『むくげ通信』163号(1997年7月)

研究ノート/尼崎・関西共同火力発電所工事と朝鮮人

堀内 稔

 

 尼崎築港の埋め立て地に関西電力の火力発電所がある。そこには第一、第二発電所、それに戦後の高度成長期に建設された第三発電所があるが、このうち第一と第二は公害問題のため70年代に入って停止された。この第一、第二発電所工事には、多くの朝鮮人労働者が働き、特に第一発電所の工事は、頻発する事故のため「恐怖の工事現場」として労働者、および付近の人々から恐れられたことは、案外知られていない。

 この工事は、日本電力、大同電力、宇治川電気、京都電灯の4大電力会社の共同出資により設立された関西共同火力発電によって行われた。日本の電気事業は、3132年ころ以降、競争の時代から国家による統制と協調の時代へと変化し、この会社の設立はこうした時代の流れにそうもので、近畿地方の電気事業者が、今後必要とする火力発電設備のすべてを独占することを、政府によって保証されたものであたという(尼崎市立地域研究史料館『尼崎地域史事典』)。

 第一発電所は19329月に着工され36年に完成、第二発電所は同年12月に着工され39年に完成した。第一期が1万8千坪、第二期が1万坪の大規模な工事であった。

この発電所の工事については、次のような証言がある。

 「1938年、私たち一家は今度は、兵庫県武庫郡大庄村(現尼崎市)末広町というところへ引越しました。そこは日本電力尼崎第一、第二火力発電所の建設現場でした。第一火力発電所は工事も漸く終り、6本の大煙突から黒い煙を吐き出していました。第二火力発電所の工事が引き続き進められていましたが、完成まであと5年以上はかかるという、実に大きな建設工事でした。勿論、朝鮮人が働いたのは海岸の埋立てを含めて主に、土木工事部門です。この建設現場の片隅に朝鮮部落が形成されていました。同胞の土木労働者の数は500人を下らなかったから、その規模は決して小さいとはいえまい」(崔碩義「私の原体験 大阪・小林町朝鮮部落の思い出」)

 大規模な工事にはある程度事故はつきものだが、第一発電所の工事では異様なほど事故があいついだ。新聞記事による発電所工事の事故を列挙してみると次のとおりである。

 1933. 7.6 大林組の賃(ママ)定斗が砂利水切り場で砂利の下敷きとなり重傷。本吉進は5階でコンクリート作業中足場を踏み外して落下し背骨骨折。

 1933.8.20 船から起重機でバラスを積んだ籠に金點道、金容基、田在用、武田義夫の4名が乗って引き上げ作業中にワイヤーが切れ落下、金點道は即死、残り3名は重傷。

 1933. 9.9 砂利上げ機(起重機)の落下で金錫万が即死、金宋正が瀕死の重傷。

 1933.9.12 大林組人夫朴渭龍が鉄骨を乗せたトロッコを運搬中、トロッコが転覆して即死。

 1933.11.18 3階で作業中縄が切れて足場が墜落、本郷桂蔵が死亡したほか3名が軽傷。

 1933.11.30 石川島造船所出張鳶職林央が橋型運搬機で作業中、足場を踏み外して墜落、絶命。

 1935. 7.11 大林組建築作業場で姜在守が感電死。

 新聞に掲載された事故は以上であるが、1933年の7月から11月にかけて事故が集中しているのがわかる。99日の事故の新聞報道(『神戸』1933.9.10夕)で、「これで19人目の死傷者」とされていることからみて、報道されていない事故もあったようだ。頻発する事故にたまりかね、兵庫県の工場課では1127日に課員を派遣し、「一体どんな実状にあるのか施工上無理な点があるのではないか」(『神戸』1933.11.28)と調査している。その結果については明らかでない。

 事故の死傷者には日本人も含まれている。ただ、日本人の死傷は建物の建築中に足場が落下したり、足を踏み外したりしたものが多い。砂利の運搬中の事故が多い朝鮮人とは明らかに異なる。先の崔碩義氏の証言の中で、朝鮮人が働いたのは、主に埋め立てを含む土木工事であったことが述べられているが、こうした事故の新聞報道からも日本人と朝鮮人の働いていた現場の違いが読みとれる。

1933.2.22に朝鮮人労働者780名が賃金不払いで工事事務所に押し掛ける事件がありましたが、本文に書くのを忘れていました。そのほかにも、監督の暴力が原因の乱闘事件なども起こっています(『神戸又新日報』1932.12.22)。

『むくげ通信』総目次むくげの会HP/にもどる