『むくげ通信』174号(1999年5月30日)

書評/竹国友康『ある日韓歴史の旅−鎮海の桜』

著者の竹国友康さんは、1949年兵庫県生まれ。河合塾大阪校で現代文を担当する教師である。彼は毎年その予備校生が大学に入学した夏に釜山での韓国の学生と交流する「旅」を行なっている。「学生の一人ひとりが韓国・日本をまず自分の肌で感じとり、自分の頭で考えるきっかけをもつことが大切なことだと考えるからだ」という。

 1992年にその旅の準備のために訪れたとき、鎮海の桜祭りでもある「軍港祭」にさそわれ、侵略の象徴のような桜と韓国の関係に驚きながら参加したことから著者の「旅」が始まる。そして日韓学生の交流風景などを思い浮かべながら「国家や民族より小さく、個人よりも大きい、地域という単位で時代を切り取り、その迷路をたどれば、そこに生きた人びとの顔つきと時代の実相が同時に見えてくるような歴史記述ができるかも知れない」と考えるのである。

本書の全5章は以下の通りである。

第1章 鎮海の歴史をさかのぼる
第2章 日露戦争と鎮海湾
第3章 軍港都市・鎮海
第4章 鎮海の街で生きた人びと
第5章 桜祭りのなかで

 それぞれの章の導入部分にある歴史の基礎知識的な説明の用をえてわかりやすい。大学の入学試験を引用したりしているのがまたおもしろい。

 私自身は釜山には何度も行ったが鎮海には行ったことがなく、特別の知識はなかった。日本の朝鮮植民地支配と関係するであろう「軍港」のイメージはあったが、ただただ漠然としたものであった。

 第1章は、倭寇・秀吉の侵略時代のことである。むくげの会の寺岡さんやゲストとして来てくださったことのある城郭研究会の黒田慶一さんからよく話を聞く「倭城」をめぐる話だ。キリシタン大名の小西行長らが倭城の中でセスペデス司祭がミサを行なっていたこと、それが契機となって現在城の一部がカトリック教会の所有となっていること、1993年に鎮海市豊湖公園に友好記念碑が建てられたことなど、鎮海地域が具体的なイメージをもった地域として認識されるようになる。倭城保存をめぐる話も興味深い。

 しかし鎮海が本格的な軍港として整備されるのは日本の朝鮮侵略の過程においてである。「日露戦争は朝鮮の領有をめぐって行なわれた」と一般的に学んでいるが、鎮海がその戦争準備のために整備されたこと、日本海海戦でも重要な役割を果たしていたことを本書で知ることができた。「天気晴朗なれど波高し」の有名な日露戦争開戦報告電報も鎮海から打たれたものだ。日韓協約から「併合」へと進む過程も鎮海地域に限定しての著述によって私はリアルなイメージをもつことができるようになった。

 鎮海はそこに住む農民漁民を追い出して新しい軍都を作ったのであるが、町名をきめるのに「呼称しやすく、縁喜の好さそうな、目出度そうな」のを東京、横浜、横須賀、京都、大阪、神戸の地名からとったという(1911年『海軍文書』)。結局は変更されたがいまも神戸にある「福住町」が候補に上がったりしている。また神戸にかかわる話では、大倉山公園のことがある。青丘文庫のある神戸市立中央図書館があるところである。この公園は鎮海軍港でもうけた大倉組の「政商」大倉喜八郎(1837〜1928)の別荘であったところだ。私の通った中学校のすぐ横でよく遊んだところでもある。大倉は兵庫県知事もつとめた伊藤博文とも親交があったが、伊藤の銅像敷地探しが難航しているのを聞いてその別荘を1910年8月神戸市に寄付した。その伊藤像は太平洋戦争時の金属供出でなくなっている。

さて、桜である。

 1910年3月の海軍文書によると鎮海には桜だけでなく、アカシア、ポプラ、梅、桃等が植えられたが、のちに「軍国の花」としての桜の植樹を大々的に植樹し1920年代には朝鮮有数の桜の名所として知られるようになった。

 1945年の敗戦(解放)後、朝鮮における桜事情は一変し、日本を象徴する桜は各地で伐採されることになる。鎮海もその例外ではなかったが、鎮海では桜が復権する。鎮海市のパンフレットによると「1976年4月、鎮海を世界第一の桜花都市として育てようという大統領令を契機に、民・官・軍の一体となった桜の植樹運動が展開された」というが、著者の調査によると1960年代から在日韓国人や鎮海女子高等学校の同窓会の日本人らが鎮海市らの要請をうけて苗木を送っていたという。

 韓国で大統領令までだして桜植樹のすすめるのは、「ソメイヨシノ済州島原産」説にもとづく。それは1932年植物学者・小泉源一がソメイヨシノが自生しているのを発見し、原産地が済州島であるとしたことを根拠としている。本書の桜に関する考察は大変興味深いので是非詳しくは本書を読んでいただきたいが、DNA判定によると済州島に自生する桜はソミヨシノではないとのことだ。

 著者はあとがきのところで「提案」をしている。それは、「遺跡のもつ意味」を日韓双方が再確認して歴史の生きた教材としようということだ。倭城についても韓国側からは感情的な問題ものこるだろうが、「物証がすっかりなくなってしまえば、私たちの歴史(過去)への想像力は、その行き場を見失ったまま、ときとして恣意的な物語に吸収されもするだろう」という。私もそのとおりだと思う。

 著者は、巨済島の横にある吹島(鷲島)がたまたま無人島であるために日露戦争の記念碑や射撃訓練跡を訪ねてビデオに収録したりしている。また、鎮海市帝皇山頂の「日本海海戦記念碑」は取り壊されたが、下の階段(37段)上の階段(38段)は残された。日本は日露戦争を敗戦まで「明治三十七八戦役」と呼んでいたが、それにあわせて37+38段の階段が作られているのである。著者はその階段の横に右にような案内版を韓国語と日本語で作ることを提案している。

 私は7月8日から神戸学生青年センター主催の韓国「民草」ツアーで韓国に出かける。このツアーの第2弾、‥‥は、「智異山パルチザン」「済州島4・4」「光州(1929、1980)」を考えているが、是非そのうちに著者をガイドに鎮海も訪ねたいと思っている。(朝日新書 bU22)

(飛田 雄一)

(7月6日<火>午後7時〜、むくげの会ゲストデーに竹国さんをお招きする。参加希望者は是非どうぞ。参加費、無料)

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