======================================================================== 青丘文庫研究会月報<231号> 2009年4月1日 発行:青丘文庫研究会 〒657-0064
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078-371-3351 <巻頭エッセー> 北摂を歩く 高野昭雄 私は、幼少期から高校時代までを、大阪府下・北摂のいくつかの町で過ごした。当時は高度成長期であり、大阪万博もひらかれ、周囲の景観が急速に変貌していた。おそらく当時の日本人の多くが、こういった三大都市圏近郊の衛星都市で生活をはじめたことと思う。今に比べると自然が多く残っていたとはいえ、当時の私には、あまり好奇心をかき立てられるような魅力は感じられなかった。そのため時折訪れる、祖父母の住む歴史都市・京都への憧れがふくらみ、それが現在20年間以上京都市内に居住していることにつながっているのだと思う。 昨年、会員の塚崎昌之氏の案内で吹田や高槻、枚方、交野といった地域のフィールドワ−クに参加させていただいた。いずれも私にとっては、小学校の遠足で訪れたり、通過したことのある懐かしい場所であった。そういった場所に、戦争の傷跡や在日朝鮮人の足跡が数多く残っていることには驚かされた。歴史的には一般的にあまり注目されない衛星都市のあちこちを歩くことで、近代日本の歩みのようなものが感じられた。塚崎氏をはじめお世話になった皆さんにはこの場を借りて御礼をいいたい。 『在日朝鮮人史研究』(第38号、2008年10月)にも、塚崎氏の現・豊中市を対象とした論文が掲載されており、勉強させていただいた。足元の地域に根ざした研究は、これからますます重要になることと思う。私自身も努力していきたい。 第263回朝鮮近現代史研究会(2008年12月14日 ) ジョージ・ケナンと朝鮮戦争 李 景a アメリカ社会の「良識」ともいわれるジョージ・ケナンは、1947年国務省に新設された政策企画室長に抜擢された。ケナンは、米国外交の参謀として、とくにソ連、東欧専門家という立場から政策の立案、将来展望の提言など重責を果たしていく。 ところが、1949年国務長官がマーシャルからアチソンに変わると、政策企画室の存在に変化が生まれた。従来の「世界の流れを予測して長期外交戦略を描き、国益や価値の実現を目指す」責任のある政策決定の機関から、その立場が降格した。これまでは「意見を求められ、その自由を認めて尊重する」機能が与えられ、独自の判断を提示する機関であったが、今や国務省のただの一部署に転落したのである。 その「存在理由」が問われていただけに、ケナンも自分の進退に悩む。ケナンは、アチソン長官を「彼ほどに誠実な人物は他にない。実際、合衆国には彼以上に立派な公務員はこれまでいなかった」と彼を極めて高く評価していた。しかし、政策企画室の独自性を認めない長官とは馬が合わず、結局ケナンは国務省を去ることを決心する。 アチソン長官の就任後、ケナンは朝鮮に関する如何なる政策決定にも参加していない。彼は6月末には国務省を退職してワシントンを離れることにしていた。 彼が朝鮮戦争の勃発を知るのもまったくの偶然であった。6月25日の午後、週末を農場で過ごしてからワシントンに戻った彼は、新聞ではじめて戦争の開始を知ったのである。「誰一人として私に知らせようと考えなかったし、誰にしても私に知らせるべき理由はおそらくなかったのであろう」(『回顧録』)。「マーシャル元帥だったら私に知らせただろう」と彼は考えないではいられなかったと記している。 国務省の官僚として彼は急遽、役所に「走っていった」。そして、国務省勤務の最後となるまで、省内の「主要な会議」に参席して意見を提示し続けた。だが彼は明らかに脇役に退けられ、国務長官の事務室での会合には出ていたが、ホワイトハウスの水準でおこなわれた会合には出席しなかった。アチソンは彼の意見を必要としていたために、彼に政府から退くのを延期するように要請したのであった。 ケナンは米国の軍事的介入を支持した。だが、それは「限定された目的」のためにほかならない。原状の回復、そして軍事的成功を見る場合においても、米軍部隊は38度線に沿う既定の分割線を越えてはならないと主張した。しかし米国の軍事的介入は、この限定された枠を越えて、本来の意図を越えたものに発展していった。 1950年7月、ケナンは討議の席上、38度線以北への如何なる侵攻にも反対する旨を明確にした。彼はこうした考えを押し通し続けた。彼の主張が賛意を得るにいたらなかったのは、ダレスが「政府の安全という立場から、危険でひねくれた意見」だといっしゅうしたのが大きな要因であった。8月8日、ケナンが国務省の上司に宛てた文書は以下の通りである。 「戦い潮が変わり始めた場合、クレムリンはわれわれが38度線に到達するのを待たずに行動をとるであろう。われわれは軍事的に成功し始めた場合、それこそ注目すべきときになるであろう。その場合、いかなることがおきるか予断は許さない。ソ連軍の介入、中国軍の介入、国連による解決への新たな動き、あるいはこの三つを併せたもの。」 その二週間後、国務省をさる直前に、オフレコの記者会見でもケナンはこうした見解を繰り返した。北朝鮮に敗色が見えたとき、ロシアはどのような反応をするか? 「米軍が38度線を越えて北朝鮮に進出するならば、ソ連はそれを坐視しそうにない。直接に「参戦する」か、中国軍が入って来るかも知れない。米国が朝鮮半島を席巻し、ウラジオストクから4,50マイルにまで迫るのを放置するわけがない。」 当時、米国はソ連とは政治的解決について交渉することに何の関心ももっていなかった。米国は、ソ連は新たな世界大戦に突入する決意をいだいていると信じて疑わなかった(『アメリカ外交50年』)。ソ連がすでに悪の体現者と同一視されていたために、当時の米国社会の観点からすれば、悪と交渉し妥協することが善いこととは思われなかったのかも知れない。北朝鮮の侵略が行われたとき、米国は、この行動はナチがヨーロッパ制覇の目的で行った1938年のミュンヘン危機に比すべきもので、ソ連の世界征服の第一着手に他ならないと捉えたのである。米国は、ソ連の指導者が実際に抱いていない目的と意図を持っているかに考えていたことになる。 米国をそのように誤った方向へもっていった背景について、ケナンはソ連にも問題があったと指摘する。大戦後、ソ連は米国に匹敵する軍備の縮小を行わなかったこと、ソ連は東欧諸国に大規模な地上兵力を残し、無慈悲さと残忍さとをもって振る舞っていたこと、さらにその政治的影響力を西欧にまで拡大していったことを理由として挙げている。そして、米国との交渉においてソ連は率直さを欠き秘密主義であったのも、米国にして「飛躍した誤った認識」を助長させる結果を招いたのではないかと述べている。 ケナンに言わせれば、西ヨーロッパに対するソ連の軍事的脅威は存在せず、それはまったく信じられないものであった。周知のように、米国はソ連と対話せずに、国連を強引なやりかたで利用して、自分の軍事的介入を正当化していった。その軍事的介入は、当初の「限定された枠」を越えて、熾烈な戦争へと発展していった。 最後に、ケナンは米国の政治家・官僚などの人物評価に関して極めて慎重な姿勢をとっている。見解が明らかに異なる人物にも、概して好意的である。上司のアチソンには、彼の精神的な側面にまで配慮して接していたのは、驚きである。 第310回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2009年2月8日) 『ヂンダレ』『カリオン』再論 宇野田
尚哉 昨年末,数年来の懸案だった『ヂンダレ』『カリオン』の復刻版を刊行することができた(『復刻版 ヂンダレ・カリオン』全3巻・別冊1冊,不二出版,2008年11月,36000円).『ヂンダレ』とは金時鐘を中心として1950年代の大阪で発行されていた在日朝鮮人サークル詩誌(大阪朝鮮詩人集団機関誌),『カリオン』とはその後継の在日朝鮮人同人詩誌であり,さらに『原点』『黄海』という梁石日によって1960年代の大阪で発行された2誌も付録として収めてある.また,別冊には,私と細見和之さんの解説,金時鐘・鄭仁・梁石日三氏による鼎談,総目次,索引が収録されている.この別冊は1冊1000円で分売されているので,関心のある方にはぜひご参照いただきたい. 『ヂンダレ』は,(1)解放後の左派在日朝鮮人運動,(2)戦後日本のサークル詩運動,(3)在日朝鮮人文学など,複数の文脈で今後詳細に検討されるべき資料であるが,前掲の解説で私は(1)の文脈での基礎的な考察を行っており,今回の報告もそれに基づいて行った. 『ヂンダレ』は,日本共産党民族対策部が朝鮮戦争下で全国的に展開した文化闘争の一環として創刊された.現場では未組織の知識青年を組織化しプロパガンダの媒体を作り出すことが目的とされており,中央では各地のそのような文化運動を全国規模で組織化することが目指されていた.そのような動きのなかでモデル・ケースとなったのが,最大の在日朝鮮人集住地猪飼野で発行されていた在日朝鮮人サークル詩誌『ヂンダレ』であった. 『ヂンダレ』とはそのような政治的意図のもとで創刊されたサークル詩誌であったが,最も重要な点は,この『ヂンダレ』が,オルグした側の意図をこえてオルグされた側が自己主張を始めるような場として育っていった,ということである.政治的組織化の論理が働くことがなければ『ヂンダレ』が生れることはなかったが,ひとたび『ヂンダレ』が生れると,それまで詩など作ったこともなかった在日朝鮮人青年たちが詩作を通じて自己を表現する場となり,民戦から総連への路線転換の時期と重なったこともあって,『ヂンダレ』は組織の論理と厳しく対峙する在日二世の自己主張の場となっていった.オルグされた側がオルグした側の意図を超えて自己主張を始めるというこのダイナミズムにこそ,『ヂンダレ』の最も注目すべき特質があると言ってよいだろう. 初期の『ヂンダレ』には,朝鮮戦争下での在日朝鮮人青年の叫びが詰まっているし,後期の『ヂンダレ』からは当時どのように「在日」「二世」という問題が自覚化されていったのかを読み取ることができる.いずれにせよ,『ヂンダレ』は,在日朝鮮人の青年たちが1950年代という時代をどのように生きたのかをその生の声によって知りうる貴重な資料であると言える. これまで,解放後の左派在日朝鮮人運動史については,基本的に政治運動の水準での研究がなされてきたと言ってよいが,しかし,その時代がどう生きられたかを明らかにするためには,文化運動の水準での研究も不可欠であるだろう.私としては,『ヂンダレ』の復刻を,そのような水準での研究を今後深めていくための契機としたいと考えている. なお,『ヂンダレ』発行当時に並行して発行されていた『ヂンダレ通信』は,第1号以外未発見である.所在をご存知の方がおられたら,ぜひご教示いただきたい. 【今後の研究会の予定】 5月10日、在日(李裕淑)、近現代史(李正煕)6月14日、在日(小野容照)、近現代史(梶居佳広)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 【月報の巻頭エッセーの予定】 5月号以降は、塚崎昌之、土井浩嗣、中川健一、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。 【編集後記】 みなさん、花見も無事?終わられたでしょうか? 青丘文庫研究会は4月より新年度に入ります。会員は、月報代3000円を郵便振替でご送金ください。それ以外に青丘文庫丘文庫に寄付する図書の購入費募金として2000円もできればよろしく。学生会員で印刷の月報が不要で、メールニュースだけでOKという方には会費を免除します。在日朝鮮人運動史研究会関西部会の会員は、年会費が5000円です。会員には雑誌3冊を入手することができます。本年度もよろしくお願いします。 飛田雄一 hida@ksyc.jp |