『むくげ通信』182号(2000年9月)

「故郷の村(サハリンからの帰国者住宅)」を訪ねて 北原道子

 7月初めの韓国は、チャンマ(梅雨)だというのに異常な暑さだった。サハリンからの永住帰国者住宅はソウルの郊外安山市にある。地下鉄4号線が国鉄と相互乗り入れをしている、安山線の「漢大前」の駅前に広がるアパート団地の一角だ。ソウルの中心から1時間あまり。コトコトと揺られてようやく着いた。アパートの外壁に大きく「故郷の村」と書かれている。全部で8棟ある(写真左)。
 私は、3月半ばにサハリン州ドーリンスクから帰国された呉昌禄さん御夫妻に会うために、ここを訪ねた。
 呉昌禄さんは、旧満洲国新京市に関東軍と満洲国政府が建てた建国大学の学生の時に、学徒動員された。
1944年1月、関東軍に入営した後、部隊の移動の途中、幹部候補生試験に合格し、小樽から訓練のため樺太へ渡った。1945年8月、日本の敗戦後、所属部隊はソ連軍の攻撃を避けて、中隊長の決断で自己武装解除。「軍人」のまま抑留されていれば、あるいは帰国できたかも知れなかったのだが、「民間人」となってそのまま帰国できず。50年余りの間サハリンに留まった。1990年以降、韓国と手紙のやり取りができるようになり、弟さんから手紙が来てようやく消息が知れたという。
 私は、
199811月に呉昌禄さんを訪ねて初めてサハリンへ行き、昨年の8月にもお訪ねした。その時に「韓国へ永住帰国する」と聞かされたのである。
 サハリンからの永住帰国は、日本政府と韓国政府が資金を出して帰国者住宅を建て、今年2月初めから3月にかけて、約
500世帯、1000人ほどを受け入れるというものだった。
 ここは新興地のようで、駅前にはなにもない。緑もほとんどなく陽射しは暑かったが、心無しかソウルより涼しく感じられる。前日の電話で、一人で行けるから、と言ったのに、体調のすぐれない呉昌禄さんに代わって、サモニム(夫人)が駅まで迎えに来てくださった。1年ぶりの再会である。駅の階段がくらくらする、とずっと私の手を握っておられた。韓国人の親子のように、アパートまでそうして歩いた。
 アパートは新しいだけあって清潔で家具なども新しく整えられていた。広さはそれほどではないが、お二人で暮らすにはほどよい広さに思われた。扇風機の風が涼しさを運んでくれる。ソウルよりましだ、と私が言ってもサモニムは信じられないというように、暑い暑い、と連発された。3月にサハリンから来られて初めての夏。サハリンとは比べ物にならない暑さだ。韓国の夏を初めて体験した私でもバテ気味だったのだから、お年寄りには凌ぐのはしんどいだろうと、思われた。
 呉昌禄さんにお話をうかがっていると、「ねえさん、ねえさん」と言って、一人のハラボジが訪ねて来た。同じ、棟に住む李用圭さんという。李さんを交えて、韓国での生活の話になった。生活費は、韓国政府から
50万ウオンほど支給されるという。失礼を承知で、足りますか?と聞くと、切り詰めればなんとかやっていける、という返事だった。呉昌禄さんはサハリンで得た病いのために病院通いをされていて、6月には入院もされたそうだが、その費用も保険だから安くて済んでありがたい、と言っておられた。だが、李さんは、ついつい子どもたちにいろいろ買ってやって使い過ぎた、と言う。サハリンから子どもが訪ねて来てちょうど帰ったところなのだそうだ。ソウルの知り合いは、50万ウオン?1人で?2人だったら全然足りない、と言っていた。


うしろが呉昌禄さんご夫妻、前列が李圭用さん

「東亜日報」には、帰国者の要件は65歳以上で同伴者は1人まで、とあった。子どもや孫は一緒には来られない。「新たな離散」と報じていた。短期訪問も旅費のことを考えれば、なかなか難しいだろう。呉昌禄さんは、サハリンで10歳くらいの男のお孫さんと一緒に暮らしておられた。息子さんが遠くへ働きに行っているので、世話をしているのだという話だった。サモニムは最初、しょっちゅうサハリンへ電話をして8万ウォンもかかってしまってびっくりしたという。それからは電話も控えるようにしているそうだが、それもつらいことだろうと思われた。
 子どもが親を頼って、サハリンから短期で働きに来るケースもあるという。呉昌禄さんも子どもさんが働きにくることを希望されているようだが、サハリンでは8時間労働で、韓国は長時間労働だから難しいのではないか、と言われた。
 お話を聞いていると、突然天井の方から声が聞こえてきた。扇風機をまだ、買っていない人は事務所に届けるように、とのお知らせだった。届けるとお金が支給されるという。時々、このようなお知らせが流れる。午後には、病院への送迎の案内があって、2時にどこそこへ集合と言っていた。管理事務所があっていろいろ世話をしてくれる、ということだった。「東亜日報」にはボランティアも含めて何人か、常駐しているとあった。
 李用圭さんはサモニムのことを、おばあさんたちが集まっては、べちゃべちゃとしゃべりまくって、とからかう。サモニムは、サハリンでは庭でいろいろ野菜を作っておられた。白菜やキャベツやとうもろこしなど丹誠されていた。ここでは、そんなこともできない。「ヨンガム(主人)が身体の具合が悪いので、どこへも行かない。ソウルへも行っていない。親戚には、訪ねて来てくれて会った」という。サモニムにはそんなおしゃべりが慰めになっているのかも知れない。サハリンでの知り合いが多いのが救いだ。同じ帰国者同士、助け合って暮らしているのだろう。この日、李さんも呉昌禄さんに新聞を届けに来られたのだ。近くの湧き水を汲みに行ってあげよう、とも言っておられた。 
 李用圭さんとサモニムは同い年だという。
69歳だというから呉昌禄さんより10歳は若い。3歳の時に樺太へ渡った。日本語の通訳の仕事をしていたという。韓国では日本語ができる人が沢山いるから仕事がない、と言われた。
 待ちわびたであろう祖国での暮らし。だが、気候風土が違い、食べ物も違い、家族と遠く離れての暮らし。「東亜日報」には祖国とはいえ、生活の異なる地での暮らしに戸惑う様子が報じられていた。問題点ばかりが書かれていて、読みながらいささか違和感を覚えたのも事実だ。けれども、「韓国人の中には、自分たちを乞食だという人がいる」という話を聞けば、距離感のある報道もなるほどと複雑な思いにとらわれた。
 私は
25年ほど昔、「樺太抑留帰還者同盟」の会長をしていた朴魯学さんを東京足立区の引揚者住宅に訪ねたことがある。サハリンからの手紙の束を見せられて、これだけの人たちが帰国できないでいる、という話を聞いた。あの時に帰国が実現できていたなら。これまでの多くの人たちの膨大な努力があったからこそ、実現した帰国だということを知りつつも、そしてその努力には敬意を払いながらも(私は何もしてこなかった)、そう思わずにはいられなかった。冷戦と日本政府のかたくなさがずるずると解決を遅らせたのだ。そして、流れた歳月は取り戻すことはできない。日本の植民地支配はとりかえしのつかないことをしたのだ、と今さらのように思った。
 呉昌禄さんご自身は、帰国してよかった、と言っておられた。2年前には確か、帰らないと言われていたが、「もう年だし、大勢が一遍に帰る機会だったし」という。すべてを忘れて老後を心静かに過ごしたいという呉昌禄さん。だが、李用圭さんは、呉昌禄さんのことを「痛ましい人だ、もう一度、人生をあげたい」と言った。
 私は、夏の陽射しの降り注ぐ、明るい窓辺にかけられたレースのカーテンが風に揺れるのを見ながら、サハリンで垣間見た人々の暮らし振りを思い出し、複雑な思いにとらわれていた。 

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