『むくげ通信』170号(1998年7月27日)

第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会に参加して北原道子


尹奉吉暗葬地での追悼式

1989年に始まった強制連行全国集会が、今年9回を数え、北陸は金沢の地で全国から沢山の人が集まるなか開かれた。

金沢は、強制連行にまつわる土地であるばかりでなく、植民地時代の独立運動家、尹奉吉が処刑された地でもあり、朝鮮とは縁が深い。集会は、強制連行に関する各地の報告とともに、尹奉吉についての話を織り混ぜながら進められた。

 私がこの集会に参加するのは今年で4回目である。名古屋での第1回目から注目してはいたのだが、運動は西高東低。主催地は西に片寄りがちで、当時、東北・北海道とさすらっていた身には遠い存在だったのだ。それが、東京へ戻って身近になったのでようやく参加できるようになった。

今年は朴慶植先生が亡くなって、先生のお元気な顔が見られないのは寂しい限りだった。会場の一角には先生を偲ぶコーナーが設けられ、集会の冒頭、黙祷・追悼の挨拶が行われた。

 水野直樹さんの「在日朝鮮人の戦中・戦後」と題する基調講演は、強制連行・強制労働の「強制性」について、日本政府資料の中にも強制性を認めるものが存在すると報告され、示唆に富むものだった。

 強制連行の「強制性」については戦後補償の裁判が各地で行われていることもあって、議論の俎上に載せられ、「強制」ではなかったという攻撃もされている。

 水野さんの講演は、在日朝鮮人の植民地支配下での法的処遇について述べ、在日朝鮮人に対する日本政府の政策がどのようなものであったか、そして、それが戦後の政策につながっているという主旨で行われた。戦中の在日朝鮮人は渡航制限や戸籍の上での差別的処遇を受けるなど、決して「自由に」生きられる状況ではなかった。そのような状況の中で「強制」の意味をとらえかえすことが重要なのだろう。

 私の個人的な関心は戦時期の朝鮮人に対する兵士動員にあり、とりわけて「強制性」については関心を抱いてきた。徴兵はともかくとして、志願兵・学徒兵(実態としては強制なのだが)の場合の「志願」に「強制」はなかったと言われがちだからだ。日本人の軍隊経験者に話を聞くと、同じ部隊にいた朝鮮人の兵士は「兵隊として優れていた」という話をよく聞く。表面的には、自分の意思で立派な皇軍兵士になろうと努めたようにも聞こえるかもしれないが、植民地下で、どれだけの「自分の意思」が許されたか。また、「皇民化」政策の中で、閉塞状況から脱出するために「日本人以上の日本人」になろうとした朝鮮人もいただろう。「強制」の中身を知らなくて、「強制連行」は語れない。さまざまな角度から「強制性」を考えていくことの必要性を強く感じさせられた。

 各地からの報告は、全国で強制連行の事実の発掘を行っているグループや、個人からのアピールが続いた。中でも治安維持法犠牲者に国家賠償をと、訴えた西宮在住の徐元洙さんの話には関心を引かれた。在日で治安維持法の被害者として国家賠償請求をするというのは初めてのケースではないだろうか。

 翌日はフィールド・ワーク。尹奉吉の遺体が埋葬されていた所と朝鮮人労働者が強制連行された洞窟の工場跡の見学である。遅れてきた夫と高2の息子が合流。久しぶりの、家族揃っての参加である。

 尹奉吉は金九の指示により上海で行われた天長節祝賀式典で爆弾を投げた。上海派遣軍司令官大将白川義則などが死亡、後の外務大臣重光葵らが重傷を負った。尹奉吉はその場で捕えられ、金沢の第9師団本部へ送られて、ここで銃殺された。遺体は陸軍墓地下の道路に埋められた。朝鮮語では秘密裏に埋葬されることを暗葬というが、文字どおり暗葬であった。解放後、本国から臨時政府の要人が訪れ、朝鮮人連盟の人たちの手で遺体が掘り起こされ同じく処刑された李奉昌・白貞基の遺体とともに故国へ帰った。

 その暗葬地には発掘に携わった朴仁済さんを始め、多くの人々が尽力されて整備され石碑が立てられている。今は小松市で住職をされている元国会議員のいとう正敏氏がお教をあげ、参加者が一人ずつ献花をして慰霊祭を執り行った。

 次のフィールド・ワークは額谷地下工場である。ここは江戸時代からの採石場で、ここの石は熱に強くて、へっついさん(関西でかまど。大阪で暮らしていた頃、よく聞いた上方落語にしばしば登場する、私には懐かしい言葉だ)になるのだそうな。兵庫の鄭鴻永さんによると、北陸にはここのようにもともとあった採石場を、戦時期にさらに掘って地下工場などに利用したものが多いという。

 この集会のもう一つの楽しみに、各地の歴史に精通している人に巡り会えるということがある。誰も注目していなかった時期から、鳥かごを下げて地下壕の調査に入るような地道な作業を続けてきた、その土地の「主」のような存在があってこそ、強制連行集会は可能なのだろう。

 日本全国至る所にある、戦時期の強制連行・強制労働の跡をたどることで、その時代を具体的にイメージすることができるし、また、人間の愚かさ、戦争の無意味さを目のあたりにすることにもなる。各地の、その土地に住んでいなければできない調査・研究が深まり、全国から集う人たちの励みとなり、知恵となる、全国交流集会はいつもながら意義深い。

 来年は10回を記念して熊本で行われるという。九州は強制連行のメッカ。第10回は関門海峡を渡らねばという、小松裕さんの元気いっぱいのメッセージで集会は幕を閉じた。

集会が終わって、わが家は夏休み。金沢近郊の温泉につかったり、おいしいものを食べたり。兼六園では、加藤清正が朝鮮から略奪した、海石塔という美しい石塔を見た。また、兼六園脇の玉泉園へも行ってみた。この庭を作った脇田直賢は、秀吉の朝鮮侵略の際、宇喜田秀家と戦って死んだ金時省の遺児である。秀家が連れ帰り、宇喜田家に嫁いでいた前田利家の4女豪姫に伴われて、金沢に来たという。後に前田家の家臣、脇田家に聟入りした。庭園には故郷を懐かしんで植えられたという樹齢330年の大きな朝鮮五葉松がある。見上げると枝の間から真夏の空がのぞかれた。明けなかった梅雨のしばしの晴れ間であった。

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