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青丘文庫研究会月報<233号> 2009年6月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。=========================================================================

 

●青丘文庫研究会のご案内●

 ■第313回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 6月14日(日)午後1時

 「横浜福音印刷合資会社と在日朝鮮人留学生の出版史

               (1914-1922)」 小野容照

 ■第266回朝鮮近現代史研究会

 6月14日(日)午後3時

 「在満朝鮮人問題に関するイギリス外交報」 梶居佳広

 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

六十の手習い    中川健一

 

 2年前に通信社を定年退職、嘱託になった。ひまができたので朝鮮語を一から習おうと語学教室に入ったが、生徒の大半は韓流映画ファンの女性で、私は彼女たちの猛勉強ぶりにとてもついていけず、落ちこぼれてしまった。青丘文庫研究会にも時々参加しているが、報告のレベルが高くて晩学の身にはチンプンカンだ。しかし一昨年の夏は済州島ツアーに同行、旧日本軍のトンネルにもぐったり、漢拏山にあえぎながら登ったり、馬肉のフルコースをたらふく食ったり……と楽しい体験をさせてもらった。今夏のツアーにもまた参加したい。

 さて、元通信社記者という職業がら、私の関心テーマの一つは、戦前の日本の新聞が朝鮮問題をどのように報じたかだ。故・姜東鎮さんの労作『日本言論界と朝鮮』(法政大学出版局)を読んで以来、実際の記事に当たって調べてみたいと思っていたので、定年後、図書館のマイクロフィルムで新聞を読み始めた。まだ韓国併合から3・1事件ごろまでの大阪朝日と大阪毎日しか読んでいないが、興味は尽きない。

 例えば朝日新聞は韓国併合の翌年春、京城(現・ソウル)特派員・岡崎養之助の記事「寺内総督論」を15回も連載した。その内容は「総督の不評判」「警察政治の弊」「言論の圧迫」「総督の器にあらず」など、寺内初代総督を手厳しく批判したもの。統監として朝鮮に乗り込んだ寺内は、徹底した弾圧で併合を強行、その後も武断政治を敷いた。言論抑圧もその一環で、朝鮮の多くの新聞を廃刊させただけでなく、日本の新聞も朝鮮への持ち込みを再三禁止。言論総督府≠ニ朝鮮人に呼ばれ、憎しみのまとだった総督府の御用新聞「京城日報」を日本言論界の大物・徳富蘇峰に育成させた。

 岡野の記事「寺内総督と朝日新聞」によると、寺内は京城駐在の日本人記者を招き宴会をした際「今の日本の新聞ほど品位のないものはない。政治家を罵倒して何の利益があるのか。ことに朝鮮にいる日本人は出稼人だ。母国の新聞が自国から来た出稼人を非難罵倒するなど、とんでもない。特に大阪朝日がひどい」と攻撃した。これに対し岡野は「(総督の言い分は)徳川時代の為政者の言い分で、決して明治の聖代に言うべきでない。私たち新聞記者は天皇陛下から授けられた言論の自由の権利で、陛下の大御心を体して記者の職務を尽くすだけだ」と反論。これに対し寺内は、笑って「なぐりあいをやろうと言うならいくらでもやるよ」と答えたという。

 当時の日本の新聞論調は、もちろん日本の韓国併合を賛美する内容で、岡野の寺内批判も、併合をもっとうまくやれという趣旨のものだ。それでも寺内の総督時代の大阪朝日に対する怨恨が、のちの「白虹事件」の遠因となったといわれる。「白虹事件」とは、寺内が首相時代に起きた米騒動に関する記事で、大阪朝日が「白虹、天を貫く」と書いたのが「不敬に当たる」との言いがかりで弾圧を受け、同社のリベラルな編集方針が一変させられた。

 このほか戦前の新聞で発見することは多い。2時間ほどマイクロフィルムを読むと、もう老眼がショボショボしてビールが飲みたくなる私だが、青丘の先輩・後輩のご教示や刺激を受けながら、ぼちぼち「六十の手習い」を続けたいと思う今日このごろだ。

 

●第262回朝鮮近現代史研究会(2009.2.8

韓国SBS放送『日本軍の凄絶な復讐尹奉吉はこのように銃殺された

    (尹奉吉生誕100周年)』の鑑賞と大阪での尹奉吉    塚ア昌之

 

 2008621日は、韓国の抗日英雄である尹奉吉生誕100年目にあたる日であった。当日、韓国SBS放送は『日本軍の凄絶な復讐尹奉吉はこのように銃殺された』という50分の特集番組を放映した。私はその番組に、尹奉吉が死刑に処せられる予定で送られてきた大阪での様子を語るためにわずかであるが出演させていただいた。尹奉吉の上海爆弾事件全体については、この番組でも中心となった山口隆氏が二冊の本に詳しくまとめている。

 19317月の万宝山事件、そして9月からの「満州」事変と続くなか、中国人の朝鮮人に対する悪感情は高まっていた。上海臨時政府主席の金九は朝鮮人が日本の植民地支配に抵抗していることを示すべく「韓人愛国団」を組織した。それに加わったのが、193218日に東京の桜田門で昭和天皇に向けて爆弾を投げた李奉昌と429日に上海で爆弾を投げた尹奉吉であった。

 日本軍は「満州」事変の国際的批判をかわすため、19321月、第一次上海事変を起こしたが、中国軍の予想外の抵抗に増派を重ね、やっと停戦にこぎつけた。その「祝勝」会が天皇誕生日の祝賀式にあわせて虹口公園で開催された。尹奉吉はその祝賀式の来賓が並ぶ壇上に爆弾を投げ、白川義則上海派遣軍総司令官を死亡させた。面子をつぶされた陸軍は法的な手続きを無視して尹奉吉を軍事裁判にかけ、死刑判決を下した。

 しかし、死刑執行は簡単なことではなかった。中国や朝鮮での処刑はあまりに危険であった。日本で処刑したとしても、遺骨が奪われ、独立運動等のシンボルになってもまずかった。19321120日、尹奉吉は上海から大阪に移送され、そのまま大阪で死刑が執行されるはずであった。移送直前の17日まで大阪には陸軍特別大演習の観閲のために昭和天皇が滞在していた。そのため一か月以上前から、植民地支配に反対する反帝同盟大阪地方委員会の活動家を中心とした朝鮮人百数十人が事前検束され、大阪地方委員会の組織は壊滅したと認識されていた。

 それにもかかわらず、尹奉吉が到着すると、反帝同盟は尹奉吉銃殺反対のビラをまき、同盟員数を増やしていった。この状況に慌てた軍は、「治安」を掌る東京地方検事局の思想係検事を129日に東京から呼び寄せ、大阪の検事と一緒に何度も情報交換の機会を持った。その結果であろう、1215日前後に死刑執行は大阪ではなく、金沢で執行することに変更・決定された。1218日に大阪から金沢に極秘に移送された尹奉吉は、翌朝、人が近づくことのない陸軍作業場で銃殺された。遺体は朝鮮人たちによって取り返されることのないように、常に監視ができ、まさかと思われる場所である金沢の野田山陸軍墓地の管理所から外に下りる階段の下に埋められた。19463月に朝鮮人たちの手によって発掘されるまで、人々の足で遺体は踏みつけられたのである。

 

●第312回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2009.5.1.

ニューカマー韓国人女性のライフヒストリー:

 離婚から渡日へ、海女と韓国料理店と儒教とジェンダー   李裕淑

T 研究目的

 人々が国境を越えて生活の場を求めていく理由には大きな社会や経済の流れがあるが、人々の意志決定過程にはそれぞれ個人的理由があり、その生活実態も個々に違う。今まではマクロ的な視点で研究が行われてきたが、ここでは個人のライフヒストリーを聞き取り研究した。

 日本にはオールドカマーと呼ばれる旧植民地政策の影響下に移住した朝鮮半島出身者とニューカマーと呼ばれる1965年(日韓国交正常化)以降に移住した人々がいる。オールドカマーとニューカマーは渡日してきた歴史背景も違い、アイデンティティも違う。ニューカマー韓国人女性を理解するには儒教社会の影響とジェンダー的な側面からの研究が必要である。

 ここでは150歳代以上、2)韓国で離婚している、3)再婚をしていない独身女性であり、ライフヒストリーを全て使って良いと許可を得た3人を中心に分析した。50歳代以上の女性を選んだのは、彼女たちが生きた1950年前後から現在までの時代は韓国が植民地から解放され、軍事政権下での民主化運動を経て文人が大統領になった時代であり、女性として生きにくい時代を生きてきたこと、彼女たちが自分たちの人生目的を達成できる年代に達したこと、自分の人生を冷静に振り返ることのできる年代であることを考慮した。

U 三人の韓国人女性

1.済州島生まれの海女だったAさん

 1951年に済州島で生まれ育ち、26歳で恋愛結婚して3人の子どもにも恵まれたが、夫が浮気をしたことから離婚をした。子どもたちは父親が引き取った。離婚後すぐに観光ビザで大阪に来て2、3ヶ月工場で働くが強制送還される。今度は海女として日本に来たが、宮崎や三重で海女をして在留許可の期限を超えて不法滞在した。その後、キムチ屋などで働き、目標額2千万を目指して、貯金しながら子どもに送金もした。1千万円貯めたところで、長男が結婚するので帰ってきて欲しいと言われて、自首して強制送還された。インタビューは自首して自宅待機しているときに行った。

2.全羅南道生まれて日本でキムチ店を経営するBさん

 1954年にソウルで生まれ育ち、高校を出てすぐ高校時代から交際していた人と恋愛結婚したが、夫が真面目に働かないので離婚した。子どもはいなかった。離婚後すぐに大阪の日本語学校に留学した。日本語を学んだ後、日本の大学の観光科に入り、卒業したが、韓国ではすでに観光ブームも去っていたので、日本で苦労の末、自分の土地と店を得、韓国料理店を二軒経営している。

3.ソウルで生まれて日本で焼き肉店を経営するCさん

 1948年に全羅南道で生まれ、父親が亡くなったので、母とともにソウルに移り住んで高校を出た。21歳の時に見合い結婚をした。夫の暴力が原因で離婚。皮革工場などを経営した後、日本との貿易で売掛金を日本の会社に踏み倒された。子ども二人を引き取っていたが、実母に預けて日本に来る。日本では熱心に教会に通っている。キムチ屋を経営して全国に販売発送している。

V 彼女たちの渡日要因

 3人の共通点は同じ年代で同じ時代を生きている、日本に渡ることを決心することになった契機には離婚したことが大きかった。しかし、生まれ育ちが地方と都市、学歴も小学校卒、高卒、大卒と違う。入国も観光ビザ、留学生ビザ、ビジネスビザなど違う。子どもがいる、いない、信仰の違いなど、3人三様である。

 彼女たちが渡日を選んだ背景には儒教的な社会から抜け出したいという思いと離婚したことにより周辺に追いやられた立場を自らの力でアップしたい、経済力を得て子ども達を教育させたいという強い思いがあった。

 

■第4回在日朝鮮人運動史研究会・日韓合同研究会ご案内■

    日時:2009年7月24日(金)午後1時30分〜25日(土)正午

    会場:神戸学生青年センター TEL 078-851-2760

       阪急六甲下車徒歩3分、JR六甲道下車徒歩10分

    費用:参加費1000円(資料代込)

       懇親会会費5000円(学生、韓国からの参加者は2500円)

    宿泊:神戸学生青年センターで宿泊できます。(2900円、相部屋)

    主催:在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

       在日朝鮮人運動史研究会関東部会(代表:樋口雄一)

       韓国民族問題学会(代表・崔永鎬)

 

【今後の研究会の予定】

 7月12日(日)、在日(黒川伊織)、近現代史(未定)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 7月号以降は、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           そろそろ梅雨入りのようですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。月報の発行はあいかわらず研究会の直前になっていて、失礼しています。そのうち、追いつくかもしれません。暑い夏がやってきます。みなさま、ビールの飲みすぎには注意しましょう。(飛田)

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