『むくげ通信』180号(2000年5月) PDFファイル
神戸学生青年センター韓国「民草」ツアー第2弾
済州島「4・3+ハルラ山」2000.5.4〜5.8/飛田雄一
朝天邑北青の虐殺現場、右から7人目が李在厚さん
私の今年のツアコンは済州島だ。学生センターでは韓国「祭」ツアーを96年から始めて、江陵端午祭(96年)、公州百済文化祭(97年)、珍島霊登祭(98年)と3回行なった。この中で私のいち押しは端午祭。祭りそのものといえるムーダンも正当に位置付けられているし、祭りとしての賑わいも抜群である。その次は、海割れの珍島。一見の価値は充分にある。百済文化祭はいまいちであった。
「祭」ツアーにひとくぎりをつけて昨年より「民草」ツアーを始めた。「民草」は80年代?に韓国で雑誌の名前にもなったもので、踏みにじられても強く生きる民衆のことだ。この民草をツアーの名前としたが、この言葉は日本語の辞書にも民衆の意味だと載っていた。昨年は「東学の道」、そして今年は1948年の「4.3」済州島人民蜂起のあとを訪ね、韓国の最高峰・ハルラ山にも登ろうというツアーだ。
一行12名は20代から70代まで、女性7名に男性5名、カップルが2組。今年のゴールデンウィークは「2000年問題」の余波と韓国でも連休となったため、飛行機の確保に難渋した。結局同じ飛行機はとれずに1班6名は大韓航空、2班6名はアシアナ航空。いずれも往路はソウル経由で、2班は復路もソウル経由となってしまった。
1日目(5/4)夜、済州市に全員集合。まずは豚の焼肉だ。サムギョプサル(豚のあばら3枚肉)は私の大好物だが、純粋の済州種の豚は「5枚肉」だそうだ。大満足の夕食で、ツアー常連も初参加組もすぐに仲良くなった。ソウルからかけつけてくれた案内人の金在一牧師から、人民蜂起の概要をうかがう。「済州島は観光地も含めてすべてが4.3の遺跡ともいえるので、歴史の勉強と観光をいっしょにすることになる」とのこと。2次会はさっそくカラオケで大騒ぎ。最近の韓国でのカラオケには日本の歌がたくさんある。金大中大統領の開放政策の影響なのだろうか。今回は4日間とも済州市内の同じホテルなので気持ちが楽である。
2日目(5/5)は、朝天邑の4.3の跡を訪ねた。まずは北青。300世帯、約1000名の村で360名の犠牲者がでたところで「無男村」ともよばれたという。そこで済州島4.3事件民間人犠牲者遺族会朝天支部会長・李在厚さん(61)からお話しをうかがった。小学校横のちょっとした広場にお墓のようなものがあったが、そこでゲリラの「関係者」が連座制的に集められて射殺されたという。
次に山の中にあるゲリラが立てこもった洞窟をたずねることにした。面事務所でたずねると案内してくださるという。その先導車はなんと消防車だった。我々は大変恐縮したがその車についていった。済州島は火山島で水はけがよすぎて稲作にも不向きだ(耕地の5%だけが田んぼ)。山に入っていくとそのあたりはせいぜい放牧地として利用されているぐらいだった。面事務所の方と途中で会った軍人も手伝ってくれてその洞窟を探した。入口は一人がやっと入れるくらいで、そこで多くの人々が虐殺されたという。旧左邑のウォルラン峰(382M)のすぐ北だ。結局探しだせなかったが、山にたてこもって闘った雰囲気を感じさせるに充分だった。
午後は観光コースの日出峰だ。途中、ものすごいまさに絵葉書そのままの菜の花畑があった。背景にハルラ山も見えて抜群だ。すると入場料が1000ウォン(100円)だという。なんでも油用の菜の花はもうシーズンが終わっておりこの菜の花は観光用に作っているのだという。なっとく?して畑に入り、思い思いに記念写真をした。済州島新婚旅行の定番のようであす。また途中の牧場で乗馬姿を見るとメンバーから「乗りたい!」の声。それじゃ、と若者中心に馬に乗る。日本によくある観光牧場より本格的な乗馬だ。紐をひいてもらってかなり乗ったあと、1周200Mくらいの馬場にきたら、馬が調教士の掛け声を聞いて走りだすのである。すぐに歩きだしてしまうが、リズムよく乗っているとかなりの距離を走るようだ。また途中で鞭でもたたくとまた走りだすようだ。ようだ、というのはツアコンの私はカメラマンに徹して乗れなかったのである。
日出峰は、坂がきついが本当にすばらしいところだ。イルチュルボンエ‥‥という朝鮮語講座で習った歌を思いだす。
3日目(5/6)は、西地区に出かけた。韓国で一番高い道路の1100高地を過ぎてコリンサスム展望台にきた。天気がよくて西帰浦も山房山もよく見える。金牧師によるとこのあたりに4.3司令部があったという。本にそのように書いてあるが実際の場所は私には分からないと金牧師。おそらくもう何年かしたら看板もある「遺跡」となっていることだろうと思う。
南西部の大静邑では大静教会の方に案内をお願いして4.3の跡をたずねた。南西部はゲリラの有名なリーダーがおり、闘争が激しかった分だけ弾圧も激しかった地域だ。日帝時代に日本軍が作った弾薬庫でゲリラがダイナマイトで殺されたという。犠牲者のお墓は朴正煕がクーデター後に破壊したが、現在はその当時破壊された石がその説明板ととも残されている。またその地域に日本軍は飛行場をつくり、米軍の攻撃に備えた。特攻の木製飛行機の格納庫が今も10数個残っている。また、観光地の松岩山に行くと海岸に人間魚雷用のトンネルが15個残っていた。結局利用されなかったが、敗戦のときにはレールもひかれていたという。
日本軍が作った飛行機の格納庫跡
4日目(5/7)はハルラ山登山だ。私は10数年前に1950Mの頂上まで登ったことがあるが、今回は工事中で1700M高地までしか登れない。東からのコースを登ると頂上にたてるが、私たちには無理だった。私たちは登山道が短くハイキングコースとしては手ごろな霊室コースを登った。自然の奇岩・五百羅漢も迫力があった。一面が染まるというチンダルレ(山つつじ)も麓ではよく咲いていたが、山ではまだ少し早かった。コースはよく整備されていて迷うことはない。
登り1時間50分とかいてあるコースを我々はその2倍くらいかけて登りハルラ山を堪能。韓国でハイキングといえばキュウリが定番のようだが、ぼりぼりとかじりながら歩いている姿をよく見た。帰路、西帰浦の瀑布をまわり、かの中文リゾートもバスから見学し、沈む夕日を眺めながら済州市にもどった。
5日目(5/8)は済州市内の三姓穴などを見学。充実したあっという間の5日間を終え、1班2班それぞれに直航便とソウル経由便で関空にもどった。
ハルラ山1700M高地で