======================================================================== 青丘文庫研究会月報<229号> 2009年1月1日 発行:青丘文庫研究会 〒657-0064
神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内 TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 http://www.ksyc.jp/sb/ e-mail hida@ksyc.jp @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一) A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹) 郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円 ※ 他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。========================================================================= 新年あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 2009年正月 朝鮮近現代史研究会代表 水野直樹 在日朝鮮人運動史研究会関西部会代表 飛田雄一 ●青丘文庫研究会のご案内● ■第309回在日朝鮮人運動史研究会関西部会 1月11日(日)午後3時 「ウトロ朝鮮人集落と米占領軍」 斉藤正樹 ※朝鮮近現代史研究会はお休みです。 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫 TEL
078-371-3351 <巻頭エッセー> シベリア抑留朝鮮人日本軍兵士 斉藤正樹 在日朝鮮人研究の最新号、38号に、朝鮮人日本軍兵士についての論文が二つ掲載されている。ひとつは、「朝鮮人少年戦車兵―北千島占守島に動員されたハラボジの聞き取りから」北原道子。もうひとつは、「日本軍配備朝鮮人兵の復員の状況」金賛汀である。1945年8月、外地で日本の敗戦を迎えた朝鮮人日本軍兵士が、その後どのように処遇されたのか。とりわけ旧「満州」やシベリア、サハリン、千島など北方において、不明な点が多い。私はこの二つの論文を読んで、かつて支援した戦後補償裁判の原告、李昌錫さん(1925〜2001)のことを思い出した。 彼を原告とする裁判は「シベリア抑留在日韓国人国家賠償請求訴訟」とよばれ、1992年11月京都地裁に提訴、2002年7月最高裁で棄却決定された。主な争点は恩給法の受給資格にある国籍条項(日本国籍者に限定)が国際人権規約に反するというものであった。彼は「日本軍人として、シベリアに8年間も抑留されたのに、日本国籍がないという理由で、日本政府が軍人恩給(年金)やシベリア抑留者への慰労金・品を支給しないのは差別である」と主張した。彼は裁判の決着を待たずに、2001年に亡くなったが、私は東京まで最高裁判決を聞きに行った。皇居に面した大理石の巨大建築物はまさに権威の象徴。迷路のような通路を抜けてガランとした法廷に最高裁判事が5人。主文だけの簡単な判決文を読み上げると、法服の判事はさっさと席をたった。あきれて私は声も出なかった。 彼が日本の裁判所に訴えたのは、ソ連が崩壊したのを見届けた後のことである。自分の意思に反して再び理由もなく拘束される不安に怯え、心から恐れ、それが生涯のトラウマとなった。彼の裁判は彼自身の存在証明を日本政府に求めるものであった。ソウル近郊で生まれ育ち、学業の成績もよく(創氏「小林」を校長先生からもらった)、18歳で日本軍に志願し、徴兵されて「満州」に配属され、敗戦でソ連軍の捕虜となった。私はふとした縁でこの裁判にかかわることになったが、当時「シベリア抑留」について、ほとんど知識がなかった。全学連や全共闘など左翼学生は1905年や1917年のロシア革命については(見てきたように)詳しいが、その後の社会主義国家の中の出来事について、驚くほど問題意識は薄かったように思う。それでも、裁判を支える会が作ったパンフ(1994年)に、私は次のように書いた。 「ソ連によってシベリアに抑留された約60万人の旧日本軍兵士の中に、どれだけの朝鮮半島出身者が含まれているのか、私の手元にはわずかな資料しかない。彼はいま、その戦友たちの消息を必死で捜している。収容所内での共産主義の洗脳教育やつるし上げ(彼は朝鮮人でありながら「志願兵」)に耐えかねて、収容所を脱走した。しかし捕えられ「サボタージュ」の罪で15年を言い渡された。最後の戦犯収容所で朝鮮人は彼一人であった。その間、同胞の兵士たちはどうなったのか。いま思えば、おそらく朝鮮戦争に何らかの形で巻き込まれたに違いない。それにしても、ロシア、中国、朝鮮半島の北か南、いずれかに生き残りはいるはずだ。」 今回の二つの論文によって、問題の所在や枠組みがつかめるようになった。彼は1953年12月に日本軍兵士として舞鶴に帰還したが、すでにサンフランシスコ講和条約後であり、日本国籍はなく外国人登録をさせられた。日本には誰一人知る人もなく、苦しみながら働いた。やがて自分の家族を作り、2001年9月(あの9・11事件の直前)まで生きた。一方、論文にもあるように、シベリアから朝鮮半島の北半分に送られた兵士は、おそらく戦争の即戦力として活用されたのであろう。人間の運命は全くわからない。彼は「親日派」であったから、(皮肉にも)日本でひとり生き延びたとも言えるだろうか。戦争や侵略、植民地支配という過酷な状況下で、国家の都合により人間の命が軽くやり取りされる。いまはその過酷さを、改めて思うばかりである。 第306回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2008年10月12日) 1950年代の在日朝鮮人政策と北朝鮮帰還事業 −帰国運動の展開と帰還事業計画の変遷 黒河星子 1952年4月28日の主権回復と同時に、日本政府は占領期の経験を基礎にした出入国管理令・外国人登録法体制を確立した。しかし、送還と管理を軸とするこの体制は52年5月の韓国政府による送還者受入拒否や、在日朝鮮人団体の生活権闘争に直面して行き詰まりの様相を呈していた。朝鮮戦争休戦協定を前後して浮上する在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は、このような局面の打開の可能性を持つ一方で、韓国との外交関係や在日朝鮮人の警戒心という観点から日本政府にとって困難を抱える問題でもあった。このため、政府当局は北朝鮮帰還を実現させる上では内外からの批判をかわし、政府が前面に出ない方式をとることが必要であると認識していた。野党からの要請を背景に、日本政府は赤十字を介した二国間交渉を検討するようになる。54年1月6日に朝鮮赤十字会に送られた電報で日本赤十字社は、日本人引揚げに用いる船舶の往路を利用した在日朝鮮人の北朝鮮帰還援助を提案している。 しかし、この赤十字直接交渉の方式は帰国運動の変質により変更を余儀なくされる。1955年5月結成された在日本朝鮮人総連合会(総連)は、在外公館としての性質、北朝鮮政府の政策への従属性を強めた。この様な方針転換が、帰国運動の性質にも反映されたのである。在日朝鮮民主統一戦線期の帰国運動は個人の権利擁護のひとつとして「渡航の自由」を求める形態をとっていた。これに対し総連は、帰国希望者大会を開催して希望者の規模を明示するとともに、北朝鮮政府の対日政策に連動したより組織的な要求として帰国運動を展開するようになる。 このような帰国運動の変化を背景に、1955年12月13日、日赤社長島津忠承はICRC宛に電報を送り、日赤は赤十字国際委員会(ICRC)の介入を依頼する。この電報には総連から送られた「在日朝鮮人帰国希望者東京大会」の要請文が添付されており、島津はこの要請文を「陳情ではなく要請である」と紹介し、その集団性・政治性を示唆している。規模・質ともに日赤のみでの遂行は困難と判断した結果、赤十字直接交渉ではなく、ICRCの介入・保証の必要性が認識されたのである。56年1月28日から平壌で開催された日朝赤十字会談でも直接交渉を求める北朝鮮側と、ICRCの介入を求める日本側の綱引きが見られた。ICRCの介入を必要とした日本側の意図は、帰還事業の人道的側面を強調し、さらに北朝鮮政府の政策意図を封じ込めることであった。 1957年2月25日に首相に就任した岸信介は、日韓交渉を重視し、帰還事業を実施する条件として政府が極力関与しない方法が望ましいと考えていた。岸に有利な方向に状況が変化したのは帰国運動が大規模化した58年8月である。日本政府に対し北朝鮮への帰国の保障を求める決議を採択した同年8月12日の朝鮮総連決議、大々的な帰国者の受け入れを表明した9月8日の金日成演説を背景に、帰還希望者数は急増した。これを受けて日本国内でも、「人道問題である帰還事業を実施しない岸政権を追及する世論」という構図が成立しつつあった。さらに、12月30日の外相南日声明で北朝鮮側が配船と旅費の負担を表明したことも岸政権の決断を促した。この状況下で岸は「政府の推進」という印象を与えることなく、59年2月13日北朝鮮帰還事業の実施を閣議了解する。 日本政府は1953年の帰還問題発生当初からの受身的な姿勢を貫くことによって、再入国許可を与えないという入国管理の原則および外交政策の基本的枠組みを維持しながら、人道性の保証のもとで「追放政策」の目的を達成したのである。 <ご案内@> 日本と朝鮮、100年の歴史をふりかえる ―3・1独立運動90周年を迎えて― 講師:姜在彦先生(歴史学者) 1919年3月1日、日本植民地支配下の朝鮮で大規模な独立運動が始まりました。「3・1独立運動」と言われています。この日、「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむる」という独立宣言書がソウル・パゴダ公園(現・タプコル公園)で読み上げられました。90周年となる今年、姜在彦先生をお迎えして記念講演会を開催します。 ●日時:2009年3月6日(金)午後7時 ●会場:神戸学生青年センターホール TEL 078-851-2760 (阪急六甲下車徒歩3分、JR六甲道下車徒歩10分) ●参加費:600円(学生300円) ●主催:神戸学生青年センター <ご案内A> 中央アジアの朝鮮人 −強制移住から70年、その歴史と現在− 講師:ゲルマン・キム先生 (カザフ国立大学教授、北海道大学スラブ研究所に客員教授として来日中) 1937年、ソ連沿海州に在住していた約20万人の朝鮮人が中央アジアに強制移住させられました。日本の侵略戦争が激しさを増していた時代、朝鮮人が日本のスパイ活動をすると疑われたのです。この強制移住で多くの朝鮮人が犠牲となり、現在も中央アジアの諸国に多くの朝鮮人が生活しています。来日中の歴史学者・ゲルマン・キム先生をお招きして講演会を開催します。 ●日時:3月8日(日)午後2時 ●会場:青丘文庫 TEL 078-371-3301 (神戸市立中央図書館内、神戸駅北徒歩10分、地下鉄大倉山駅北徒歩3分) ●参加費:無料 ●主催:神戸学生青年センター/青丘文庫研究会/コリアンマイノリティ研究会 問合せ先:〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 神戸学生青年センター TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 http://www.ksyc.jp info@ksyc.jp 【今後の研究会の予定】 2月8日(日)、在日、近現代史とも未定。3月は前記ゲルマン・キムさん講演会。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 【月報の巻頭エッセーの予定】 2月号以降は、張允植、高野昭雄、塚崎昌之、土井浩嗣、中川健一、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。 【編集後記】 ・ みなさまは新年をどのようにお迎えになられたでしょうか。いい話題のない昨今ですが、明るい年としたいものです。ぼちぼち牛歩でいきましょう。 飛田 hida@ksyc.jp |