2000年3月11日〜19日
第22回SCM現場研修<生野・釜ケ崎>
〜差別の差別構造とキリスト者/記録

※ 標題のない感想文は編集部で標題をつけました。

目次

第22回SCM現場研修を終えて/学生スタッフ・川口善男
<<第22回SCM現場研修研修生感想文>>
<釡ヶ崎研修生の部>
「祈り、そして行動」/松尾幸樹
Dear 釜ちゃん/石原共生
本当にあっというまの研修/小坂孝寛
よくわからないものがいっぱい/中村香
釜ヶ崎に来て本当によかった/堀金博
自分の目で/越山香里
三角公園の炊き出し/木村夕子
釜ヶ崎での7日間/黛八郎
「日雇のおっちゃん」の存在/田中理恵
2回目の釜ヶ崎/中山誠
夕方の釜ケ崎/金智恵
<生野研修生の部>
「大切な場所」/ 伊津野千秋
あと一日多く日程が組まれていたら/豊田佳子
「僕は外国人だった」/延商準
生野研修を終えて/清水のぞみ
夜中までのシェア/関根麻里

第22回SCM現場研修を終えて/学生スタッフ・川口善男

 本当に内容の濃い、しかし短い9日間でした。昨年研修生だった時私が感じた釜ヶ崎の現状は、日本の将来に希望をもっていた私にとって絶望的なものでしたが、釜ヶ崎の研修生が今年11名も集まり、こうして22回を終えることでこの問題を考える仲間が増えたことは私にとっては勿論、釜ヶ崎にとっても、日本の将来にとっても大いに喜ぶべきことであり、救いであると思います。今回の研修で釜ヶ崎の問題について思ったことは、『日雇労働者の野宿問題』は、他のいろいろな問題が複雑に絡んでいるという印象を受けました。思いつく限りでは、「男女差別」「外国人差別」「障害者差別「高齢者差別」…差別問題だけでこれぐらい、それに対して「医療・福祉のあり方」「地域との関わり」「生存権」などの行政の対応など。あと、世界規模で存在している第三世界のスラムのことや神戸の震災のことも、研修生の中には現場にいったことがある人が割と多くて、フィリピン、インド、震災時のことなどのことが話題とされたことも考えることに大きく影響して非常に身のある話ができていたように思います。

 現代の私達の日常生活は、安心、快適を目標に、便利さ、合理性を追求し、日々楽になってきてはいるのは確かです。しかし、その社会構造の中で、その便利さ、快適さの恩恵に与れず、逆に不便さ、窮屈さを強いられている人達の存在を無視することは共に今を生きる同じ人間としてあまりにも理不尽なことであるし、そもそも公的なサービスは個々人の生活の安定を目的としてあるために、あってはならないことだと今回も強く感じることがありました。どうして、このようなことが平然と行われるのでしょうか。私なりに考えてみて思うのは、やはり、そうした便利さ、合理性を追求している今の世の中の価値観として、人間そのものを、その人にとって、あるいは社会にとって、損か得か、利益になるのかならないのかで判断してしまう思考が一般化してしまっているためだと理解しています。しかし、私が2年間SCM現場研修で釜ヶ崎に関わってみて、私個人のことをいえば、全体的に損をしたという感覚はなく、むしろ、全体的には関わっていなければ決して得ることのないとても大きな利益を得たということは確信しています。こうした自分の感覚を根拠にこの問題を解決しようをする道を考えるならば、私はこの問題に関わることが損にしかならないと思い込んでいる人達に、体験することの大切さを伝え、教えてあげることが最初の一歩だと思っています。そうして社会構造の中で、苦しめられている人のことを考えること、その人に関わること、そのことが利益になることを知る人が多くなれば、この社会構造自体、なにかしらの変革が行われるであろう事は容易に推測できることです。

それにしても、学生の時期にこういったことを学ぶきっかけを与えてくれたSCMの関係者のみなさま、今回集まってきてくれた研修生一人一人には本当に感謝しています。私自身、ここで学んだことを自分の中で独り占めするのではなく、これからも一生かけてでもより多くの人に伝える努力をしていくことを心に誓いたいと思います。短い文章ですか、これで第22回SCM現場研修学生スタッフとしての感想を終わりにしたいと思います。

第22回SCM現場研修研修生感想文

<釡ヶ崎研修生の部>

「祈り、そして行動」/松尾幸樹

釜が崎に滞在させていただきました。そこで得た気付きは、この場所は、私達の生活に深く関わるということす。マザーテレサの言葉に「最大の罪は、憎むことではなく無関心です」とあります。生きていく上で、権利を奪われ、厳しい生活にあることを強いられる人々の存在に対して、無関心であることが、私達にとって最大の罪と言える筈です。忘れないこと、私達が自分の生活の中で出来る限り前を向いて生きていくことが、欠けがえのない出逢いに対する感謝の表現と思います。

Dear 釜ちゃん/石原共生

 私が釜ヶ崎に行く大きなきっかけになったのは、昨年の11月にフィリピンへ行ったことである。フィリピンのダンプサイトというゴミ捨て場で、ゴミ拾いをして生活している人と出会ったからである。そこから、日本にも同じような境遇にある人のことをもっと深く知り、そこで何か出来ることをしたいという思いからである。

 実際釜へ行ってみて自分の思いがいかに浅かったか痛感した。それは、釜の抱えている問題は想像以上に深刻であることが分かったからである。つまり、始め自分がイメージしていた釜は、たんに日雇い労働者が集まっていて、野宿生活を強いられ、バタバタ人が死んでいる場所ぐらいの認識しかしなかった。しかし、今は一言では語りつくせない釜がある。

 今回は喜望の家という、主にアルコール依存症を抱える人の自立支援をしている施設に行った。アルコール依存症を抱える人が10%を越える釜で社会的な問題解決ではなく、今一番必要とされる役割を担っているということに気付いた。そのような個別処遇というか、個人の幸せを目指して、それぞれの施設や団体が役割を担っていく時に、労働者自らが立ち上がり当事者による助け合い(自助グループ活動)などにつながるのだとおもうのである。

 私は、釜のおっちゃんの忘れなれない言葉がある。「お金さえあれば…。」「帰ってもだれもおらへん…。」この言葉に深いおっちゃんらの苦しみ、悲しみ様々な思いが沢山込められていたように思う。この言葉に私は思わず涙したのを覚えている。おっちゃんらには何の責任もないのに、今の生活を強いられている。それは、この日本社会がもっている矛盾。底辺で苦しんでいる人がいつも犠牲になる。その行き場のない怒りが私の心を支配している。それと同時におっちゃんらの痛みが“肝苦るさん(チムグるさん)”(人の痛みを自分の痛みとして感ずる心)として私の心を包んだ。

 それでは、これから帰って何が出来るだろうか。まず、おっちゃんらの存在を覚えて祈る。今与えられた物や時間を最大限生かして使う。そして、自分の助けや愛を必要としている人に出会ったとき、すぐに手を差し伸べることだと思った。次に、釜で出会ったおっちゃんやSCM研修生のメンバーから学んだことを、自分が身近で取り組んでいる障害者や沖縄・ハンセン病のことを考えていくときに生かしていくことが出来れば、その出会いはムダではないと思う。そして、自分の言葉で自分の見た釜をありのまま伝えていきたい。

最後に、釜でであったおっちゃんやSCMのメンバーに心から感謝の気持ちを込めてこの言葉を送りたい。ニフェーデービル(ありがとう)

本当にあっというまの研修/小坂孝寛

本当にあっというまの研修だった。この研修で多くの人と出会い同じ何かを共有できたこと。そのことを大切にしていきたいと思う。この研修では常に自分というものが問われていたように思う。釜ヶ崎のおいちゃんやおばちゃんの発するなにげない言葉ににじみでている生活や研修を共にし仲間たちとの話の中に自分を見つめなおすことが多かった。そのとき自分の中にある普段気付かない気持ちに気付けてよかった。これからもみんなとかかわりをもちつづけたい。

よくわからないものがいっぱい/中村香

 笑った。普段も笑っているけど、ここに来て、もしかしたら人生の中で一番笑った9日間だったかもしれない。何がおかしいって、みんなおかしいよ。めちゃおもろいもん。みてたら。私、はじめて見たのかもしれない。個性というか、人を、というか。

 なんで見れたのか。全部は分からないんだけど、釜をみたのと関係があると思う。

 釜へははじめて足を踏み入れた時の衝撃に目がギョロギョロした。海外に行ったときよりもギョロギョロしていた。「なんじゃこりゃー!」どこを見てもおっちゃん、おっちゃん、おっちゃん、おっちゃん、おっちゃんの嵐だった。(もしくは海)。しかも、いつもみているおじさんとかじゃなく(サラリーマンとか)、そこに居たのは釜のおっちゃんだった。釜のおっちゃんはいわゆるホームレス。はっきり言って、洋服とか、身体とか、汚れている人が多い。髪の毛ボサボサだったりヒゲボーだったり、着れたら何でもいいってかんじの洋服だし。じゃあ、私はどうなんだろう。髪の毛はキレイにしなきゃおしゃれはしなきゃ、

「くさい」って言われたらいやだからいいニオイさせなきゃ。そうやっていつのまにか自分のまわりには何重もの層がぐるぐると私を囲んでいた。おっちゃん達にはそのぐるぐるがなくてそこにいたのは人間だったと思う。釜にいて、私は開放された。自由になった。知らない人に普通に声をかけれたり、目が合ったらほほえみあったり。おっちゃん達の笑い、ほほえみは自然で、心からあふれ出て顔をゆがめる。私はただ単に顔をゆがめるときが多い。(そんなとき心は悲しんでいたかもしれない。)「あ〜れ〜殿様おやめ下さいまし〜。」ぐるぐるぐるぐるほどかれて行った。

 釜は釜であり釜なのだから、私はもうどこともくらべたくない。私達の生活を基準として考えて上か下かを言うのはおかしい。国がどうだろうと法律がどうであろうと、今の私達の生活はそもそも普通じゃなくて、間違ってて死んでるんじゃないの?権利を保障されてる私達、権利は守られてもだからどうなんだろう。幸せ?不幸せ?権利を守られていようが守られてなかろうが生活が豊かであろうか貧しかろうが“男だから女だから”だろううが釜であろうが神戸であろうが、幸せなのは、自分。恋人いなくても、幸せになるのは自分。

 あーーー!もう何なのだ!!私達はおっちゃんに何をもらったんだろう。一緒にしゃべってて、目をずっと見てて、それから表情というか、人の顔、人間の顔を見て、そこにあったコップ、ビールびん、机、まわりに居たおじさんとか、自分の持ってたみかんとかその皮とか、自分の手さえも、一瞬だけ見えてん!!何かが!!全体が!つつみこむあたたかさというか、それぞれの別々が一つにつながるというか全員全体というか、ぶわあっっって。3:00頃おじさんと別れるとき、私泣きそうになって、明日帰るんだけど、きっと今日で、今が最後で、こんなに仲良くしてくれて、いろいろ話してくれて、おっちゃんが全部が、私に向かってくれて、おじちゃん全部を私に見せてぶつけてくれて、とにかくお別れが悲しかったのです。今も、とても会いたい。おじちゃんに、釜に。

 私が一瞬見えたのは、釜のおっちゃんの優しさ、人間らしさ、生きる力、おっちゃんがいたから、私は見えたのだ。釜にはそういう、私達を解放して自由にして何かを本当のことを見せてくれる力があるんだと思う。

 ある、仲良くなったおっちゃんが言うことには、なんとかお金くれへん? 私は何もできなかった。それにお金をあげるためにきたんじゃないのは自分の中で明らかやった。とても悲しくなった。おじちゃんは、私じゃなくて、私のぐるぐるが見えてるようで。背負っているものを見てるようで。何もできないからそこを去ろうとした。

 そのときおっちゃんは言った。

「すまんなぁ 迷惑かけてほんまにありがとう。ほんまにありがとうなぁ。声かけてくれて、ほんまに嬉しかった。」

 酒のニオイプンプン。朝から飲んでる。こしはいたいし、仕事はないし、姉さんに何十年ぶりに電話しても切られちゃうし。本当に困ってる。「私に金くれ。」って言ったおっちゃんの気持ち。

 釜にはいろんな人がいる。私は優しくて仲良くしてくれるおじさんにしか会わなかった。おっちゃん達は「ええ人もわるい人もおる。」っていう。人間ってそうだと思う。でも、仲良くしてくれなくて優しくない。こわいおっちゃんも、人に優しくできない何かがあるだろうし、私達がすぐに気付かない優しさを持ってるかもしれないし。

 私の友達にも、ええ人、わるい人 好きな人キライな人おるけど、わるい人は本当に悲しんでいて本当は優しいのかもしれない。 と、いろいろと考えさせられた。

 愛って、もらったら、自然に自分からあふれ出て、他人におよいでいくと思う。もあぁ〜って心の泉からあふれてあふれて。

 試行さくごして、よく分かんない。まとまりなんかつかなくて道が見えない。私はそう。でも、みんなもそうなんだ。強く感じた。みんな何かを求めて生きてる。私も何かを求めてる。

 それは釜にある。もんでも生野にあるもんでも、どこかに行ったらあるのではなく、どうかしたらあるもんでもなく、ずっと昔から、今もこれからもずっと一人一人の心にあると思う。

神様、お父さん、おかあさん、本当にありがとう。沢山の感謝。愛をありがとう。

釜ヶ崎に来て本当によかった/堀金博

 僕は、今回、釜ヶ崎に来て本当によかったと思った。釜ヶ崎のことは、以前から僕の住んでいる寮の先輩から聞いて一度は来てみたいと思っていた。実際来てみて体験した釜ヶ崎は不思議な世界だった。大勢の中高年のおっちゃんたちが出歩き、屋台とちょっとふるくなったビジネスホテルが立ち並び、路上に毛布をしいて生活している人々がいた。何人かのおっちゃんたちと話をしたりもした。気さくなおっちゃんもいたし、僕らのことをあまりよく思っていないおっちゃんもいた。みんな精一杯生きていたし、自分をつくって見せたりなんかせずにあるがままに生きていた。そんなおっちゃんたちと話をしていると、僕がなくしてしまったものをもっているみたいで羨ましさえ感じた。

 そんなおっちゃんたちは社会を支える存在だ。けれども行政はそのおっちゃんたちを邪魔者扱いする、理不尽なやり方でおっちゃんたちの生活を追い詰めていく。僕には、どうして行政がこんなに人間性の豊かなおっちゃんたちに対してそんな仕打ちをするのかが理解できない。そしてそんな無神経で自己中心的な行政に対して怒りを覚える。

これから、僕は自分の場所に戻って釜でのことを周囲のみんなに伝えていきたい。同じ日本の中にも、釜のことを知らない人たちはたくさんいる。そんな人たちに釜の存在や状況やおっちゃんたちのことを伝えていきたい。勿論、機会あるごとに炊き出しや夜回りなんかにも参加していきたい。でも、まずは僕自身、今以上にもっと釜のことを勉強してほかのみんなに伝えていきたい。とりあえずは、それが今の僕がすべき最大の「仕事」だと思っている。

自分の目で/越山香里

 自分の目で釜ヶ崎がどんなところか実際に見てみたいということでSCMに参加しました。自分の言葉で釜ヶ崎のことを話せないことに疑問を感じていました。人や物事に出会って、感じて、考えて、自分の考え方、関わり方を見つけたいと思っていました。きっと本当の自分と向き合えるだろうと思っていました。きっととても苦しいだろうと思いましたが、乗り越えたいと思って参加しました。

 釜ヶ崎で一人のおっちゃんに出会いました。おっちゃんの前では、とても素直になれました。目を見てるだけで涙が出て、おっちゃんも私のことを受け止めてくれたことが分かりました。おっちゃんにはいろいろなことがあったのだと思うから、それを全てわかったなんてとても言えないけれど、気持ちは通じ合ったような気がしました。「がんばれよ」「幸せになってほしいと思っているよ」「応援してるから」こんな言葉と気持ちをいっぱいもらいました。おっちゃんはよく笑っていたけどその笑顔の中に悲しみ、苦しみ、淋しさ、強さがいっぱいつまっているのを感じました。おっちゃんと「また来るよ」って約束しました。また必ず釜ヶ崎にもどってこようと思っています。

 シェアリングでは、皆に話すうちに、自分はどんな人間なのか、自分と正面から向き合うことが出来ました。自分と向き合うことでたくさんのことを得ることができましたが、答えが見つからないことも多く、本当に苦しかったです。人にはそれぞれの考え方があり、一つ一つの意見が、私の中に大きく入ってきました。皆の考えを聞いていると、本当の自分の考えがわからなくなり、自分が見えなくなってしまって本当につらかったです。でも、自分の中にいろいろな考えがあるということ、それをそのまま受け入れ、肯定すればいいのではないかと感じました。一方向に考えるのではなく、いろいろな方向から多角的に見ることの大切さを感じました。

今は、いろいろなことがありすぎて、気持ちがいっぱいいっぱいで、自分はどう考えるのか、どんな方向に進んでいこうとしているのか、まだわかっていません。釜ヶ崎で見たこと、話したこと、感じたこと、考えたことを全て持って帰って、ゆっくり消化、吸収したいと思います。元の生活にもどって、自分は何をどんな風に感じるのか、考えるのか、不安もあり楽しみもあります。何か、意識して行動するのではなく、釜ヶ崎で得たことが生活の中に現れてくると思います。

三角公園の炊き出し/木村夕子

 10日前にはじめて出会った仲間が、今ではとてもわかり合えた昔からの友達のような気がしています。皆に会えた今、もう出会わないことなんて考えられません。これっきりにしたくないね。「さよなら」ではなく、「これからもよろしく」です。いつか皆に釜ヶ崎で偶然会えたら嬉しいです。

 釜ヶ崎での研修が4日あった中で、私は最初の一日目は三角公園の炊き出しを手伝い、あとの3日間はふるさとの家でお手伝いをしました。どちらも本当にたくさんのおっちゃんが来て利用しています。どちらにも一緒にがんばって生きようとする人たちがおっちゃんらのためにいます。

 今回の研修で釜ヶ崎に数日間滞在して手伝いをしてみて、あるいは仲間の振り返りを聞いたり話し合う中で、おっちゃんは野宿労働者でもかわいそうな人たちでもない、一人一人が大切な命を持つ存在であることを思い出しました。当然のことなのですが、私は困っている人のために何かしたいという思いをいだきがちですが、おっちゃんらは確かに苦しい生活の中にあるけれど、決して単に苦しむ人や単なる野宿者でもない、おっちゃんはおちゃんであるしそのおっちゃんは今こんな生活をしているという一部分を持っている存在だということに気がついたように思います。

 もう一つ、釜ヶ崎のおっちゃん同士、一緒にがんばりましょう!と言いあっているのに私は感動しました。私もだれかと一緒にがんばれるようになりたいと思っています。時間がたりなくて言葉が足りませんが、スタッフ、参加者のみんな、協友会の方々や関係者の皆様に感謝します。

釜ヶ崎での7日間/黛八郎

 釜ヶ崎での7日間で非常に多くの体験をした。それらの事はまだ全然消化できてないし、いそいで消化しようとも思わない。これからの生活の中で少しずつ消化して自分の中に取り入れていきたい。

 この研修を終わってみて、「釜ヶ崎って何なんだ?」よけいにわからなくなった。この研修が始まるまでは、研修が終わったあとも釜ヶ崎に関わっていこうと思っていなかったが、今は、もっと釜ヶ崎のことを知りたいと思うようになった。なんかうまいことやられたってかんじでちょっとくやしい。しかも釜ヶ崎が呼んでいるなと感じた。今回の研修で、炊き出しをしたり、子どもの里で子供と遊んだり、釜ヶ崎をウロウロ歩きまわっていて、いろんな人と出会い、釜ヶ崎っていろんな人がいるなと何度も気付かされた。これらの出会いを通して自分が感じたことや、考えたことが消化できたころにまたみんなとあってはなしをしたいと思う。最後にこの研修で私に影響を与えてくれた研修生、スタッフ、そして釜ヶ崎に住む人たちに感謝したい。

「日雇のおっちゃん」の存在/田中理恵

 私は19年間大阪(堺)に住んでて、日雇のおっちゃんの存在を知ってても、何故彼らがあそこにいるのか、何故世間の人々から疎外されているのか誰に聞いてもきっと答えてくれないだろうし、又誰にも聞けない自分が、そこにいた。おっちゃんらの存在を知ってても見て見ぬふりをし、おっちゃんらの存在を忘れて生きていた。それはおっちゃんだけのことに限らず、きっとスラムの子どもたちや、戦災の中で生きてる人々や飢えや渇きや差別や偏見、抑圧やしいたげや苦しみや痛みや、孤独や不安、恐怖やおびえ、絶望の中で生きている人たちの存在をテレビの向こうの、紙ペラの向こうの遠い遠い存在として、自分の生きているところに直接かかわってこない触れない存在として私は過ごしてきたのだろう。だけど想う。みんなをみんな想えなくても、まず私の隣の人から、目の前にいる人から想っていこうと。目の前にいる人を存在ないものとして生きていくことはなんて悲しいことなんやろうと。それがおっちゃんに愛にいこうとおもったはじまりだった。

 今の気持ちをこの紙に書くことはあまりにも難しすぎる。たとえあえていうならば、一人一人がいろんな人生を送って来、それぞれが深い傷や痛み、悲しみ、独りぼっちの中で何度も何度も諦めたり絶望したりすることがあっても、それでも生きることをやめないで、生きていくことを選んだ―――。

 家族から友達から社会から見離され、見下され、一定の枠組みの中できめつけられても、生と死が一日を大きく揺さぶっても、それでもおっちゃんがここにいる。目の前で生きていることを私は信じる。おっちゃんの真っ黒で血が出てまるでの、「死んだ手?」と思ってしまうくらいの、だけど確かに動くその「手」を信じる。握手した時の手のぬくもりを私は信じる。灰色だけどその、目の向こうを信じる。酔っぱらってぐでんぐでんに寝ころんでた、大声で叫んだり、唄ってたり、寒い夜うずくまって眠ってた、笑いじわや、「何しに来たんや、姉ちゃんが一人歩くとこちゃうでー」とどなった声を釡ヶ崎の月を私は信じる。おっちゃんと話した、おっちゃんと歩いた、一緒に涙を流した、おっちゃんが、私が釜ヶ崎で生きてた。その事実というか、本当のことが“ある”。日本には素晴らしい所も美しいところもたくさんある。だけどもしこれか先誰かに又自分の家族や友達、愛する人や子供に「もんちゃんは今までに行ったところでどこが1番いい?」ときかれたら「釜ヶ崎」と答えるだろう。この5日間の日々が私にとって、又同じ日々を過ごした研修生にとって、関わりを持ったおっちゃんらにとってきらきらと光り輝くものとなるように私はまた一人でこの街をぷらぷらと歩くだろう。

2回目の釜ヶ崎/中山誠

 こんにちは。ガラカブこと、中山誠です。今回で釜ヶ崎は、2回目だった。最初は夜回りに来て、半日いた。相変わらずおっちゃんだらけで、汚くて、臭かった。今回のことで見えなかった釜が見れた。

 釜の人達には色んな人がいる。いいおっちゃんもいれば、悪い人もいる。研修の間、色んなおっちゃんの話を聞いた。無理に聞くつもりはなかったが、僕には語ってくれた。みんなすごく濃い人生を送っていて、ほとんどの人が生きるために、この町にたどりつき、必死で生きていた。

 でも、そんなおっちゃん達は差別を受けていた。労働のこと、生活のこと、医療・福祉のこと。不況である現在、働くこともできずに死んでいるおっちゃん達がたくさんいた。

 そんな釜では、色々な団体が支援活動を行っていた。炊き出し、夜回り、医療相談、バザーなど。研修でその活動のお手伝いをしたのだが、本当に命を救う活動だと感じた。一つのおにぎり、一枚の毛布がおっちゃん達には必要なのだ。そして、活動をしている人達を心の底からすごいと思った。長い時間と労力を費やして、おっちゃん達に愛を与えていた。

 自分には何ができるだろう。現状を変えるためには、まず何を変えよう。行政?市更相?おっちゃん達?今まで何も知らなかった自分達?今も何も知らない多くの人達?僕達には、まだまだ、知らないことがたくさんある。でも、少しでも知った僕達だからできることがある。多くのみんなと一緒に考えていきたいねえ。

P.S.第22回のメンバーのみんな、ありがとう。みんなすごくおもしろくて、すごく意識が高くて、色々と学ばされました。本当にありがとう。熊本と、すこし遠いですが、また会いたいです。

夕方の釜ケ崎/金智恵

 釜ヶ崎についた時は夕方なのにおじさんがいっぱいウロウロしていて、公園には炊き出しに並ぶおじさんの行列ができていた。私の日常とのギャップと男性の多さとおじさんからの注目とで恐さを覚えた。一人で歩くことができるだろうか…とも思った。でも、人それぞれおかれている状況、もっている雰囲気は違って、それぞれの人生があった。 生きている意味がないと言うおじさん、朝から酒を飲むおじさん、働くおじさん、私を娘のように可愛がってくれるおじさん、何しに釜に来たんや!!って怒るおじさん、行政に対して怒るおじさん、仲間の為に生きるおじさん……。 色んな人がいるんやって、みんな私と同じく今を生きている人間なんやって、すーっと分かると恐さは消えていった。

 でも、同じように生きているに、釜ヶ崎のおじさんは、他の地域とは違う福祉の仕組みになっていて、生活保護を受けることでさえ、病気を治すことでさえ、仕事をすることでさえ、本当に大変だった。私の知り合ったおじさんの友達はポロポロ死んでいく。

 人間を商品としてしか捉えていないかのような行政に対してイカリを覚えた。そして、この地に足を踏み込むまでイカレなかった自分に対しても情けなく思う。

野宿をしているおじさんに“オレも頑張るから、頑張りや!応援するよ!!”って言われたことを忘れずにいたい。

<生野研修生の部>

「大切な場所」/ 伊津野千秋

 この研修を通して“生野”はあたしにとって大切な場所となった。

アトリエIKには本当にいろんな人がいて、人は一人一人違っててあたり前なんだけど、そのいろんな人がまざり合いながら、でもそれぞれの個性が生きてていいなあと思った。あたしも自分はこういう人間なんだ!!っていえるように、これから自分をみがいていきたい。

 研修の始めの方は、知識不足のせいもあって、いろんなことを知るたびにとてもショックをうけてばかりでよく泣いてたけど…しばらくして少しずつだけど考えられるようになってきて、在日韓国人の人達の抱えている問題とか生野の現状とかを身近なものとして思えるようになった。それはきっとまわりに一緒に考えてきたステキな仲間達がいたから、あたしたちがもっとよく考えることができるように在日韓国人の方々をはじめいろんな人達が自分について話してくれたから、できたと思う。なかなかうまく言葉にすることができないことが多くて、それでも真剣に耳を傾け、うけとめてくれてとてもうれしかった。自分の気持ちや考えが正直に言えたと思う。

 やっぱり人と出会うのはいいな〜って思う。またいつかこの生野に戻ってきて、みんなとも会えたらいいな。

 ここで学んだことをいろいろな人に話して興味をもってもらいたいと思う。

 とりあえずたくさんの人にここでのことを伝えることが、今の私にできることだろう。

あと一日多く日程が組まれていたら/豊田佳子

 この研修に参加して、人と人とのつながり、あたたかさを感じることが多かった、始めは、知らない人と過ごすことに不安があったけど、本音でシェアをしているうちに、仲が深まってきたように思う。

 労働でも、在日韓国人と日本人ではなく、一人の人間として、つき合いができたのではないだろうか。相手の意見を聞いたり、自分の意見を相手に伝え、知ってもらうことで、分かりあえたと思う。

 発題の中で、印象に残っていることは、金さんの話だ。私にとって名前は、一つだけど、在日の人にとっては、名前一つとっても通名と本名の使い分けに思い悩むことがある、とは気がつかなかった。私は、生活する中で、民族を意識することはなかった。それが日本人ということなのだろうか。金さんの話を聞いていたら、在日の人にとって、日本に住みやすくあるために通名を使わざるを得ない社会構造に違和感を覚えた。両親がいろいろ迷ってつけてくれた名前を誇りに思っている。本名で差別されるのはおかしいし、通名だったら受け入れられる、というのもおかしい。人は違った環境で育ったのだから、一人一人は違う人間なのは、あたりまえだと思う。

 研修全体では、普段、考えないようなことも、目をそらしがちな問題も、取り組めたように思う。共に考え、悩む中で、心に残ると思う。あと一日多く日程が組まれていたら、もっと釜ヶ崎の人とも話せたのに……というのが本音だ。

 生野には来たのが初めてだったけど、生野を通ったら、KCCや労働先で、お世話になった人を訪ねて見たいと思う。考えるきっかけになったのはこの研修だった。始まる時に“期待することは?”と聞かれて、私は“いろいろな人との出会い”と答えた。それが、実現できたよかった。

「僕は外国人だった」/延商準

 SCMでいろいろなことを感じて本当によかったと思います。

 発題で外国人労働者について聞いた時初めて僕が日本では外国人だと思いました。今までは一度もそんなこと思ったことなかった。SCMも同じだと思います。僕が日本へ来たから僕は外国人だった。だけど僕は分からなかった。

 釜ヶ崎とか生野などそんなところへ行ってわれわれはいろいろな問題を分かったと思います。でもふつうの生活でもそういういろいろな問題はあるはずだと思います。だからSCMの後、自分の現場でも忘れないで…。

生野研修を終えて/清水のぞみ

 在日について研修を受けることが決まってから自分的に差別のこと考えたりもして、私は絶対に差別しない、在日の人とも、心を許しあえる関係になる…とか思ってたけどどうも私は差別していたし、日本人という“普通”とか“優越”みたいなのを無意識にもっている…ということに気付いた。

 ガッツーンとした衝撃ではないけれどジワジワーっと、シェアで話しあうことを通して、講師の方に質問する時とかにあぁ、“これが私の差別なんだなぁ”と思った。

 工場では私は精一杯働いたと思ってるけど実際は足を引っ張っていただけでしょうね。

 塗装の仕事は夏はものすごくツラいと思う。シンナーの匂いも絶対キツくなるだろうし…。私は労働する目的がわからなくて、あんまり在日の話もできなくて、ただ社長さんと関係を持てて工場の仕事を知ったという感じだけれど、6年前に同じ工場で働いた人は“モヤモヤしたものが残った”と言っていた。“差別によって仕事が選べない”ということを肌で感じられたんだなあと思う。

 そう考えると、私の研修ってなんだろうっ…て思うのだけれど全てはこれからだということで まとめておく。

 発題は本を読むよりも現実的で、労働の時間よりもしっかり質問ができてよかったと思う。発題された方も在日への問題の取り組みや意識は様々でかなり勉強になった。

 自分の差別意識を気付かされたのも発題だったし、夜は有意義な時間だったと思う。

 以上が私の研修だが、一言では言えないし、まとめることも難しい。書いた以上のものを自分自身で感じたし、皆に教えてもらった。

 大学に戻ってからのこれからが、この経験を生かすために大切だと思う。

夜中までのシェア/関根麻里

 この研修に参加して自分が思った以上にたくさんのことを考えたし、話し合った。今まで自分の意見を持っていたけれど人に聞いてもらうことをしていなかったので人に伝えることが難しいとわかった。でも難しいからといって逃げていては自分はかわらないと感じた。話すことによって相手がどのように思うんだろうということも大切で、シェアがなかったら研修が良かったとは感じなかったと思う。スケジュールは9〜5時まで労働、そのあとは夜中までシェア、かなりつらかったけど充実していたので睡眠不足も気にならなかった。新井商店での労働がとても楽しかった。仕事は単純でつらかったけど、工場のおばちゃんとおっちゃんとの話が自分にとってすごく心に響いた。在日という問題の前におばちゃんとおっちゃんがいたけどいつの間にかそんなことは関係なく、話すことができた自分を見つけることができた。また来るねと言ったら又来いやと言われ気持ちよく労働が終われたけど、生活するためにお金を稼ぐのは大変だと働いて初めてわかった。

今までとは違った出会いをしてこんなにも仲良くなれるとは思わなかったけど何も知らないからこそ遠慮せずに話し合える。そういう場はなかなかないのでとてもこの研修は自分を成長することができた。また、みんなに会える日を楽しみにしています。

もどる