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青丘文庫研究会月報<213号> 2007年5月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

()神戸学生青年センター内  TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878

http://www.ksyc.jp/sb/  e-mail hida@ksyc.jp

 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000

     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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●青丘文庫研究会のご案内●

■第249回朝鮮近現代史研究会

 5月13日(日)午後1時〜3時 水野直樹

 「博文寺について―植民地都市京城につくられた伊藤博文菩提寺―」

  (画像映写つき)

■第291回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 5月13日(日)午後3時〜5時 杉本弘幸

「1920−30年代の都市失業救済事業の形成と展開

 −戦前期都市社会政策と内鮮融和団体をめぐって−」

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

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■<巻頭エッセー>動植物の名前にみる「朝鮮」   稲継 靖之

 

 私は子どもの頃から魚貝類や植物の図鑑を見るのが好きだった。今でも時々、子どもの頃に買った携帯版の観察図鑑をのんびり眺めていることがある。その中で、以前から気になっていた動植物の名前が2つある。「チョウセンハマグリ」と「ヨウシュチョウセンアサガオ」(洋種朝鮮朝顔)である。この名前を見たとき、「朝鮮半島から日本に伝えられた文化、文物は数多くあるが、動植物もたくさん渡ってきたのだろうか」と思った。

 それで、一度具体的に調べてみようと、先日近くの図書館で植物図鑑や百科事典を引いてみた。すると、意外なことに、チョウセンハマグリもヨウシュチョウセンアサガオも朝鮮半島由来のものではないことが判明した。チョウセンハマグリは房総半島以南、鹿島灘以南の外洋に分布し、朝鮮半島には生息していないという。また、ヨウシュチョウセンアサガオは熱帯アメリカの原産で、1879年に日本に渡来したとされている。それ以前、江戸時代には薬用として「チョウセンアサガオ」が輸入されているが、これも熱帯アジアの原産である。

 それなら、なぜ名前に「チョウセン」がつくのか。まずチョウセンアサガオについて言えば、ほとんどの書物で、「チョウセン」は「外国から来たもの」という意味であると説明されている。海外から渡来したものに「チョウセン」の名をつけるケースは他にもいくつかあり、ハーブの図鑑などでよく見かけるアーティチョーク(地中海沿岸地方原産、つぼみの部分を食用とする)も和名は「チョウセンアザミ」である。前向きに解釈すれば、朝鮮半島がそれだけ身近な「外国」だったということだろうか。

 ところが、チョウセンハマグリについては海外から輸入されたという記述はどこにもなく、日本の在来種のようである。では名前の由来は一体何なのか。いろいろ調べてみたが、はっきりとした理由はわからなかった。ただ、小学館『日本大百科全書』に掲載されている以下の記述が気になった。

 

「肉を食用にするが、ハマグリより多少堅く、味は劣る」

 

 こうした記述を見ると、日本による朝鮮植民地支配、朝鮮人差別の歴史を学んできた者としては、「一般のハマグリより味が劣るということで、軽蔑的な意味で『チョウセン』の名が付けられたのでは」とつい考えてしまう。

 また、同じような理由で気になったものとして「チョウセンイチジク」がある。これは小学館『日本国語大辞典』の中で見つけた名前で、「イヌビワ」の別名である。イヌビワは、牧野富太郎編『牧野新日本植物図鑑』によると「果実がビワに似ているが、小型で品質が悪い故、イヌを加えた」ものであるという。調べた限りでは在来種のようで、朝鮮半島とはこれといった縁はなさそうである。この「品質の悪いビワ」がどのような経緯で「チョウセンイチジク」という別名を持つに至ったのかはわからないが、何か差別的な意図があるのではないかという感を拭えない。

 私の印象としては、動植物の名前に「チョウセン」がつく場合、3つのパターンがあるのではないかと思う。まず、チョウセンニンジンなどのように明らかに朝鮮半島原産のものである場合。次に、チョウセンアサガオなどのように「外国から来たもの」という意味で使われる場合。そして、推測の域を出ない部分もあるが、軽蔑的な意味合いで使われる場合。

 もちろん、これは図書館で何冊かの書物を見る中で私自身が考えたことに過ぎない。ただ、日本と朝鮮半島との歴史的関係が、日本に分布する動植物の名前にも少なからず影響を及ぼしていることは指摘できるのではないだろうか。

 

■第247回朝鮮近現代史研究会 3月11日

 麗順事件の勃発とその影響〜朝鮮戦争直前の韓国社会〜   李 景 a

 

 麗順事件は、済州島四三事件の鎮圧に出動命令を受けた、当時麗水に駐屯していた国防警備隊第14連隊が、反乱を起こした事件である。1948年10月19日夜8時頃、出動の準備をしていた連隊の兵士たちが、金智会、洪淳錫中尉、専任下士官地昌洙上士ら、7人の下士官が出動拒否の演説をすると、それに同調して瞬く間に部隊の兵器庫と弾薬庫を接収して気勢を上げた。3000人足らずの全体隊員の中、2500人が反乱に参加した。

 反乱軍のリーダーが「済州島に出動して同胞に銃を向けるな」「警察が攻めてくる」「米軍の撤収と祖国統一」「38度線は破れた!朝鮮人民軍が南朝鮮を解放するために南進中である」とのスローガンで隊員たちに檄を飛ばして行動に突入した。間もなく反乱軍は部隊を離れて麗水市内を掌握、翌日の昼頃には隣の順天を制圧した。勢いに乗った反乱軍は、さらに光陽、河東、谷城、南原を、そして筏橋、宝城へと進出していった。一部の学生、青年などの民間人が合流して反乱軍と行動を共にした。地域の警察署、公共機関が反乱軍に占領され、警察官、右翼青年団の幹部などが多数処刑された。街は完全に反乱軍によって掌握され、「人民委員会」が即座に設置され、新たな「秩序」を打ち立てたのである。

 韓国政府が樹立して間もないときに起きた軍の反乱であり、国中が騒然とする雰囲気に包まれた。政府は国防長官、警備隊総司令官、駐韓米軍顧問官などを集めて事態の収拾を協議した。まずは光州駐屯の第4連隊の二個大隊(連隊と中隊の中間の規模、500〜700名程度の兵士、下士官が中核)を派遣して鎮圧に乗り出した。鎮圧作戦は、光州・南原・河東を包囲して、事件の拡散を防止するもので、反乱軍を麗水半島へと圧縮して東北方向への逃避・進入を遮断して海岸地域へと追い込んで殲滅することを狙った。だが鎮圧軍の経験不足、反乱軍の激しい抵抗にあい成功せず、第二次、第三次「麗水奪還作戦」が27日までにずれこんだ。順天の場合、23日に鎮圧された。

 麗水・順天を中心に蜂起した反乱軍は10日くらいで一応平定されたが、多大な犠牲者がでた。正確な数字はわからないが、死亡者は民間人を含めて3000人以上、行方不明者が4000人くらいと言われている。反乱軍の中に生き残った隊員は近くの智異山一帯へと逃走して、すでに活動していた反政府ゲリラ隊に合流していった。彼らは、朝鮮戦争が勃発する1950年6月まで、間断なくゲリラ闘争の形で抵抗を続けたことになる。

 麗順事件の背景に何があったのか。単独選挙の実施で南北に二つの政府が誕生したこと、また、当時の世界情勢の動きも影響していただろう。モスクワ協定に従って行われた米ソ共同委員会が、朝鮮の独立問題の解決に失敗すると米国は国連に朝鮮問題を上程し、ソ連の反対を押し切って選挙実施が「可能な地域」で選挙を行い「大韓民国」政府を誕生させた。北では、その一ヶ月後に「朝鮮民主主義人民共和国」が誕生した。こうして、異なるイデオロギーの二つの政府が生まれたが、それは朝鮮民族が望んだことではなかった。南では選挙に反対する運動が早くも展開されたが、こぞって失敗に終わっており、時の流れは、分断政府を既成事実となっていく状況であった。

 一方、国際情勢は日々急変していた。中国内戦の帰趨は極めて注目されていたが、緒戦は国民党の優勢で進んだ。ところが、次第に共産軍の勢力が全土に広がっていったが、当時の新聞は国共内戦の様子を詳細に報じていた。ヨーロッパではベルリンの封鎖措置で、ソ連軍はベルリンの米英仏占領地に対する送電停止、西ドイツからの食糧・石炭の貨物輸送禁止、ソ連軍占領地区からの食糧搬入の禁止などで対立する一触即発の状況であった。

 注目すべきは、当時、国防警備隊と警察は極めて不仲であったことである。警察が武力機関として確固たる基盤の上に存在していたのは対照的に、警備隊はかなり後れを取っていた。正式な軍隊が誕生する前であり、国防警備隊の存在は警察より一段と下の機関に見られていた。その隊員は、新聞の広告やラジオ放送などで集められたが、入隊は比較的に自由であった。「思想は自由であり、入隊にさいして以前の思想は問わない」状況であり、隊員の中には何らかの理由で警察に追われていた者も含まれていたという。38度線の警戒はさほど厳重ではなかったので、北からの越南者や旧日本軍の経歴をもつ人たちが多数入隊した。警備隊と警察との間には、互いにライバル意識が存在しており、隊員と警察官とのあいだに感情的なもつれがあったが、それも反乱の理由の一つとなった。反乱軍の「首謀者」らが南労党の指示を受けていたとの指摘もあるが、それを裏付ける資料は見当たらない。それより、彼らの経歴などを綿密に追求していくことが大事であるが、いまのところ究明されていない。事件は、突発的に起きたのか、それとも追い詰められた左派勢力の対応であり冒険なのか。それとも「首謀者」の独自の判断によるものなのか、さらなる研究が必要であろう。

 反乱軍の「隊員」の出没は1949年に入ってからも続いた。警備隊の「反乱騒動」はその後、浦項、大邱、春川などに駐屯していた部隊にも波及し、警備隊・軍の指揮体制に揺さぶりをかけたのであった。ゲリラ闘争が南の広い地域に広がっていった。ゲリラは、当初2500人程度と考えられたが、1949年春には二万人位に増え、地域にして韓国全土の40%を制した(陸戦史研究普及会編『朝鮮戦争I』原書房、1966年)。

 韓国政府は、1948年11月1日全羅南道、北道全域に戒厳令を宣布して、反乱軍やゲリラなどに対応した。また、一般の民衆に対しては警備隊・警察による赤狩りが徹底的に行われ、街と村は恐怖の坩堝化した。反乱軍で逃走した隊員の残された家族の苦悩が続いた。

 そして、不安定な政権の基盤と悪化するそのイメージを立て直すために、韓国政府は野党弾圧に乗り出した。国家保安法が1948年11月に制定されたのはそのためであった。もうひとつは、軍隊の中の粛軍キャンペーンである。共産主義者と目され、また南労党のシッパーと見られた者が多数発覚し、逮捕され、処刑されたが、検挙された人は約5千人に上った。麗順事件を契機に、韓国は名実共に「反共国家」となっていったのである。

 

■第248回朝鮮近現代史研究会 4月8日

 植民地期の済州島における水産加工業―映像と写真にみる日本人の活動―

  立命館大学文学部 河 原 典 史 

 

 1929年(昭和4)、済州島で日本人の居住率が最も高かったのは、東端の城山浦である。ここには、138戸のうち25戸・94人の日本人が住んでいた。内地に最も近い城山浦は、19世紀末に日本からの潜水器漁業の根拠地として栄えた。1906年(明治39)に韓国物産会社が同浦に設立され、おもにヨード(沃度)製造業を営んでいた。同社の中心的な人物は、三重県和具出身の水産加工業者・石原圓吉である。当時の日本では、カジメ灰から製造されるヨードを爆薬として軍需利用することが重要視され、城山浦はその拠点となった。

 南済州郡役所に現存する地籍資料から、1930年(昭和5)頃の城山浦の土地利用図を作成すると、朝鮮人は内陸部分に居住していたが、日本人は干潟の広がる沿岸の宅地化に着手した。先述のヨード工場の他にも、沿岸には缶詰工場や貝ボタン工場などがあった。朝鮮人が営む工場もあったが、済州島で漁業開拓を試みた日本人漁民と同郷の大分県や長崎県出身者による経営が多かった。そして、税関監視所・駐在所・郵便局・金融組合などの行政施設は城山浦の中心部に集中していた。さらに、水産加工業者や行政関係者を顧客とする商店や旅館なども存在した。長崎県壱岐出身者が同浦で旅館を開業した経緯は、かつて千葉県方面からのヨード製造業者が壱岐へ展開し、同業の発展性を済州島に期したことによる。また、朝鮮・日本人以外にも、饅頭・麺類などの飲食業や反物販売業を営む中国人もいた。

 朝鮮総督府殖産局『朝鮮工場名簿』によれば、1940年(昭和15)に7種・34軒の工場があり、そのうち約3分の1が日本人によって経営されていた。工業の中心は、済州島海女と日本人による潜水器漁業がもたらした貝類を材料とする缶詰製造業で、その数は全工場の約3分1に当たる13軒を数えた。農林省水産局『日本水産物罐詰製造業要覧』をみると、おもな品目はサザエ・アワビ缶詰であり、その操業地は島の北西部・南西部に集中していた。これは、当地域が日本人による潜水器漁業の根拠地であり、彼らが採取する貝類が缶詰原料になっていたからである。

 当時、済州島最大の缶詰工場は、北西部の翁浦里にあった竹中缶詰工場である。ここではサザエ、アワビやサバ缶詰などの魚介類缶詰だけでなく、野菜・牛肉缶詰も生産されていた。竹中缶詰製造所は、1910年(明治43)に京都・祇園で、竹中仙太郎が高級食材を提供する青果商として創業された。やがて、グリンピースや筍などの瓶詰め、そして牛肉缶詰なども製造されるようになった。1922年(大正11)、竹中缶詰製造所は創業者の出身地である京都市南郊の伏見へ移転した。当時の伏見周辺には第16師団が置かれ、同製造所は軍需食料としての缶詰を提供する指定工場になった。そして、1928年(昭和3)頃に翁浦里で分工場が操業された。当時の朝鮮では老廃牛を処理し、軍需食料として重要であった牛肉缶詰の計画的な生産が望まれていた。そして、すでに軍都・伏見で軍需缶詰の生産工場として実績のある竹中缶詰製造所が、それを任されたのである。

 竹中家には、当時の写真だけでなく、1931年(昭和6)99日の仙太郎の一周忌を収めたフィルムが保存されている。これには、羽織・袴姿の朝鮮総督府関係者を洋装で迎える二代目社長・新太郎が写されている。また、大阪―済州島を結んだ第二君が代丸の船上、トロッコが敷かれた工場、そこに従事する約30人の朝鮮人女性、さらには未舗装の道路、翰林港の改修や電灯敷設工事なども収録されたこのフィルムは、当時の済州島を知る貴重な資料である。

その後の1938年(昭和13)頃、竹中缶詰製造所は、全羅南道羅州に新たな缶詰工場を興した。1935年(昭和10)、栄山江対岸の錦川面院谷里に長崎県西彼杵郡出身の松藤伝六が本格的に梨栽培を開始したことが、工場設立のひとつの要因である。そのため、竹中缶詰製造所羅州工場では、牛肉のほかに果実缶詰の製造も行なわれたらしい。羅州市役所に残る地籍資料からは、羅州駅と工場とを結ぶ道路の建設や、その一部は松藤から買収されたことなどが判明する。

 

 

神戸学生青年センターの飛田です。青丘文庫研究会月報4月号/メールニュー

スをお送りします。http://www.ksyc.jp/sb/20070501geppou.htm でも見ること

ができます。PDFファイルは、http://www.ksyc.jp/sb/20070501geppou.pdf 

 

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 5月13日(日)午後1時〜3時 水野直樹

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■第291回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 5月13日(日)午後3時〜5時 杉本弘幸

「1920−30年代の都市失業救済事業の形成と展開

 −戦前期都市社会政策と内鮮融和団体をめぐって−」

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■<巻頭エッセー>動植物の名前にみる「朝鮮」   稲継 靖之

 

 私は子どもの頃から魚貝類や植物の図鑑を見るのが好きだった。今でも時々、子どもの頃に買った携帯版の観察図鑑をのんびり眺めていることがある。その中で、以前から気になっていた動植物の名前が2つある。「チョウセンハマグリ」と「ヨウシュチョウセンアサガオ」(洋種朝鮮朝顔)である。この名前を見たとき、「朝鮮半島から日本に伝えられた文化、文物は数多くあるが、動植物もたくさん渡ってきたのだろうか」と思った。

 それで、一度具体的に調べてみようと、先日近くの図書館で植物図鑑や百科事典を引いてみた。すると、意外なことに、チョウセンハマグリもヨウシュチョウセンアサガオも朝鮮半島由来のものではないことが判明した。チョウセンハマグリは房総半島以南、鹿島灘以南の外洋に分布し、朝鮮半島には生息していないという。また、ヨウシュチョウセンアサガオは熱帯アメリカの原産で、1879年に日本に渡来したとされている。それ以前、江戸時代には薬用として「チョウセンアサガオ」が輸入されているが、これも熱帯アジアの原産である。

 それなら、なぜ名前に「チョウセン」がつくのか。まずチョウセンアサガオについて言えば、ほとんどの書物で、「チョウセン」は「外国から来たもの」という意味であると説明されている。海外から渡来したものに「チョウセン」の名をつけるケースは他にもいくつかあり、ハーブの図鑑などでよく見かけるアーティチョーク(地中海沿岸地方原産、つぼみの部分を食用とする)も和名は「チョウセンアザミ」である。前向きに解釈すれば、朝鮮半島がそれだけ身近な「外国」だったということだろうか。

 ところが、チョウセンハマグリについては海外から輸入されたという記述はどこにもなく、日本の在来種のようである。では名前の由来は一体何なのか。いろいろ調べてみたが、はっきりとした理由はわからなかった。ただ、小学館『日本大百科全書』に掲載されている以下の記述が気になった。

 

「肉を食用にするが、ハマグリより多少堅く、味は劣る」

 

 こうした記述を見ると、日本による朝鮮植民地支配、朝鮮人差別の歴史を学んできた者としては、「一般のハマグリより味が劣るということで、軽蔑的な意味で『チョウセン』の名が付けられたのでは」とつい考えてしまう。

 また、同じような理由で気になったものとして「チョウセンイチジク」がある。これは小学館『日本国語大辞典』の中で見つけた名前で、「イヌビワ」の別名である。イヌビワは、牧野富太郎編『牧野新日本植物図鑑』によると「果実がビワに似ているが、小型で品質が悪い故、イヌを加えた」ものであるという。調べた限りでは在来種のようで、朝鮮半島とはこれといった縁はなさそうである。この「品質の悪いビワ」がどのような経緯で「チョウセンイチジク」という別名を持つに至ったのかはわからないが、何か差別的な意図があるのではないかという感を拭えない。

 私の印象としては、動植物の名前に「チョウセン」がつく場合、3つのパターンがあるのではないかと思う。まず、チョウセンニンジンなどのように明らかに朝鮮半島原産のものである場合。次に、チョウセンアサガオなどのように「外国から来たもの」という意味で使われる場合。そして、推測の域を出ない部分もあるが、軽蔑的な意味合いで使われる場合。

 もちろん、これは図書館で何冊かの書物を見る中で私自身が考えたことに過ぎない。ただ、日本と朝鮮半島との歴史的関係が、日本に分布する動植物の名前にも少なからず影響を及ぼしていることは指摘できるのではないだろうか。

 

■第247回朝鮮近現代史研究会 3月11日

 麗順事件の勃発とその影響〜朝鮮戦争直前の韓国社会〜   李 景 a

 

 麗順事件は、済州島四三事件の鎮圧に出動命令を受けた、当時麗水に駐屯していた国防警備隊第14連隊が、反乱を起こした事件である。1948年10月19日夜8時頃、出動の準備をしていた連隊の兵士たちが、金智会、洪淳錫中尉、専任下士官地昌洙上士ら、7人の下士官が出動拒否の演説をすると、それに同調して瞬く間に部隊の兵器庫と弾薬庫を接収して気勢を上げた。3000人足らずの全体隊員の中、2500人が反乱に参加した。

 反乱軍のリーダーが「済州島に出動して同胞に銃を向けるな」「警察が攻めてくる」「米軍の撤収と祖国統一」「38度線は破れた!朝鮮人民軍が南朝鮮を解放するために南進中である」とのスローガンで隊員たちに檄を飛ばして行動に突入した。間もなく反乱軍は部隊を離れて麗水市内を掌握、翌日の昼頃には隣の順天を制圧した。勢いに乗った反乱軍は、さらに光陽、河東、谷城、南原を、そして筏橋、宝城へと進出していった。一部の学生、青年などの民間人が合流して反乱軍と行動を共にした。地域の警察署、公共機関が反乱軍に占領され、警察官、右翼青年団の幹部などが多数処刑された。街は完全に反乱軍によって掌握され、「人民委員会」が即座に設置され、新たな「秩序」を打ち立てたのである。

 韓国政府が樹立して間もないときに起きた軍の反乱であり、国中が騒然とする雰囲気に包まれた。政府は国防長官、警備隊総司令官、駐韓米軍顧問官などを集めて事態の収拾を協議した。まずは光州駐屯の第4連隊の二個大隊(連隊と中隊の中間の規模、500〜700名程度の兵士、下士官が中核)を派遣して鎮圧に乗り出した。鎮圧作戦は、光州・南原・河東を包囲して、事件の拡散を防止するもので、反乱軍を麗水半島へと圧縮して東北方向への逃避・進入を遮断して海岸地域へと追い込んで殲滅することを狙った。だが鎮圧軍の経験不足、反乱軍の激しい抵抗にあい成功せず、第二次、第三次「麗水奪還作戦」が27日までにずれこんだ。順天の場合、23日に鎮圧された。

 麗水・順天を中心に蜂起した反乱軍は10日くらいで一応平定されたが、多大な犠牲者がでた。正確な数字はわからないが、死亡者は民間人を含めて3000人以上、行方不明者が4000人くらいと言われている。反乱軍の中に生き残った隊員は近くの智異山一帯へと逃走して、すでに活動していた反政府ゲリラ隊に合流していった。彼らは、朝鮮戦争が勃発する1950年6月まで、間断なくゲリラ闘争の形で抵抗を続けたことになる。

 麗順事件の背景に何があったのか。単独選挙の実施で南北に二つの政府が誕生したこと、また、当時の世界情勢の動きも影響していただろう。モスクワ協定に従って行われた米ソ共同委員会が、朝鮮の独立問題の解決に失敗すると米国は国連に朝鮮問題を上程し、ソ連の反対を押し切って選挙実施が「可能な地域」で選挙を行い「大韓民国」政府を誕生させた。北では、その一ヶ月後に「朝鮮民主主義人民共和国」が誕生した。こうして、異なるイデオロギーの二つの政府が生まれたが、それは朝鮮民族が望んだことではなかった。南では選挙に反対する運動が早くも展開されたが、こぞって失敗に終わっており、時の流れは、分断政府を既成事実となっていく状況であった。

 一方、国際情勢は日々急変していた。中国内戦の帰趨は極めて注目されていたが、緒戦は国民党の優勢で進んだ。ところが、次第に共産軍の勢力が全土に広がっていったが、当時の新聞は国共内戦の様子を詳細に報じていた。ヨーロッパではベルリンの封鎖措置で、ソ連軍はベルリンの米英仏占領地に対する送電停止、西ドイツからの食糧・石炭の貨物輸送禁止、ソ連軍占領地区からの食糧搬入の禁止などで対立する一触即発の状況であった。

 注目すべきは、当時、国防警備隊と警察は極めて不仲であったことである。警察が武力機関として確固たる基盤の上に存在していたのは対照的に、警備隊はかなり後れを取っていた。正式な軍隊が誕生する前であり、国防警備隊の存在は警察より一段と下の機関に見られていた。その隊員は、新聞の広告やラジオ放送などで集められたが、入隊は比較的に自由であった。「思想は自由であり、入隊にさいして以前の思想は問わない」状況であり、隊員の中には何らかの理由で警察に追われていた者も含まれていたという。38度線の警戒はさほど厳重ではなかったので、北からの越南者や旧日本軍の経歴をもつ人たちが多数入隊した。警備隊と警察との間には、互いにライバル意識が存在しており、隊員と警察官とのあいだに感情的なもつれがあったが、それも反乱の理由の一つとなった。反乱軍の「首謀者」らが南労党の指示を受けていたとの指摘もあるが、それを裏付ける資料は見当たらない。それより、彼らの経歴などを綿密に追求していくことが大事であるが、いまのところ究明されていない。事件は、突発的に起きたのか、それとも追い詰められた左派勢力の対応であり冒険なのか。それとも「首謀者」の独自の判断によるものなのか、さらなる研究が必要であろう。

 反乱軍の「隊員」の出没は1949年に入ってからも続いた。警備隊の「反乱騒動」はその後、浦項、大邱、春川などに駐屯していた部隊にも波及し、警備隊・軍の指揮体制に揺さぶりをかけたのであった。ゲリラ闘争が南の広い地域に広がっていった。ゲリラは、当初2500人程度と考えられたが、1949年春には二万人位に増え、地域にして韓国全土の40%を制した(陸戦史研究普及会編『朝鮮戦争I』原書房、1966年)。

 韓国政府は、1948年11月1日全羅南道、北道全域に戒厳令を宣布して、反乱軍やゲリラなどに対応した。また、一般の民衆に対しては警備隊・警察による赤狩りが徹底的に行われ、街と村は恐怖の坩堝化した。反乱軍で逃走した隊員の残された家族の苦悩が続いた。

 そして、不安定な政権の基盤と悪化するそのイメージを立て直すために、韓国政府は野党弾圧に乗り出した。国家保安法が1948年11月に制定されたのはそのためであった。もうひとつは、軍隊の中の粛軍キャンペーンである。共産主義者と目され、また南労党のシッパーと見られた者が多数発覚し、逮捕され、処刑されたが、検挙された人は約5千人に上った。麗順事件を契機に、韓国は名実共に「反共国家」となっていったのである。

 

■第248回朝鮮近現代史研究会 4月8日

 植民地期の済州島における水産加工業―映像と写真にみる日本人の活動―

  立命館大学文学部 河 原 典 史 

 

 1929年(昭和4)、済州島で日本人の居住率が最も高かったのは、東端の城山浦である。ここには、138戸のうち25戸・94人の日本人が住んでいた。内地に最も近い城山浦は、19世紀末に日本からの潜水器漁業の根拠地として栄えた。1906年(明治39)に韓国物産会社が同浦に設立され、おもにヨード(沃度)製造業を営んでいた。同社の中心的な人物は、三重県和具出身の水産加工業者・石原圓吉である。当時の日本では、カジメ灰から製造されるヨードを爆薬として軍需利用することが重要視され、城山浦はその拠点となった。

 南済州郡役所に現存する地籍資料から、1930年(昭和5)頃の城山浦の土地利用図を作成すると、朝鮮人は内陸部分に居住していたが、日本人は干潟の広がる沿岸の宅地化に着手した。先述のヨード工場の他にも、沿岸には缶詰工場や貝ボタン工場などがあった。朝鮮人が営む工場もあったが、済州島で漁業開拓を試みた日本人漁民と同郷の大分県や長崎県出身者による経営が多かった。そして、税関監視所・駐在所・郵便局・金融組合などの行政施設は城山浦の中心部に集中していた。さらに、水産加工業者や行政関係者を顧客とする商店や旅館なども存在した。長崎県壱岐出身者が同浦で旅館を開業した経緯は、かつて千葉県方面からのヨード製造業者が壱岐へ展開し、同業の発展性を済州島に期したことによる。また、朝鮮・日本人以外にも、饅頭・麺類などの飲食業や反物販売業を営む中国人もいた。

 朝鮮総督府殖産局『朝鮮工場名簿』によれば、1940年(昭和15)に7種・34軒の工場があり、そのうち約3分の1が日本人によって経営されていた。工業の中心は、済州島海女と日本人による潜水器漁業がもたらした貝類を材料とする缶詰製造業で、その数は全工場の約3分1に当たる13軒を数えた。農林省水産局『日本水産物罐詰製造業要覧』をみると、おもな品目はサザエ・アワビ缶詰であり、その操業地は島の北西部・南西部に集中していた。これは、当地域が日本人による潜水器漁業の根拠地であり、彼らが採取する貝類が缶詰原料になっていたからである。

 当時、済州島最大の缶詰工場は、北西部の翁浦里にあった竹中缶詰工場である。ここではサザエ、アワビやサバ缶詰などの魚介類缶詰だけでなく、野菜・牛肉缶詰も生産されていた。竹中缶詰製造所は、1910年(明治43)に京都・祇園で、竹中仙太郎が高級食材を提供する青果商として創業された。やがて、グリンピースや筍などの瓶詰め、そして牛肉缶詰なども製造されるようになった。1922年(大正11)、竹中缶詰製造所は創業者の出身地である京都市南郊の伏見へ移転した。当時の伏見周辺には第16師団が置かれ、同製造所は軍需食料としての缶詰を提供する指定工場になった。そして、1928年(昭和3)頃に翁浦里で分工場が操業された。当時の朝鮮では老廃牛を処理し、軍需食料として重要であった牛肉缶詰の計画的な生産が望まれていた。そして、すでに軍都・伏見で軍需缶詰の生産工場として実績のある竹中缶詰製造所が、それを任されたのである。

 竹中家には、当時の写真だけでなく、1931年(昭和6)99日の仙太郎の一周忌を収めたフィルムが保存されている。これには、羽織・袴姿の朝鮮総督府関係者を洋装で迎える二代目社長・新太郎が写されている。また、大阪―済州島を結んだ第二君が代丸の船上、トロッコが敷かれた工場、そこに従事する約30人の朝鮮人女性、さらには未舗装の道路、翰林港の改修や電灯敷設工事なども収録されたこのフィルムは、当時の済州島を知る貴重な資料である。

その後の1938年(昭和13)頃、竹中缶詰製造所は、全羅南道羅州に新たな缶詰工場を興した。1935年(昭和10)、栄山江対岸の錦川面院谷里に長崎県西彼杵郡出身の松藤伝六が本格的に梨栽培を開始したことが、工場設立のひとつの要因である。そのため、竹中缶詰製造所羅州工場では、牛肉のほかに果実缶詰の製造も行なわれたらしい。羅州市役所に残る地籍資料からは、羅州駅と工場とを結ぶ道路の建設や、その一部は松藤から買収されたことなどが判明する。

 

●6月号の巻頭エッセー担当は、宇野田尚哉さんです。よろしくお願いします。

 

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