『むくげ通信』166号(1998年1月)

研究ノート/夙川改修工事と朝鮮人

堀内 稔

 

 西宮市の西部を流れる夙川は、川幅が10メートル前後の小さな川であるが、川の両岸は遊歩道や遊園地になっており、春は桜の名所として知られている。遊歩道には「夙川オアシスロード」といった洒落た名前も付けられている。

 夙川が現在のような姿になったのは、193211月に始まる改修工事によってである。その10数年前に行われた武庫川改修工事に比べると規模ははるかに小さいが、工事に多くの朝鮮人労働者が従事したことは共通する。

 夙川改修工事は、西宮市の失業救済事業として行われた。『西宮市史』によるとこの工事は5カ年計画で、「護岸石垣を築造し、適当のところに堰堤を設け、その堤防の左岸は西宮市道、右岸は大社村(現西宮市)道として利用されていたのを拡張整備し、別に両岸ともに数条の遊歩道を設け公園的設備をもた」せるものであった。もともと堤には松が多く自然の風致林をなしていたため、それを利用した計画

だったという。工事の区間は夙川の河口から阪急苦楽園駅の北側あたりに至る約35q、111日の起工式を経て夙川下流から工事が開始された。

 工事に先立つ10月、西宮市職業紹介所では改修工事に働く労働者を募集した。その結果27日の締め切りまでに305人の応募者があり、そのうち朝鮮人は205人を数えた。この応募者の中から条件に適応したものを登録し、工事に割り当てた。「最初のうちは使用人夫もすくなく二十名位で、工事の進捗に伴ひ人員を増し、明春は二百名を使用する見込み」(『朝日』1932.10.30阪神版、以下『朝日』の記事はすべて阪神版)だという。

 事実、33年1月には工事が最盛期に入り、「現在毎日使用しつつある人夫延べ数百二、三十名を二百名内外に増やす必要に迫られ」(『神戸』1933.1.17)た。そのため西宮市職業紹介所では失業者の追加登録を行うことにしたが、事業の性質上なるべく申請者全員を採用するという。申請資格者の条件は、「西宮市および大社村に最近三ヶ月以上居住し、十八歳から五十歳までの労働に堪え得るもの、但し内地

語を解せぬ朝鮮人を除く」というもので、日給は「人夫一円、大工一円六十銭程度」であった(『神戸』同上)。この条件は、最初の募集の時も同じであったろうと推測される。

 この夙川改修工事の労働者は、労働条件や待遇改善のためにいろいろ運動する。

 まず332月初め、監督が余りに酷使するとの不平を総同盟に訴えた。そのため29日総同盟山村製壜の組合代表者と就労者代表5名が、西宮市役所の土木課を訪ね、歩合金割当の公平を期すこと、休憩時間を15分延長すること、賃金の支払いはもっと順序よく行うことなどを要求した(『朝日』1933.2.10)。

 続いて223日には、工事に従事する失業登録者600余名が合法的待遇改善を要求するため『自救会』を組織し、西宮市西浜町広場で発会式を挙げた。その際かがげられたスローガンは次の6項目であった。

 @労働時間8時間制の実施、A4日目1日制の即時撤廃、B朝鮮人の『ヨボ』呼ばわり廃止、C救済登録者中より成る監督制の廃止、D昼休み1時間制の要求、E最低賃金120銭(『朝日』1933.2.24

 この要求項目について同じ記事では、「昼間休みの一時間制は既に実施されることになっているが、最低賃金の一円二十銭は予算その他の関係で至難と見られている」とコメントしている。

 しかし、監督制の改善や差別撤廃は一向に実施されなかった。そのため、313日午後5時に工事現場に150名が集まり協議した結果、紅野市長宅に行って陳情することを決議した。代表者11名(うち朝鮮人5名)は国家社会党の高井信三郎に引率され、同日6時半に市長宅を訪ね、窮状を訴え嘆願書を提示したが、市長は詳細承知せず14日に市役所で懇談することを約束した(『朝日』1933.3.15)。

 14日午後1時に市役所を訪問した代表者は、市長や土木課長などと会見し、監督を二重に受けていることなどを陳情した。これに対し市が、嘆願の条項数点につき考慮し、できることは応諾するとしたため代表者は了解して引き取った(『朝日』同上)。

 この行動によって状況が改善されたとは思われない。7月にも朝鮮人労働者が市役所に押し寄せ、労働の過酷さを訴えているからだ。新聞(『朝日』1933.7.26)は、次のように報道している。

 「二十五日午前十時頃西宮市役所に五、六十名の朝鮮人が押し寄せ市長に面会を求めたが、上縣不在のため寺戸土木課長が面接したところ、いづれも夙川改修工事土工に従事中の労働者で、労役が過酷で内地人労働者と差別されているのでなんとかしていただきたいといふのであった。右につき課長よりその誤解を説き懇談の結果、納得して引き揚げた」

 その後、実際に労働が改善されたかどうかは不明であるが、少なくとも新聞記事にはこうした争議は登場しない。

 これより先の77日より夙川改修工事は、第2期のみどり橋以北から阪神国道に至る区間に移ったが、労働者の集まりが悪くなったことが報道されている。すなわち80人に通知しても実際には50人ほどしか集まらず、50人に通知すると7080人集まった昨年とは全く状況を異にしているという。これは、西宮市内の大掃除でその方の収入が多いためだと説明されている(『朝日』1933.7.13)。

 工事の進捗にともない、就労労働者の登録は何度か行われたようで、331014日付『朝日』では、「登録者は百六十四名で締め切ったが、本月中旬から一日平均約五十名を使用する。日給は一円十銭で登録者は大部分朝鮮人である」と報じている。7月の労働者不足の影響からか、日給が1円から110銭に引き上げられたようだ。

 工事は、1934年の室戸台風による樹木の倒れや、1935年の水害の影響はあったものの順調に進捗し、予定を変更することなく19373月末で竣工したと、『西宮市史』は述べている。しかし、工事に多くの朝鮮人が働いたこと、工事の労働条件で紛議があったことについては、一行も触れられていない。

 

※原稿を通信に載せた後、「過日西宮市直営の夙川改修工事現場で人夫頭が四十名の土工に玩具のピストルを突きつけて威嚇した事件」(『神戸又新日報』1932.12.23)が判明した。

"堀内  稔" <horiuchi@mxs.meshnet.or.jp>

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