世代だ、という認識を一層強めました。加害にしろ、被害にしろ、直接戦争を体験した人を第一世代とすると、その人々に育てられた私のような世代は第二世代。戦争を経験していないけれども、多かれ少なかれ戦争に関わった人に育てられ、ゆがみも含めてその影響を受けた世代。
私の場合、父は職業軍人でした。もっとも敗戦時には21歳でしたから、戦争責任と言うほどのものがあったともいえないのですが、士官学校での教育と戦争体験は心身に染みついていて,子どもの頃は怖いのを通り越して恐ろしい父でした。その父があるときふと、「世が世なら、学校の先生にでもなって平凡な生活をしていたかもしれんな。」とつぶやくのを聞いたことがあります。復員以後の父の生活は、ここでそれを書くのは本筋ではないので省きますが、戦友の多くが死んでいった中で生き残った、という負い目があったのか、生きることに何か後ろめたさを感じているかのような、喜びや楽しみを感じることを拒否するかのような、およそ子ども心にも普通でないと感じさせるものでした。そのつぶやきを聞いたとき、高校生だった私は、職業軍人としての矜持の下に父は父なりに「戦の世」に青春を送ったことを肯定し切れない思いを抱えているのだと感じ、戦争の傷の深さに暗然としたものでした。母は、亡くなった後、遺品を整理していたら、軍歌を筆記した紙が沢山出てきたくらいで、かなりの皇国少女だったようです。でも、その遺品は私にとっては意外なものでした。
母は、はっきりと口に出して戦争を嫌っていましたから。私は、1950年の6月23日に生まれたのですが、 子どもの頃、母から、「あなたが生まれてすぐ朝鮮戦争が始まり、ラジオから流れてくる戦況を聞きながら、この子も私と同じように戦争の中で育つのかと思うと切なかった。」という話をよく聞かされました。挺身隊にも志願し、鉄砲のたまを作りながらも、したいことを、なりたい自分を、「お国のために」あきらめさせられた辛さを生涯持っていました。母が亡くなったとき、悲しいというより、「こんな人生があって良いのか」という怒りの方を強く感じたのを今でも思い出します。
親の人生の正の部分と負の部分を、望むと望まざるとに関わらず引き継ぐのが子です。その意味で戦争体験という負の部分を引継いだ私のような人間は、理屈ではなく戦争に対する拒否感を持っています。それは、体験した人のそれよりは弱いかもしれないけれど、体験した人に育てられなかった若者より強いのは当然のことでしょう。その第二世代である私が、第三世代の若者たちと向き合うようになりました。授業で戦争のことを扱うとき、父母からはもちろん、祖父母からもそんな話は聞いたことがないという生徒が増え、私は自分の言葉で戦争を語らねばならないということを感じる機会が多くなりました。
上に書いた父母のことは、そんな中でつらつらと考えたことです。自分の個人史を見直し、その中の戦争の影や、その結果の自分のゆがみを見つめ対象化することが、戦争をしない、させないという意志を強めるのに欠かせないと思い始めました。そしてその個人史を次の世代に引き継いでいくことが、第一世代が亡くなっていく今、とりわけ必要とされているように思います。戦争は悲惨なものだ、二度としてはならないという言葉は、一人一人の個別の体験に裏打ちされて初めて重みを持つものですから。
しかし、語るべき自分の言葉が余りにも少ないと気づくこともしばしばです。だからこそ、父からもっと戦争中のことを聞かなくてはと訪中のたびに思いますし、同時に自分の個人史にとどまらず、加害の側、被害の側の一人一人との出会いの機会を作っていくことも欠かせないと思います。直接の加害者、被害者との出会いを通じて、その方々の中に刻みつけられた傷跡を、共有することは不可能にしろ少しでも自分の体験と重ね合わせ、身近に感じていくことが自分の意志を強め、行動へと促していくことになると思います。
特に、した側は忘れても、された側は忘れません。今回の旅でも、そのことを痛感させられることがしばしばありました。毎年、幸存者の方からお話をお聞きしますが、今年お会いしたおばあさんはとても明るい方で分かりやすく語って下さいましたし、その後若者たちとの写真撮影にも気軽に応じて下さいました。明るいその方に会って、全く対照的な一昨年の幸存者の方のことをかえって思い出しました。その方は、話をすること自体苦痛だということが、言葉が分からなくても伝わってきて、結局途中で卒倒され聞き取りを中断せざるを得なくなりました。お二人の違いは、今年の方は日本軍を避けて大学構内で一年を過ごしたが直接には大きな被害にあっていない、一方一昨年の方は自分自身が直接被害にあっているということにあります。同じ年格好のお二人の、私たちへの対応の違いは、そのままお二人の50年間抱え続けた思いの違いであることを感じ、明るい今年のおばあさんと握手していただきながら、一昨年の方の辛さに思いをはせざるを得ませんでした。
ハルビンでも、最後にレクリエーションをかねて立ち寄った美しい公園の片隅の建物に、「殺人魔窟」という看板を掲げて日本ロシア時代の旅順監獄の展示館が開かれていたのにぶつかりました。しんどい学びの旅を終え、ほっとして無防備な気持ちだったので、よけいに衝撃を感じました。された側では、被害の記憶は日常的なものであるということを再確認させられたわけです。731部隊の本部跡も世界遺産登録を申請し、本格的な修復を始めようとしていますが、「過去を忘れない、そして平和への意志を発信していこう」という営みであり、原爆ドームを守ろうとする者なら共感できるはずです。
一人一人の体や心に刻まれた戦争の傷跡は、そのまま個人の記憶として語られないまま闇に消えてしまってはならない、取り返しようのないことであるからこそ、負の遺産として、二度と侵略、戦争を起こさないように生かしていきたいと思います。第二世代である自分が意識を持って取組み、その成果を次の世代に引き継いでいくことが、いま、とりわけ大切な作業ではないか、と考えています。
南京・ハルビンの旅を終えて 山内 充江
わたしの旅行の目的は、忙しくてくたびれている自分自身を開放してやることでした。中学生の子供の毎日の弁当つくりや終わりの見えない家事、それをわたし一人に押し付ける家族への不満、生活のためと割り切っているけれど人間関係が希薄になり、数字に縛られ人間性を否定されるような賃金労働、労働組合や女性解放運動とさらに今年は学童保育所の保護者会の仕事も引き受けてしまいました。とにかく毎日の生活に追われてしんどい。そこで雲の上を飛んで行って見なれぬ風景や言葉を聞いて、日々曇っていく自分の感性を蘇らせるきっかけになれば、そう思って参加しました。
南京は5年ぶり2度目でした。前回は、暑さと疲れもあって、虐殺記念館で記録映画を見ている途中で気分が悪くなって、トイレを探して戻しました。だから体調がとても心配でしたが、今回は、見そびれていた記録映画のつづきはもちろん、日本語の新聞スクラップや絵本の展示や東史郎裁判の展示までしっかり見ることができました。記念館を後にしたときの通訳の載さんの言葉が一番刺激的でこたえました。「南京市民として、なんとも言えません。自分と闘いながらみなさんを御案内しました。」短い中に、戦争責任をあいまいにしたまま半世紀がすぎ、あいかわらず平和を脅かす政治勢力が権力を持ち、「自由主義史観」が勢いづいて南京大虐殺はなかったなどという日本の現状を憂い、痛烈に批判し、それとの闘いがまったく弱いぞとわたしたちを激励する一言であったように思います。本当は東史郎さんのように直接虐殺に関わった人で謝罪をする人がもっといて、わたしたちのように歴史をきちんと学ぼうというツアーがもっとあってしかるべきなのに。虐殺記念館のことをガイドしたと載さんに怒り出す日本人旅行者がいるというから困ったものです。 旅行をきっかけに知ったミニーボートリンのことや、国際安全区の当時の様子を映画「南京1937」とだぶらせながらフィールドワークに参加しました。当時の南京市民やボートリンたちの怒りと恐怖と無念さはどんなものであったか、想像にあまりあります。ハルビンで見た731部隊の遺跡でも再確認しましたが、本当に多くの中国人を家畜か虫のような扱いをした日本軍の行為は何年たとうがあいまいにして忘れ去ることなど許されない歴史的事実です。わたしたちは旅行のなかでいくつかの異例人追悼集会で黙祷しましたが、本来日本中で国民あげてすべきことだと思います。中国ではあちこちで日本軍の行為を記念館や博物館などで展示し、検証し、総括しているのに、日本ではどうでしょう。広島長崎の原爆と同じように、学校教育の中で子供たちにきちんと教えることをはじめ、中国などアジアの国々の歴史認識と日本のそれとが違いすぎる現実を何とか改めなければ、日本人として恥ずかしい。
今回の旅行では、夏休みで学校の先生が、7人参加されていました。教材として使おうと写真や資料を収集し、「若い人たちに伝えなければ」という思いがびんびん伝わってきて、その姿勢が心強く、嬉しく思いました。こんな先生たちに教わる子供たちはどんなに幸せなことでしょう。いっしょに旅行した高校生や大学生が、「ここでかつてこんなことがあったんだよ」と先生たちに教えられている光景がわたしには、本当に羨ましく、貴重に思いました。わたしも、大人として、親として、先生たちのそんな姿勢を見習って、できることをしていきたいと思います。
南京でもハルビンでも、朝早起きしてホテルの近くの市場に行きました。生きた鶏や亀やかえるやへびを量り売りしたり、新鮮な野菜が山のように盛ってある活気ある市場がとても新鮮でした。スーパーのパック詰された肉や魚が当たり前の生活をしているわたしたちには、ぎょっとする部分もあるけれど、パック詰の前段には同じような工程があって、生き物の命をもらって自分が生かされているという感覚を失いつつあるのだと感じました。南京の暑さ、ハルビンの晴れ渡ったさわやかな青空とともに人々の土臭い生活をかいま見れたことも大切に記憶したいです。
南京・ハルピンをたずねて 小城 智子
今回は、事前の結団式にも参加できず、旅行のテーマもはっきり整理しないままの出発になり、空港で宮内さんに「ミニー・ヴォートリンの日記を読み切れなくて」と声をかけられても、何の事かよくわからない、という状態でした。しかし、今回も親切ていねいな資料と、貸してもらった本のお陰で、いろいろと考えさせられる1週間になりました。21、22日と広島であった関釜裁判の控訴審でも、原告の性暴力を受けた女性、強制連行で空襲と飢えの恐怖にさらされた女性のトラウマが問題にされました。(昨年行った山西省の性暴力被害者のトラウマについても桑山さんの調査報告書も出されていました。)南京の中国人女性だけでなく、救助援助の側に立ったミニー・ヴォートリン自身が鬱状態になり、帰国の1年後には自殺された、ということが本当にショックでした。戦闘場面に立ち会い、殺すか殺されるかという追いつめられた状況を体験した男性兵士にとっても、心や体の傷は同じだろうとは思いますが、人間としての感情を捨て去るよう 徐々に慣らされ訓練されていく(?)兵士と違い、突然理不尽な暴力で傷つけられる恐怖や人間としての尊厳を奪われる苦しさは、一生を支配してしまうように思います。今回4回目ですが、とりわけ南京に行くのが憂鬱になっていたのは、「南京1937」の映画の場面と、次々語られる幸存者の被害の体験と、南京大虐殺の資料に必ず出てくる強姦などの性暴力の凄まじさが重なってしまうことが原因なのだろうと思います。改めて、被害者の女性達が、体や心の痛みと合わせて頭痛が周期的にやってくる、イライラしたり、苦しくなったりする、と訴えられるのが分かるように思いますし、その中で、生きてこられたことや、裁判に立ち上がられたことの意味も考えさせられます。ヴォートリンの日記にも出てくる、軍の顧問と称する者が、「慰安婦を出してくれれば、他の女性への強姦などは防げる」といって、21人の女性を選び出した場面など、60年以上たった今でもあい変わらず、女性を同じ人間と見られない認識があるのではないか、それが、「慰安婦=公娼説」を唱え責任を回避する人々を支えているのではないか、と思います。「責任者の処罰と、日本国の謝罪を要求する」というのが性暴力の被害者の主張です。12月には、女性国際戦犯法廷を開こう、とVAWW−NET Japanという会が進めています。父たちの世代が行ったことについて、また国防婦人会や慰問袋を作らせた学校が行った戦争協力の責任について、事実や原因を明らかにし、二度と同じ過ちをしない取り組みが必要だと思います。
731部隊の罪証陳列館では、よく知られる細菌戦や冷凍実験だけではなく、血液交換や人工授精まで網羅され、今の医療につながる問題が扱われていたことを知りました。最近医者から731部隊を問う動きが出ているようで、本当にようやく、と思います。これほど隠されてきた犯罪の事実を明らかにしていく、正しく伝えていく責任を改めて感じました。731部隊跡を世界遺産に登録して保存しようという運動がありますが、陳列館を始めもっと多くの日本人が見に行くよう拡がって欲しいものです。
戴さんが、4年前「南京市民で家族や親族に南京大虐殺の被害がなかった人はいない。」と言われ、ずうっと心にひっかかっていたのですが、今回初めておじいさんが亡くなられた、ということ、また「日本人観光客にもいろいろあって、南京大虐殺に触れるだけで、機嫌が悪くなったり後のアンケートにガイドを外すように書いたりして、仕事がしにくい。本当に腹が立つ」といった話をされ、2年前の平頂山の資料館や廬溝橋の記念館を案内してくださった通訳の方も、「日本人は観光に来るだけで、中国との戦争で何があったのか見ようとしない」と言われたことも思い出されました。同じ日本人であることを恥ずかしいと思いますが、同時に正しく伝えていくことが、学校教育はもちろんのこと様々な場で必要なのだと思います。今回改訂される中学校教科書には、攻撃に譲って「慰安婦」の記述や侵略の事実の記述の削除が通ってしまうなど、せっかく開いた小さい窓もまた閉ざされてしまうことが残念です。
帰ってみると、昨年交流した職業大学の馬 駿さんという道橋土木建築を学ぶ大学生から、「また8月15日がやってきました。」という手紙が届いていました。日本語の3級を取ったそうです。「歴史は真実だから、“知らない”ことを“ない”“嘘だ”というのは許せない。もっと多くの日本人に中国に真実を見に来て欲しい。」とありました。日本の中国侵略の事実をもとに、今の日本の動きに危惧を感じる中国の若い世代と、それを知らない日本の若い世代とのずれは、怖いなあとも思います。勤務校の保護者の在日韓国人の方にも、「今年はどんな話を聞かれましたか?ぜひ、朝鮮の戦争の史跡も話も見てきてくださいね。もっと日本人に知って欲しいです。」と言われました。私たち日本人以上に日本の状況には不安感を持っておられます。改めて、私たちが見聞きしてきたことを広げ、また多くの人々に、歴史の事実に向かい合い、戦争について平和について考えて行く場を提供していきたい、と思いました。
「一緒に行く人たちがよっぽど素敵なんやね。」と、友達に言われましたが、本当に今回も良いメンバーに恵まれ、職場の話や日頃関わっておられる様々な問題についても話を聞くことができ、いっぱいエネルギーを蓄えられたように思います。ありがとうございました。
私の中国の旅・・「直接」・・2000年 河野友里
私が、「神戸・南京を結ぶ会」に参加させて頂きました最大の理由は、高校3年生の日本史の課題図書「中国の旅」の感想文によるものです。その課題を出されたのは、私の尊敬する訪中団員の陽子さんです。宮内陽子先生の真の歴史教育への熱意が、私の気持ちを中国の旅へと動かしてくれたのだと思います。私は、1997年に日本の地で「DON’T CRY, NANKING 1937」の映画を観、さらに次の年、1998年に神戸学生青年センターで幸存者の証言の会に出席しました。日本軍が非戦闘員に残虐な行為を、又弱い立場の女性達にレイプを、それらのシーンを観た時は、気分が悪くなる程居た堪れない気持ちになりました。そして、その被害に遭われた方の直接の声を、言葉は分からなくとも、お聞きした時は、どうして年老いたおばあさんが戦後50年も経過しているのに悲しい、又寂しい叫び声で訴えられるのだろう?と私の頭の中にはなぜ惨事が発生したのかという疑問と、日本人としての恥ずかしさと責任で、何とかしなければという気持ちで一杯でした。胸が詰まる思いで家路へと向かい、帰る道すがらおばあさんにそっとお花を差し上げたい気持ちになりました。1999年、私が高校の卒業を迎える年、「中国の旅」の本を読みました。著者が侵略した側とされた側の関係において侵略した側の姿を赤裸に見ようとするなら、侵略された側の証言をまずもって聞くほかないのである。著者の言葉の中に「直接たずね…直接聞きたい」という言葉が二度も重ねられているのが注目されているとありました。私も「直接」を実感したかったのです。
二十八年ぶりの訪中――新たな日中友好運動を誓う――
今回の南京、ハルピンを中心とする訪中旅行で、私としては念願の二回目(二十八年ぶり)の訪中をはたした。
思えば二十八年前(一九七二年四月〜五月)日本労働者(工人)学習訪中団の一員として三週間にわたって、中国各地(長沙・北京・無錫・上海等)を旅行して以来である。当時は国交が回復してなかったので、香港、広州経由での中国入りで、手続き等むずかしかったことを覚えている。中国では多くの労働者等に歓迎され、多くのことを学んで帰ってきた。
それ以後、私は熱心に日中友好運動に取組んだ。日中友好を進めるには、自分の廻りにいる人々に中国を知り、知らせることが大切である。先ず自分から勉強しなければと、中国に関する書物をいろいろ読んだ(歴史書から現代ものまで)。
友好運動としては、中国で発行する日本語雑誌の販売活動、中国物産展、美術工芸展、中国問題の学習会・講演会、中国からの訪中団との交流、在日中国人と交流・共同行事等いろいろな活動に参加したし、時にはその行事を責任をもって企画立案したこともあった。
そのような活動を通じて、私は誰よりも熱心な友好人士であると自負していたものである。
しかし、年を経るにつれて、天安門事件等もあり近年はなぜか、仲間も減って日中友好運動に関しては行き詰ったというか、なにかピンとこないものがあって、物足りなく思っていた。私は他の活動が忙しいという理由で、日中友好運動から遠ざかろうとしていたようだ。
それはなぜか、中国からの情報等を新聞やテレビで知っても、また中国に関する書物を読んで勉強しても、二十八年間も私は中国の現地にいっていないからである。時代とともに進んでいく中国の実状、この目で生の中国をみていないので中国オンチになっていたようだ。
この中国オンチを解消するためには、もう一度中国に行ってみようと常に思っていた。しかし、時間と金が思うようにならず今日まできた。今年は幸いに時間に余裕ができたので、訪中してみようという気になった。しかし、観光(物見遊山)だけでは意味がないし、と思っていたところ、神戸・南京をむすぶ会の訪中団を知って申し込んだところです。
今回の訪中によって、日本が中国にしかけた侵略戦争の残虐で、非人道的悪行の代表的な所・大虐殺の南京と、人体実験・七三一細菌部隊のハルピンを訪れ学習することができた。よくもあれだけ日本軍は恥知らずな、数々の犯罪的行為を行ったものである。私は現場を見て、話を聞く度に気分が悪くなった。
中国の人々は私たちに「日本軍の侵略は一部の軍国主義者のやったことです。善良なあなた達も、私たち中国人民と同じ軍国主義の被害者です」という。しかし、この言葉に甘えて「そうか、私たちには責任がないのだ」と考えたとしたら大きな間違いである。私たちの態度としては、自分は戦争にいってないし、人を殺していなくても、日本という国が一九三一年から一九四五年まで中国をはじめ世界の国々に侵略戦争をしかけ、数々の悪行をやったことは事実である。この事実・侵略戦争のことを知り国民の一人として反省すべきでだと思う。今こそ、日本の未来のために過去をみつめることが大切であろう。このことなくして、戦争に反対し、平和を守るという言葉に迫力がでてこない。
ところが最近、過去の侵略戦争の事実を風化させ、歴史から消してしまおうという人々が多くなってきた。その人々は、五十五年前の敗戦時の反省は表だけで、心の底からの反省がされていなかったらしい。そして、再度日本を戦前の状態にもどし、戦争のできる国にしようとやっきになっているようだ。
日本と中国の友好のためにも、これを阻止しなければならない。これは大事なことである。この一・ニ年が勝負どきだといわれている。とにかく、日中再不戦のためにがんばるしかない。
私は今回の訪中を機に、私の今までの日中友好運動を反省しながら、中味のある新たな運動を考えていきたい。「神戸・南京をむすぶ会」のみなさん今後ともよろしく。
神戸南京心連心会第4回訪中団に参加して
門永秀次(1)四回目の中国訪問で、やはり最初の時のようには「これが中国だ!」といった類の感動が弱くなったことは否めないが、もともと歴史の現場を少しでも実際に見てみようという旅行の主目的からいえば南京にはもちろん、まだまだ見なければならないところが中国にはたくさんある。
前三回の訪中で未だ行く機会がなく今回初めてだったのは、上新河紀念碑と紫金山(天文台)。それに漢中門紀念碑も前を何度か通り過ぎたことはあったようだが、意識して確かめたことは今までになかった。また南京師範大学(金陵女子大学旧址)も中に入ったのは今回が最初であった。
ことしは旅行の直前まで他用にかまけて、あまり事前の予習しないまま参加した。師範大学でももう少しヴォートリンの日記の記述について頭の中に入れておけばよかった。紫金山も、適当な資料がすんなり手にはいるというわけでもないが、何か戦史でも探し出して読んでおけばよかったと後悔している(防衛庁の戦史資料室でも近ければよいのに)。せっかくの哈爾濱も「七三一」までは手が回らず少し心残りで、とにかくこの点では反省することの多いことしの旅行だった。それでもこれからの勉強にはたいへんな刺激になったわけで、貴重な機会であったと思っている。
南京に関連して今後ぜひ実現したいと考えているのは、1937年上海事変勃発後の陸上兵力投入−上海派遣軍と第十軍の南京攻略の経路をなぞってみることだ。(『中国の旅』の本多勝一のようではなくても、バスででもよいから)
(2)もう少しで新千年紀を迎える。そういう意味での時代の一区切りかとも思うが、半世紀前の東アジアへの侵略の歴史が、この日本ではまったくけじめがつけられていない。戦争、虐殺・強姦、植民地支配、成奴隷・強制連行…への謝罪・補償などに真摯な決着がつけられず放置されたままだ。一方で経済のグローバリゼイションがかつて侵略の舞台となった地域をも包摂しようという勢いと経済特有の論理が幅を利かす中で、これらの課題が当事国(時によっては日本政府だけでなく)の政府や社会の指導層によって意識的に脇にやられている。余命幾ばくもない侵略被害の当事者たちがやっと機会を得て必死の叫びを上げてはいるが全体からすればごくわずかな部分であり、日本ではその叫びを黙殺あるいはセカンド・レイプともいうべきとんでもない策動が、今はまた顕著だ。その傾向を扇動する厚顔無恥な「研究者」集団やマスコミ効果を計算し尽くして犯罪的言動を繰り返す自治体首長の存在が、現在の日本社会を特徴づけている。
そんなことを考えると、神戸南京心連心会のように年一回の現地訪問と適宜の講演会・学習会(中国からの幸存者・研究者の招聘も含めて)という細々とした活動も続けることは意義のないことではなく、できるだけこの活動を将来の世代に繋いでいきたいとねがう。今回は大学生・高校生四人が参加して一緒に勉強をした。若い人たちが彼・彼女の将来のために過去の歴史を知ろうとする姿には、実は当たり前のことだが、おばさんやおじさんはすごく励まされているのです。この活動がもっともっと若い人たちにも広がるように心底思っている。
(3)鬼が笑う来年のこと
過去四回の訪中は8月15日江東門紀念館前での追悼集会を軸に、南京でのシンポジウム・フィールドワークと他の地域でのフィールドワークなどを加えて全体の訪中計画が立てられてきた。神戸南京は第一回1997年が安徽省淮南、第二回1998年遼寧省撫順・瀋陽、第三回1999年山西省太原・大同と北京市、そして今回が黒龍江省哈爾濱だった。そのテーマはそれぞれ万人坑・戦犯管理所や性暴力被害あるいは九一八事変であったりした。南京とどこか。そのいずれもがいわゆる「日中一五年戦争」に関係する史蹟で、われわれがその当時旧日本軍が中国に残してきた歴史的事実と率直に向き合い、幸存者をはじめ中国の人びとの人間としての叫びに耳を澄まし、これらをできる限り広く日本で伝えることによって「前事不忘 后事之師」の戒めを心に刻む社会にしていくべきだと思う。
そういう観点からは神戸南京がフィールドワークの対象として、かつて日本軍が蹂躙した広大な中国大陸のどこを選んでもおかしくはないが、現実に訪中団を組むとなれば自ずと限度限界がある。みんなが納得できるところで決めていく以外にはないと思うが、私は来年(ひとまず自分が参加することを前提として)、できれば重慶を選んでほしい。
1937年日本軍の南京攻略に伴い国民党政府が、11月17日に南京から首都移転を決定したのが重慶だ(実際には国民党政府はいったん武漢にとどまるが、その後日本軍の武漢攻略戦の発動で重慶に移った)。長江の奥深い重慶は、日本軍の水陸の部隊は遠すぎて直接の攻略戦は不可能だ。しかし武漢を占領した日本軍はここを足場に連日のように重慶に対する無差別爆撃を繰り返し、都市と市民−非戦闘員に多大の犠牲をもたらした。1939年5月3日・4日には、のちに郭沫若が哀悼の詩を残したように無惨な爆撃で無辜の市民多くが犠牲になった。できればそんな重慶を訪ねてみたい。
初めての中国そして南京/川口真紀子
今回、私は初めて中国の旅に参加した。きっかけは昔からの知り合いである宮内さんに誘われたからであるが、もう一つは、この少し前に『戦争と罪責』と言う本を読んだからであった。この本は中国での侵略戦争に関わった日本兵達の当時の心理状態や彼らのその後の人生、生き方を精神医学的な立場で分析し、何が彼らを恐ろしい非人間的な行為に駆り立てたのか、当時の日本の軍国主義と言う背景も合わせながら書かれたものであった。そのあまりの衝撃的な内容に驚き、「これは、絶対中国に行って直接確かめなければ」と、強く思ったのであった。
旅の当日が近づくにつれて、ドキドキした気持ちと緊張が少しずつ高まっていった。
上海に到着した時は「うわぁ〜。とうとうやって来たぞ!」と、何とも言えない気持ちになった。いよいよバスに乗り一路南京に向けて出発した。南京までは思ったより長い時間がかかった。地図では、そう遠くないのに、やはり中国は広いんだなと言う感じがした。何時間バスをとばしたことだろう、辺りも随分暗くなった頃、いよいよ南京の城壁の一部のようなものが見え、一つの門に到着した。ここをくぐれば、正に南京だった。
急に私の耳から周囲の喧騒が消え、数ヶ月前に見た「南京大虐殺」の記録映画のワンシーンと、その後ろで流れていた音楽、そして録音されていた人々の悲鳴がこだましてきた。何とも言えない感覚、まるで自分自身がタイムスリップしてその場にいるような気がしてきた。バスは城内に入り、南京の人々の姿が私の目の中に飛び込んでくる。道で話す人、歩いてる人、ものを売る人、車を待つ人。「彼らの祖先もあの時殺されたのだろうか。今いる彼らが、正にあの時の人々のようだ。」様々な思いが、私の心の中を交差して、私は南京の街に、人に釘付けになっていった。古い都の南京。今なお残るあの当時の建物。人々の生活も近代化と昔ながらのものの間で揺れているようであった。だからこそ、あの時の記憶が実に生々しい。この街で一体何が起こったのか。ほんの60年ほど前。女も子どもも、捕虜も一般人も皆殺し。道には死体がごろごろ横たわり、必死に逃げまどう人々。悲鳴と銃声と戦車が行く音が混じり合って、街は息を殺した不気味な沈黙につつまれている。誰もが、無言の中で捕まり、殺され、強姦されている。家の奥や物置や何かの影に隠れている人は、ただただじっと、周りで行われている残酷な行為が過ぎ去って、恐ろしい虐殺者達が行ってしまうのを今か今かと待っている。血に染まった南京…。
私たちの祖先は何と言うことをしてしまったのだろうと言う気持ちがしてきた。信じられない。あまりにもひどい。この街は、今でもあの時の空気を漂わせ、街全体が惨殺された人々の血の思いで包まれているように感じた。償いきれない。贖いきれない。許されない。私たちの先祖が犯した罪…。この街の人々を傷つけたこと…。
私は、今回南京を訪ねて、無条件に、ありのままに、南京大虐殺の事実を感じた。それは誰が、何と言おうと消せるはずのない人類全体に対する「犯罪」である。この人たちをなぶり殺しにし、犬や猫のように道ばたに捨て去り、人間の尊厳を踏みにじって辱め、非道の限りを尽くした日本兵達。私たちはその子孫である…。この事実をどうやって受け止め、被害者の人々と、そして私たち自身も失ってしまった人間として最も大切な「人間性」をどのように回復していくのか。私たちへの宿題はあまりにも大きい。