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青丘文庫研究会月報<217号> 2007年10月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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●青丘文庫研究会のご案内●

■第253回朝鮮近現代史研究会

 10月14日(日)午後3時〜5時  堀内 稔

 「植民地朝鮮における中国人労働者

     ―石工などの技術労働者と中国人―」

■第296回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 10月14日(日)午後1時〜3時 梁 明心

 「李恢成とアイデンティティ ‐ 民族意識から自己発見へ‐」

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

 沖縄にて                         金  誠

 

 今夏、沖縄戦に関わる2つの地を訪れた。ひとつは沖縄本島の南部戦跡であり、もうひとつが慶良間諸島の渡嘉敷島であった。

   南部戦跡は那覇からバスで糸満を経て、2時間ほどで到着した。那覇から糸満まではサトウキビが茂る畑の間をバスが通過し、沖縄の夏らしい風景が広がっていた。

 平和祈念公園のなかには平和祈念塔が聳え、平和祈念塔と平和祈念資料館の間には沖縄戦で亡くなった「韓国人」を祀る慰霊塔が建立されている。慰霊碑には大韓民国大統領朴正熙という文字も刻まれていた。

 沖縄戦期には朝鮮半島出身の軍夫や慰安婦の存在したことが証言としても残されているが、沖縄の人々でさえも内地からは差別的な対象であったため、沖縄における朝鮮半島出身者の扱われ方はさらにひどいものだった。当時の数ある住民虐殺のなかにも朝鮮人の殺された話が存在している。

 次に向かった渡嘉敷島は泊港からフェリーで1時間20分ほどのところだった。私が泊まった宿泊施設は山上にあり、東には沖縄本島が一望でき、また西には慶良間の島々が一望できる好位置にあった。そもそもこの地は沖縄返還までアメリカ軍のミサイル基地だった場所であり、また沖縄戦期には集団自決の行われた場所でもあった。

 施設内の集団自決跡地には慰霊碑が建立されており、慰霊碑のすぐ奥の谷が集団自決の行われた場所とされていたが、当時は沢だった場所が今では木々に囲まれ鬱蒼とした林になっていた。

 沖縄戦における住民の死。沖縄における戦時中の教育がその悲惨さに拍車をかけている。さらに朝鮮半島出身者らの死も当時の差別的意識がそのまま転嫁された結果でもある。彼らの死を知ることは苦しいことだが、平和を希求するためには知らねばならない出来事のひとつであろう。

 

290回 在日朝鮮人運動史研究会(2007年3月11日)

「戦前期京都市上賀茂地区の状況と朝鮮人労働者

―屎尿汲取業・砂利採取業を中心に―」     高野昭雄   

 

 京都市北郊の上賀茂地区は、上賀茂神社で有名である。上賀茂神社の正式名は、賀茂別雷(わけいかずち)神社。下鴨神社と並び平安遷都以前からある京都の古社の一つである。神社の近くには、神官の住む社家町が古くから形成されていた。

 本報告では、戦前期上賀茂地区の状況を、朝鮮人の流入を中心に分析した。戦前期京都市においては、市域に編入された地域で、土地区画整理事業が進み、住宅地が形成されていくが、そういった過程は上賀茂地区周辺でも典型的に見られていた。

 戦前期上賀茂地区では、産業の中心がすぐき菜栽培を中心とする農業であったが、すぐき菜栽培には非常に多くの人糞肥料が必要であった。この人糞肥料を運んでいたのが在日朝鮮人である。京都市では急激な人口増加に伴い、屎尿処理問題が深刻となっており、日稼的に屎尿汲取を行う朝鮮人労働者が増加していた。彼らは上賀茂にも集住し、そのリーダーは学区会議員選挙にも当選していた。

 また上賀茂地区は、賀茂川が山間部から平野部に出てくる場所に位置し、砂利の堆積層が厚く、土砂採取業の適地となっていた。土砂採取業は、夏は強烈な反射熱に、冬は寒い川風にさらされ、過酷な労働環境にあったが、他に仕事のない多くの朝鮮人労働者が従事した。屎尿汲取業と砂利採取業の両方が行われていた上賀茂は、京都市有数の朝鮮人集住地となっていたのである。

 戦後は、屎尿汲取業は殆ど見られなくなり、また賀茂川での砂利採取も1960年に禁止となった。そのため、戦後上賀茂の朝鮮人人口は急減し、朝鮮人集住地とは見なされなくなっていく。

 上賀茂と同様に、戦前期多くの朝鮮人が砂利採取業に従事した吉祥院や梅津では、染色工業地帯として、戦後も多くの朝鮮人が居住した。しかし、上賀茂ではこれらの工業が発展せず、むしろ農業地・住宅地として高度成長期を迎えたため、朝鮮人人口は急速に減少することとなったのである。朝鮮人の集住は、戦前期を中心とする一時期にのみ見られたということもできる。

 昭和戦前期には、京都の町は大きく拡大し、かつての市電軌道最外郭線(北大路通・西大路通・九条通等)建設など、現在の京都市の骨格を形作った数多くの社会基盤整備事業が行われた。そして、そういった土木工事の最底辺に位置する土砂採取業を支え、また増加する人口によって深刻化していた屎尿汲取問題を支えていたのが朝鮮人労働者であった。

 近年「京都検定」「ジュニア京都検定」に代表されるように、京都学ブームが起きており、「京野菜」もブームである。しかし、ここで記させていただいたような事実は、殆ど紹介されていない。こういった足元の歴史を見直す作業もまた大切なことであると思う。

〔付記〕なお、本報告にあたっては、三輪嘉男先生に史料の提供を受けるなど、大変お世話になりました。どうもありがとうございました。

 

293回在日朝鮮人運動史研究会(200778日)

1920年代前半、大阪における朝鮮人「救済」活動の開始

〜方面委員・特高・内鮮協和会・朝鮮人〜      塚ア昌之

 

 本発表では「内鮮融和」時代の内鮮協和会を中心にした大阪での朝鮮人「救済」の実態を明らかにした。特に朝鮮人の「救済」事業の中で問題になったのは、就職問題、住宅問題、日本語の習得であった。その中で三点、通説と異なることを指摘した。

 一点目は、内鮮協和会の設立の原因が関東大震災後の朝鮮人に対する「治安」対策のみにあったことではないことである。一九二二年初から大阪の社会事業関係者の間では、広く朝鮮人「救済」の必要性が認識され始め、「救済」機関を設ける計画を立て始めていた。しかし、予算の不足等から、なかなか実現しなかった。また、朝鮮人の中でも自力での救済を行おうという団体も生まれ始めていた。関東大震災を契機に朝鮮総督府の援助が得られることになり、警察関係も巻き込みながら一挙に内鮮協和会の設立を見たのである。

 二点目は「治安対策」とされてきた内鮮協和会の性格である。設立の経緯と同じ様に、内鮮協和会の運営も社会事業関係者が中心であり、「救済」には人道主義的な面が色濃かった。結成後の内鮮協和会は、天皇家に関連する奉祝事業など、「同化」政策を推し進めた点はあるにしろ、職業紹介事業、宿泊事業ではかなりの数字を残していたともいえよう。また、朝鮮人「救済」の本質的解決にはなっていなかったが、失業救済事業の朝鮮人就労にも内鮮協和会が大きな役割を果したことを明らかにした。

 朝鮮人の中にも、内鮮協和会の運営に関わる者が出てきた。彼らは決して日本の「御用」であったわけではなかった。不十分点はあるにせよ、現実的に朝鮮人「救済」の可能性をもっていると思われる組織と手を組んで「救済」を目指そうとしたのである。

 三点目は、朝鮮人「救済」事業における朝鮮人差別の問題である。各種の「救済」事業において、朝鮮人が総体的に日本人より劣位に置かれてきたことは否定するものではない。しかし、従来はそれが行政当局者によって政策的に、かつ、全国的に行われてきたかのように説かれてきた。一つは失業救済事業において朝鮮人が就労機会を日本人より減らされてきたという説、一つは方面委員によるカード登録の際に、朝鮮人は生活程度が低いという日本人と異なった基準で登録された説である。朝鮮人が「救済」されない最大の理由は、彼等の相互扶助の存在、つまり、朝鮮人のネットワークが強固であったことであった。

大阪においては、紀本善次郎のように朝鮮人の「救済」に尽した人物も存在した。彼は朝鮮人に対する差別意識がなく、朝鮮人社会とのコミニケーションが取れたからである。逆に言うと、差別意識があったり、コミニケーションが取れなかった部分が朝鮮人の「救済」に取り組めなかった。大阪における「内鮮融和」時代には、制度としての差別があったのではなく、意識としての差別が問題であったのである。

 この内容は、今年の『在日朝鮮人史研究』に掲載される予定である。詳しくはそちらをご覧いただきたい。

 

金恩正、文Q敏、金元容著/朴孟洙・監修/信長正義訳

「東学農民革命100

    −革命の野火、その黄土の道の歴史を尋ねて」 出版記念・講演会

●日時:2007年10月13日(土)午後3時〜5時

●会場:神戸学生青年センター TEL 078-851-2760

●プログラム

 講演「東学農民革命の意義」むくげの会会員/訳者 信長正義さん

 講演「東学農民革命と現代韓国」韓国円光大学教授・監修者 朴孟洙さん ほか

●参加費:1000円

※ 午後5時30分より、阪急六甲駅前「六甲苑」で出版記念会パーティをひらきます。会費3000円。あわせてご参加ください。パーティについては下記まで事前申し込みをよろしくお願いします。

 

【今後の研究会の予定】

 11月10日(日)、報告者未定。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 11月号以降は、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

 

【編集後記】

           10月に入ってもまだ暑いというのは、どうしたことでしょうか。いつ天高く・・の秋になるのでしょうか。

           8月4〜5日に東京で開かれた「第3回在日朝鮮人運動史研究会 日・韓合同研究会」について、前号で写真のみ紹介しました。関西部会の堀内稔さんが『むくげ通信』224号(079月)にレポートを書かれています。すでに予告をいたしましたが、第4回は2009年に神戸で開催します。           飛田雄一 hida@ksyc.jp

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