むくげ通信193号(2002年7月)
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難民条約発効より20年―改めて日本の難民政策を考える― 飛田 雄一
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●はじめに
今年5月8日、中国瀋陽の日本大使館に朝鮮民主主義人民共和国から子どもを含む男女5名が亡命を求めて入った。この様子はテレビを通して全世界に報道されたが、その時、日本の領事が中国警察官の帽子をひろったりしてなんの抗議もしなかったことが非難をあびた。後日、日本政府によってその領事らに処分がなされたが、大使館外の警察署で英文で書かれた亡命希望の手紙を英語が分からない?とそのまま返したこと、その前日、北京の阿南大使が、北朝鮮からの難民を排除する趣旨の発言をしたことは処分の対象とされなかったと報道されている。いずれにしても今回の事件は日本政府が第三国からの難民の受け入れに消極的な態度をとっていることを改めて明らかにすることとなった。
また昨年の9月11日のニューヨークでのテロ事件後の10月3日、日本で難民申請をしていたアフガン人が明確な理由を示されることなく拘束される事件がおきた。その中の一人ヤフヤさん(25歳)は、タリバンに捕らえられて約20日間拷問され生死の境をさまよった体験をもっている。彼は面会にきてくれた弁護士に「地獄から逃れてきた。日本人が人道的であるから私たちを庇護すると信じて来日した。そして、日本を信じ、自らの意思で、東京入国管理局に出頭した。それなのに、9・11テロ直後、私たちアフガン難民申請者は収容された。早朝、防弾チョッキを装備した入管職員らに、犯罪者同然に引き立てられた。なぜ?
私たちは、アフガニスタンで迫害され、日本で2度迫害されている」と訴えている(ヒューライツ大阪『国際人権ひろば』44号、2002.7)。
日本の外国人政策が排外的であると指摘されることがあるが、先のフランスの総選挙で極右「国民戦線」の大統領候補・ルペン氏が「日本とスイスの国籍法は完全にわれわれの考えと一致する。われわれが人種的な偏見をもっていると指摘されるのはおかしい」と主張したことが報道された。フランスの国籍法は日本と同じ血統主義だが、父母が外国人でもフランス生まれで11歳から18歳までの間に5年以上居住すれば、ほぼ自動的にフランス国籍を取得できるし、二重国籍も禁じていない。日本やスイスではこのようなことはない。先の国民戦線の副党首で日本研究者でもあるブルーノ・ゴルニシュ氏は「わが党が極右なら、日本だってそういうことになる。極右という呼び方は不当だ」とコメントしている(2002.4.29朝日新聞)。わたしは妙に納得してしまったが、どのようなものだろうか。
●日本における難民問題
日本は島国でヨーロッパのような難民問題がなかったかのように言われることがあるが、決してそうではない。
戦後、日本がGHQに占領されていた時期に朝鮮戦争の戦渦を逃れて、あるいはその前の時期に済州島4・3蜂起の関連で多くの人々が朝鮮半島から難民として渡ってきている。しかしそれらの人々は、密入国者としてのみ扱われたのである。先日、吹田事件50周年の集会で詩人の金時鐘氏が当時の体験を語っておられたが、密入国者としての日本での生活がいかに大変なものだったかを想像できるお話であった。当時日本に渡ってきた朝鮮人は、戦後ずっと密入国者として扱われ続けてきたのである。最近でこそ日本の入管当局は戦後入国の朝鮮人については本庁に問合せることなく地方入管局の判断で在留特別許可を与えていいということになっている。この内部基準は新聞にも報道され、最近、NGO神戸外国人救援ネットが国に情報公開を請求して入手したが、戦後、難民として取り扱われる必要があった多くの朝鮮人が、本当に長い期間密入国者として肩身の狭い思いをしてきたのである。
●神戸の難民問題
また私の暮らす神戸についても難民の歴史と関係のあることがらがみつかる。
太平洋戦争の時代にナチスドイツの迫害を逃れて神戸にやってきたユダヤ人が、当時神戸に在住していたユダヤ人の助けも借りながら、神戸経由で第三国に亡命していったという歴史もある(神戸新聞1982.1.1一面の大きな記事)。それによると、1940年7月から14ヵ月にわたって約4600人が神戸に逃れてきてアメリカ(1964人)、カナダ、中南米、パレスチナなどの33ヵ国に渡っていたのである。まさに神戸が「自由の窓口」となっていたのである。(最近、日本女子大の金子マーチン氏がこの神戸のユダヤ人のことも含めて当時の記録を整理して論文を発表している。)
また1970年頃にも亡命事件が、これは神戸だけではないがおこっている。ベトナム戦争に反対するアメリカ兵の脱走事件である。まさに政治亡命を求めた事件である。当時、ベ平連青年であった私は、その脱走兵事件には関係していない。関係していないというより、私たち「デモ部隊」には、脱走兵救出運動とは完全に切れていた。後日、神戸でもイントレピット号脱走事件の関係で誰々をどこどこに匿ったという話を聞かされて、へ〜〜ぃ、と思ったものだ。まあ、知らなくてよかった分けだが。
またベトナムからの留学生が当時のベトナム政府に反対して政治難民となった事件がおこり、神戸のベ平連も当時アジア文化協会で働いていた田中宏氏を講師に招いて支援集会をした記憶もある。当のベトナム人留学生がなかなか会場に到着しなくて、講演中の田中氏にもっと長く話してほしいという合図を送ったことも覚えている。
そしてさらに神戸的なこととしては、韓国軍を脱走して北朝鮮に亡命すべく神戸に逃れてきた丁勲相氏の事件がある。いつの公判のときだったかよく覚えていないが、私も傍聴にいって神戸地方裁判所の庭で丁勲相氏が、支援者を前に朝鮮語で元気に演説をしていたのを鮮明に記憶している。
全国的には、当時、入管法に反対する運動が盛んに行なわれていた時期で、尹秀吉氏らの事件も迫害される恐れのある韓国や台湾に強制送還することが不当であると裁判が行なわれていた時期でもある。
この時期の裁判について本間浩氏は「難民保護に関して明確な法的原則が定められていなかった当時、迫害のおそれを主張する者が、日本の政府による保護を要求する場合に、その法的根拠として政治犯罪人不引き渡し原則の適用がしばしば主張された。難民保護のための法的整備がたち遅れていた日本では、この原則以外には、頼りになる根拠がなかったのである。」とみている(『難民問題とは何か』岩波新書、1990.12、35頁、この飛田レポートでは本間氏のこの本を多く参考にしている)。
最近ある研究会で中国東北地方で北朝鮮から逃れてきた人々にインタビューした内容をうかがう機会があったが、その話の中で「必ずしも亡命希望者が多くない」という話が印象に残っている。先の『難民問題とは何か』に「祖国にもどる人々」という項があって、例えば1956年のソ連軍のハンガリー侵攻によって総人口の2%にあたる20万人が他の国に逃れたが、近年祖国の民主化の改革に期待とよせて多くの人が帰国しているという。また、タイ国内にいる7万人のラオス難民の中でも帰国を希望する者が増えてきているという。このような例をみると難民というのは、それを作りだす本国の問題が大きいということが分かる。
難民ではないが、昨今の日本における外国人労働者問題を考えるときに、私は、南米から日本に多くの日系人が出稼ぎにやってくるが、アメリカの日系人が出稼ぎに日本にやってくることがおそらく圧倒的に少ないという事柄を、対比的に考えてしまう。これは、南米の国と日本、そしてアメリカと日本との経済的な関係に影響されているのである。
●「難民条約」とはなにか
難民条約は、1951年作成された。その前文によると締約国は、@国連憲章、世界人権宣言の権利および自由を差別なく享受するとの原則を確認していることA国連の難民の権利保障に努力していることB従来の難民に関する協定が保護の新しい協定で拡大することが望ましいことC難民庇護が特定の国の負担ではなく国際協力なしには解決できないこと、を考慮し、D全ての国が国家間の緊張の原因にかることを防止するための措置をとることを希望しE国連難民高等弁務官の条約監視の任務を有していること考慮して各国と弁務官との協力により効果的な調整が可能となることを認めて協定されたものである。
難民条約は当初全世界の難民ではなくてヨーロッパの難民に限定されており、かつ時期も1951年1月1日以前の難民に限定されていた。しかしハンガリー動乱(1956年)にも適用されるようになり時間的制約がなくなり、また1960年代にアフリカ諸国が難民条約に加入することによって地域的限定もなくなっていった。そして1966年2月の「難民議定書」によって、その時間的地域的制約(「1951年1月1日以前にヨーロッパで生じた事件の結果」という項目を正式に削除)がなくなったのである。
難民条約には難民を第三国が自国民と同様に扱うという「内外人平等」の原則がある。よく知られているように、難民に対しては社会福祉、職業等において自国民と同様の扱いをすることが義務付けられているのである。例えば難民は本国のパスポートを持たない場合が多いが、難民を受け入れた国はその難民の本国政府に代わって「難民旅券(パスポート)」を発効するのである。
もうひとつ難民条約の重要な原則は迫害の恐れのある本国に送還しないというノン・ルフルマンの原則である。この原則は、すでに難民条約に未加入の国にも適用されるべき国際慣習法として確立している。ただし、@難民と認定されたあとでも重大な犯罪を犯したこと等を理由に送還する余地A国境での入国拒否の可能性、がのこされていることが問題としてあげられている。
その他に難民条約では無差別原則(3条)、宗教への好意的待遇(4条)、強制移住させられたのちの居住継続(10条)、結社の権利(15条)、裁判を受ける権利(16条)、差別のない賃金(17条)、公教育(22条)、公的扶助(23条)等について、定められている。
●日本政府のと難民条約批准への道のり
日本政府は、1962年に難民条約に加入しない理由として、難民の定義がはっきりしないので各国の扱い等を見極めたうえで加入の検討をしたい(8月24日、中川外務省条約局長)答弁した。また1968年4月19日には、先に述べた難民条約のヨーロッパ限定、1951年以前限定を理由にあげたが(重光政府委員)、1966年12月に作成され、1967年1月30日に公開された「難民条約の地域および時期限定を削除した難民議定書」によって日本政府も答弁に窮するようになる。その後も、難民条約への加入を渋っていた日本政府であるが、1975年のインドシナからのボートピープルの入港(1976ベトナム統一)、先進国サミットでの日本政府へのインドシナ難民支援のための圧力などにより、1981年10月、ようやく難民条約に加入することになった(日本の加入は先進国の中でのグービー賞と当時よくいわれた)。そして翌1982年1月1日から日本国内でその効力が発効したのである。私はその正月の新聞がトップ記事でこれで全ての日本国内での外国人差別がなくなったという内容の踊るような新聞記事を覚えている。のちに述べるように全面解決とはならなかったが。
実際、この1月1日を期して、日本の国内法で難民条約の原則に違反する法律は改正された。日本人に限定されていた児童手当法および国民年金法はその法文から国籍条項が撤廃された。私も1970年代に児童手当法・国民年金法の国籍条項撤廃の運動に関係していたが、難民条約の日本国内発効によって一挙に国籍条項が撤廃されることになった。国民年金法については、国民年金制度が始まったころに朝鮮人だといっているのに大丈夫だと加入を進められた方がいざ老齢年金支給という段階になって、ダメだという理不尽な措置を不当だとして裁判まで起こして争われたが、「誤適用」だったとして敗訴した事件もあった。全国の支援者は当時、本当にはがゆい思いをしたが、その国籍条項もインドシナ難民とサミットのおかげで一挙に撤廃されたのである。
また、1982年1月1日まで日本の法律に難民を認定するような法律はなかったわけだから、それまでの出入国管理令が出入国管理および難民認定法となったのである。
●国籍条項撤廃後の残された課題
一挙に国籍条項が撤廃された1982年1月の法改正であったがいくつかの重大な積み残しの問題がある。それは今も主に在日朝鮮人社会に大きな問題を残している。
ひとつは、国民年金法に基づく障害年金支給の問題である。老齢年金とは別に20歳以上の国民年金加入者が障害者となった場合には障害年金が支給される。従って1982年1月1日以降に国民年金に加入した在日外国人が障害者になれば、問題なく障害年金が支給されることになる。しかし、その1982年1月1日の時点ですでに20歳を越えていた在日外国人障害者には障害年金が支給されないという不可解な事態が生じたのである。その理屈?は、国民年金法では20歳の誕生日に障害認定をすることになっているので、20歳の誕生日を過ぎていた在日外国人は障害認定がされていない(実際は国籍条項で排除されていた)ということなのである。
この問題は現在まで解決されていない深刻な問題で、現在40歳を越えている20歳以前からの在日外国人障害者にはいまも障害年金が支給されていないのである。そして実際に在日外国人当事者によって裁判も提起されている。
この件で神戸学生青年センターで障害年金の差別撤廃を求める全国会議が開かれたこともあり、私も車椅子の在日外国人障害者といっしょに当時の厚生省に要請に出かけた。私たちの要請に対する厚生省の返答は、障害年金が支給されない日本人大学生の場合などを持ち出し在日外国人のケースだけを救済することはできないというだけのものだった。大学生の問題というのは、1990年7月より20歳を越えた大学生には国民年金強制加入となったが、加入しなかったために生じた問題である。20歳を越えた大学生が国民年金に加入手続あるいは猶予の手続をとっていない場合には国民年金に加入していないことを理由に障害年金が支給されていないのである。
当時の厚生省での交渉での私たちの主張は、「加入できるのにミスで加入しなかった日本人大学生の場合と1982年1月1日まで国民年金法の国籍条項によって加入したくとも加入できなかった在日外国人とは別の問題であり、当然救済すべきである」というものだった。しかし、交渉は平行線のままだった。
しかし今年1月、坂口厚生労働大臣が「無年金障害者問題について年内解決をはかる」と発言した。先の大学生無年金者からの昨年7月に裁判が提起されたことが大きく影響しているものと思われるが大学生の問題とともに在日外国人の問題も当然に解決されなければならない。(と、ここまで書いて7/28朝刊をみると坂口大臣が大学生の無年金者のみを救済する方針を明らかにしたという。許せないことだ。)
もうひとつの積み残した問題は、同じ国民年金の老齢年金に関する問題である。老齢年金は、20歳以降60歳までの間に25年間国民年金に加入するのが原則だ。従って1982年1月1日に35歳の在日外国人はその後加入すれば25年間お金を払い込んで60歳から老齢年金を受給できることになる。逆に当時35歳を越えていた在日外国人はすぐに加入しても60歳までに25年間加入できないので国民年金に入るメリットがないことになる。その後、これはあんまりだというので、25年間加入できなくても加入した期間に対応する老齢年金が支給される(金額は少ない)ように改訂はされた。しかし、すでに老齢年金が支給される歳になっている在日外国人に一切老齢年金は支給されていない。私は苦労をされてきた在日朝鮮人一世には、普通の日本人の場合よりも増額した老齢年金が支給されてもいいとも思うが一切ない。
この障害年金および老齢年金の積み残された問題の不当性は、1972年の沖縄返還時の扱い、あるいは国民年金法が成立した時の扱いと比較した場合に明らかである。
例えば沖縄返還の時に日本政府は、それ以前の時期に沖縄の人々は国民年金に加入できなかったが、20歳を越えた障害者には障害年金を払わない、あるいは35歳を越えた人は老齢年金が支給されないと言ったか?
NOである。障害者は20歳の誕生日に障害認定をしたことにして救済したし、老齢年金に関しては25年の加入期間を短く調整した。もちろんすでに老齢年金を受給する歳になっていた人には国民年金に加入していなくても(お金を支払っていなくても)特別老齢年金を支給したのである。1959年の国民年金法成立のときも同じである。沖縄返還および国民年金法成立時にはこのような救済措置を行ないながら、1982年の時点で在日外国人に対してはその措置を行なわなかったのである。
●日本政府の難民認定の成績
日本政府による難民条約の国内での発効(1982年1月1日)は、以上のような問題を残しながらも、それまで国籍条項によって在日外国人を排除してきた法律を一挙に改正した。田中宏氏の表現を借りればインドシナ難民およびサミットという「黒船」が日本の外国人排除の法律を一挙に変えたのである。日本政府の主体的な努力というよりは、難民条約平等を謳った難民条約が国内で発効したことにより国民年金法等の外国人を差別していた法律が存続を許されなくなっただけなのである。
さて入管令が入管・難民認定法に法律が変わって難民認定が始まってからの、その実績について評価をする必要がある。難民受入れのあり方を考えるネットワーク準備会編の『難民鎖国日本を変えよう!日本の難民政策FAQ』(2002.6、現代人文社、56〜61頁)によってそのあたりをみてみたいと思う。
表1(省略)は、法務省の発表した認定数である。日本において難民認定の数は徐々に増加しているようであるがどうみたらいいのだろうか。2001年の難民認定数について先進諸国と比較したのが表2(省略)である。桁数をまちがったものでなく、本当に極端に少ないのである。認定数が余りにも少ないという指摘に対して法務省は、「認定率は諸外国に比べて必ずしも低くない」として14.5%という数字をあげている。アメリカ43%、ブラジル27%、ドイツ24%、ニュージーランド19%より低いがイギリス11%、フランス12%より高いというのである。しかし日本の認定数には、異議申立てののちに認定された数も含めていること、そして日本政府が「条約難民」と別扱いしているインドシナ難民の数も含めていることを考慮すると2001年の認定率は、7.6%のなってしまい、認定者の絶対数だけでなく認定率も先進諸国に及ばないことになる。
●むすび
日本政府にたいする難民申請が少ないのは必ずしも日本が島国であるからだけでなく、日本政府の難民を受入れる姿勢に問題があることは今回の瀋陽事件を例にあげるまでもなく明らかである。それに加えて日本の難民認定手続きについての問題点も指摘されている。それは法務省による自己完結的な決定機構にある。難民申請をするのは法務省でありそれを審理するのも法務省である。さらに認定結果にたいして異議申立てがあったときに再審査を行なうのも法務省である。せめて再審査は法務省ではない第三者機関が行なう必要がある。
ドイツでは連邦難民認定庁(前掲本間浩『難民問題とは何か』1990.12によるもので現在の状況とは変わっているかもしれない−飛田)という出入国・難民認定を取り扱う行政庁とは独立した機関が難民認定の業務をおこなっている。ドイツは憲法に難民の受け入れを表明している国で、難民条約の国連審議においても難民の受け入れを締約国の義務とするように主張した国である。前掲本間著によればドイツ憲法にその規程があるのはヒットラーの政治に対するドイツの反省よりはヒットラーの時代に第三国に逃れたレジスタンスのドイツ人らを庇護してくれたことにたいする感謝の念の方が強いという。
一般的に難民は文書類を持参して脱出することは少ないと思われるが、日本では難民認定の立証責任を難民本人に負わせていることが大きな問題となっている。ヨーロッパ各国では難民認定に際して立証責任の大幅な削減等の努力をおこない、アメリカでは、連邦裁判所が判例を通じて積極的な姿勢をとっている。(前掲本間著102〜3頁)
また日本政府の難民認定の問題としていわゆる「60日ルール」がある(入管法61条2-2)。これは入国後60日以内に申請をしなければならないというものだが、昨年難民申請をしたアフガン難民の一部は、この60日ルールにより門前払いの形で申請さえ受け付けてもらえなかった。この60日ルールは撤廃されなければならない。(前掲『国際人権ひろば』所収、土井香苗「難民法改正を!そしてアフガン難民受け入れを!」参照)
また、空港や港で難民申請をした人の身柄を拘束することが行なわれてはいけないし、瀋陽事件のときに英文の手紙で亡命の意志を表明したのにそれを無視するのと同じように難民を空港等で不法入国を理由に入国を認めず即時に送り返してしまうことも大きな問題である。
法務省ホームページの難民問題のところをみれば、難民をどのように受け入れるかという姿勢はみられず、「条約難民」と「インドシナ難民」の違いが繰り返し説明されている。確かに条約難民は難民条約により難民認定された人で、インドシナ難民は難民条約の精神を受け継ぎながらも難民条約(日本国内では入管・難民認定法)によらない広義の難民をさしている。インドシナ難民の場合にはサミット等での圧力をうけた日本政府が英断をして受け入れを表明したものだ。7月27日の新聞発表によると日本政府は条約難民についてもインドシナ難民受け入れ時の定住促進センターのような施設の設置を検討しているようである。それは結構なことであるが、現在の日本政府の問題は、インドシナ難民の問題を例外視しようとするところにある。インドシナ難民は大量に発生したことから世界各国が共同してとりくみ、条約難民に必要な手続きを必要としない形で受け入れを行なった。日本政府は消極的であったが1989年ジュネーブでインドネシア難民国際会議で採択されたインドシナ難民も条約難民に準ずる難民として審査を行なうとした「包括的行動計画」がだされて日本政府もそれに従った。しかし逆にアフガン難民の場合は、例外視することなく従来どおりの高いハードルをもうけて条約難民として受け入れるかどうかの審査を厳格に行なっているのである。例外をインドシナ難民だけにとどめようとする姿勢を改めさせなければならない。
東アジアの情勢がどのように変化するか分からないが、万一、朝鮮半島からから多くの難民が日本に来ることになっても、当然インドシナ難民の受け入れを行なった姿勢で日本政府は臨むべきである。
日本は憲法の前文で「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳っている。
この精神を実現させるためにも日本政府の難民政策は大きく改められなければならない。