青丘文庫月報 122号 97年10月5日

  

研究会のご案内

第198回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会

97年10月12日(日)午後1時30分

報告者 李梨花

テーマ 「1930年代の朝鮮人留学生」

 

第164回 朝鮮民族運動史研究会

97年10月12日(日)午後3時30分

報告者 青野 正明

テーマ 「内鮮一体」と春川の神社

―朝鮮式社殿の江原神社とスサノヲを祀った牛頭神宮―

会場は、神戸市立中央図書館(078-371-3351、地図参照)


巻頭エッセー

たかが外国人 佐 野 通 夫

5月からほとんど月1回のペースで、高松高裁に通っています。1989年、松山市道後町で、タイ人女性が殺され、同居していた3人のタイ人の行方が分からなくなる事件が起こりました。その後、3人の内の1人Oさんだけが、6年たった1996年に逮捕され、殺人罪で起訴されました。一審、松山地裁は1996年9月に懲役8年を言い渡しました。この裁判は、きちんとしたタイ語の通訳も付かないひどいものでした(事件の詳細は『RONZA』1997年1月号を見ていただければと思います)。

 高松高裁では、現在4回の公判が開かれ、初回は弁護人の控訴理由の陳述、2回目は本人尋問、3、4回目が鑑定書を記した医師の証人尋問でした。というのは、先ほどの3人が被害者を「殺した」という経緯は、検察官冒頭陳述の中では、2人が被害者ともみ合う内、被害者の出したカッターナイフで被害者を刺し、その後Oさんが金槌で彼女を殴ったことになっています。事件の状況を写した写真では、かなりの出血があり、通常人の判断では、のどを切られた事が十分、死亡原因になりうると思えるのですけれど、鑑定書では被害者の「くも膜下出血」が死因とされています。被害者は本当にOさんの行為によって死に至ったのかを明らかにするため、この証人尋問となりました。

この証人尋問は当初、第3回目の公判だけで終えるはずでした。それが第4回にも継続し、さらに次回10月にも予定されています。というのは、事件は先に述べた通り8年前に起こり、その時点で司法解剖しているはずなのですが、鑑定書はOさんが逮捕され、起訴された2年前になって作られています(検察官は鑑定書がまだできず、死因の特定もされていないのに、Oさんを起訴しています)。この医師、愛媛大学をこの3月に定年になった人物ですが、医学には素人の弁護士がこの鑑定書を見て、疑問に思うところを指摘しただけで、33カ所の正誤訂正を出しました。そして裁判では、弁護人から事理に基づいて質問されると、答えをはぐらかし、あるいは関係ない事を延々と述べ始め、裁判官からも注意される始末。鑑定書の作成に当たって、ただ一人逮捕されたOさんの行為を死因とするために作為したかはともかく、真剣にこの鑑定に当たることはなく、いい加減にやったことを今になって問いつめられて、ごまかそうとする意思はありありと見えます。


 

163回朝鮮民族運動史研究会(97914日)

植民地期ソウルにおける都市貧民問題

藤井 たけし

植民地都市「京城」とはどのような空間だったのか。日本人と朝鮮人とが隣接して暮らす百万都市であった「京城」の空間編制の考察は、同化・皇民化の問題を考える上でも少なからぬ意義を持つと思われる。この大きな問題意識を具体化する一つの準備作業として、今回は都市の空間秩序をおびやかす存在であった都市貧民、なかでも「土幕民」と呼ばれていた存在に焦点をあてた。

「土幕民」とはその名の通り地面に穴を掘り、その上に天幕のような家を建てて暮らしていた人びとのことであるが、京城府などの定義では「河川敷、或は林野その他官有地、又は私有地を無断占拠して居住する者」とされ、血統・身分・貧困などによるのではなく「無断占拠」によって差異化される存在であった。「土幕部落」の形成は記録の上では1918年が最初であり当初は都市化の過程で生じた住宅難によって都心からはじき出された人々が郊外の墓地などに住みはじめたことによるが、特に20年代後半から30年代にかけて、土地調査事業や産米増殖計画といった農業政策によって大量に生じた離農民の都市集中によって、郊外のみならず都心部にも多くの土幕部落が見られるようになっていく。

20年代から民族語新聞などによって民族の受難の象徴のようにして語られることの多かった土幕民であるが、京城府などによる本格的な対策がなされはじめるのは30年代のことである。最初は単に代地を提供して撤去するというだけのものだったのだが、1931年に和光教園という浄土宗開教院の社会事業団体に補助金を交付して土幕民の収容事業を行わせて以降、仏教系民間団体による教化事業を伴う収容事業が進められた。京城府当局者はこの収容事業を自画自賛したが、1940年になされた調査によれば就業率は府内土幕民の平均をも下回る3割にも満たない有り様であった。このように形式的には教化事業としてすすめられた収容事業であったが、その収容地も36年の府域拡張後にもまだ府外となるような山地であって、結局根本にあるのは府からの追い出しでしかなかったのである。1938年には、朝鮮市街地計画令を受けて進められていた土地区画整理の一環として、そしてまた国民精神総動員京城連盟の結成、京城府町会規定発布(区・戸の設置)といった京城府民の組織化の流れを受けて、従来の「府外逐出主義」から平地に細民地区を設定する方向に方針が変更されたようだが、こういった都市政策上の施策は「土幕対策」とはなりえても「土幕民対策」とはなりえなかった。そして土幕民自体への対策としては総力戦体制が構築されていく1942年2月、京畿道社会課と北海道庁の斡旋により500名余りの土幕民が北海道空知郡の鉄道工事現場に送り出されている。1942年2月といえばまさに労務動員体制が従来の「募集」形式から「官斡旋」形式に変更された時期であり、京城府の社会課長もこの時期、土幕民を「低廉なる労働力供給者」と位置付けて直している。従来都市の産業部門では吸収し得なかったがゆえに排除すべき対象とされてきた土幕民は、総力戦体制下において労働力として動員されたのである。

 


197回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(97914日)

戦前・戦中の北摂と朝鮮人〜吹田・茨木を中心として〜

塚崎 昌之

 大阪府の淀川以北の戦前の朝野人史の解明は非常に遅れている。1980年代から、戦時中の高槻地下倉庫(タチソ)の研究が行われてきているが、未だに施設の全容すら明らかではない。軽い気持ちで発表を引き受けてしまったが、ほとんど、新しい事実を究明する努力もできなかった。逆に、出席された会員諸氏に多くのことを浅学の私に教えていただくことになり、感謝の念で一杯である。まず、お礼を申し上げたい。

 北摂といっても、現在の東淀川区、淀川区、西淀川区の大阪市部と郡部にわけて考える必要がある。市部は、比較的早くから工業化が進んだ地域である。それに対して郡部は、農村部が中心であり、1920年代から住宅開発は進んだが、工場開発が進んだのは、日中戦争が本格化した時期である。

1905年〜1939年(戦時労務動員前)

市部…1910年代後半より、神崎川周辺の晒工場・染色工場、淡路付近のメリヤスなどの繊維関係工場周辺を中心に朝鮮人の集住地域ができた。この地域は、現在にも引き淋がれている。

郡部…1920年代から、郊外住宅開発、また、神戸・大阪・京都をつなぐ交通の要地としての鉄道・道路整備、淀川に流れ込む諸河川の改修工事に多くの朝鮮人労働者が使役された。しかし、「土工」の流動牲は高く、そのまま定住した人達は少数であった。

 また、北摂は1923年に小作争議が勃発し、全国的にも最も盛んなところであった。1924年の日農北摂聯合会第2回大会議案書の中に、朝鮮人が小作人に代わる労働力として使われていたことをにおわす記述がある。これが本当に使われているとなると、今までの通説より、早い時期になるという指摘を受けた.今後の裏付けが必要である。

1939年〜(戦時労務動員期、強制連行−私としてはどちらの呼び方もすっきりしない)

 大阪に戦時労務動員の朝鮮人が導入されたのは時期が遅く、1942年段階である。大阪では、名簿が2事業所238人分しか公表されていないため、証言に頼ることがはとんどである。

市部…42年段階から、西淀川区の海岸地域の製鉄関係の工場に多くの朝鮮人が動員されたが、その後は、府下で44年末の13,258人という数字だけで実態はほとんどわからない。

郡部‥この時期に広い敷地を求め、多くの工場が北摂に移転するようになり、それに伴い、朝鮮人労働者も使用されていく。それとともに、本土防衛期の1944年後半段階から、非常に多くの地下軍事施設が建設されていくことが、この北摂の特色であろう。現在のところ、20数箇所を数えることができる。国内陸上物資の最大の集散基地であった吹田操車場に近かったこと、大阪市内の工場群から、最も近い丘陵地であったことなどが理由にあげられよう。ただし、この労働者は坂本悠一氏も指摘するように、一部を除き、徴用逃れや「逃亡」の「自由労務者」が多かったようである。

 

今後の研究会の予定(研究会は原則的に第2日曜日です)

 

11月9日(日) 坂本悠一(在日) 朴宣美(民族)

12月?日(日) 横山篤夫(在日) 未定 (民族)

巻頭エッセー 11月号 金基旺 12月号 伊地知紀子

 

編集後記

『在日朝鮮人史研究27号』(1500円、送料240円)がでました。希望者は、送料とも1740円を<郵便振替 01150-4-43074 飛田雄一>で送金ください。在日研究会のメンバーは年会費4000円を支払って3冊受け取ることになっています。

いまはやりのホームページを青丘文庫も作りました。 http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb.html です。のぞいてみてください。(編集長/飛田 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

 

121号(97年9月)/本号/123号(97年11月)

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