======================================================================== 青丘文庫研究会月報<207号> 2006年10月1日 発行:青丘文庫研究会 〒657-0064
神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内 TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 http://www.ksyc.jp/sb/ e-mail hida@ksyc.jp @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一) A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹) 郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円 ※ 他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。 ========================================================================= ●青丘文庫研究会のご案内● ■第243回朝鮮近現代史研究会 10月8日(日)午後3時〜5時 「済州島4・3事件」研究の現段階 済州大学教授・趙誠倫さん ■在日朝鮮人運動史研究会関西部会はお休みです。 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫 神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351 (地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10分) ハワイ大学所蔵の朝鮮近代史関係資料 松田利彦 今年(2006年)2月に、私の所属している科学研究費の研究班による調査の一環として、約1週間、ハワイ大学所蔵の朝鮮近代史関係資料を調査する機会を得た。英語圏の大学の所蔵するコレクションとしては有数のものと思われるので、以下に簡単に紹介しておきたい。 まず、同大学Hamilton Library所蔵のものとして、「梶山コレクション」があげられる。小説『族譜』で知られる梶山季之が収集した植民地期朝鮮関係を中心とした文献・文書であり、同コレクションを含む朝鮮関係日本語文献については、目録Minako I. Song, Masato Matsui eds., Japanese
sources on また、同じくHamilton Libraryには、「中枢院文書」が大量に残されている。ハワイ大学歴史学科教授・崔永鎬氏が1970年代にソウルの古書店から購入したものという。多くは「朝鮮総督府中枢院」罫紙に書かれた手書きの文書であり、@中枢院自体の活動記録・改革意見、A総督府官僚による諸調査報告書、B中枢院と他官署との往来文書、C『朝鮮王朝実録』等の史書からの抜粋などからなる。以上の「梶山コレクション」と「中枢院文書」は貴重書扱いで、複写はデジタルカメラによる撮影のみ許可されている。 さらに、ハワイ大学には、Center for Korean Studiesが付設されており、同センターの図書館が朝鮮関係の資料をもっている。まず、植民地期に李承晩が中心となってハワイの韓人を組織した「同志会」の関係文書があり、同志会の会計簿や会員名簿、同志会機関紙『太平洋週報』(1938〜41, 46年〜)を含む。その他、同センターは、朝鮮殖産銀行について研究したKarl Moskowitzの寄贈によるKarl
Moskowitz Collection、アジア太平洋戦争期から朝鮮解放後にかけて米国務省で朝鮮関係を担当したGeorge M McCuneの文書McCune
Papersも所蔵している。 宿泊先のホテルはワイキキビーチにあったにもかかわらず、一度もハワイの海で泳ぐことなく、ひたすら大学とホテルを往復する毎日だったが、研究者としてはなかなか充実した調査ではあった。 第241回朝鮮近現代史研究会(2006.6.11) 「済州島における日本軍の『本土決戦』準備」 ―『青丘学術論集』論文以後の判明点を中心に― 塚崎昌之 私は2003年に「済州島における日本軍の『本土決戦』準備―済州島と巨大軍事施設」を『青丘学術論集』第22集に発表した。その中で済州島は日本軍が「本土決戦」時に米軍が上陸をすることを予想した9箇所の一つであり、沖縄戦を上回る7万5千名の兵士が集められ、そのための軍事施設の建設には多くの朝鮮人が強制動員され、島中のいたるところで地下壕を掘らされていたことを明らかにした。 翌年、この論文が済州島で韓国語に翻訳されたこともあり、済州島での日本軍軍事施設に対する関心が高まっている。昨年からは済州大学校耽羅文化研究所が韓国学術振興会の研究助成を受け、現地調査と済州島民に対する聞き取り調査を行っている。また、『漢拏日報(ハルラ・イルボ)』が秋から「『苦難の歴史現場』日帝戦跡地を行く」シリーズの掲載を開始。本年6月には、済州島教育庁済州教育博物館が平和教育資料集「清算されない過去の歴史は繰り返す−済州島日本軍戦争遺跡を語る」を発刊した。この夏には、「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会2006in済州島」も開催される。 論文発表から3年がたち、何度かの現地調査や日本軍兵士の聞き取りを行い、新たな資料も発見した。済州島が軍事基地化される最初は海軍のモスルポ飛行場(済州島航空基地)であった。この建設のきっかけは1932年の上海事変での日本軍最初の飛行戦闘であること、その後、1937年に行われた南京渡洋爆撃を視野にいれて拡張工事が行われたことが推測されるようになった。1944年末期からはそのモスルポ飛行場付近のトンアルオルム下には巨大地下壕が掘られるなど、「本土決戦」準備が始まった。論文では5万7千uという記録が残っていることから、戦時中の最大の地下壕である可能性があると書いたが、現地調査の結果、記録は誤記であり、5千7百uであることがわかった。 一方、陸軍の地下壕は総延長50kmにも及ぼうかという規模であることが判明した。1945年4月から6月には内陸部に持久戦用の地下壕が多く掘られた。特にカマオルムの地下壕は迷路のように複雑であり、中に多くの小部屋が用意されていた。7月からは水際で決戦を行うための地下壕等が急ピッチで用意された。特に南西部の松岳山で発見された1kmに及ぶ地下壕は上下3段になっており、完成度が低いこともあるが、非常に単純な構造で兵士がやっと隠れることができるだけのものであった。いざ戦闘となれば、ここにこもった兵士は全滅するしかない場所、構造であった。 また、戦後の朝鮮軍電報文から、日本軍はアメリカ軍に対しては非常に従順に武装解除を受け入れ、自ら多くの武器を処理したことがわかった。その一方で、済州島住民の独立、解放運動を弾圧し続けていた。そして、11月中旬の日本軍の本土引揚げ完了と入れ替わるように、アメリカ軍の軍政が始まった。そのアメリカ軍政に、暫くの間、数百名規模とも推測される日本軍兵士が治安維持要員として残留・協力したことも明らかになった。 現在、済州島では「平和の島」として観光開発が進む一方、空軍基地・海軍基地の建設計画が持ち上がっている。空軍基地の候補地としてあがっている場所はモスルポ飛行場跡と陸軍が戦争最末期に作った特攻用の橋来里飛行場(現大韓航空訓練場)である。日本軍が済州島をどのように戦略的に位置づけ、何を行おうとしていたかを、きちんと把握、記録しておくことは、このことの是非を考える上でも重要な作業になるはずである。 第282回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2006.5.14) 新聞記事にみる戦前期兵庫豊岡地方の朝鮮人労働者 堀内 稔 豊岡を中心とする北但馬地方の朝鮮人に関しては、これまであまり研究されたものがなく、兵庫朝鮮人関係研究会『兵庫と朝鮮人』(1985年)の所収論文、が唯一といっても過言ではない。これらは、現地へ行って目撃者を探しだし、その証言に多くを依拠しているが、新聞記事は資料として使われていない。 当時の新聞には、数少なく断片的ではあるが、この地方の朝鮮人に関係した記事が出てくる。ここでは、これらの新聞記事を通しておぼろげながら浮かび上がった朝鮮人の姿、活動について報告した。 この地方には、豊岡の杞柳細工以外に主たる産業はない。したがって朝鮮人の職業は土木工事への従事が主となる。戦前期のこの地方の主な土木工事には山陰線鉄道工事、円山川改修工事、1925年の震災復興事業、丹但鉄道工事、矢田川改修工事などがあり、いずれも朝鮮人労働者が関わった。 1927年8月8日付の『神戸又新日報』は、「豊岡鮮人調べ」の見出しのもとに次のように報じている。短い記事であるが、同地方の朝鮮人の姿が簡潔にまとめられている。 「豊岡所管内には震災復興事業、円山川治水、丹但鉄道工事と孰れも地方大工事に多数人夫が労働に従事しているが、労働者の大半は鮮人で七月末同署の調査に依ると 土工三五〇人、杞柳工二六人、店員十人、理髪職一人、船夫四人、其他四一人で合計四二五人(内男三九二女三三)である。 尚郡内には城崎町方面に於いて従事する土工二〇〇人、日高三〇人を合すれば全但の鮮人は七百余名に達し、既報の如く之等鮮人は昨年青年会を組織し、近く同会貴島顧問等の斡旋によって豊岡町に青年会館を建設すべく奔走中である」 円山川改修工事は1920年から17年にわたって実施された工事で、工事の期間中常時100名ほどの朝鮮人が工事に携わったと推定される。 丹但鉄道は豊岡と京都府の峰山を結ぶ鉄道で(現、北丹後鉄道)、1927年11月に賃金不払いから朝鮮人労働者約150人がストライキを行った。 杞柳細工は柳の枝を原料とする行李や容器などで、古くから豊岡の特産品であるが、1921年12月に朝鮮人職工43名が初めて渡日し、各杞柳細工の現場に配置された。翌1922年3月には朝鮮人の杞柳製品の競進会も開催された。豊岡の朝鮮人杞柳職工の渡日を推進したのが朝鮮・大邱に本社を置く東洋杞柳会社社長の大橋松太郎で、彼は同地方で原料の生産から加工まで大規模な杞柳事業を手掛けた。 但馬鮮人青年団は、豊岡署の特務巡査などの指導で1926年5月に組織された団体で、発会式には200余名が参加した。発会式では青年団のメンバー6名が1925年の震災の際に抜群の救援活動を行ったとして表象された。 豊岡を含む城崎郡の人口は1930年10月現在で670人(国勢調査)、1942年4月現在で1,244人(協和教育研究)となっており、1930年代末からかなり増えている。とりわけ香住方面の朝鮮人が増えているが、これは矢田川の改修工事に関係するものと見られるが、この工事に関しては詳しいことはわからない。 【今後の研究会の予定】 次回は、11月12日(日)在日・梁永厚、近現代史・全淑美、12月10日は未定です。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 【月報の巻頭エッセーの予定】 11月号以降は、水野直樹、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植、・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。 【編集後記】 ・ 以下は、8月4〜6日、済州島での「2006朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える日韓交流ネットワークin済州島」のフィールドワークの写真です。もちろんセミナーも開催しました。飛田が『むくげ通信』218号に書いたレポート抜き刷りを郵送の方には本月報に同封します。 http://ksyc.jp/mukuge/218/hida.pdf でもみることができます。 ・ また参加者の仲村修さん(朝鮮児童文学研究者)が、ご自身のブログ http://blog.goo.ne.jp/eorini2005/ に発表されています。さて、来年はどこにいきましょうか? (飛田 hida@ksyc.jp) 済州島松岳山の特攻基地跡前で 2006.8.5 |