青丘文庫月報/121号/1997年9月10日号

 

巻頭エッセー

台湾訪問記感謝する気持ちで生きていく−4ケ月間の教訓−

金 河 元

 

 学位論文の試問を控えていた1月29日、尼崎韓国学園で面接があった。引継 ぎの事やらして2月から勤めるようになり、3月からは上級の生徒さんたちと親しくなっていく一方、新入生の面接に当たった。電話での問い合わせだけでは十分でなかったのだろう、沢山の方々が直接学園まで足を運んでくださり、授業の内容に関して色々と質問をしてくれた。4月からは初級の生徒たちがまた 教師をどんどん刺激して、授業や生徒の皆様との人間関係はますます広く且つ深くなって行った。携わる仕事の幅は余りにも広く、さらに専門的な仕事が多くて、これはもしかしたらここにはまってしまうのでは、と直感的に感じた。

 私には歴史学研究の傍らもう一つの夢がある。生徒が学校に行くのが楽しくてたまらない、教師も学校の仕事が楽しくてたまらない、そういう学校造りと、またそのような学校に勤める事である。この学園は学枚法人でもあり、さらにいろんな社会的経験の持ち主の集まりであるので、正規の学校とは違う非常にユニークな学校造りがもしかしたら出来るのではないかと言う事であった。決まり文句と文法の寄せ集めのテキストをもとに、「勉強」と言う手法で無理に教え込む教授法は、人間が豊かになっていく過程を手助けをすると言う本来の教育に背くものであり、むしろ人間を挫折感に慣らせるという事と、人間それ自体を破壊していく側面がかなりある。人間は年齢を問わず誰でもそれぞれ知的好奇心を持っている。それをどのように誘発するかを教師は生徒の立場に立って掘り出さなければならない。それで私は生徒達自身の日常生活の−部をテキストとして最構成していく事を常に考え、それを実行して行く事に力を注いできた。そのようにしてこそ生徒の学習効果も高まれば、また新しい知的好奇心が沸いてくる事にもなると思ったからである。授業の成果については自分が予想していた以上のもので、われながら慌てるほどであった。

 授業が始まったばかりの頃はどうしても変わった形の教授法だったので、私の方から生徒を引っ張って行くような雰囲気であった。しかし何時の間にか自分の方が生徒についていくのに精一杯になっていることに気がついた。それがまた教師の最高の生き甲斐であり名誉で且つ自負であると言うことが、今になってやっと分かるようになったが。

 私は高校のときから家庭教師のアルバイトをしてきた。大学を出てからは中学校や高校の教諭として勤め、保育所作りとその経営にも参画し、大学では講師として勤めてきた。しかし尼崎韓国学園での授業のように楽しくやり通したことは未だなかった。

 この4ケ月間少なくとも私にとって、授業それ自体は勿論、授業の準備をす る作業、それから授業の途中休憩の時間や放課後生徒達と交わしてきた質問やいろんな話がとても楽しかった。肉体的な疲れはどうしても避けられなかったかも知れない。しかしそれらのことが負担として感じられたことはあまり記憶にない。むしろいつも楽しみとして待ちどおしであった。今になって振り返って見てもどうして自分がそう言う風な授業や付き合いが出来たのかよく分からない位である。それが出来たのは生徒いや人間がやっと私に見え始めてきたからではなかったのかと思われる。私が今まで教師としての歩みの中で初めて味わう事が出来た。またこれからの私の人生にとっても決して忘れる事の出来ない貴重な経験であった。この7月末、生徒達と別れると言う事がもう既定の事 実として明らかになってきた時、それを受け入れる事は余りにも辛かった。

 恥かしい事だけど、私はいつも人に世話になりがちのものである。でも今度お世話になった生徒の皆様には、胸張ってお世話になったと言いたい。教師として生きていく自信が少し付いてきたからである。皆様、本当にありがとうございました。

 

第162回朝鮮民族運動史研究会(97年7月13日)

韓国の近・現代における女性文学の考祭

                       李 修 京

  韓国における女性文学の動きを、文学運動史の考察の一環として発表したが(「社会文学」第11号、1997.6)、その中での近・現代の女性文学の流れを社会的・歴史的背景と照らし合わせながら考えて見たい。

 女性文学は、80年代から活発化する民衆運動と共に民衆文学の一つとする動きが強まって来た。これは1975年が、“世界女性の年”に制定され、文学運動を含むフェミニズム運動に拍車をかけた事も否定出来ない。しかし、遡れば女性解放的動きは近代化の始まりである19世紀末からと言える。新教育を受けた女性達の対社会的意識の高揚と様々な社会活動の増大によって、1920年代になると短命ではあるが、『女子界』や『新女性』など女性自身の雑誌を持つようになる。この時期は韓国の独立運動を減殺するために斉藤総督による文化運動の緩和政策が行われたし、社会主義、啓蒙主義女性運動が活発だった時期であった。そして、羅惠錫、金明淳、金徳成らの留学帰りの作家達の活躍が見られる。

 30年代になると、20年代の女性作家たちが家父長的女性抑圧に対して男女平等や女性の人権意識を追求したのに比べて、社会状況を描いた『下水道工事』の様な作品が目立つようになる。又、朴花城や金未峰、姜敬愛、白信愛らの女性作家が活躍するのである。治安維持法の余波が広がる中で、政治色の少ないフェミニズム文学は一定の文学的業績を残しているのが特徴とも言える。

 長年の日本による強圧期や、50年の朝鮮戦争を経る過程で、女性の権利追求や社会的意識が高まってくる。60年代からの産業社会化による女性の経済活動は増大し、1960年には、働く女性が総労働者の31、2%に及び、女性の労働参 加が高まるに伴って新たな女性像が確立されるのである。そして、70年代の半ばになると社会における女性差別や家父長制への批判的視点が集中する一方、75年の“世界女性の年”制定による韓国の女性文学という領域を構築するようになった。中でも、金郷淑、李京子、朴婉緒、尹静慕らが女性差別問題を直視する作品を発表している。そして、77年には、梨花女子大学に“女性学”講座が開設され、82年には同大学院に女性学科が新設され、学問的土台がつくられた。

 80年代からは外国の女性解放運動や世界各国の様々な女性団体の活躍ぶりが韓国国内に紹介される中で、韓国の女性運動体の結成にも拍車がかけられた。

 文学では、反権力的な内容を取り上げた金郷淑の『沈む島』のように、社会構造における女性問題を内容にするのが日立つ。

 今後の女性文学の研究における課題ま多大であるが、今回の発表では歴史・社会の流れからみる女性文学の動きを考察する事を試みた。

 

第196回 在日朝鮮人運動史研究会(1997.7.13)

大阪府和泉市における在日朝鮮人の形成

中河由希夫

  現在和泉市域に属するかつての南王子村を中心に、1920年代から朝鮮人が集住し始めた。南王子村は被差別部落でもともと農業が主産業であったが、明治末期に始まった人造真珠業が部落の生活を大きく変化させた。

 人造真珠のもとになったのは「和泉玉」と呼ばれるガラス玉で、これに当初は太刀魚の鱗などを塗装して人造真珠が作られるようになり、1920年頃から現在のような人造真珠になって、世界市場に広く進出するようになった。最盛期には南王子村の8割以上がこの仕事に従事したといわれる。

 朝鮮人がこの地に定着し始めた時期と、人造真珠の製造の中心がここに移ってきた時期はほぼ一致する。このガラス玉の加工および人造真珠に数百人の朝鮮人がかかわった。さらにこのうちの50名ほどが1930年の岸和田紡績工場の争議に加勢したことは、複数の証言によって確認されている。当時泉州地方の朝鮮人と日本人労働運動活動家とのあいだには密接な関係があったようだ。

 1941年1月の大阪府の「半井知事引継書」のなかに、「泉北郡南王子村ノ二五〇戸(人口一二六八名)等ノ大密集部落ヲ始メ……」とあり、生活状況、居住状況を記述している。

 政治的進出も盛んで、1937年の村会議員選挙には人参商1名が、1942年の村会議員選挙には硝子玉商3名がそれぞれ当選した。

 戦後の状況については、1959年2月に発表された朝鮮人の調査による「大阪府泉北郡朝鮮人集団居住地域の生活実態」(『朝鮮問題研究』第3卷1号所収)に詳しい。この調査は1958年12月に泉北郡信太村、八坂町(旧南王子村)を対象に57世帯、329人を調査したもので、「ガラス玉職人から足が抜けられない のは職業の安定性にあるのではなく、原玉仲買人からの借金の累積、その返済のゆとりをもてない恒常的な困窮にある」といった生活状況が述べられている。

 朝鮮人の集住した南王子村は被差別部落である。戦前労働運動や民族運動を行った朝鮮人は部落の人々との連帯意識を述べる場合が多いが、総体として部落の人々と朝鮮人との関係のあり方を解明した研究はあまり見られず、これからの研究課題である。

 次に光明池工事と朝鮮人労働者について紹介する。光明池は1931年から36年の6年にわたる工事でつくられた人工池で、二百数十名の朝鮮人が働いた。危険な工事で、多くの死傷者が出て、犠牲者を慰霊するための石碑もつくられた。元請けは大林組だがその下請けの中野組が朝鮮人の親方で、労働者は朝鮮・晋州近くの大義市出身が多かった。1934年には賃上げ、待遇改善の要求を掲げてストライキも行われた。(記録/堀内 稔)

 

研究会のご案内

 第197回 在日朝鮮人史研究関西部会

1997年9月14日(日)午後3時30分

報告者 塚崎 昌之 氏

テーマ 「戦中、戦前の北摂の朝鮮人」

 

第163回 朝鮮民族運動史研究会

1997年9月14日(日)午後1時30分

報告者 藤井 たけし 氏

テーマ 「植民地期ソウルにおける都市貧民問題」

会場 神戸市立中央図書館2号館4階 (神戸市中央区楠町7-2-1 078-371-3351、地図参照)

 

《今後「研究会」の予定》(研究会は、原則的に第2日曜日です。)

  97年10月12日(日) 堀内 稔(在日)  青野 正明(民族)

    11月 9日(日) 坂本 悠一(在日)  朴 宣 美(民族)

 

《『月報』巻頭エッセーの予定》(原稿〆切は、前月の25日です)

    10月号(佐野道夫)  11月号(金基旺)  12月号(伊地知紀子)

 

お願い 青丘文庫月報は、毎月1回(8月は除く)発行されています。年間購読料は、

送料とも3000円です。郵便振替<01150-4-43074 飛田雄一>でご送金下さい。

 

《関連集会案内》

 

朝鮮史セミナー 11月8日(土)午後2時

  「私の歩んだ道(仮題)」講師 朴慶植氏 

 

在日同胞歴史資料館をつくる関西の会発足集会呼びかけ人の集い

 <1>11月7日(金)午後6時30分 京都・京大会館211号

<2>11月8日(土)午後4時30分 神戸学生青年センター

 

《編集後記》

 さわやかな、勉学の?季節になってきました。いかがお過ごしでしょうか。

 6月より神戸市立中央図書館の青丘文庫がオープンし、研究会の会場もそちらへ移っています。図書館に行かれたら、まず1号館3階のカウンターで手続きをしてください。よろしく。休館日は、月曜日、時間は午後5時までです。

  (編集長/飛田 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp )

 

次号122号(97年11月)

 

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