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青丘文庫研究会月報<203号> 2006年4月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。=========================================================================

 

●青丘文庫研究会のご案内●

■第239回朝鮮近現代史研究会

4月9日(日)午後1時〜3時

「竹島問題と日韓会談」  藤井 賢二(姫路市立姫路高等学校教諭)

 

■在日朝鮮人運動史研究会は、お休みにして、午後3時から大倉山公園で花見です。

 

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫

  神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351(地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

<巻頭エッセー>

日韓国交正常化交渉関連の文書公開を 太田 修

 

 すでにご存知のように、韓国政府は20051月と8月に通商外交部が所有している日韓会談関連文書の大部分を公開しましたが、日本政府は日朝国交正常化交渉への影響を理由に日韓会談文書をほとんど公開していません。

 こうした中で、最近、日韓間の補償問題は日韓財産請求権協定で「解決済み」だとする主張が、日本政府や裁判所、メディアなどにより広められているように思われます。しかし、日本側の関連文書は公開されておらず、補償問題が日韓会談でどのように話し合われ、どのように処理されたのか、その歴史事実の検証がなされていないにもかかわらず、「解決ずみ」だとするのはあまりにも強引だといわざるをえません。

 こうした事態を憂慮し、歴史事実の解明と補償問題の解決を求める人々が、昨年1218日、東京の在日本韓国YMCAホールで「日韓会談文書全面公開を求める会」(「求める会」)を結成しました。私もその集まりの呼びかけ人となり、結成式に参加しました。

 「求める会」は、「日本政府に対して、日韓会談関連文書の全面公開を求め、日本の植民地支配を認めさせ、被害者への謝罪と戦後補償を実現させる」という目的を実現するために、情報公開法に基づき11文書の請求を行なうことを計画しています。日韓会談関連文書を細分化すると1000を越しますので、11文章だと1000余名の会員が活動することになります。

 そして425日、外務省に日韓会談文書の公開請求を行う予定です。日韓会談関連文書は「不開示情報に該当する」とされていますので、よほどのことがないかぎり非開示の回答がなされると思われ、その場合、日本国に対して直ちに提訴することになっています。

 日韓・日朝間の補償問題を解決するためにも、また未来の日韓・日朝関係を考えていくためにも、日韓会談関連文書を公開して、歴史の真実を明らかにすることが必要だと考えます。私たち市民には歴史の真実を知る権利があるのです。

 「求める会」についての詳細は、ホームページ(http://www7.0038.net/~nikkanbunsyo/)を見ていただくか、事務局(Tel:0529156456)に直接お問合せください。会員1000人が公開請求を行うことを目標としていますが、まだ十分「余裕」があるそうです(サポーター制度もあります)。会員申し込みはホームページ上でもできます。できるだけ多くの方に会員になっていただくよう、どうかよろしくお願いいたします。(太田修)

 

<第280回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2006.2.12)>

1925年の〈東洋無産階級提携〉論について」 黒川伊織

 

 本報告では、1925年に在日朝鮮人思想団体・一月会の幹部である安光泉によって提起された「東洋」なかでも日本・朝鮮・中国人社会主義者の「提携」に基づいて、日本および欧米帝国主義の打倒と植民地解放を目指す理念を〈東洋無産階級提携〉論として位置づけ、その歴史的背景や実践活動の試みについて検討した。

 その思想的原点は、1920年代前半期の「東洋革命」の理念にまで遡ることができるが、それは日本の合法的無産政党組織構想と相まって〈東洋無産階級提携〉論へと発展を遂げた。安「日本社会運動者の態度」(『政治研究』19253月号)は、その理念を明確にした。安は、コミンテルン第二回大会で採択された「民族・植民地問題に関する補足テーゼ」を援用し、「東洋各国の植民地の無産階級は日本無産階級と団結して、日本のブルジョアジー及、欧米のブルジョアジーと戦ふ」ために、「先進国」日本の無産階級がその指導的立場を占めるべきであると指摘すると同時に、対等な関係性による「提携」のあり方をも模索していた。

 19255月頃に設立された極東社会問題研究会は、この〈東洋無産階級提携〉論を具体化した組織であった。高津正道を中心とする旧第一次日本共産党の党員、一月会・在日労総の幹部、さらに中国国民党東京支部の幹部によって構成されたこの組織は、階級的解放と民族的解放を同時に実現すべき「小インタナショナル」としての役割を期待された。

 19257月、極東社会問題研究会の提起により、植民地朝鮮の水害罹災民を救済するべく、在東京の日本・朝鮮・中国各無産団体の共同闘争として、朝鮮水害飢饉救済運動が開始された。安らは、この運動をつうじて〈東洋無産階級提携〉論を具体化するべく、植民地朝鮮における収奪の実態を明らかにすることをも目的とした。日本社会主義運動にとってこの経験は、現実に存在する植民地としての朝鮮を認識するうえでのひとつの契機となり、以降の日朝共同闘争の展開に影響を与えた。

 救済運動さらには1925年後半に展開された日朝共同闘争の経験により、一月会・在日労総と日本共産党再建を目指すコミュニスト・グループは急速な接近をとげたが,そのことは、〈東洋無産階級提携〉論の変容をもたらした。安「極東無産階級の共同戦線」(『大衆』192634月号)は、「大衆」が「自発的に」問題とするに至った「極東無産階級の共同戦線」形成の意義についてスターリンを援用しての指摘を行うが、そこでは〈東洋無産階級提携〉論の根幹にあった、宗主国および植民地民族の対等な「提携」という理念は、後景に退くこととなった。

 〈東洋無産階級提携〉論は、日本社会主義運動に植民地朝鮮の存在を突きつけるという重要な役割をはたしはしたが、コミュニスト・グループのヘゲモニー確立により、コミンテルンの指導性を追認する論理へと変容したものと考えられる。このことは、日本社会主義運動の「大国意識」「指導者意識」に基づく植民地朝鮮への蔑視観が、容易には克服されえなかった事実を示していよう。

 

<第231回朝鮮近現代史研究会>(2006.3.12

朝鮮戦争と李承晩〜開戦直前の李承晩の対応〜 李景a

 

 一九四七年の夏、解放二周年目を迎えた朝鮮半島には早くも南北の分断体制が根を下ろしはじめていた。朝鮮社会は運命の岐路に立たされた。解放とともに彗星の如く登場して朝鮮民衆を指導してきた呂運亨が凶弾の犠牲となったのは七月であったが、そのころ、南の左派勢力は米軍当局の弾圧で極めて困難な状況に置かれていた。再会したばかりの二回目の米ソ共同委員会も八月頃には再び米ソ間の意見の調整に失敗し頓挫してしまった。米国は、モスクワ協定を断念して米英中ソの四ヶ国会談を新たに提案するもののソ連の拒否で開かれる見通しは立たず、無意味なものとなった。九月に入ると米国は、朝鮮の独立問題を国連総会に付託した。総会は直ちにそれを議案として採択した。これに対して米ソ共同委員会のソ連代表は米ソ両軍の南北朝鮮からの撤退と、統一政府の創設を朝鮮人自らの手に委ねることを旨とする案を提案した。だが米国がソ連の提案に応ずることはなく、結局十一月中旬、国連総会は決議で臨時朝鮮委員会の設置を決定し、同委員会の監視下で総選挙を行うことになった。ソ連が占領する北でそれが受け入れられることはなく、選挙は南でのみ実施され、四八年八月大韓民国政府が誕生した。国連総会の勧告は象徴的なものであり、その機能と権限は、「調査、討議そして勧告」に限られ、「法的強制力」を有していないものである。米国は国連の権威で朝鮮問題の解決をはかり、自分の主張を正当化したことになる。

 さて、こうした流れの中で李承晩はどう対応しただろうか。46年夏頃から李承晩は南の単独政権の樹立を主張して、左右合作の運動などには見向きもせず、米国以上にソ連を警戒していた人物であったが、韓国の初代大統領に選ばれた。しかし、李承晩は政局の運営の面において早くも困難な状況に置かれた。土着の保守勢力がいったんは李承晩を支持したが、権力の「分け前」を要求して妥協に応じなかったからである。それに済州島四・三事件は地方の軍・警察だけでは鎮圧が困難な状況となり国防警備隊の出動で対応しようとしたところ、動員されだ軍隊が民衆に銃口を向けることを拒む事態が生じた。いわゆる麗水・順天の反乱軍事件(48.10.19)である。

 李承晩政権は、連隊ごと反乱を起こし、地方の行政を掌握、警察署を襲撃しては人民委員会を組織し行政機構を掌握して勢力を拡大していく反乱軍との戦闘に明け暮れるようになる。反乱軍の勢力は全羅南道麗水・順天地域から周辺地域へと拡散され、山岳地帯へと「智異山パルチザン」闘争へと変わっていった。それに、朝鮮民族の代表が誰一人討議に参加せずに行われた国連総会の決議によって生まれた政府はその正統性が問われていた。経済的困難も重なって危機に直面していた李承晩政権に、治安上頼みとする米軍は韓国からの撤退を仄めかし始めた。

 米国の国防省並びに軍当局は、「戦略的価値のない」韓国への米軍の駐屯に否定的な立場をとっていた。しかし、国務省はそれとはやや異なり、朝鮮半島の戦略的重要性を認めていたが米国のメンツを失うことなく撤退できるなら、韓国に留まる必要はないとの結論に達した。米軍は、結局一部の軍事顧問団を残して撤退に踏み切った。朝鮮半島の戦略的価値と地域防衛に必要な費用を見直していた米国が米軍の「縮小ないし名誉ある撤退」を模索したからである。李承晩政権は二重、三重の苦しい状況にあったのである。

 李承晩は孤立の危機を救うため、国民の目を国内から国外にそらそうとし、北からの侵略という危機説を宣伝しはじめた。四八年九月、ソ連は北朝鮮からの軍の撤退を翌年末までに完了すると発表し、米国への圧力を加えた。南でも、それを支持する団体が李承晩政権に政治的圧力を行使し、政府と対峙した。そこで李承晩は、「戦争抑止力」として米軍の存在が欠かせないと主張し、鎮海海軍基地を米軍に提供する考えを極秘に伝えていったが米国からの反応はなかった。

 李承晩は、国会演説でソ連の南下を防御するためには米軍の駐屯が欠かせないと主張すると同時に、「撤退」を模索する米国への積極的な請願行動を行う「撤退に反対する国民運動」を積極的に展開した。だが、米国の政策方針に変化が見られないと悟ると、今度は国防力の強化を目指す、「撤退」を「条件闘争」に変えて、米国に武器援助の要請を行った。張勉駐米大使、趙炳玉特使を米国に派遣して、韓国への「武器援助は危険だ」 という米国の「間違った」世論を警戒しつつ「韓国は東北アジアで共産主義とは模範的に闘っている唯一の国だ」と主張して交渉に当たらせた。折しも韓国軍の北への挑発も見られるようになったが、朝鮮戦争が勃発する前夜の韓国の状況であった。

 

【今後の研究会の予定】

5月14日(日)在日・未定、近現代史・未定、6月11日(日)、在日・全淑美、近現代史・未定 ※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

【月報の巻頭エッセーの予定】

2006年5月号以降は、金隆明、福井譲、藤井幸之助、松田利彦、水野直樹、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、金隆明、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植、・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           みなさまいかがお過ごしでしょうか。神戸の桜はだいぶ遅くなっています。4月9日の花見はちょうどいいかもしれません。

           2006年度の購読料を青丘、いや請求します。青丘文庫研究会は、月報購読者は基本的に年間3000円をお支払いください。ただし印刷物の月報を不要としメールニュースのみでOKという学生の方にはこの3000円を免除します。他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いできればと思います。そして在日朝鮮人運動史研究会関西部会の会費は年間5000円です。5000円を払うと『在日朝鮮人史研究』(年一回発行、2520円)を3冊受け取ることができます。雑誌発行のためにも是非会費をお支払いください。いずれも研究会の時に会計担当の堀内さんにお支払いください。送金の方は、郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>にお願いします。

           8月に済州島で強制連行交流集会を開催する計画があります。またご案内いたします。ではみなさま健康に留意してご活動ください。     飛田雄一 hida@ksyc.jp

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