NCC創立50周年宣教会議
「21世紀の宣教−日本におけるエキュメニカル運動の可能性−」
(1998年10月26-28日 於:国立婦人教育会館)

N C C 宣 教 宣 言

【はじめに】

(1-1) 私たち日本キリスト教協議会(NCC)は、1998年10月26日から28日にかけて、国立婦人教育会館を会場に、「21世紀の宣教−日本におけるエキュメニカル運動の可能性−」と題して、『NCC創立50周年宣教会議』を開催した。私たちは過去のあやまちの認識と悔い改めに立ち、破れ大き歩みがこれまで大きな赦しの下に支えられてきたことを感謝し、21世紀における日本のキリスト教界に与えられた宣教の課題と幻(ヴィジョン)を真剣に語り合った。

私たちは喜びと責任をもってこの宣教の課題を担い、その幻を実現し得るよう、主の憐れみと支えを切に祈るものである。

(1-2) また、そのことを通して、ことにアジアの民衆と共にあるキリスト教界と姉妹兄弟とのエキュメニカルな交わりに参与し、主にある信頼と愛の絆を深め合い、主イエス・キリストへの信従の道を歩んで行くことを、ここに決意する。そして、主が再び来られ、「慈しみと真実、正義と平和」(詩編85:11)に満ちた世界が実現するその日を、私たちは共々に待ち望むものである。

【歴史の総括】

(2-1) 私たちは、日本基督教連盟の発足(1923年)以来、日本基督教協議会の再編成(1948年、後に1969年に日本キリスト教協議会に改称)に至る歴史を省みて、天皇制軍国主義を補完し、富国強兵政策による朝鮮・台湾への植民地政策と中国をはじめとするアジア諸国の侵略に、時には沈黙し、時には加担してきた日本のキリスト教界の罪責を担い、告白するものである。

(2-2) 在日本朝鮮基督教会は、日本基督教連盟(NCC)加盟の直後、日本の教会に吸収加入させられ、敗戦に至るまでの間、日本語使用強制等の民族的迫害を受けた。これらの責任が日本人キリスト者にあることを確認し、NCCは自らの歴史の問題としてその罪を問う。

(2-3) 敗戦後も、天皇の戦争責任が明確にされることなく連綿と続く日本社会にあって、私たちも、天皇を神として受け入れていた私たちの信仰への反省が十分なされないままでいることを自覚する。日本軍強制「慰安婦」問題をはじめとする、戦争責任・戦後責任を誠実に担うことによって、歴史の総括をすることが私たちにも求められている。

(2-4) 私たちNCCは、敗戦後50年(1995年)を期して、「『戦後50年』のときに当たって」を表明し、その中で、私たちが神から託された預言者的働きを担わず、主イエス・キリストの教えに反してきた「戦争責任」を告白した。この告白を常に心に刻みつつ、その上で、21世紀の宣教を展望するものである。

(2-5) 私たちNCCは、1968年の第21回NCC総会で「万国博への参加の件」を決議した。当時の私たちは、万博が持っているアジアに対する日本の経済侵略の問題性を自覚することなく、万博キリスト教館設置を通して、むしろそれに加担してしまったことを戦後責任の重大な問題として認識する。

(2-6) NCCは戦後、戦前の家制度に対する批判的視点を欠いたまま、欧米の「クリスチャン家庭像」を理想像として受容し広めようとした。そのことは女性の目を社会的権利から逸らせ、多様な家庭や性のあり方を否定することにつながったとの問題提起がなされた。これらの問題についての検討は今後の課題である。

(2-7) 万博問題当時から、教会に青年がいなくなった、という事実が教派を問わずある。当時教会は真剣に青年たちと向きあったのか、何故青年たちが出て行ったのかについての反省をしたのか、という批判を私たちは誠実に受け止める。確かに、NCCは、青年や子どもを取り巻く状況や課題、彼らの可能性を育み積極的に支援することへの関心が薄かったと言わざるを得ない。

(2-8) 敗戦後しばらくの間、いわゆる「キリスト教ブーム時代」があり、キリスト教界は教勢を拡大することばかりに専心していた、という批判がある。伝道のチャンス到来という意識、戦争中は苦労したという被害者意識、そして欧米の教会の支援による経済力に頼った伝道、マッカーサー讃美、天皇をクリスチャンにすれば日本はキリスト教化されるというような天皇制への擦り寄り、等が存在していた。高度成長期以降も存在したこのような「膨張主義」を、私たちは見直さなければならない。

(2-9) NCCの歴史の中、1956年の在日大韓基督教会の加盟は決定的に重要な出来事であった。在日大韓基督教会との関係が直接的には十分に取れていなかった諸教会、諸団体がNCCを通して、新たな交わりを模索し、実現できたという積極的な評価もなされている。在日大韓基督教会の加盟により、在日韓国・朝鮮人をめぐる問題に深く気づく契機が与えられたと言える。一方で、在日大韓基督教会も加盟しているという視点が欠落し、「私たち日本人のNCC」という意識が未だ散見されることを反省しなければならない。

【宣教と奉仕】

(3-1) 私たちが考える宣教とは、痛みと苦しみの内にある人、悲しむ人、貧しくされている人と共に在り、共に生きることに他ならない。「小さくされた者」と対象化する危険を自覚しつつ、捨て置かれてきた者の痛みに共感すること、「命の痛み」に共感すること、これこそが私たちの宣教の原点であり、エキュメニカル運動の場であることを確認するものである。

(3-2) 「NCCには現場がないのでは」という批判があることを私たちは重く受け止めたい。また、個々の地域や教会の現実とNCCとの間のずれも従来指摘されているところである。NCCで議論される諸課題は、それぞれの「生活の座」から提出され、またフィードバックされるべきものであることを十分に踏まえて、今後の様々なネットワークが醸成されることが求められる。

(3-3) 日本のキリスト教界の構成員の7割は女性であるにもかかわらず、決議決定機関は男性成人教職者中心で占められ続けてきた。加えて、青年、子ども、女性は常に宣教の対象として位置づけられ、共に宣教を担うものとして正当に扱われてこなかった。私たちは、このような状況の積極的改善をここに決意する。そしてそのことによって、私たちの宣教の業がさらに豊かにされることを確信する。

(3-4) NCCの働きとして欠かせないのは、アジアとのパイプ的機能である。アジア・キリスト教協議会(CCA)をはじめとして、私たちは、アジアの民衆、キリスト者との交流の場を積極的に形成してきた。その中には、韓国民主化支援の取り組み、朝鮮半島平和統一への連帯、朝鮮民主主義人民共和国民衆への食料援助、アジアの民衆の視点での情報・資料の提供、アジアにおける女性たちとの連帯や、平和を実現するための取り組み、等が含まれる。21世紀に向けて、アジアの民衆、キリスト者との繋がりをさらに深めたい。

(3-5) 1998年10月に開催された日米NCC協議会において、1997年に日米両政府によって合意された「日米防衛協力の新指針」(新ガイドライン)は、日本の「戦争国家」化を一段と推進するものであるとして、反対し、平和を創造するための共同行動を行うことを決議した。かつて、国家の戦争に加担した反省に立ち、平和の主キリストに連なる者として、私たちはこの新ガイドラインと有事立法に反対する。

(3-6) NCCが取り組まなければならない現実的課題は数多くある。その中でも、生命倫理、環境・生態系破壊、宗教的多元主義、国際債務、カルト宗教の問題や、移住労働者や高齢者、子どもを取り巻く問題は、各個教派、団体だけではなく、エキュメニカルな緊急的課題として、NCCがより積極的に関わるべき事柄であろう。従来から担われている諸課題に対しても、さらなる取り組みが求められる。

(3-7) こうした様々な課題を担う上で、果たしてNCCの現状の活動の在り方が相応しいものであるかどうか、という問いも出された。また、従来の反対運動、抵抗運動というだけでなく、NCCは、より積極的に代案を提示 すると共に伝道協力を実施していく必要があるとの指摘もなされている。

(3-8) NCCに求められている最大の働きは、ネットワーキングにあると言っても過言ではないであろう。他のNGOと協力しつつ、NGOが持っていない世界的なネットワークを持っていることを積極的に活用することが必要である。「世界から地域へ」という一方通行ではなく、「地域から世界へ」の情報伝達も含むキーステーションとしての役割への期待にも応えたい。各教派の国際的なネットワークや、アジアの教会、あるいはカトリック教会、日本福音同盟をはじめとするNCC以外のキリスト教会・団体との協力をどのようにすすめていけるかは今後の課題である。さらに宗教間の連携も必要に応じて進めていくべきであろう。

(3-9) NCCの組織、機構の再点検、改革も急務である。NCCの論議の中では常に「教派」の視点だけで、「キリスト教」協議会としての重要な一方の主体である「団体」の視点が踏まえられないことは大きな問題である。リーダーシップが閉鎖的である等の批判を受け止め、改革していきたい。組織を簡素化してフットワークを軽くすべき、青年、女性をはじめとする信徒、また高齢者が参加しやすい組織にすべきとの提言を十二分に生かす必要がある。

【信仰と職制】

(4-1) パウロは、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」(ガラテヤ5:6)と述べ、ヤコブも「行いが伴わなければ、信仰もそれだけでは死んだもの」(ヤコブ2:17)と記している。そして、「地の塩・世の光」という主イエスの山上の説教の指摘(マタイ5:13‐16)は、私たち主に従う者へ向けられている。このように実践を導き出す信仰において、神の国の福音宣教が始まり、躍動的な喜びが与えられる。それゆえ、福音宣教とは、「和解と解放の宣教」であることを、確証するものである。

(4-2) 神の創造の業にあずかる者として、教会はこの働きを、社会、宗教、文化、教育等、被造世界すべての領域において、交わりと奉仕の業を通して実践するよう、召され、委託されていることを確認する。「この世界は神のものであり、私たちは神のしもべとして生きる」との指摘は大切である。

(4-3) 神の愛と義が切り離されて理解されるところでは、キリスト者の信仰は具体的な現実との接点を失って内面化され、抽象化される。私たちは、具体的なイエス・キリストの苦難と十字架の死の中に、神の愛と神の義が交わる場を見出す。そこにこそ、「他者のために」「他者と共に」生きる道が開かれていることを確信する。

(4-4) 今日、日本のキリスト教界は、アジアや日本の状況を踏まえた宣教のあり方を確立するよう求められている。その中で、もう一度、キリスト者のメッセージの固有性は何かを考えてみる必要がある。

(4-5) 「信仰と職制」、「生活と実践」をどう結びつけるかはある意味で今後のNCC、ひいてはエキュメニカル運動全体の最大の課題でもある。NCCの歴史とは、その克服の努力の歩みであったとも言えよう。「信仰と職制」と「生活と実践」との対話が起こっていないことが、メッセージの貧しさの原因となっている。現場での課題を神学化する作業が信仰職制委員会には、特に期待されている。そのために宣教奉仕諸委員会その他との共同研究が必要である。そのことを通して、信仰と実践の緊張感をはらんだダイナミックな運動としてのエキュメニカル運動が実現されると確信するものである。

(4-6) 21世紀のエキュメニカル運動を展望するにあたり、「エキュメニズム」とは何か、を再度問い直すことが求められている。教派形成とエキュメニズムは矛盾する概念ではなく、緊張関係の中での車の両輪である。また、NCCは教会の一致をめざすだけでなく、違った形で神の宣教に参与しているキリスト教団体との共同の場を模索する道を選び取ってきた。その意味で私たちが求めてきたのは、多様性の中の一致である。またそれと共に各地域で行われているエキュメニカルな取り組みに対して、私たちはもっと関心を払い、それらの働きとの連携をはかる努力が必要である。

 また私たちは、共生社会をつくり出すことを、さまざまな機会に訴えてきた。その実現のために、NGOをはじめとして諸宗教の人々との対話と協力という広義のエキュメニズムを模索することが求められている。

【おわりに】

(5-1) NCCは、総会・常議員会の下に、各委員会・教育部・文書事業部・宗教研究所・キリスト教アジア資料センターが共に協力して、それぞれの託された宣教の働きを担っている。特に教育部・文書事業部・宗教研究所・キリスト教アジア資料センターは、個々の教会や個人をNCCと結びつける大切な働きをしている。21世紀のNCCはそれらの働きを充分に視野に入れ、人を活かし育てるために力を注ぐことを確認する。

(5-2) 日本のNCCはキリスト教協議会であり、その構成メンバーにキリスト教諸団体が含まれていることは大きな特徴であり、恵みである。またNCCの個々の働きには、加盟教会にとどまらない多くのキリスト者が大切な役割を担っている。キリスト者が絶対的な少数である社会にあり、諸宗教との対話が不可避であるということも、日本のキリスト教の特徴であり、このことは、日本のエキュメニカル運動が世界のエキュメニカル運動に貢献できる重要な視点である。私たちはこの大きな特徴を充分に生かした活動をすすめていく。

(5-3) 私たちは日本のキリスト教会と諸団体の交わりの場を保証し、その宣教活動を支え、相互信頼を構築する役割と責任を負っている。「エキュメニカル」の本来の意味は「人の住む世界」である。エキュメニカル運動の目的は、私たちの住むこの世界を、ひとつ一つの命が大切にされ、破られた尊厳が回復される世界に変えていくことである。それゆえ私たちは、エキュメニカルな交わりを深めつつ、他者の痛みを共に負われたイエス・キリストに従う道を、喜びをもって歩むものである。

「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の
ゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」「私は必ずあなた
と共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。」

(出エジプト記第3章)

1999年2月1日

日本キリスト教協議会

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