『むくげ通信』182号(2000年9月24日)

南京再訪、そして731&安重根のハルビンへ 飛田 雄一

 今年も中国を訪ねた。神戸・南京をむすぶ会の第4回訪中でである。神戸・南京をむすぶ会は、96年に開いたニューヨークの中国人画家と丸木位里・俊が描いた南京大虐殺をテーマにした絵画展の実行委員会が継続的に南京大虐殺に関わるために作られた市民グループである。
 97年から毎年夏に訪中団を送り、以前『むくげ通信』でもその訪問記を掲載したことがある。南京の他にもう1ヵ所日本の侵略の歴史に関わりの深い地域を訪ねることにしている。97年は、三井が大きな鉱山を経営し今も万人抗の残る淮南、98年は撫順、99年は万愛花さんら性暴力被害者のすむ黄土高原の太原(山西省)、そして今年は、念願のハルビンを訪ねた。
 8月13日午前11時40分、中国東方航空516便で関空より上海へ。上海空港には毎年お世話になっている中国友誼促進会対外連絡部の徐明岳さん、通訳の戴国偉さんが出迎えてくれた。さっそくバスに乗り換えて一路南京へ。高速道路で約3時間半の道のりだが、南京大虐殺のあった1937年、日本軍が進撃した道のひとつである。本多勝一の『南京への道』には南京にいたるまでの日本軍の蛮行が詳細に記録されているが、そこに出てくる地名も道路標識に時々でてくる。
 今回の旅は17名。高校生2名、大学生2名、それに若い先生2名が含まれていて、平均年齢はだいぶ下がっている。若い人に参加して現地で学んでほしいという趣旨から、参加費178,000円に対して大学生2万円引き、高校生4万円引きとしていた。これまで4回の旅に休まず参加した常連は私を含めて6名だ。
 南京には7時半に到着した。中山門から入るが、これは南京占領後、松井石根司令官らが「入城式」をした門としてよく写真に登場する門である。昨年と同じ古南都ホテルにチェックインする。古南都は英語のグランドで、グランドホテルとなる。私たちの旅にしては上等すぎるようなホテルである。ここに3泊。
 翌14日は、南京市内の虐殺現場のフィールドワークである。今回は、当時国際安全区内で日本軍の蛮行から中国人女性を守るために働いた米国人女性・ミニ・ヴォードリンをテーマにしたフィールドワークだ。そのヴォードリンが働いていた南京師範大学を訪ねた。当時は金陵女子大学と呼ばれていたが、金陵は南京の古名である。
 安全区といえども南京大虐殺時には安全でなく、日本軍が進入してきて女性を挑発したりしたのである。ヴォードリンの見聞きした事実が『南京事件の日々−ミニー・ヴォートリンの日記』(1999、大月書店)に記されている。
 大学に当時の建物がかなり残されているのに驚いた。日本でも上映された「南京1937」のロケもここで行なわれている。映画をご覧になった方は日本軍が駆け登る場面を記憶されているかと思うが、その階段は下の写真である。

 

 午後は、ヴォードリンに関する研究報告と幸存者(中国では幸いに生き残ったという意味でこう言う)の証言を聞いた。詳細は、神戸・南京をむすぶ会のホームページをごらんいただきたい。
http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/nankin/html
 8月15日は、南京大虐殺記念館(正式名は侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)で追悼集会が開かれた。日本からは神戸・南京をむすぶ会の他に銘心会南京、婦人民主クラブ、岡まさはる記念館の4グループが参加した。追悼集会ののち記念館を見学し、その後これも恒例となっている東郊葬祭地を訪ねた。例年、雑草が生い茂りそこを清掃するのだが今年はしでに訪ねたグループがあったのかきれに清掃されていた。


8.15 南京記念館での追悼集会

 午後は、何ヶ所かの虐殺現場をたずねた。上新河遇難同胞記念碑は人民軍の施設の中にあったが通訳の戴さんが交渉をしてくれて中に入ることができた。
 夜は、金陵職業大学で交流会。昨年、家庭訪問をした学生も来てくれている。むすぶ会の高校生、大学生は中国の大学生と英語で歴史、テレビゲーム、スポーツなどをテーマに話がはすんでいた。
 16日、朝7時50分の飛行機でハルビンへ向った。青島経由で約3時間、地図で距離を調べると東京―沖縄より遠い。 今は博物館となっているロシア正教の教会、新潟とハルビン友好公園、太陽島記念碑などを訪ねた。
 17日、いよいよ「731部隊」跡地を訪ねる。ハルビンより南へ約40キロの平房に向う。部隊の敷地は6平方キロ。そのはずれに「侵華日軍第七三一部隊罪證陳列館」がある。新しい記念館で、展示は体系的である。接待部主任の劉春生さんが日本語で案内してくださった。充分時間をとって見学したあと、副館長の金成民さんから保存運動の現状等についてのお話を伺った。敷地内の工場、アパートの移転。補償問題もあり、財政的にも大きな課題をかかえているとのことだ。3,4年の間に整備をして中国国内で遺跡指定を行ない、その後に世界文化遺産の申請を行なう予定であるという。
 そして記念館を出て敷地内のフィールドワークに移った。最初は、当時のままの姿で残っている731部隊本部建物だ。数年前まで小学校として使用されていたもので、記念館ができるまではこの建物の一部に小さな記念室が作られていた。残念ながら改修工事中で、中に入ることはできなかった。


731部隊本部建物

 本部建物から動力炉跡を訪ねた。731の写真といえば必ず紹介されることころである。2本の煙突は、立派に残っているが、1945年8月10日にすでに敗戦を知った部隊は施設の破壊を開始したが、余りにも頑丈に作られたこの煙突は残ったのである。あと残っている建物は冷却棟(今回未訪問)だけとのことである。募金のためのプレートと当時の写真を収録したCD−ROMを買ってきたがCD−ROMは我がコンピュータでは開けなかった。


731部隊動力炉煙突跡

 午後、ハルビンでのもうひとつの目的地・ハルビン駅である。1909年10月、安重根が伊藤博文を射殺した駅である。事前に広島強制連行を調査する会の内海隆男さんから、駅構内にあった銅像跡の写真をもらっていた。
 その「銅像」をめぐるミステリー?が今回の旅のおみやげのひとつだ。内海さんから銅像の話を聞いて、私はなんの疑いもなく安重根のものだと考えた。「ある時期に撤去された」と聞いてその真相を調査せねばとハルビンに行ったのである。いつ誰が設置した銅像を、いつ誰が撤去したのか? 興味深々のテーマであった。
 その銅像跡は、内海さんのメモと写真のお陰で発見することができた。その銅像跡にはかなり重い植木鉢が置いてあったが、それを横にのけて「このあたりから安重根がピストルを打ったのか!」と感慨にふけった。駅は作り替えられて当時の面影は残していないというが、その現場らしい所に立っただけでも満足だった。
 ところが後日、9月9〜10日の強制連行調査ネットワークの集い2000 in 神戸で内海さんとその話をすると、その像はなんと「伊藤博文」のだという。内海さんはずっとそのつもりで話をしていて、私はずっと安重根だと思って聞いていたのである。どうも、「銅像撤去事件」の真相は簡単なようだ。日本が1945年以前に作った伊藤博文の銅像を、中国人民が(あるいは朝鮮人が)解放後に破壊したのである。当然の成り行きだ。のちのちハルビンを訪ねる人のためにガイドブックを作らんと写真を沢山とってきたが徒労に終わってしまった。


伊藤博文の銅像のあった場所

 ハルビンでもう1ヵ所訪ねたのが、烈士記念館。日本軍が占領したのち満州警察署として使われていた建物がそのまま記念館となっている。改装中であったが楊靖宇、陳翰章、趙尚志そして女性幹部の趙一曼の5人について大衆教育部副主任の那継賢さんに解説をしていただいた。趙一曼はこの建物で拷問を受け後に処刑されたが、半地下の遺体を運び出すための出口もそのまま残っている建物だった。
 夕方にスターリン公園で自由行動。泊りは、天鵝安飯店(天鵝安は白鳥=スワン)で2泊した。
 18日、飛行機の時間までロシアの雰囲気の残る古い市街を訪ねた。歴史のある石畳は、すり減っていたがよく整備されて歩行者天国になっていた。思い思いに買物をし、午後の飛行機で上海にもどった。上海で最後の夜をすごして翌19日朝9時35分の飛行機で関空にもどってきた。安重根勘違い事件もあったが、実りの多い旅行であった。去る22日の報告会では、さっそく来年は重慶に行きたい、無錫に行きたいとまた、話がはずんた。また、5回目の南京への旅にでかけることになりそうである。

 むくげの会『むくげ通信』総目録