神戸・南京をむすぶ会/訪中団/97.8.12-18/文集
※ 97/9/9の報告会のためにとりあえず作った文集です。未提出の方もい
ます。正式の文集では、写真も沢山入れてつくります。表題は編集部でつ
けました。誤植、表題の変更等々は、事務局まで。97/9/9 飛田
(※ 98/9現在、未発行です。
bP/淮南&オプション
/佐藤加恵<淮南の万人坑>
鉄骨がはりだしたままの屋根もない建物、コンクリートで固められた薄暗い階段をそろそろと降りる。網戸で被われた中に入る。前の人「ギョ!!」とした声にならない声が、後ろのわたしに伝わってくる。深く掘られた坑の中は骨、骨、るいるいと横たわる骨でいっはいである。おもわず目を被いたくなる自分を励ましながら、しっかり脳裏に焼きつける。カメラに収める。その後、そっと手を合むせる。大変だらしないことに、今のわたしには、祈る言葉が出てこない。
准南の万人坑、大通炭坑の13,000余の人柱となった労働者の悲惨な惨殺の加害者は、わたしと同じ日本人である。「中国全土万人坑の犠牲者は70万人以上におよびます」と老田さんの調査報告が胸に沁みた。
<3人のオプショナル>
南京最後の一時間、フリータイムとなり、戴さん(南京国際交流公司)を案内人にして、中山埠頭の長江沿岸と悒江門付近埋葬地記念碑、中華門の3ケ所をタクシーで訪れた。各々印象ぶかく、南京の3日間の思いをさらに増し加える機会となった。その時の戴さんの一言、「南京の人々は、自分の身内にかならず犠牲者がいますよ!」。横にいた宮内さんとわたしは、「戴さんもも?」と問いかけたかったが、質問の言葉はついに出てこなかった。それはど、つらい気持ちの時であった。この戴さんの近い身内に、もし犠牲者がいて、そのことを怒り、哀しみ、許せない思いで胸の奥深く秘めたまま、日本人の私たちに“通訳”しているとしたら、「日中友好」の言葉も口にすることが、はばかれるとの思いにとらわれてしまった一瞬であった。
これを書いている今も、私は繰り返しこだわっている。(団長、♀)
bR/「中華門」フィールドワーク
/飛田雄一初めての南京行きだった。慌ただしいスケジュールの中で、有志数人で訪ねた中華門の迫力が印象に残っている。中華門は南京に入るメインストリート、南の玄関だ。ホテルから歩いて20分程のところにあった。
その中華門はそれ自体が「門」と言うより「城」だ。大阪城の××門を想像してはいけない。まず城壁が一重ではない。南京大虐殺の記録映画によくでてくる中華門はその一番外側の城壁にすぎない。その城壁の上は、もう少し広ければサッカーができそうな広場である。その下には多くの兵士が生活できる施設がある。その一部が今はお土産物屋さんになっていたが、60年前、その中華門を日本軍は機関銃、大砲、戦車等、ありとあらゆる兵器を用いて、攻略したのである。
一重めの城壁の内側に広い空間(広場)があり、さらにその内側に新たな城壁、新たな空間という風に城壁が3重になっているのである。「門」と言うより「城」、という所以である。「囲み城?」と言われて、敵を中の広場に招き入れて城壁を遮断し、その敵を次の城壁の上から撃つのである。
それぞれの城壁には城内方面より(当たり前!)優雅な幅の広い階段が左右についている。当時は「優雅」どころではなく、多くの中国軍兵士が武器弾薬を運び上げ、必死の攻防を繰り広げたのであろう。南京にはこのような「門」が各所にあり、南京を包囲した日本軍はそれぞれの門を、総攻撃によって陥落させた。そして、北方の長江方面(揚子江は長江の一部の名称であることことを今回知った)にのみ「逃げ口」をつくって、大量虐殺を行ったのである。
私には、記録映画の中華門でバンザイを叫ぶ日本軍の姿、そこに至る戦闘の過程をリアルに認識させる中華門フィールドワークであった。(団体職員、♂)
bT
/南京を訪ねて /小城 智子初めて南京を訪ねたが、幸存者の証言や、万人坑での無造作に放置されているような遺骨の山に、改めて虐殺の重さ、すさまじさを見た。高校生の頃に初めて南京大虐殺という言葉を知り、教科書にも載ってなかった事実を、詳しく知りたいと思い調べた。わずかな資料に私たちに知らされない日中戦争があることに驚かされた。広島や長崎などの被爆の恐ろしさ、苦しみ、空襲の恐怖と戦争被害の恐ろしさに目を向けてきたが、それだけでなく、当時明らかにされかけてきたベトナムのソンミ大虐殺事件以上のものがあるのに気づかされた。
父は、中国東北部に兵隊としていったが、結核を患い帰ってきた、という。高校生の私に、上海、南京と戦争が拡大していく中で、日本軍のやり方がひどくなった、南に行くほど治安が悪くひどかったのだろうと、説明した。しかし、戦争中は、入れ替わる兵隊が自慢話をするので少し知ったくらいで、全体は分らなかったといっていた。今は確かめることもできないが、子供達には話すこともできない戦争を体験してしまったのではと、今回わまりながら改めて考えさせられた。中国の広さや、自然の厳しさ、食べ物の大変さ、軍属として朝鮮人や手伝わされる中国人への日本兵の理不尽な扱いなどを子供の頃よく聞かされたが、中国で日本兵がひどいことをしたと追求しだした頃から家ではほとんど軍隊の話をしなくなっていた。いま加害の事実を語り始めている方々の多くが、孫ができ成長する中であるいは、自分の一生を振り返って見る頃になって、言っておなねばと、思い口を開き始めたと言うのも分るような気がする。比べようもないが、南京大虐殺を「慰安婦」の方々が、名乗り出てこられたのも、長い時間がいるという、すさまじい心の傷が、叫びが、伝わってくる。
9年前にアウシェビッツに行き、ナチスの民族僕滅という野望と狂気に恐怖を感じた。それを、正確に伝えようとするポーランドの人々の無念の思いにふれた。それを、心から謝罪し賠償を未だに誠実にしようとするドイツの政治家や指導者の姿に、戦争責任、加害の責任を心に刻むとは、どういうことかと考えさせられた。どうしても、ドイツと日本、中国とポーランド、ユダヤ民族と比べ、考えてしまう。「過去を忘れず、後の世の戒めとする(前事不忘、后事之師)」と言うことわざを、何度も聞かされた。侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館にも掲げられている。1972年には日中友好条約を急ぐ事情もあり、賠償金で社会主義建設はしない、という周恩来の言葉で、
日本は、加害責任に対して何も公に償うことなく今日に至ってしまった。水に流すことで今日の教科書問題や、自由主義史観と言った問題もでてきているのかもしれない。まともに知らされず、知る努力をしなかったのだから。
改めて、マスコミの責任や、教育の責任を考えさせられた。中国では、他のアジアの国と同様に、高校の教科書は日本の侵略、抗日の歴史に40ページも使われているという。
一方、今回の旅行の中で、中国の広さや様々な人の多さ、異なった生活ぶりをかいま見た気がする。現代中国文学を読むと、どれが本当かと思っていたが、どれも本当なのだ思えてきた。日本による侵略戦争の被害のすさまじさも、文化大革命の被害も、今も残っている。しかし、日本による侵略戦争については、これを戒めにして国を一つにまとめてきた、と言う歴史があるようである。記念碑や資料館が、教育施設と呼ばれたりするのもそれであろうか。
18年ほど前に上海にきたときには、文革批判の後でもあったが、日本人に対して厳しい目があった。日中国交回復から数年であり、賠償金も大した謝罪もなく、みんなの日本の犯罪への怒りも感じた。家族や親族の多くが犠牲になった記憶も生々しく感じた。今回は、戦後52年と、侵略戦争を体験していない世代が増えたこともあるだろう。国交回復25年と交流も広がり、日本へきたという人も増えている。見る目が穏やかに(勝手だが)感じた。むしろ、言わないけれど文革の後遺症のようなものを生々しく感じてしまった。通訳の女性が下放政策で農村に行き勉強もできずに苦しかったと話されていたが、こういう形では人間は変らないと言うのは、よくわかった。1982年から後に、侵略戦争のモニュメントが多く建てられたようだが、ようやく少し落ち着き、戦争体験の風化にも気づきだしたということかもしれない。日本同様(?)忘れない努力が必要になってきたのかもしれない。
「富国強兵」というスローガンを町のあちこちで見かけびっくりしたが、いろいろな物が入り交じる中国のエネルギーにも感心して帰ってきた。一人っ子政策で教育問題は日本同様にいろいろでてきているようだが、その国の言葉が分らなくては、半分も交流できない。一番残念に思った。
それでも、目的のはっきりした旅行で、メンバーは中国に詳しく好奇心旺盛というなかで、ずいぶん楽しく学んでくることができた。謝謝。 (教員、♀)
bW
/「よかった」です /太田 悠私は友達とこのツアーに参加したわけですが、ツアーは一言で言うと、ほんとによかった≠ナす。南京大虐殺のことを多く学んでおきながらよかった≠ニいう言葉で表現するのは、ちょっとダメな書きかたかもしれないけれど、たくさんのことを学んだことにしても、親なしでちゃんとできたってことにしても、本当にこのツアーは私にプラスになることばかりでした。
今でも鮮明に覚えているのはやはり、南京大虐殺記念館で聞いた、幸存者の方の話でした。思い出したくもなかったのに、それでも涙ながらに虐殺のことを語ってくださるのを見ていると、言葉がでなくなってしまいました。
私は、日本に帰って、夏休みの課題だった「公民新聞」に、南京大虐殺のことをまとめました。書きたいことが多すぎて、何から書けばいいのか分らなかったので、かえって、さっぱりとした新聞になってしまいましたが、心の中に今回のツアーのことをやきつけているのでいいかなと思いました。
私は一生このツアーのことは忘れないだろうし、南京大虐殺についてもこれからもずっと学び続けていきたいと思いました。 (中学2年、女)
bX
/中国のイメージ /小川朝子皆さんは中国という国に対してどのような印象をおもちでしたか? 私はアジアに対してあまり興味がなく、外国に行くならヨーロッパに行ってみたいと思っていました。アジアの国々に行くのはなんとなく億却な感じでした。しかしせっかくのチャンスであり、私のアジアに対する印象を変えてやろうと思いました。これが今回の旅行に参加した一つの理由です。
もう一つは今回の旅行の目的でもある南京大虐殺をもっと間近で学んでみたいと思ったからです。こういった歴史事実は学校ではなかなか学ぶことができず、自分で興味をもって勉強していくしかないのが現状です。父が教師であり母が沖縄出身ということあり、そういった事に関しての資料または本は何度も見てきました。今回の旅行の話を父から聞いた時、目からだけでなく今度は現地に行っていろんな事を学ぼうと思いすぐに行くと返事しました。
<初めて見た中国>
私にとって中国とはなんとなくイメージのわかない国でした。しかし上海の空港に着いた時その印象はふっとびました。車がたくさん走り、ビルが立つ都会的な国でした。まず驚いたのは女の人がとてもオシャレなこと。皆が綺麗な服を着て、化粧をし一人一人がとても生き生きとしているように見えました。
次に驚いたのは車が多いのもそうなんですが、信号無視をする人が多いこと。道路の広い中国では許されるのであって、日本のようなごみごみした国であのような運転をしていれば、毎日毎日事故が絶えないであろうと思いました。中国で受けた印象をあげればきりがなく、とにかく私の中国に対する印象は180度変ったといえます。
<南京大虐殺について>
今回の旅行でいろいろな場所に行き様々な事を考えました。南京大虐殺記念館で見た写真はとてもショックでした。信じられない光景ばかりが続き、本当に私達と同じ日本人がしたのかと目を疑いました。私はこの記念館で写真を見るまでは、南京大虐殺という歴史事実がどういったものであったのかということを理解していなかったと思います。本当に残酷であり、人間が人間でなくなる。戦争が人に与える影響とは私の想像をはるかに越えるものでした。
またこれとかわらず衝撃的だったのは13日の夜に見た映画でした。私が見た映画の中でこれ程恐ろしいものはありませんでした。やはり写真や資料で見るのとは違い心理的にとてもショックでした。写真や資料で見ると写っているのはその時の一場面であり、数にも限りがあります。見ている側からすれば「こういったことがあったんだなあ」というおぼろげなものとしてしか自分の中で認識できません。しかしそれが映像となるとはっきりと目の前に現実にあったことを付き付けられた感じがしました。夜も眠れないほどでした。私と同じ日本人がこのような残酷な行為を行ったということが本当に辛かったのです。今回の神戸・南京をむすぶ会に参加していなければ、きっと本当の戦争の恐ろしさも日本人が行った残虐な行為も理解しないままいたかもしれないと思います。事実を知るということは本当に辛かったけれどいい体験になったと思います。
毎日の日程の内容が濃くて一週間がとても長く感じました。しかし旅行を通してたくさんの人と出会い、とてもいい経験だったと思います。皆さんに出会えてよかったと思います。ありがとうございました。 (大学生、女)
bP0
/映画「南京大虐殺」の日本軍 /南 藍中国の南京では思ったより暑くなくて、すずしかった。二日目のシンポジウムは寒いぐらいのすずしい部屋で中国と日本語のからみ合いの話がどうも耳にスムーズに入ってこず眠気をさそってきた。でも、五時か六時ぐらいからの東史郎さんの話は何となく分かった気がする。でも使ってる言葉が難しすぎて、理解不可能なこともしばしばあった。そして、ご飯を食べてから、バスに乗って映画を見に行った。中国のネオンに感動していたら、ついたことに気付かずもう少しでおり遅れる所だった。映画館の階段とイスに驚ろく心も冷めないうちに、中国映画「南京大虐殺」は始まった。字幕は中国語と英語でドンドン変っていくので「この単語なんやったかな」と思うひまもなかった。でも画面をみていたらなんとなく話はつかめた。日本軍が百人斬りを自慢しているのは、もうその人の心が分からなかった。でもそれは今だから言えるのかもしれない。もし私がその時の日本軍兵士だったらどうしていたか分からない。映画の中で一番印象に残ったのは、成賢を逃がした台湾出身の兵士に日本軍兵士がおこって首すじを刺した後、「支那人を一人殺しただけだ」と言ったところだ。ご飯係で同じ服を着て同じ軍にいるのにちょっとむかついただけで殺してしまうなんてわけがわからなかったしなんか恐ろしい気がした。映画で見てもそんな気がするんだから、本当に被害を受けた人のことは考えても考えきれなかった。
それから淮南のホテルで二日も泊ってから上海で買物とかしてから日本に帰った。短いような長いような気がした中国だったけれどいろいろと勉強になった。(中学2年、女)
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/「南京戦争」と南京大虐殺 /小城 塁以私は正直言って、南京大虐殺の事は全然と言っていい程何も知りませんでした。中学の頃少し習った「南京戦争」なら知っていますが、まさか同じ戦争だとは思いませんでした。
資料館で写真を見たり生存者の聞き取りをした時は、胸が張り裂けそうでした。ドイツのナチスの事が書かれてある本を読んだ時、なんてひどい人達なんだろうとすごい怒りを感じましたが、その時の戦争に似た、いやそれ以上の恐ろしい事を大日本帝国がしていたと思ったら私は身ぶるいしました。
私は何より哀しく思ったのは、日本の文部省が南京大虐殺の事を否定し、私たち生徒に教えないことです。私は自分がすごく情けなく思いました。中国ではこんなに沢山の資料があり、今も訴える人、傷ついて哀しんでいる人達が沢山いるのに、自分は何も知らなかった事にすごく腹が立ちました。
中国の人達は、どうして日本人である私に笑いかけ、楽しそうに話してくれるのだろうかと思いました。
しかし、生存者の人達や南京大虐殺の時代にいなかった人達も皆口をそろえて言っていました。「人間は苦しめるためにいるのではない、人間は平和を保たなければならない、傷はまだ消えない、しかしいつまでも恨んでいても何もかわらない、お互いに助け合わなければならない」と。
一度起こしてしまった事を再び白紙には戻せないけれども、現代の若い私たちがまた過去の様なあやまちを二度と起こさないようにしなければならないと思いました。
今回の旅は大変でしたが沢山の真実を知りまた沢山の人達に出会えて嬉しかったです。
最後に私をどこに行くのもいつも誘って連れて行って下さる智子お姉さん、団員オーバーだったのに入れて下さった団長の佐藤さん、いつもおちつきのない私をかわいがって下さった団員の皆様。私にいつも協力してくれる両親に「謝謝」と言いたいです。 (中学2年、♀)
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/南京から淮南への旅を終えて /鈴東 力とても思うことの多かった中国の旅でした。私にとって、一度は訪れてその地に立って、考えて見たいと思っていた町の一つが南京でした。学生時代を広島で過ごし、原爆の問題を考えるとき、“被害者の側に立つ自分”がそこにはありました。それが、私としてはしっくりしなかったことでした。ですから、南京大虐殺は“加害者の側に立つ自分”を見るもう一つの考える柱であったわけです。そして実際に虐殺跡地を訪れ、話を聞き、その地に立って考える時間を得たことは、大変貴重な経験でした。
また今回、南京の後に訪れた淮南への旅も心に深く残るものでした。特に人骨が層になって掘り出されている様子を目の前にした三井炭坑の“万人坑”での衝撃は大きいものでした。ところが、保存整備も進まぬままに荒れた建物の中にある姿に、“万人坑”が私たちの記憶からかすかに消え去っていく未来を感じないではありません。けっして、そうなることの無いように、過去をきっちり記録し記憶しなければという思いを強くしました。おそらく掘り出された石炭を積んだ船が行き来したであろう淮河に架かる橋の上からは、地平線まで続く広大な大豆畑に驚きました。あの「豆腐発祥の地」の豆腐の味と共に、淮南でのフィールドワークは印象的で忘れることのできないものでした。 (教員、♂)
bP4
/「南京への道」 /中村みはる今回の南京行きにに際して、事前研修(!)のつもりで本多勝一氏の「南京への道」を読むことにしました。読み進むうちに、人間の獣性のようなものをつくづく考えさせられた憂うつになってきました。巷では神戸の小学生殺害事件が連日報道され、その「残忍さ」を常人ではうかがい知ることのできない「容疑者の心の闇」に求める表現が目立つ気がします。でも、60年前、南京に姿を現した「残忍な日本鬼子」のほとんどは善良な市民であり、家庭にあっては良き父、良き息子たちだったという事実は、あの「聖戦」がいかに人間のヒューマニズムをマヒさせ、「残忍さ」を露呈させる装置であったか思い知らされ、そのあまりの威力に呆然とさせられます。
かくして表面は明るく、気持ちは暗く、関空に遅刻して、私の旅は始まりました。南京へ向う高速バスの中、坑州湾に上陸した日本軍と同じような行程をたどって行くうちに何だか動悸が激しくなってきました。それでも最後はウトウトしていたのに中山門を通った時、身体がビクッと反応してついに南京の城内に入ったんだと何とも言えない感慨に襲われました。やはり現地に行かなければ、自分の足で立って自分の目で見なければわからない、いやとらえられないことってありますね。
南京は私が想像していた以上に大きな都市で、その城壁・城門の壮大さには胸を打たれました。また、南京市内のフィールドワークもさることながら、映画「南京1937」は入城時の様子をビジュアルに把握させてくれるものでした。今度訪ねる(気が早い)時は、日本軍の通った農村にも行きたいと思います。見わたす限り水田の続く美しい風景は、昔、パール・バックの「大地」で読んだ憧憬の村そのものです。そして本多氏の「南京への道」の中に、部落が水路に囲まれていて日本軍が戸板などを橋代わりにして水路を渡り襲ってきたという証言があったのですが、それと同じような村をバスの中から見た時、思わず声を上げそうになりました。自分の足で今は穏やかに見える江南の農村を歩いてみたいものです。
今回の旅でご一緒したみなさん、またいつの日か中国の旅を共にしましょう。 (高校教師、♀)
bQ1
/60ヵ年にシンポジウム /門永三枝子「南京大虐殺60ヵ年の記念すべき年に、日中両国のシンポジウムが開催される。」
この表現から、私がこのツアーに参加するときに抱いていたイメージというのは、天安門広場のような盛大な式典でした。中国へいけば、その多くの人々の中で、歴史認識の乏しい日本人流行客たちは、きっと厳しい視線に合うのだろう、「日本鬼子」という言葉を投げ付けられるのだろう、だからせめて謙虚に中国の人々に頭を垂れて来よう、そんな気持ちでした。
ところが宿泊したホテルのロビーで催されるという規模のシンポジウムであったことに加えて、林伯耀さんが「よく、今回(日本政府を刺激したくないという政治的配慮を考える)中国政府が、開催を許可したものですよ」とおっしゃっていたのを聞いて、現代中国の現実は少々違っていることに気付きました。ほんとうに町々は開放政策下にあって、日本顔負けの商業主義にあふれ、新旧ごった混ぜのパワーは一見過去のことなど押し流してしまいそうな感じでした。私が一番強い印象を受けたのはこのことです。
淮南の万人坑でみた白骨はもう茶色く変色しかかってまさに土に戻ろうとしているようでした。この時、私は阪神大震災の時、数分置きに死者の数が律儀に報道されていたのを思い出しました。戦争で殺された人は何千人か何万人か何十万人かもわからないという。何という生命の軽さ。でもこの惨禍をもたらした日本に対して、賠償を求めること無く、文化大革命のような壮大な遠まわりを経て戦後を歩んだ中国は、いま確かに「前」を向いていました。発展途上の貧しさと共に活気があふれていました。それは過去に目をつむったからではないでしよう。半分は余裕の無さもあるのかも知れません。半分は大陸的なおおらかさからかも知れません。私は初めて中国大陸を旅行して、侵略と加害の歴史を振り返り正しく認識することは、中国のためなのではなく、自分の国日本の将来のためなのだという当たり前のことにあらためて気がつきました。 (教員、♀)
bQ2
/「中山埠頭」に立って /宮内 陽子通訳の戴さんや事務局の方々に無理を言って行かせていただいた中山埠頭が特に心に残りました。今回の旅の私なりの目的は次の三つでした。@中国の地に自ら足を運び、幸存者の証言を聞かせていただく、A万人坑の前で祈る、B虐殺現場で思いをはせる。そのため中山埠頭はどうしても行ってみたかったのです。
埠頭の風景は六十年前とは随分変わったでしょう。でも、長江の水の流れ、水際の葦、岸部にに寄せる波は、当時のものと殆んど変わっていない筈です。これら物言わぬ証言者の前に立ち「あの時」に思いをはせることが自分には必要と思われました。
真夏の炎天のもとですら、濁った水の中に、ぬかるんだ泥の中に足を踏み入れることはためらわれました。まして、あの冬の日、水はどれほど冷たかったでしょうか、どれだけ多くの人々が、この水際に絶望を抱き、或いは茫然として立ち、どんな痛みや苦しみ、悲しみや口借しさを感じたのか、想像力の乏しい私にはその片鱗すらわかりませんが、せめてその片鱗だけでのつかみたいと思いました。
自分が撃ち殺された兵士であったら、または傷を負い、水を含んだ綿入れの服のまま遺体の蔭に隠れ、水に潜って逃げようとした市民ならば、今、この場に立つ日本人の私に何を願うでしょうか。生きている私には、その声を聞き届ける責任があるように思います。そして、その責任を全うするには、平和を創る確固とした意思を持たなければならないと私は思います。
ともすれば、日々の雑事に流される自分の心に歯止めをかけ、死者の願い、幸存者の願い−−「平和の実現」に向けてまた新しい一歩を始めよう、そんな思いを強めさせられた中山埠頭でした。お世話下さったすべての方々に感謝!です。
(中学教師、♀)
bQ3
/南京、そして 南炭坑を訪れて /広田 祐子今回3度目の中国。だが今回の様な団体で、しかも訪中団などという仰々しい肩書きで行くのは中国でなくとも初めてである。だがしかし中国を自由に旅行できる情勢などは、本当につい最近始まったことで、十年程前まではそれこそ今回の十倍いや百倍は仰々しかったであろう。その頃に中国を訪問された佐藤団長と宮内さんに、貴重な体験談を聞けたのはとても意義のあることだろう。
さて帰国後すぐに風邪でふらふらしていた私は(皆さんも体調を崩していたと思われますが)未だに頭の中が整理できていないが、今振り返って特に貴重な体験だったと思えることが二つある。
一つは、東史郎さんのお話を初めてまじかで、しかも南京で聴いたことだ。不勉強な私は、東さんの名前を聞いたことがあるなあ、という程度の知識であった。なんとも恥ずかしい。何についても言えることだが、実際の体験者の話というのが一番説得力があり、そして聞く側も最も理解しやすい。自分のことを考えてみても、やはり自分で考えたこと、感じたこと、体験したことでないと話せないし相手にも伝わらない。その点で東さんのお話は聴く人に対して、伝わるものも大きいし迫力・影響力も大であろう。東さんは実際の体験者である上に、それが加害者の立場からである。被害者の立場からの声の数に比べて(例え被害者でも口に出すまでに非常な勇気のいる場合も多い)加害者の立場からの声はどれだけ少なかったか。これまでの自分の周囲、義務教育を含む学校、メディア、本etcを振り返ると、それはやはり少ない。学校の夏休みの宿題で自分のおじいさん、おばあさんに空襲の体験を聴くことがあっても、東さんのような話を聴くことは稀であろう。
もう一つは、 南炭坑を見学できたことだ。十年間訪れる人のなかった万人坑は、いかに私が戦争を知らない世代のそのまた後に生まれてきた世代の人間であっても、その犠牲者の怨念が感じられた。感じずには居れなかった。建築途中でストップしたまま放置されている建物、埃まみれの展示物、それらのものがここで犠牲になった人々が今忘れ去られようとしているのを、なんとかして欲しいと静かに訴えている。
帰国したときは、これらのせっかくの貴重な体験を、自分の数少ない友人たちだけにでもなんとか伝えていきたいと強く思った。しかし帰ってきてからの自分の生活を振り返ると、それは全く実現していない。伝えたいことが山ほどあるようなのに、口にだすと非常に簡潔に終わってしまう。 南炭坑を見学した日に友人に書いた一通の手紙が、結局は一番たくさんの事を伝えていたのではないか?本当ならその時のパッションを大切にしつつ、それを忘れないうちに思考を練らなくてはいけないのだろうが。
これを書きながら、反省をしつつ、9月9日を心待ちにしている今日この頃(今日9月3日現在で写真焼き増し作業は未完・・・)。最後に、やっぱり神戸の会の人たちはおもしろかった。震災の経験があるからか、他者を受け入れる許容力が豊富であるなあと思った。大阪人(注・別に大阪の会を指しているのではない)の方が、かなり閉鎖的であると思う。まあこんな比較文化論などあまりここでは関係のないことだが。とにかく13才から72才までの幅広い人材を受け入れる許容力はすごい、と思っていたら、帰りの飛行機で同乗していた石ころの会にあっさりと抜かれていた(小3から83才)ので上には上がいる、と感心しつつ関空に降り立ったのである。38度3分の熱を出しながら(笑)。(会社員、♀)
bQ5
/シンポジウムでの東史郎さんの証言 /奥田 修この度、神戸・南京をむすぶ会の一員に加えていただいたとき、私のような年齢の者が最後まで皆様に従いて行けるかどうか心配でした。それでも皆様方の温いお心遣いによって、親しく旅を続け、無事健康に帰国することができたことを嬉しく思っております。
この旅は単なる観光目的のものではなく、南京大虐殺六十年目の現地を訪ねて、証言を聞き、当時を偲んで哀悼を共にするだけではなく、中国の方々との友好を深め、互いの心と心を結ぶため、今春から月に一回毎の勉強会を積み重ねて来たことは、とても有意義な企画であったと思っております。
南京大虐殺六十周年行事、国際シンポジウムでは、私たち一行を暖く盛大に迎え入れていただき、数々の御挨拶や証言などを聞かせていただいたが、中でも最も感銘深かったのは、日中戦争に従事し、南京攻略戦に携わって中山門に入城された体験をもつ、東史郎氏の証言でした。戦後、氏は加害の罪責を反省し、今後の日中平和のために、実相を語り伝えて来られた方だが、御高齢にもかかわらず、その矍鑠としたお姿と力強い証言に触れることができました。
その夜に映画館で見た「南京大虐殺1937」で虐殺当時の戦争状況の流れを視角的に捉らえることができ、画面の中で松井岩根将軍を演じられた、大阪グループの久保さんに後程、撮影時のお話を伺うことができました。翌日のフィールドワークで惨状を極めた地点に設けられた記念碑を訪ねたり、南京大屠殺同胞紀念館の展示や証言で、益々現実感を深めることができたが、何と行っても、十六日(土)、淮南炭坑万人坑を訪ねて、われわれのために約十年ぶりに坑口を開いてくださったのが圧巻でした。地下に掘られた溝内に累々と積まれて埋められた人骨を間近に眺めたときには、あの暑さの中で、思わず背筋に寒さを覚えずにはいられませんでした。 (70代、♂)
bQ6
/「前事不忘 后事之師」 /門永 秀次「前事不忘 后事之師」―決してその質を同一に論じることなどできないが不忘の前事から60年を経た日中両国の民衆が、ともに戒めとしなければならない言葉だと改めて考えた。私にかんしていえば、このことを今回の訪中の最大の教訓としたい。別に中国政府に対して非難がましいことを言うつもりもないし、またそういう資格があるとも思っていないが、ちょうど60年前戦火のまっただ中にあった上海の経済発展いちじるしい今日のすがたと、淮南大通坑の万人坑跡記念館がこのほど10年ぶりにわれわれの訪問を契機に開けられたという事実との対比が語りかけるものを、民衆への戒めとして私は受けとめた。(いっぽうで、この秋に日米防衛協力のための指針=ガイドラインつまり日米共同の WAR MANUALが国会の審議もなしに改訂され、来年の通常国会にはそれとの整合性を確保するために国内法の整備つまり有事立法が具体化されようとしている日本の状況、歴史教科書問題などをめぐる日本の思想状況等々については、当然われわれ自身の問題としてある。)
そのうえで60年前の虐殺の現場を実際に訪れて、ああここがあの本で読んだ虐殺の現場かというふうにいろいろと思いをめぐらせはしたが、訪問前の意気込みとは違って感覚的な感動は意外に小さい自分を発見して、実は少し混乱している。ただ今回の訪中の前から自分なりに明治以降の日中関係の歴史にかんする勉強をもう少しつづけていこうという決意だけは改めて確認することができた。これはこれでいいのかなと思っている。そういう意味では、せっかく上海にも来て「上海事変」の史跡を素通りしたことはいいとしても、南京記念館の見学時間の少なさだけはかえすがえすも心残りであった。
国際学術研討会(シンポジウム)については残念ながら意義や内容について解説を加えてもらわなければとうてい理解ができない。できるだけ早い時期にまとまったものの公刊を期待する。(団体職員、♂)
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