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『むくげ通信』202号/2004年1月25日
史片(108) 阪神国道と朝鮮人労働者
堀内 稔
武庫川改修と阪神国道(現国道2号線)工事は、1920年代に行われた阪神間では最大級の工事で、多くの朝鮮人労働者が従事したことで知られている。これらの工事はほぼ同時期に行われたが、武庫川改修工事については朝鮮人労働者との関わりを示すいくつかの新聞記事が残されているが、阪神国道工事ではきわめて少ない。武庫川改修工事が始まった1920年は、朝鮮における3・1独立運動が起こってから間もない時期だっただけに、治安対策面で朝鮮人に対する注目度が高かったと推測されるが、それより数年遅れて開始された国道改修工事は、朝鮮人に対するマスコミの関心度が多少薄れていたともいえよう。
ともあれ他に資料がない以上、その実態の解明は新聞記事に頼らざるを得ない。新聞記事以外では、当時から本山(武庫郡本山村=現神戸市東灘区)に住んでいた私の義父が、「工事にたずさわっていた朝鮮人労働者が通りかかりの日本人女性をからかうのを見て、子どもながらに義憤をおぼえた」と語るのを聞いたことがあるくらいなものである。
そのため、『兵庫のなかの朝鮮』(同編集委員会編、2001年明石書店)で「阪神国道と朝鮮人」のテーマで書いたときは、コラム程度にしかならなかった。唯一「平均一日に全線上で働いている労働者二千人内朝鮮人三割」という記述をもとに(『大阪毎日』1926.6.19付夕)、あとは工事の概要と工事終了時の失業者問題で朝鮮人の処遇について書かれた記事でふくらます以外になかったからである。
しかし、その後当時の新聞記事に細かく目を通していると、阪神国道工事とは直接関係なさそうな連載記事の一部に、阪神国道の朝鮮人労働者の記述があることに気がついた。連載記事は『大阪毎日』の「在神、朝鮮の人達」で、1926年11月17日から21日までの5日間5回の連載である。記事の内容からみると、兵庫県社会課の「在神半島民族の現状」(1927年9月)の調査に基づいたものと推定されるが、その連載の3回目に次のような記述がある。
「調査総数千六百人中の七割までがとにかく若干の送金、貯金をしてゐるといふ興味ある事実があるのである。そして現に阪神国道工事に就役する鮮人労働者千余人の送金のために工事開始以来つねに西宮郵便局の為替取扱数が激増を示しているとゐふ」
ここに出てくる労働者数1000余人は、先の記事の2000人の3割=600人よりもかなり多い。さらに『大阪朝日』神戸版には、「阪神国道の工事には各地の鮮人労働者が三千人も加はってゐるとのこと」(1926.8.23付)という記述もある。工事の期間中、その時々の情況に応じて労働者数の増減はあって当然だが、数にこれだけの開きがあるとどれが正確な数字なのか選択にとまどう。
連載4回目は、阪神国道工事に従事した朝鮮人労働者の生活の一端を、初めて明らかにしてくれる。朝鮮人の住宅問題に触れたなかで、次のように記述されている。
「武庫川の堤防に沿うてしばらく北上すれば水近き林間に国道工事従事の鮮人小屋を散見し、あたら白砂青松の佳色「褌」の讃を得るの嘆きを深うするものがあらう」
朝鮮人労働者の多くが、武庫川の河川敷のバラックに住んでいたことがこの記事からわかる。武庫川改修工事の時も、朝鮮人労働者は武庫川河川敷の飯場(バラック)で生活した。これがきっかけとなって尼崎守部地区の朝鮮人集住地域ができたとされているが、この記述からして阪神国道の朝鮮人労働者の影響も考えなければならないかもしれない。ちなみに、守部地区の朝鮮人が増え始めたのは、1930年代に入ってからである。
阪神国道の工事は1926年12月に終了、翌27年3月には工事を監督した県西宮工営所が閉鎖された。工事の終了とともに失業した労働者は、兵庫県では27年度に起工される表六甲ドライブウェイの開設工事、あるいは県営の水電拡張工事などに振り分けられたという(『大阪毎日』1927.2.28付兵庫版)。