青丘文庫研究会月報 2005年6月1日 青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内 TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878
http://www.ksyc.jp/sb/ e-mail hida@ksyc.jp @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一) A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹) 郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円 ※ 他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。 ●青丘文庫研究会のご案内● ■第272回在日朝鮮人運動史研究会関西部会 6月12日(日)午後3時〜5時 「戦前期京都市吉祥院地区における朝鮮人」 高野昭雄 ■第233回朝鮮近現代史研究会 6月12日(日)午後1時〜3時 「植民地期朝鮮における民族主義に関する一考察」 孫正権 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫 神戸市中央区楠町7-2-1
TEL 078-371-3351(地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10分) ●巻頭エッセー 『岸和田市史』近代編の編纂に参加して 横山篤夫 『月報』の194号に、『西宮市史』の編纂に携わった松田利彦さんのエッセーが掲載された。私は大阪府南部の『岸和田市史』の編纂に、参加する機会を得た。近代編が3月に刊行され、似た体験をした者として共感しながら読ませて頂いた。 そこでこの場を借りて、私が体験し考えたことをご報告したい。『岸和田市史』近代編は明治維新から、1945年8月15日迄を対象としているが、私が関わったのは、1922年11月の岸和田市制実施以後である。スペースの都合で、ここでは「戦時体制下の朝鮮人」について取り上げてみる。言う迄もなくこのテーマの課題としては、既に渡日していた在住朝鮮人と、1939年から実施された労務動員計画などにより朝鮮本土から連行された朝鮮人を対象としたものになる。 15年前に、大阪府南端の朝鮮人強制連行の調査に参加した際、お元気だった鄭鴻永さんから「岸和田市は在日のオモニ達の想いのいっぱい詰まった地。そこの市史を書くのなら、そのこともしっかり書いて下さい」と大きな課題を頂いた。既に金賛汀さんの『朝鮮人女工のうた』によって、岸和田争議を中心にして朝鮮人女性労働者の生活と闘いは明らかにされている。しかしそれは1930年の争議終了迄で、戦時体制にどう組み込まれていった(か)が問題である。文献では殆ど残っておらず、残された時間の少ない在日一世からと、当時を直接体験した日本人の聞きとりから迫ることになった。そして不十分ではあったが、聞きとりや僅かに残る統計、史料などから、岸紡争議後は岸和田市の紡績会社などから朝鮮人女性労働者は排除されていったこと、その結果女性の方が多かった岸和田市の紡績会社などからは朝鮮人女性労働者は排除されていったこと、その結果女性の方が多かった岸和田市の在住朝鮮人数は、1933年以後男性の方が多くなりだすこと、排除された女性の中には軍需関連中小企業が戦争の拡大で活発になった大阪東部に移った人がいるなど、概況を一応まとめることが出来た。また岸紡を初め、紡績工場が次々に軍需工場に転用されると、そこで働く労働力として、再び在住朝鮮人は増加する。その主な要因は朝鮮人男性労働力の需要が増加したためであった。 しかし朝鮮本土からの連行については、間接的証言はあっても一次史料で確認することは出来ず、次の記述でしめくくった。「当時トラックの運転手をしていた春木在住の朝鮮人は、たびたびこの工場から名古屋の航空機工場まで飛行機の尾翼を運んだという。そしてこの時の体験から、『工場内で働いている人達と私語などできる状況ではなかった』と語っている。さらに『工場内で働いている人達の会話で朝鮮語が聞こえ、相当数の朝鮮人が働かされていたように思う』と述べている。戦時体制が強まり、国民徴用令により日本人も自由に職業選択ができない時代になった。朝鮮人は、渡日していた人々も含めて、強制的に戦時体制に動員された。岸和田市を含む泉南地方でも、軍需工場とその周辺で、苛酷な労働の場に朝鮮人の姿が見られた。」 将来、文献が発掘されるか、被連行者の証言が得られた際に、接続できる記述を心掛けたつもりである。力及ばず不十分のものではあるが、頂いた課題に私なりの答案を書いたと思っている。 ●第270回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2005.4.10) 愛知県における1930年代・在日朝鮮人の教育運動と朝鮮普成学校 西 秀成(名古屋歴史科学研究会会員) 愛知県は、朝鮮人による夜学校が、内務省警保局の資料では1932年には6校、1935年には19校とされるなど、在日朝鮮人の教育運動が盛んな地域であったが、その実態はよくわかっていない。このなかで、1930年に設立された朝鮮普成学院(のち名古屋普通学校)に設立に関する資料(名古屋市市政資料館蔵)を見つけることができたので報告したい。 愛知県でも1920年代後半に在日朝鮮人の数が急増し、1930年の国勢調査における出生地を朝鮮とする人口は33,729を数え、子弟の教育に関する要求も高まっていったと考えられる。 自主的な夜学校という形が多い在日朝鮮人の教育機関のなかで、朝鮮普成学院の創設者朴承宅は、1931年に愛知県知事あての認可申請を提出し、「小学校令第17条ニヨル小学校ニ類スル各種学校」(愛知県学務部)として認可され、「内地で最初の公認朝鮮人小学校」(名古屋新聞)となった。場所は、名古屋市中区御器所町向田(現、金山五丁目)である。 この学校の教育内容は、教授時間数が週18時間(夜間、国語6、算術5、修身1、朝鮮語2、地理1、歴史1、音楽1)とされており、読書算の基本的な教育や朝鮮語による民族教育ばかりでなく、地歴や音楽などをカリキュラムに取り入れるなど、日本人の学校と同等の教育内容を保持しようとする積極的なものだった。 また、「内地ニ移住セル朝鮮人ノ貧困児童ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ補フヲ以テ目的トス」(児童園々則)として、授業料も無料としていた。しかし、これは愛知県学務部が校舎の新築を要求していたこととも合わせて財政を難しいものとしていた。朴承宅は、1932年に約7か月に渡って朝鮮に滞在し、総督府などからの援助も取り付けていた模様であるが、33年10月には名古屋市会議員選挙に立候補した。この立候補をきっかけに朴承宅は「特別要視察人乙号」に指定されたとみられる。学校も、「融和親睦系」から「民族主義系」に分類されるようになった。 愛知県では、1935年秋ごろから朝鮮人民族学校への圧力が強まるようになり、閉鎖される学校が出始め、36年3月末の東亜日報にも「愛知県下廿余夜学 突然廃校を命令」と報じられた。36年3月頃、朴承宅は「窃盗横領其他の被疑事件」により検挙され、「在名民族主義系一部朝鮮人間に於いて右学校を継承すべく策動せるも、県当局に於ては既定の方針に基き廃止せしむることゝせり」(特高外事月報)とされ、5月14日、私立「名古屋普通学校」の廃校手続が完了、在学中の児童110名中75名は小学校へ、10名は小学校特別学級へ就学することとなった朴承宅のその後については、現在のところわかっていない。 しかし、1936年夏になっても日本人の経営する幼稚園で夜学が開かれていることが確認できるなど、朝鮮人の民族教育はしばらくの間継続されたものと思われる。 〔付記〕名古屋市市政資料館の朝鮮普成学院設立申請書類は、『愛知県史研究』(06年3月刊行)に掲載予定なので、必要な方は、次のメール・アドレスまで申し込まれたい。 ANC27195@nifty.com ■ ●第232回朝鮮近現代史研究会(2005.5.8) 植民地期朝鮮における衡平運動の研究 −社会運動としての虚像と実像 徐(そ)知(じ)伶(りょん) 衡平社は旧「白丁」身分の解放と平等社会を目標として、1923年4月に創立され、1930年代半ばまで活動した団体である。「衡平青年前衛同盟事件」をきっかけに1935年4月に‘大同社’へと名称が変わるようになる。 今までの衡平社または衡平運動に関する研究は、韓国の歴史の中で最も賤視された旧「白丁」身分を前提とした視点で研究がなされてきた。また大同社に対しては、身分解放運動や社会団体としての活動より、日本に対しての親日的態度と経済的利益だけを追求する団体として認識されている。 本稿では衡平運動−朝鮮社会−総督府という三者間の関係を見る枠組みを用い、社会運動としての衡平運動における虚像と実像を浮かび上がらせたいと考える。 第1章では、初期衡平社運動誕生の背景、衡平社創立の過程と運動の様相について述べ、第2章では、創立初期から起きた衡平社内部の葛藤を中心に分析した。晋州派とソウル派の本部移転による葛藤の出現、指導者たちの性向によって晋州派とソウル派の特徴や妥協、その妥協後の組織拡散、人権運動を行いながら「白丁」身分の獣肉組合の設立などを考察してみた。そして、衡平社の下位団体との関係や水平社との連帯の試みについても分析した。 第3章では、朝鮮社会内で衡平社員に対して集団的暴力を利用して保守的態度を見せた反衡平運動に関して考察してみた。反衡平運動は朝鮮社会内部からの強い差別構造を成しており、この差別構造こそ衡平運動の実像が見られると私は考える。「衡平青年前衛同盟事件」や大同社への移行過程と大同社について考察してみた。 大同社へと移行しながら、衡平社間にも大きな変化が見られる。特に社員の生計維持と運動を持続する上で困難さをきわめていて、日本に協力を余儀なくされた。1936年に大同社員二人を通じて生計維持の協力ではなく、多くの葛藤や苦悩の中で結局には協力するほかなかったことが分かった。ここで衡平運動の実像が見られる。大同社の融和主義的態度や「親日」行為ではなく、民族においても社会差別構造の中におかれていた「白丁」身分の人々に視点をおいて、彼らの生業という経済的権利を基準として考え、総督府と衡平運動の間にあって権利を守ることを模索した姿を見出したと考える。この視点から、筆者は社会運動史での虚像が見られると考える。韓国側の研究者たちは親日勢力だと断定しているが、その当時の妥協をしなければならなかった状況で葛藤しながら運動を持続する大同社の努力をも認めなければならなかった。衡平運動が1940年頃まで「白丁」解放を叫びながら実践してきたことは充分に評価しなければならないと考える。 衡平運動史を考察しながら、総督府の経済市場関連統計資料や衡平社・大同社員の職業に関する分析を行うことが課題として残った。今後、経済市場での衡平社とのかかわりに関して詳しく研究を続けていきたい。 ■ ●在日朝鮮人史研究・第2回日韓共同学術会議ご案内● 日時:2005年8月6日(土)〜7日(日) 研究発表討論(6日)とフィールドワーク(7日) 会場:韓国釜山海雲台B&Bホテル 051-742-3211 主題:韓日(日韓)関係史における在日朝鮮人の存在意味 韓国側問合せ申込み先:霊山大学国際学部・朴晋雨(韓日民族問題学会研究理事) TEL051-540-7092 FAX051−540−7189 e-mail pjw3331@ysu.ac.jp 日本側問合せ申込み先:神戸学生青年センター・飛田雄一(在日朝鮮人運動史研究会関西部会代表)TEL 078-851-2760 FAX
078-821-5878 e-mail hida@ksyc.jp ■ 【今後の研究会の予定】 7月10日、在日・未定、近現代史・未定、8月は青丘文庫での研究会はお休み(釜山で研究会、別項参照)、9月10日、10月9日 ※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 【月報の巻頭エッセーの予定】 2005年7月号以降は、李景a、青野正明、太田修、金森襄作、金隆明、福井譲、藤井幸之助・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。 ●案内● ■朝鮮史セミナー/日韓条約締結40周年−問い直される日本の戦後処理 講師:佛教大学教員 太田修(おおた おさむ)さん/日時:2005年6月24日(金)午後6時30分/参加費:600円(学生300円) ■朝鮮史セミナー/朝鮮解放60年を考える−朝鮮半島の60年、在日朝鮮人の60年− 講演(1)解放後の朝鮮−1945〜2005−大阪産業大学教授 藤永 壮(ふじなが たけし) さん 講演(2)在日朝鮮人にとっての戦後60年 神戸学生青年センター館長 飛田雄一(ひだ ゆういち)さん ・日時:7月23日(土)午後2時/・参加費:600円(学生300円) ※会場・主催はいずれも神戸学生青年センター <編集後記> ★ 徐々に夏らしくなってきている今日このごろです。みなさまいかがお過ごしでしょうか。 ★ 本号でお知らせしていますように8月釜山でセミナーを開催します。現地集合現地解散です。正式な招待状の必要な方は飛田までご連絡ください。お送りいたします。航空券等についてもご相談にのります。 ★ 月報の「メール版」を発行しています。無料です。希望者は飛田までメールをください。現在読者は300名です。 ★ 飛田が、韓国強制動員真相究明法について『むくげ通信』210号に解説記事を書きました。お読みください。http://www.ksyc.jp/mukuge/210/hida.htm でもご覧いただけます。 ★ みなさま、暑くなりますが、ビールの飲みすぎには注意しましょう。飛田hida@ksyc.jp |