『むくげ通信』181号、2000年7月30日

金英達さんの思い出

 さる4月25日、むくげの会会員の金英達さんが亡くなられました。彼の存在が会にとって大きいものであっただけに、私たちのショックは大変なものです。彼が『むくげ通信』に発表した論文等の一覧表を巻末に付すとともに、会員の「思い出」を綴ることにしました。

英達さんとの思いであれこれ/堀内 稔

「きっと何かあったに違いない」。金英達さんをよく知っている人はみんなそう思った。5月7日の在韓華僑問題研究会の集まりに、世話役だった彼がついに姿を見せなかったからである。こんなことは彼の性格からして考えられないことであった。事件のことはその2日後の朝刊で知った。その後半月ほど勉強する気分になれず、ボーッとしている時間が増えた。ボーッとしている間に、英達さんとの思いでのあれこれが浮かんでくる。
 英達さんとのつきあいは長い。むくげの会ができたのが1971年1月。彼が参加するようになったのは確かその4、5年後と記憶している。当時は勉強会に毛の生えた程度の活動であったが、それでも数年間の知識の蓄積は大きく、新たに参加しにくくなったとの声もあった。しかし、彼は参加してまもなくそれまでの会員の水準に達し、そしてすぐに凌駕していった。センターのロビーで本を読んでいて、「これで入門的な本はすべて読み終えた」と言っていたのがいまだに印象に残っている。
 彼の文章では、『むくげ通信』の人物朝鮮史に書いた「ジュリア・おたあ」が印象的であった。私には思いもよらない人物の選択(つまり視点)、たくさんの参考文献。後の彼の研究姿勢をほうふつとさせるものである。おたあの名前の由来で、ほんまかいなと思うような説の注を見ると、これは私の勝手な想像と書かれていた。こうしたユーモアのセンスもあった。
 彼が初めて(と思う)私のアパートに来たときのこと。本棚をざっと見てどんな本を読んでいるのかの「調査」は誰でもやることであるが、やがて本棚のそばにどっかり腰を据え、パンフレットの類までいちいち引っ張り出してチェックしているのには驚いた。いま思えば、どん欲に資料を探す彼の性格がよく現れている。おかげで、ありがたい思いをしたことも多い。思いもよらない資料を探し出し、提供してくれたからである。
 彼が亡くなる少し前、300枚以上のコピー資料をもらった。『中外日報』の在日朝鮮人関係の記事である。これだけの量をコピーするだけでも大変だ。最初は兵庫県関係の記事だけをコピーしてくれたのだが、大阪の分もほしいといったら結局全部してくれた。後で聞くと、何人分かのコピーをしていたとのこと。研究のためには労を惜しまない人であった。
 彼の研究対象は幅広いものだったが、主要なテーマは「帰化」、「指紋制度」、「創氏改名」と移ってきたように思う。最近では「創始改名の研究はライフワーク」などと言っていた。事件後、彼のマンションで創氏改名の資料が段ボール2箱ぐらいにぎっしり詰まっているのを見た。最近どこかの研究会で、彼がこの段ボールに入った資料を「必要なら貸してあげる」といっているのをそばにいて聞いたのだが、彼が誰と話をしていたのか思い出せない。
 その昔「帰化」を研究していたときの話。朝鮮人帰化者の数を調べるために、「官報」をくったという。そのため、わざわざ何度か東京の国会図書館まで行ったそうだ。後で、「官報」ならどこでも見ることができたと苦笑していた。
 『むくげ通信』をつくるときには、はさみや糊など必要な道具一式をケースに入れて家から持ってきていた。だからすぐに作業に取りかかることができた。もうそんなこまめな人はいない。また、『通信』の誤字や間違い探しの名人でもあった。彼に目を通してもらえば、ほぼ間違いはなかった。某飛田氏など、通信作成の日に原稿をしあげる人にとっては重宝だったようだ。
 なかなかのアイデアマンで、最近の『通信』でいえば「書誌探索」、「むくげ食道楽」のコーナーは彼の発案である。神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会のニュースの題を決めるとき、彼は「いかりのいかり」を提案した。スタインベックの小説「怒りの葡萄」にひっかけての提案で、最初はみんな笑っていたが、最終的にはその半分だけを取り入れて『いかり』ということに決まった。
 彼とはむくげの会のほか、青丘文庫の研究会、最近では神戸港−調査の会、在韓華僑問題研究会などで行動を共にした。このうち青丘文庫の在日朝鮮人運動史研究会では、次のような思い出が残っている。
 よくあることだが、予定していた発表者が急に出席できなくなって、彼が代役を引き受けた。昔は今のように在日と民族の2つの研究会が同じ日ではなく、参加者が少ないことも珍しいことではなかったが、その日出席したのは発表者の金英達さんと私の二人だけだった。しかも、発表の内容はすでにむくげの会で報告されたものであった。結局、30分ほど雑談し、研究会をしたことにして帰った。
 これら研究会で、当然いるべきはずの人がいないのは、何かポッカリ穴があいたような気分だ。誰かも言っていたが、ボーッとしていると「遅くなってごめん」といって彼が入ってくるような錯覚に陥ることがある。

朝鮮語講座の同期生/信 長 正 義

彼との最初の出会いは75年から始まった神戸学生青年センターの「朝鮮語講座」第1期生として学び始めたときである。恐らく彼は途中から入ってきたものと思われる。非常に大人しくそれ程目立つ人ではなかった。彼は年齢的には歳をとっていたが大学で法律を学ぶために神戸大学に入学したばかりだったように思う。即ち、彼のその後の人生を形付ける「種子」を蒔きはじめたときで、それほど飲めなかったし、饒舌ではなかった。
 その後私自身は会社の仕事に精を出したり、お付き合いも盛んになったので朝鮮語講座を落第した。従ってその頃の彼についてはほとんど知らない。恐らく真面目にこつこつと勉強していたことであろう。
 私は82年に「むくげ通信」の一読者から会員になった。それは自分の研究したものを発表すると言うようなものでなく、皆から教えてもらい、知識を得たいと言うのが目的であった。ただ一つの関心は、韓国において何故キリスト者が多いのか、そのことを是非知りたいと思っていた。そして私より少し遅れて彼も会員になった。恐らく彼は30代の半ばでなかったであろうか。これから油が乗る時期であった。
 彼は「むくげ通信100号」で次のように書いている。「 ちょうど朝鮮史セミナーは、在日朝鮮人問題をテーマにとりあげており、私の内面的欲求と合致して、月一回の講師の話は、砂に水がしみこむように心の糧となった。むくげの会にも入会させてもらい、週一回の勉強会は楽しいものだった。‥‥私が、朝鮮について学習をはじめたときにむくげの会に出会えたのは、とてもラッキーなことだったと思っている。これからも、会の周囲にくっついて勉強を続けていきたいと思っている。」と。そして文字通り勉強を続けていくのである。
 彼の感受性の豊かさと、研究への熱意は「むくげ通信」の文中や、発表のはしばしに見られるようになった。それはやはり40代になって顕著に表れるようになった。同時に「会の周囲にくっつく」のではなく、真中に居座るようになった。それはごく自然の成り行きだったと言えるだろう。
 彼は研究者として大成し様々な分野で活躍していた。会員の誰かがある研究をしていると、それに関する資料を見せたり教えたりする優しさを持っていた。しかし、我々の発表で、引用した資料の数字が本当に正しいのかどうかをどのように調べたのかと厳しい面も持っていた。彼の得意とした「創氏改名」で創氏がもう一つ分からない我々に一生懸命に説明してくれた姿は忘れられない。
 (写真は朝鮮語講座第一期生。金英達氏は真中の列の右端。1976年写す)

金英達さんとの出会い/飛田 雄一

金英達さんとの付き合いは長い。彼が神戸大学の2課程に入学してきた1973年ごろからだろう。むくげの会は1971年1月に作られて当時から朝鮮語講座を始めていた。『むくげ通信』に彼の文章が最初に登場するのは26号(1974.9)でそのテーマが「朝鮮語を学びはじめて」だから、おそらくその朝鮮語講座にも通っていたのではないか思うのである。不確かな記憶だがその後、あまりにもいっしょに仕事をすることが多くて最初のことが思いだせないのである。
 当時、生協のトラック運転手をしていて、彼らしく「トラックを運転するときは基本的に車線変更はしない」と言っていたのを覚えている。私が引っ越しをする時に彼が運転してくれたこともあるが、路地裏の細い道をバックで入るその腕前はたいしたものであった。
 彼の学問に対する態度はまじめなだけではない。体系的なのである。当時前人未到の「帰化制度」の研究も、ある講演会での田中宏先生の「朝鮮人帰化者の数を調べるには官報の名前をチェックするしかない」という発言から始まった。ドグマを排して客観的に分析を行ない独自の結論を導いている。自身が東京の新宿高校時代に帰化したことがその研究の動機となっていたことは間違いないが、研究はあくまで学問的であった。
 『むくげ通信』に「在日朝鮮人に対する帰化政策について」を連載したのが、40号(1977.1)から43号(1977.7)まで計4回。それをもとにして大学の卒業記念論文として自費出版『在日朝鮮人の帰化−日本の帰化行政についての研究』(1980.1)だ。1978年から86年夏ごろまで一時休会していた。かつてのむくげの会は「日本人の立場から朝鮮語・朝鮮史を学ぶ」をスローガンとしていたが、その「立場」に違和感をもっていたのかもしれない。復帰後の彼の活躍は、ご存知のとおりで会のホープであった。
 彼は自身の「帰化」について多くを語らなかったが、ひとつ印象的なことがある。民族差別と闘う連絡協議会のいつかの大会で、当時代表の李仁夏牧師が、在日朝鮮人の主体性をテーマに講演され、その時、主体性のない朝鮮人の代表として帰化した朝鮮人のことを何度も話されていたことには珍しく「怒って」いた。
 金英達さんと研究会をいくつもしてきたが、「GHQ文書研究会」というのも何年間かした。1989年7月9日、富坂セミナーハウスでの「『GHQ文書と在日朝鮮人』研究のための交流会」を金英達、R・リケット、岡崎勝彦と私がよびかけた。竹前栄治先生も参加してくださり励ましてくださったことを覚えている。連絡先を金英達さんの芦屋の家にして『在日朝鮮人関係GHQ文書研究』という冊子も4号(1991.2.20)までだした。第5回研究会(1991.2.15、早稲田奉仕園)、第6回研究会(1992.6.28、神戸学生青年センター)の案内状までが手元に残っている。おそらく90年代は「強制連行」研究の時代に入って自然消滅したと思うが、この間彼はむくげ叢書の1冊目として『GHQ文書研究ガイド−在日朝鮮人教育問題』(1989.7)も出版している。
 強制連行の資料集も二人で学生センター出版部から5冊(1990年版〜1995年版)出したが、作業の分担は主に収集・整理は彼、コンピュータ仕事・事務連絡が私という具合だった。共同研究者として彼ほどステキな人はいない。仕事はする、ひとりじめはしない、冗談が結構おもしろい、具体的プランをだすなどなど。(「冗談」では、朝日新聞「中島らもの明るい悩み相談室」に「芦屋の埋立地の古墳」の悩みを娘の名前で投書したりもしている。その後中島らもの単行本にも収録されているが、照れながらその話をしてくれたのを覚えている。)
 そしてこのほかにも青丘文庫の「在日朝鮮人運動史研究会関西部会」「朝鮮民族運動史研究会」など研究会をしたが、たえずネタをもっているのは彼で、「私はピンチヒッター専門です」と自身で冗談をいったりしていた。
 この間、彼がいたからこそできた仕事が多い。その彼が亡くなったことの痛手は、私にとって計り知れないほど大きい。彼の替わりはできないが、彼がやりたかったができなかったことの一部は、やってみようと思う。

もうちょっとで一緒に古代史だった/寺 岡  洋

1〜2週遅れの東亜日報をざっと見て、しかるべき記事が載る紙面をバリバリと外し、むくげの会員に配るため会員さま封筒に収納するのは私の重要な仕事である。もっとも量の多いのがヨンダルさんだった。なにしろ守備範囲が広いし、ヨンダルさんならきっちり整理されているから配達しがいもある。
 ここんところ、北朝鮮がらみの記事がどっと増えている。それも今まで目につかなかったような実話・裏話のたぐいもある。それに、ヨンダルさんがいちばん関心をもつ民法改正の記事も3本も出た。あ丶、もったいないなーと思いながら、そのままにして次の紙面に移る。
 むくげ通信に書いている「風土記散歩」に、いろいろな質問をしてくれるのもヨンダルさんが多かった。あの風貌に、諧謔をないまぜた口調で。ていねいに読んでもらい、その上、反応していただける人ほどありがたい存在はない。ヨンダルさんがつまずくような術語を、自明のこととして使うのははなはだ芳しくない。
 また、ヨンダルさんが広く目をとおす資料のうち、私の好みそうな領域の資料をコピーして渡してくれる。このサービスには、私よりもっと世話になった人も多いはずだ。写真もたくさん写してもらった。写してもらうばっかりで、写す機会がなくなってしまった。
 このところヨンダルさんは以前に較べ、格段と古代史に関心を深められてたようだ。古代山城の高安城についてたくさん質問されたことがある。古代史の領域に足を踏み入れかけてたのに。絶筆は王仁(わに)をめぐる話と聞く。今号に堀内さんがヨンダルさんの資料を使って王仁について書くとのことで、ゆくゆく私も驥尾に付し、散歩で取り上げ香華にかえたい。
 ヨンダルさんが事務局をされ、来春出版予定の『兵庫のなかの朝鮮―歩いて知る朝鮮と日本の歴史―』を一緒にやっておれば、すでに定評ある編集者として適切な批判や助言を受けることができ、きっと内容が違ってただろう。悔やんでも仕方ない。この晩秋までに、ヨンダルさんを思いできるだけのことはしなくては。

金英達さんを偲んで/山根 俊郎

「英達さん。最近僕は、韓国のこんな事に興味をもっているんですが‥‥」と水を向けると「ほー。それはおもしろいですね。ぜひ、一度むくげ通信に書いたらいいです」と答えてくれた。会えば会うほど人間味の出てくる人であった。
 むくげの会(1):私の出世作となった初めてのメイン論文である『朝鮮歌謡曲の歴史』の1回目の時、当時私は尼崎市のボロアパートに住んでいた。印刷の前日である1977年9月24日(土)になっても未だ一行も書けなかった。その切羽詰まった状況の時、彼が夕方にフラーっと私のアパートを訪ねて来てくれた。一緒に近くの食堂に行き夕食を食べてから文字どおり付きっきりでガリを切ってくれた。私が原稿を書くとすぐガリを切ってくれた。私が3時過ぎに原稿を書き上げても徹夜でガリを切ってくれた。ありがたかった。自信がついた。その後の私の研究テーマである『歌』に邁進するキッカケを作ってくれたのである。(『むくげ通信』44号1977. 9.25メイン『朝鮮歌謡曲の歴史』(1)6頁分参照) 
 私生活(1):1981年頃、私もまだ未婚で西鈴蘭に住んでいた頃の事である。
 当時、金英達さんは国道2号線の灘高校の少し東の元病院のボロアパートに一人で住んでいた。私が遊びに行って北朝鮮の歌のテープを聞かせてくれた。そのテープを借りて帰ろうとした時、何気なく明日の朝に出すつもりでドアの隅にあった青色のビニールのゴミ袋を見た。そのゴミ袋の中に使用済のコンドームを発見した。帰り道で「なかなか金英達さんもやるなぁー」と感心しながら帰った。その数ケ月後の1981年9月12日に宝塚教会で辻牧師の主礼で八巻貞枝さんと結婚した。
 むくげの会(2):1989年約1年をかけて拙著『カラスよ屍を見て啼くな』を出版した時、よくアシストしてくれた。国立国会図書館に2人で行き資料を探した時は、私も研究者になったような気がした。
 私生活(2):1990年代前半、阪神電車芦屋駅の南側の喫茶店の2階に子供2人を連れて来てよく会った。子供たちは父親によくなついていて金英達さんから離れなかった。
 むくげの会(3):1990年代、「むくげ通信」の印刷の時、いつも遅れて行って恐縮している私を温かく迎えてくれた。焦る私を尻目に写真や楽譜をきれいに貼ってくれた。(『むくげ通信』 151号1995. 7.23メイン「『追悼歌』の歴史的考察」参照)
 むくげの会(4):1995年1月15日むくげの新年会で淡路島に行った時、水仙郷に車が着いた時、みんなは小高い丘に登っていった。当時、私は足を悪くして歩行が困難であった。そんな私に金英達さんは気づかってくれて手を引いてくれた。うれしかった。(『むくげ通信』 148・ 149合併号1995. 3.26「むくげの会−1994〜1995」写真参照)
 私は、金英達さんと初めて会った時の事は覚えていない。しかし、いつのまにかかけがえのない大きな存在になっていた。彼がせっせとどこから収集したのか何度も貴重な資料を郵送してくれた。頑張って良い論文を書きなさいと励ましてくれた。彼のおかげていつでも学問的な様式(論文)に整える能力が私にも備わったような気がする。まだ資料の整理方法が未熟で部屋に野積みになっていますが。金英達さん!あなたの冷静な見方、考え方と真摯な資料収集の方法を見習い、私も一生懸命に頑張ります。一生懸命に生きます。

「創氏改名」について/佐々木 道雄

 私は以前、朝鮮の伝統的家族制度について勉強していた。英達さんは日本の帰化制度、韓国の家族法、そして創氏改名など、家族に関連する精力的な研究をしていた。しかし、私と英達さんとは家族制度に関する話をしたことがなかった。私は以前からその点についてもどかしさを感じていた。
 この機会に、英達さんの研究成果の一つである創氏改名について、少しだけ私見を述べてみたいと思う。
 英達さんの『N0といえなかった「創氏」』(「むくげ通信 169号」)には、

「創氏」とは、朝鮮人になかった家(いえ:同一戸籍集団)の名称である氏(うじ) を創設すること。
 「改名」とは、新しく作られた「氏」(家単位)や各人の「名」(個人単位)を日本人風にすること。

とある。難しい。
 英達さんのように、朝鮮の家族と日本の家族を必然的に体験している場合は、経験的に両者の違いを理解できるのかもしれない。しかし一般的には、日本人は日本人の家族や親族の仕組みについて無自覚にどっぷり浸かって生きており、朝鮮人は朝鮮人で同様の状況だ。自分のことだからなんとなく分かっているように錯覚するが、実際はまるっきり理解できていないことが多い。
 そこで、家族制度について少し解説してみよう。
 日本人の伝統的な家族や親族の仕組みとは、一つ一つの〃家〃を継ぐことを原則とする制度である。それぞれの家の継承が優先されるので、子がなければ養子を迎えるし、養子に行くことにより兄弟の苗字が変わることになるが、それに少しも頓着しない。この〃家〃の名が「氏」である。「氏」はだから〃一族〃の名ではない。
 朝鮮人の伝統的な家族や親族の仕組みは、血筋を守ることであり、それも、共通の祖先を同じくする一族(〃同族〃)の繁栄が重視される。この〃同族〃の名前を「姓」と呼ぶ。養子制度はあるが、血族のしかも最も近い血筋のものから選ばれる。帰属集団(同族)から離れて養子に行く(「姓」を変える)ことなどあってはならない。
 植民地・朝鮮における「創氏」とは、日本の伝統的な〃家制度〃を朝鮮に持ち込むことであった。さらに、「改名」により日本風の氏名に替えさせられた。
 家族制度は、単に家族だけのものではなく、人間関係、祖先崇拝などの信仰、経済や政治社会と相互に関連しあって形成されてきたものだから、これを一気に変えることは、社会の、そして民族の危機になる。その結果、祖先に申し訳が立たないといって自殺する人が出てくる。
 しかし、為政者である日本人は事の重大性を理解していなかった。空気のごとく当たり前の制度を取り入れるのに、何の不思議があるのかというのである。さらに困ったことに、今日の多くの日本人も、こうした矛盾を未だに理解していないように思われるのだ。
 これは「創氏改名」に限ったことではない。赤の他人に対し、自分の価値観で行動しなさい、さもなくば投獄するぞ、というようなことをしているのだが、当の本人は今日に至っても、当たり前のことをしただけであり、また、朝鮮に対し良いこともしたのだ、といってはばからない。
 「創氏改名」とは、過去の過ちであると同時に、今日の日本人の民族問題に関する認識の欠如を説明できる恰好の材料といえるのではなかろうか。英達さんともそうした話をするべきだったと、今になって思うのだ。

金英達君を想う−哀悼の意を表しつつ/佐久間英明

さあ、今日(5月9日)は、むくげの会で、私が発表する日だ。いつものように新聞受けから、新聞を取り、国際面を見た。韓国と北朝鮮の出来事を見るためだ。次になにげなく一般社会面を見た。眼鏡を掛けていなかったし、寝起き直後であったために、頭はぼんやりしていた。なにげなく、見ると関西大学講師・金英達君が死んだという記事を発見した。我にかえりびっくりしてしまった。
 なにがなんだか、分らないまま、会員の仲間に6時ころやつぎばやに、連絡した。皆一同にびっくり仰天したのであった。その日も、通常通り勤め先にでかけないといけないので、出かけて仕事はしたが、頭の中は金君になにが起こったのか、どうして起こったかがわからないままであった。そして、その日の夕方、会員一同集まり、金君の最近の状況に詳しい人から、おおよその事情を聞いて、すこしは理解できた。しかし、私には無念と空しさが残った。
 彼の死を知ってから、私は不思議に彼の結婚式のことを思いだした。
 彼の結婚式は宝塚の教会で、我々むくげの会のメンバーも出席した清楚で心のこもったさわやかな良い結婚式であった。新郎の彼は無口だが、誠実なタイプで、新婦の彼女も口数少ない清楚な女性でお似合いの夫婦であった。その時のよい印象が私の脳裏に深く残ることになった。
 その後もむくげの会で一緒にいた。
 彼は誠実で、文章も序論または総論は壮大、各論貧弱といった龍頭蛇尾的で中身の無い文章ではなかった。彼は在日朝鮮人の歴史をテーマにして、帰化問題や創氏改名の研究を行った。
 中国の朝鮮族のある人が、私の名字は朴で、中国社会ではすぐ朝鮮族と判ってしまうのですというのです。中国人(漢民族)には朴という名字の人はいないというのである。ふと私は、民族固有の姓名に強い誇りを感じる朝鮮人になぜ、金や李など中国人と同じ姓名の人が多いのだろうかと考えた。高句麗時代に活躍した武将・淵蓋蘇文や乙支文徳など朝鮮古来の名字がもっとあっていいと思うのだ。また、朝鮮人の女性の名前に日本式○子が多いのも以前から不思議に思っていた。日本式○子も創氏改名の影響なのか?朝鮮解放後、中国姓や日本式姓名駆除運動があったのか、創氏改名の研究をしていた彼にそのことについてもっと早く聞いて置くべきだった。
 むくげの会ではいつも、私が一番早く冥界に行くから身辺整理をちゃんとしておかなくては、と冗談話をしていた。私が冥界に行けば既に冥界にいる人々に出会い、多くの歴史的事件や事実を問いただすことになっているのである。もちろん、現世の皆さんの朝鮮史研究を援助したいという気持ちからである。
 運命とはわからないものである。金君が先に行くことになった。
 彼の冥福を祈るのみである。

むくげの会『むくげ通信』総目録