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青丘文庫研究会月報<228号> 2008年11月1日

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。=========================================================================

月報を郵送した方には、他のチラシ4枚をお入れました。

チラシはホームページをごらんください。

1)朝鮮史セミナー 「済州島四・三事件」の私、ほか

   http://ksyc.jp/s-ts/2008chosenshiaki.pdf

2)「北朝鮮の食糧危機とキリスト教」出版記念講演会

   http://ksyc.jp/mukuge/20081108tomisaka.pdf

3)徐正敏講演会「韓国のキリスト教−過去・現在・未来−」

   http://ksyc.jp/s-ts/20081115sojyonnmin.pdf

4)『在日朝鮮人史研究』38号案内

   http://www.ksyc.jp/sb/zai38-tirasi.pdf

 

●青丘文庫研究会のご案内●

 ■第262回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 11月9日(日)1〜3時

 「朝鮮総督秘書官・守屋栄夫の日記に見る「文化政治」」松田利彦

 ■特別レポート

 11月9日(日)3〜5時

 「済州島一周サイクリング2008」飛田雄一

 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

「スヘ32550               福井 譲

 

 先日の夜中,何気なしにテレビを見ていたら,NHKスペシャルの再放送がありました(「兵士はどう戦わされてきたか」http://www.nhk.or.jp/special/onair/080914.html

イラクに派遣された米兵が帰国後もなお,現地で経験した「極限状態」を原因とするPTSDに苦しめられ続ける状況を克明に伝えたものです。自らの生死を紙一重にして,常に敵からの圧力に身を曝け出さざるを得ない戦場とは裏腹に,生身の人間の心はそれに絶えうるほど強靭ではありません。それは何もイラクに始まったことでもなく,また21世紀を生きる現代人の弱さでもなく,既に第一次世界大戦を契機に明らかにされてきたものです。

 番組の中で日中戦争中,やはり同じように戦場の苦しみに絶えかねず「心を崩壊させられて」しまった日本兵の事例が紹介されました。浅田病院(千葉県)には「戦争精神病」兵士の治療日誌の複写版が数千件分保存されています。それらを紐解くと,兵士たちが中国人(兵士・民間人)を殺していく中で,同じ人間としてその「負担」に絶え切れず,心を壊していく過程が本人の言で伝えられています。

 敵であろうと,あるいは軍人・民間人の相違はあろうと,同じ「人間であると認識」し続ける限り,人間は心から「憐憫の情」を拭い去ることはできないはずです。その意味で,感情自体を徹底的に消去させる教育を看守に貫徹したナチスの方法は,いわば「最善(最悪)」であったと言えるでしょう。そして精神を崩壊させた兵士たちは作戦・士気への悪影響から,即時に前線より引き下げられます。本人の「意識」に全ての原因を着せられていた当時では,最悪の場合「死刑」として処分されました。

 ところで日本の場合,戦前期に「病客車」という分類の客車が存在しました。これらは傷病兵輸送を目的としたもので,「へ」という独特の車両形式を付与されていました(「へ」は「兵士(ヘイシ)」とも「病(ビョウ←ベウ)」からきた」というのが一般的な説。ただ本来の「病」の字音仮名遣いは「ビヤウ」)。

「スヘ32550」形と称された客車は193712月から383月にかけて合計17両がスハ32550より改造,門司(3両)と広島(14両)に配属されます(415月に「スヘ30」形へ改称)。内部は通路を片側に偏向させて残り部分に16畳分の畳を敷き詰めて,客室の両端部分に衛生兵用の座席を設けていました。そして外部の窓下に白帯と赤十字印を付し,一般車との識別を容易にしていました。

 このうち,末尾の3両(スヘ30 1517)は445月,客室内の一部に「保護室(収監室)」を設置する工事を施しました。上述のような精神罹患の傷病兵を輸送することを目的とし,車両形式を「スヘセ30」と改称しています。当時の配属状況からして,これはそのまま広島局に配属されたと思われます。ここにある「セ」とは,言うまでもなく「精神(セイシン)」を表します。

 浅田病院の記録にも見られるように,当時の精神罹患傷病兵の存在を考えるならば,この「スヘセ」の登場はかなり遅いと思われます。しかしその登場に至る経緯にいかなる事情があったのか,この車両に関する記録や写真,運用状況は残されていません。判明しているのは17が戦後GHQに接収されて病院車(スヘ31 11)を経てCTS(民間輸送局)専用車(スイネ34 2)となり,接収解除後に特別職用車(スヤ34 2)となって生き残ったということのみです(同車の経緯には曖昧な点があるため,現在調査中)。

 果たして「保護室」とはどのようなものだったのか,今となっては知る由もありません。しかし大よその想像は可能でしょう。戦時中に門司や広島から,体と心を病んだ兵士たちが運ばれていったことは確かなことです。

 

■第261回朝鮮近現代史研究会報告(2008.9.14

占領期在日コリアン・華僑系新聞の政治論説(1948−50)

   ―『国際新聞』『新世界新聞』を中心に―       梶居 佳広

 

 第2次大戦後の占領期(194552年)、占領軍の優遇の下、数多くの新興紙が誕生した。本報告で検討した『国際新聞』『新世界新聞』は、これら新興紙の一つであるが、在日華僑・コリアンが大阪で発行し、発行部数数万の(日本人も読者に想定した)日本語新聞であった点、特異な存在であった。以下、略史と内外問題に関する両社の論説を簡単に紹介したい。なお、両紙ともに日本新聞博物館所蔵分が近年DVD化されている。ただし、1948年以前の紙面は確認されておらず、本報告も48年以降の論説紹介に止まっている。

 『国際新聞』は1945年、『新世界新聞』は(朝鮮語新聞『朝鮮新報』の姉妹紙として)翌46年創刊された。両紙とも正式な用紙割当を受け、『国際新聞』は40万部、『新世界新聞』は10万部の配給を受けた(なお46年段階で正式な用紙割当が受けられた華僑新聞は『中華日報』、コリアン系は『民衆新聞』『国際タイムス』)。『国際新聞』の場合、戦勝国である中国人のメディアという触れ込みや中華民国駐日代表団の後押しによるところが大きいとされる。ただし、実際は過半の用紙をヤミに横流ししており、横流し発覚後は割当量が減らされることになった。

 1948年以降の社説について、両紙を比較検討すると、かなり明確な違いが認められる。『新世界新聞』は同年発足した大韓民国に関する社説が目に付くことを除くと、『朝日』『毎日』と類似した紙面構成の新聞であった。ただ、同時に反共右派新聞という性格をもっており、1948年阪神教育闘争を「共産党の指導による一部売名的少数分子の政治闘争」とみなしたり、公務員の争議権問題には権利制限を当然視する主張を展開していた。一方、『国際新聞』は「日本民主化の助成」を編集綱領の一つに掲げ、「軍国日本」復活を警戒する論陣を張っていた。例えば、日中間の「記念日」(54日、77日、815日、92日等)には必ず「記念日」に関する社説を掲げ、日本国憲法についてはより急進的な立場(天皇制廃止ないし大権削減)から「改正」を要求する主張を繰り広げていた。

 両紙の見解の相違は、国共内戦と朝鮮戦争によってさらにはっきりしたものとなる。すなわち国共内戦について、『国際新聞』は19484月時点では「蒋総統の偉大なる指導の下に勝利を確信」と記していたが、8月以降徐々に国民党の腐敗体質批判を繰り返すようになり、49年正月、共産党を中心とする「反帝国主義・反封建の民主革命」を支持するに至る(ただし駐日代表団との関係もあり明確に共産党支持とは書いていない)。一方『新世界新聞』は中国の共産化が日本の「赤化」に繋がるとして、49年以降反共キャンペーンをさらに強化することになる(「赤狩り」支持や49年大連日本人労働組合攻撃など)。

 朝鮮戦争が勃発すると、『国際新聞』は国連を通じた38度線停戦による収拾を模索し、日本に対して反戦平和の立場を堅持することを求めたのに対し、『新世界新聞』は韓国擁護の立場もあって、平和運動を戦争挑発運動とし、日本の再軍備支持は勿論、特高警察も場合によっては容認姿勢を示すなど論調を激化させたが、51年初頭「経営難」から突然廃刊となった。

 以上のような両紙の見解の相違は、『新世界新聞』=大韓民国支持、『国際新聞』=1949年以降、新中国支持という政治的立場によるところが大きく、両新聞がそれぞれ在日華僑、コリアンの全ての声を代表していたとはいいがたい。とはいえ、日本人経営新聞の単なる「亜流」でもなかった。この点、従来の研究は紙面内容の面において両新聞と日本人新聞との差異が少ないとみていたが、今回の調査では、特に『国際新聞』については、「マイノリティ・メディア」としての独自性を持っていたということもできよう。

結局、華僑やコリアン経営の新興紙は、他の新興紙と同様、既成の大新聞との競争に敗れ、全て廃刊に追い込まれた(『国際新聞』は1958年華僑経営から離脱)。しかし、占領期の華僑・コリアン系新聞を一読する限り、現在に至る日本の新聞の流れとは別の流れ・言説を作りだす可能性を、これらの新興紙は秘めていたように思われる。

 

20081012306回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

「済州島出身者の大阪への定着過程と阪済航路の再検討」

                               塚ア昌之

 

 大阪における済州島出身者の定着過程や阪済航路を論じた書籍・論文として、戦前の桝田一二氏の一連の論文、金賛汀氏の『異邦人は君ヶ代丸に乗って―朝鮮人街猪飼野の形成史』、杉原達氏の『越境する民・近代大阪の朝鮮人史研究』などがある。また、朴慶植氏の「東亜通航組合の自主運航」も阪済航路を考える上で重要である。今回の発表では、新聞記事や建築関係者の回想などを使い、従来の考え方に対する疑問点をいくつか提示した。

 一点目は、済州島出身者がいつ頃から、どのような形で大阪に渡航してきたかである。大阪に済州島出身者が多く定着したのは、1922年に尼崎汽船の君が代丸が阪済航路に就航したためと一般的に考えられてきた。しかし、1917年にはもう大阪の朝鮮人の過半数が済州島出身者であった。阪済航路は採算に合うという確信があって開航されるようになったのであろう。また、済州島出身者が大阪に渡航してくるきっかけとして、大阪の紡績工場からの募集が重要視されてきた。しかし、好景気のため、急速に朝鮮人の渡航が増える1917年には、紡績は勿論、その他の工業・土木建築でも定着化の焦点となるべき男子の募集が済州島でほとんど行われた形跡はない。その他の資料から考えても、多くは募集ではなく、地縁・血縁を頼って大阪に「自主」渡航してきたと考えられる。

 二点目は、鶴橋・猪飼野への定着過程である。この地域へ朝鮮人が集住し始めるのは1920年以降であり、東小橋→猪飼野大通→大今里→猪飼野と広がっていった。ことに猪飼野は1919年から平野川の改修工事を伴う耕地整理事業が、低廉な長屋を大量に供給することになり、丁度、阪済航路の開航に伴って渡航してきた多くの済州島出身者の居住地となった。従来、ゴム・ガラスなどの劣悪な環境の工業が周辺にあったためと考える傾向があったが、そうではなく、たまたま、この時期に低廉な住宅が猪飼野に建築されたために、朝鮮人が集まったと推測できる。この周辺にゴム工場が増えるのは1920年代後半からである。

 三点目は、阪済航路の開始時期である。尼崎汽船の君が代丸が就航するのは1922年ではなく、19233月であり、1927年まで最終目的地は木浦であった。ただし、それ以前から済友社と呼ばれる弱小な船会社が小規模な船舶での航路を開航していた可能性もある。

四点目は、阪済航路は尼崎汽船、朝鮮郵船の独占航路で、東亜通航組合のみがそれに対抗したかのような印象があった。それ以外にも何回か他会社が参入する計画はあったようで、1926年には済州島汽船会社といった船会社が参入した可能性もあったことを論じた。

 五点目は、朴慶植氏が「船舶業資本に対抗して、安い船賃で日本への渡航…を実現」させたと評価した1930年に結成された東亜通航組合の役割である。東亜通航組合の運航前の1928年にアナ系の人たちが結成した企業同盟の船が運航し始めた時点から、船賃は下がっており、東亜通航組合の開始時も続いていた。東亜通航組合の主要な目的は安い船賃ではなく、共産主義運動が権力の弾圧によって沈滞したことに対して、ボル系の朝鮮人たちが協同組合運動によって大衆組織を作ろうという運動の再構築であったと考えられる。

 

【今後の研究会の予定】

 12月14日(日)、在日(未定)、近現代史(李景a)。09年1月11日((日)、在日(斉藤正樹)、近現代史(未定)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 12月号以降は、斉藤正樹、高野昭雄、塚崎昌之、土井浩嗣、中川健一、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           最近の研究会は、15〜20名の参加でけっこうにぎやかに開いています。いつの頃からか、月2回の研究会は大変なので、月一回、ハードに詰め込んでやっています。どなたでの参加できます。2号館3階で、青丘文庫の手続きをしてからお越しください。身分証明書、学生証などが必要です。もちろん?入場無料です。文庫は貸出不可ですが、コピー@10円は可能です。/『在日朝鮮人史研究38号』がでました。目次は青丘文庫ホームページをご覧ください。力作ぞろいです。特価、送料とも2160円で発売中です。1頁の郵便振替で送金ください。                   飛田 hida@ksyc.jp

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