(むくげ通信206号、2004年9月)

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 史片112
  中国人労働者が朝鮮人を駆逐?
                    
堀内 稔
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 神戸市社会課は1926年神戸市内に在住する朝鮮人を調査し、それにもとづいて翌1927年9月に『在神半島民族の現状』と題する報告書を出した。神戸における初めての朝鮮人に対する調査であった。

 この中の「内地渡航理由調査」の解説で執筆者は、ある朝鮮人に「日本で苦労するより朝鮮で働いたほうが楽ではないか」との質問をしたところ、朝鮮での仕事は安くってだめだし、「それに支那人がたくさん入り込んで居るから、中々朝鮮人には好い仕事がない」(原文通り)との返事が返ってきたというエピソードを紹介している。

 さらにその朝鮮人は「支那人は米のめしもろくろく食はずに−南京虫さえ逃げ出しそうな処へごろ寝して働くから賃金なんか朝鮮人よりもやすくって充分らくにくっていける−」と続けた。報告書の執筆者は、中国人が朝鮮半島の労働市場から朝鮮人を駆逐しているかどうかは分からないとしながらも、産業的に未開の朝鮮に中国人労働者という大敵が出現したことは、朝鮮人にとってショックだったろうと述べている。

 最近の研究のなかで、朝鮮労働市場での中国人との競合が朝鮮人の日本渡航を促したとの説が出されている(河明生『韓人日本移民社会経済史−戦前編』)。しかし、実際はどうだったのか。結論から先に言えば、それはあり得なかった。仮にあったとしてもごく一部の現象にすぎなかったといえるだろう。

 第一に朝鮮に渡った中国人の人数である。「朝鮮総督府統計年報」によると、1920年代後半は4〜5万人、1930年代は年によってバラツキはあるものの6万人前後で推移している。ただ、この数字には大きな落とし穴がある。朝鮮にやってくる中国人労働者は、春から秋にかけて朝鮮で働き、冬になると中国に帰国するという季節労働者的性格が強い。したがって、どの時点での調査であるのかによって、統計の人数は大きく異なってくるはずだが、先の統計年報の数字は各年度末のものである。新聞記事などから推測して、もし6月時点で統計をとったなら、数字は倍増したであろう思われる。

 とはいっても、朝鮮在住中国人は多い時でもせいぜい10数万人と推定される。渡日した朝鮮人の数に比べてもあまりにも少ない。しかもその中には単純労働で朝鮮人と競合しない商業に従事する中国人も含まれる。いかに産業的に未発達な朝鮮市場とはいえ、朝鮮人を日本に駆逐する一大勢力になったとは考えにくい。

 次ぎに、中国人労働者の地域的分布である。中国人労働者の朝鮮への流入は、山東半島から船で仁川に来て朝鮮全土に散らばるルートと、新義州方面の国境を越えて入り込むルートがあったといえる。新義州方面の国境を越えて入ってきた中国人はそのまま北で働くし、仁川ルートの中国人労働者も働き場を北部朝鮮に求めるケースが多かった。とくに1920年代後半から30年代にかけては北部朝鮮の開発が大規模に行われた時期で、これに賃金の安価な中国人労働者の多くが採用されたのである。

 周知の通り、渡日した朝鮮人の大半は南部出身である。南部朝鮮の労働市場における中国人と朝鮮人の競合は北部に比べるとはるかに少なかったはずである。このことからも中国人労働者が朝鮮人を日本に駆逐したとは考えにくい。

 ではなぜ先の神戸の報告書に登場する朝鮮人は、中国人労働者の影響をあげたのだろうか。自分で実際に中国人との摩擦を体験したのかもしれないが、それよりも当時の朝鮮における新聞などがリードした「中国人労働者脅威論」に影響された可能性のほうが高いと思われる。

 1920年代後半、『東亜日報』や『朝鮮日報』は増え続ける中国人労働者の流入を盛んに報道し、朝鮮人労働者の脅威になっていると書き立てた。粗食に耐え安い賃金でよく働く中国人労働者によって、朝鮮人労働者の職が奪われているというのである。こうした主旨の中国人労働者問題をとりあげた社説も、この時期に集中している。新聞などによって形成された世論が、先の朝鮮人の発言になって現れたのではないだろうか。

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