むくげ通信165号
阪神教育闘争の犠牲者を韓国に訪ねて/飛田 雄一
10月末、韓国釜山で開かれた在日韓国人外国人登録法問題国際シンポジウムに参加した。シンポジウム終了後、大邱に朴再禧さんを訪ねた。朴さんは、1948年の「4・24阪神教育闘争」で逮捕投獄され、獄死した朴柱範さんの娘である。朴柱範さんの死は正確にいうと獄死ではないが、病気で仮出獄して4時間後に死亡したので、獄死といっても言い過ぎではない。(『解放新聞』1949年11月28日付参照)
来年、1998年は阪神教育闘争50周年にあたるが、その機会に朴柱範さんの遺族を招待したいという話が兵庫朝鮮関係研究会等で出ていた。そのためにとりあえず会ってみる必要があるということで私が訪ねたのである。
阪神教育闘争では、大阪での闘いで金太一少年が警官隊によって射殺されたことがよく知られている。神戸では、デモによる死亡者はなかったが、当時の朝連の兵庫県委員長であった朴柱範さんは、軍事法廷で有罪判決を受けた後、刑務所に入れられたが、翌1949年11月25日午後8時、病状が悪化して仮出獄となったがその4時間後、午前0時ごろ死亡したのである。
朴柱範さん家族のその後は分からなかったが、1994年4月の長田マダンの時に手掛かりがつかめることになった。兵庫朝鮮関係研究会が長田マダンで阪神教育闘争の展示をしており、当然、朴柱範さんの漢詩とともに写真を展示していた。それをご覧になった神戸市中央区にお住まいの朴龍圭さんが、同じ慶尚北道義城郡の出身で遺族の消息を知っておられたのだった。その後、韓国の遺族に連絡をとっていただいたが、阪神大震災のためにそれ以上話を進めることができなかった。しかし、来年が阪神教育闘争の50周年になることからこの機会に是非とも実現させたいと考えたのである。
遺族の方には義城郡から大邱まで来ていただき、私が釜山から出かけてお会いした。朴再禧さんとご主人の李元榮さん、それに朴柱範さんの弟の子息である朴南煕さんの3名にお目にかかった。朴再禧さんは阪神教育闘争のときに神戸におられ、朴柱範さんが亡くなられてから母とともに遺骨をもって故郷に帰られたのである。朴再禧さんは当時27歳で刑務所内の病院に面会にも行かれ、また、自宅で父・朴柱範さんの死に立ち会っておられる。
1885年生まれの朴柱範さんは、1927年渡日し最初は芦屋に、その後は武庫郡本庄村(現神戸市東灘区)に住まれた。30年代はじめには関西学院神学部出身の金英哲牧師とともに信徒として教会(メソジスト)の仕事もされ、また、阪神消費組合の設立にも参与され後に理事に就任している。朝鮮人の間での信望があつく解放前に村会議員を2期務めている。
解放後、朝鮮人連盟阪神支部長となり2年後に同兵庫県本部の委員長となっている。そして委員長として1948年の阪神教育闘争を指導したのである。
大邱で朴再禧さんらからお話を伺った後、大邱市郊外にある朴柱範さんのお墓に案内していただいた。市内から南東に車で15分程の小高い丘の上にあるカトリック教会の墓地の一番上に夫人金憤淳さんとともに葬られていた。カトリック教会の墓地であるが韓国式土まんじゅうの墓地で、墓標にはおふたりの名前とともに十字架が刻まれていた。
阪神教育闘争のリーダーとしての朴柱範さんの遺族を訪ねてきたのは、私が初めてだということだった。そのために朴再禧さんらが私を大歓迎してくださり、何度も何度も「韓国まで会いに来てくれて感謝しているのは私たちの方です」と語っておられたのが印象に残っている。
阪神教育闘争の50周年を迎える来年4月には、是非とも朴再禧さんらの招待を実現したい。そして改めて、阪神教育闘争の意味を問いなおすプログラムをもちたいを考えている。 (飛田雄一)
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