大虐殺から六一年 南京を訪ねて 門永秀次

 神戸・南京をむすぶ会(佐治孝典代表)は、一九九六年神戸での「南京一九三七絵画展」の取り組みからその実行委員会のメンバーを中心に一九九七年に結成された。南京大虐殺事件の幸存者を招いて証言の聞き取りや同事件をテーマとした時々の学習に取り組んでいるグループだ。昨年は虐殺六〇カ年に当たることから全国あるいは国際的に各種の記念行事が組まれ、神戸・南京の会は夏に南京市の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館を中心とする追悼行事や国際シンポジウムに参加し、南京と淮南(安徽省)のフィールドワークを行った。ことしも第二回訪中フィールドワーク(八月一一日〜八月一八日、今回は南京のほか東北撫順・瀋陽が旅程に加わった)に取り組み、一員として参加したので見聞きしたことを少しだけ報告したい。

 

一 平頂山の虐殺現場跡

 最初に訪れた撫順での目的は主に二つ、平頂山虐殺事件跡と旧戦犯管理所。その一つ、平頂山を一一日午前に訪ねた。

 平頂山村の虐殺事件が起こったのは一九三二年旧暦八月一五日=新暦九月一六日。「満州事変」(中国では九一八事変)勃発から一年後、占領地を掃討中の日本軍が抗日義勇軍の攻撃を受け報復のために平頂山村を襲い、ごくわずかの生存者をのぞき村民三千人を虐殺・全滅させた事件だ。村を襲撃した日本軍は、写真を撮るからと村民を騙して一箇所に集め、機銃掃射を浴びせ虐殺した。機銃掃射のあと日本兵は銃剣でとどめを刺し、遺体にガソリンをかけて焼き、崖を爆破して埋めてしまった。

 撫順で一一日夜、当時の証言をしてくれた幸存者・楊寳山さんは、狩りだされた先には黒い布で隠した機関銃が六丁が用意してあって、一〇歳だった自分だけは母の下にもぐり込んで助かったが父と弟は殺された。二回目の掃射で母も死んでしまったことなどを涙ながらに語ってくれた。

 虐殺現場では一九六九年から遺骨の発掘が始まり一九七二年には平頂山殉難同胞遺骨館が建てられた。また爆破された崖の丘の上には平頂山殉難同胞紀念碑が建ち、犠牲者の霊を慰めている。

 遺骨館の中に入ると正面には当時の平頂山村の模型があり、館内のその奥に約八〇bにわたって発掘された遺骨が当時のまま陳列されている。

 圧倒されるばかりだ。六〇数年を経た遺骨だから、骨のほかはもちろん皮膚も肉もない。しかし骨だけになった人間が、これほどまでに表情が豊かであるというのは信じられない。約八百の一つひとつが、それぞれに怒りや恨みや悲しみを訴えかけている。口をいっぱいに開け目を見開き、痛みと恨みに怒りの大声をあげている人。口も目も閉じ哀しみをたたえながら、静かに日本軍の蛮行を告発している人。震えながら必死になって子をかばい抱き合う母と子。銃剣による傷を残した頭蓋。焼かれた痕跡をとどめる骨……。

 前出の楊さんは九死に一生を得た。それでも事件から二年間は銃弾を身体の中に残したまま、身寄りを亡くしたため他人の農家に引き取られた。二年経って銃弾を取り出し元気を回復すると、日本軍の支配する撫順に働きに出たという。楊さんは、日中国交回復の成ったいまも侵略戦争を認めない日本人がいることにすごく憤っていた。彼は、日本は戦争の時のことを事実に基づいて謝罪すべきだと考えている。

 平頂山を訪れる日本人は年々増えてはいるが、それでも年間三八〇人くらいだという。訪れる人の数だけを云々するわけにはいかないが、日中一五年戦争の期間のたいへん重要な歴史的事実について、とりわけ日本の中ではもっともっと知られなければならない。日本軍に虐殺された人びとと向き合ってきていま、よけいつよく感じている。

 

二 撫順戦犯管理所旧址

 中国でのBC級戦犯裁判は、国民政府時代の南京裁判などを別にして、人民共和国誕生後のそれはあまり知られていない。一九五六年太原で行われた裁判は、その当時の撫順九八二人・太原一四二人の戦犯のうち四五人だけ起訴され、訴追されなかった戦犯たちはその年に帰国が許された。起訴されたものも、判決は最高が禁固二〇年で敗戦の年八月一五日から起算され、刑期満了前の一九六四年には一人の処刑者もなく全員が帰国している。

 今回われわれが撫順で二番目に訪れたのは、一九五〇年から一九六四年にかけて日本人戦犯が拘禁され、鬼から人間への生まれ変わりと称されるきわめて稀な戦犯教育の舞台となった撫順戦犯管理所旧址。八月一二日、寧遠街にある旧戦犯管理所を訪れ、中の展示やラストエンペラー溥儀の起居した部屋など当時のまま残されている施設を見学し、関係者からの証言を聴いた。所内の案内と当時の証言講演をしてくれたのは崔仁杰さん(七二歳)。元管理所の職員で、流暢な日本語を話す。一九六四年、最後の戦犯が帰国するまで主に日本人戦犯を担当したのは、この人だった。文革では農村への下放も経験し、その後は撫順石油学院で日本語の講師をしていたという経歴の持ち主だ。

 改造日本戦犯陳列室と呼ばれる部屋には、日本人戦犯が戦争中の「日本鬼子」からいかにして人間に生まれ変わったか写真パネルを中心に展示されている。戦後シベリアに捕虜として過酷な抑留生活を経験し中国に移管されてきた日本人戦犯たちは、共産党・政府の方針によってソ連の時とは雲泥の差の処遇を受けた。一つだけ例をあげれば、食事。日本人の食習慣を尊重して米飯を主に、職員の崔さんが月一五元の食事の時に日本人戦犯は二〇元をくだらなかったという。

 しかし戦犯たちにこの「革命的人道主義」を理解させるのは時間がかかった。旧軍の思想のまま、かつての自らの所業を顧みてどうせ助からない身と、ことごとくに反抗・不服従はひどいものだったという。逆に管理所の中国人職員にとっても、人道主義で日本人戦犯に接するのは、辛い仕事だった。彼らが、身内を奪った日本鬼子にたぎるような怒りを覚えるのは当たり前だ。しかし周恩来の指導にそった管理所のねばり強い教育は、やがて戦犯たちの坦白と認罪を促し、彼らは自らの犯した罪業を心の底から謝罪し反省し、人間を取り戻していく。所内に元戦犯(中国帰還者連絡会)が「向抗日殉難烈士謝罪碑」を建てている。碑には、一五年に及ぶ侵略戦争に参加して焼く・殺す・奪う滔天の罪行を犯し撫順に拘禁され、中国側の「罪を憎んで人を憎まず」という革命的人道主義の処遇を受けはじめて人間の良心を取り戻し、一人の処刑者もなく帰国を許されたことと、殉難の中国人に限りない謝罪と再び侵略戦争を許さずに平和と日中友好の誓いを刻むとあった。

 いま日本では、この戦犯たちが撫順で書いた筆供自述(自供書)が『世界』に載ったりするとすぐに、あれは拘禁という特殊な状況下のもので信用できないと騒ぎ立てる輩がいる。しかしこの夏撫順で旧戦犯管理所の実際を見、崔さんをはじめ当事者たちの証言に接したいま、それら不当な攻撃がなんら根拠のないものだと確信をもって否定できる。

 

三 柳条湖・九一八紀念碑

 撫順ではたった一日だけだったが平頂山・旧戦犯管理所は、自分なりにすごく重い印象が残った。駆け足の旅行は八月一三日、瀋陽へ向かう。「満州国」(中国では必ず偽満州国)時代、奉天と呼ばれ関東軍が司令部を置いた街だ。瀋陽駅は東京駅の八重洲口を思わせる。もともとの旅程では、瀋陽は上海〜撫順〜南京という日程の通過地でしかなかったものを、せっかく瀋陽に足を入れて柳条湖を見ない手はないだろう。参加者の強い希望で一日をとることになった。

 撫順から高速道路をバスでおよそ一時間。瀋陽に着く。そのまま瀋陽故宮や清朝第二代ホンタイジの昭陵がある北陵公園を観光したのち、望花南街にある九一八紀念碑・博物館を訪れた。

 柳条湖はいうまでもなく満州事変(九一八事変)発動のきっかけとなった関東軍による謀略爆破事件のあったところの地名だが、べつに湖や池があるわけではない。一九三一年九月一八日夜一〇時頃、柳条湖付近の南満州鉄道線路が爆破され、それを中国軍の仕業に工作した関東軍が、すぐそばの国民党軍が駐屯する北大営へ攻撃を仕掛け、中国への武力侵略をはじめた。板垣征四郎・石原莞爾の独断専行による陰謀で、翌年には溥儀を担ぎだし偽満州国が建国されるが、関東軍に引きずられて日本は一五年戦争の泥沼にのめり込んでいく。

 柳条湖の爆破現場は瀋陽駅から北東約八qのところにあり、いまも鉄道が走る現場近くに紀念碑(博物館)が建っている。碑は日めくりのカレンダーを模した巨大な石造りのもので、右のページには一九三一年九月一八日の日付が刻まれ、左には九一八の史実が彫られている。表面に穿たれた多数の穴は満身創痍の砲弾の跡であり、ぼんやりと浮かび上がるのは、幾多の無辜の民の屍だ。これらは、日本軍の手によって奪われた何千万の魂の吶喊を象徴している。

碑の内部は三階建ての博物館になっており、入口正面には大きく「勿忘国耻」の額が掲げられている。中国にとっては、一四年にわたる日本の東北占領はこの事件が契機で、日本の侵華戦争は九一八をもって新たな段階を迎えたと認識されている。その国恥の日を忘れるなということなのだ。二・三階には写真パネルや模型で、事変の背景・事変の勃発と東北占領・抗日闘争の主題別に展示がされている。

 敷地内にもう一つ紀念碑がある。かつて日本軍が建てた、尾翼を上にした爆弾を象ったものだ。ここは中国側の攻撃に関東軍が断固たる反撃を開始した記念の地だというのだ。四五年八月解放された中国人民は、日帝の侵略の象徴を当然のごとく引き倒した。現在の九一八紀念碑が建つまでは、これが柳条湖事件の現場だった。その日本軍の爆弾は横倒しのまま、日本軍の中国侵略と中国人民の抗日闘争の紀念碑となって、六七年前の爆破の現場に建っている。

 

四 南京一九三七

 「南京を訪ねて」という標題ながらなかなか南京に辿り着かなかったこの報告も、今回からは南京に入る。

 八月一四日朝早く瀋陽の桃仙空港を発ち、所々に増水した長江を眼下に見て九時半頃には市の郊外にある南京空港に着いた。バスで市内に向かい、宿舎である夫子廟そばの状元楼酒店に落ち着く。

 南京は、上海から揚子江を遡江すること約四百q、中国でも古い、歴史のある街だ。しかし何よりもわれわれにとっては一九三七年の南京大虐殺(南京アトロシティーまた南京レイプ)の舞台にほかならない。孫文が眠る中山陵もあり、一九三七年当時は、一一月一七日に蒋介石が重慶への首都移転を決めるまでは中華民国の首都だった。

 南京城は周囲約三〇qに城壁をめぐらし、その所々に中華門・中山門・ゆう江門等といった美しい城門を配置している。とくに雨花台に面した最南部の中華門は、門とはいいながら内部を四重の城壁で三空間に仕切り随所に軍事上の工夫を施した、それそのものが一種の要塞であり、同時に非常に美しい構造をもった歴史的な建造物でもある。門の屋上に上ると、そこはサッカーができるくらい広く、南京城内が一望できる。この日は、北東方向に長江から這いあがってきたような幕府山もうっすらと見えた。

 さて一九三七年の南京大虐殺。日本ではいまだにこの虐殺事件をめぐって否定派等からの「論争」が止まない。最近ではいわゆる自由主義史観グループの「学者」や漫画家も大はしゃぎだ。いくら無益と思ってもふっかけられる「論争」を避けるわけにはいかないが、虐殺そのものの否定や学問を装う自由主義史観の学者の主張も含めて、これらの論は世界という舞台では歯牙にもかけられるものではなく、狭い日本のそのごく一部でしか通用しないものだという世界の常識ぐらいは知っておいてもよい。

 南京大虐殺の跡を訪ねたフィールドワークの報告を次回から三回にまとめてみようと思っているが、この虐殺は、一九三七年七月七日の盧溝橋事件が八月一三日には上海に飛び火し、上海戦に引き続いて行われた、当時の敵国首都・南京攻略戦を背景に惹き起こされたものだ。しかしこの虐殺事件が一般の日本人に知られるのは戦後の極東軍事裁判(東京裁判)を待つしかなかったわけで、実はこの重大な歴史的事実が、そのごも例えば学校できちんと教えられることはなかった。私は、どうしてこういうことが惹き起こされたのかそのわけをきちんと知らなければならないと考えて、少しだけ本を読んできた。そしてその理解をもう一歩だけ掘り下げるためには、機会があればいまに残る虐殺の跡を見て、中国でいう当時の幸存者の証言をできるだけたくさん聴くことが必要だろうと、南京を訪ねたのだ。

 

五 江東門紀念館

 正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」といい、城外の江東門茶亭東街にある。ここも日本軍による虐殺の跡地、市内に幾つもある叢葬地の一つであり、その記憶と犠牲者の追悼のために一九八五年に建てられた。紀念館の広場で今年になって、増築のための工事を始めたところ三五体の遺骨が新たに発掘された。現地の新聞に報道されていたが、今さらながらここが虐殺の現場であることを思い知る。紀念館の正面に「300000」が目に飛び込んでくる。いうまでもなく日本軍による犠牲者の数だ。日本でこそ論争となっているが南京の現地に立って、中国の人たちのこの主張を否定しようなどという気持ちはまったく起こらない。

 この紀念館、実は昨年夏が初めての訪問だった。去年は南京大虐殺六〇カ年という節目の年で世界的にも様々な記念行事があり、その一環で八月一五日には紀念館前で日本と中国から参加する盛大な追悼集会や、日中両国の高校生などによって当時を証言する幸存者を発掘する大がかりな行動が取り組まれた。それらの事情であまりゆっくりと紀念館の中を見学できなかったが、今年はじっくりと見ることができた。もちろんそれでも時間が不足するくらい、ここで勉強すれば南京アトロシティーのおおよそがつかめるほどの展示がある。この報告の中でいちいち紹介はできないが、南京に足を運べば何度でも訪れなければならないところだと思っている。館内に「南京大屠殺37・12 燕子磯」と題した大きな絵の展示がある。燕子磯は南京城内からは少し下流の長江に面した土地の名で、ここも万余の人びとが殺された現場なのだが絵の前に立つと、先に報告した平頂山の遺骨館にいると同様の厳粛で何とも言い様のない気持ちに襲われる。

 さて紀念館は日常的な展示を通して「前事不忘、后事之師」とする重要な場所であるのみならず、新たな南京大虐殺の証拠や幸存者の証言を発掘蒐集する活動の中心を担っている。昨年行われた高校生たちによる前述の調査活動も紀念館あったればこその活動と理解しているが、今年われわれは昨年の調査で発掘された新たな幸存者三人の話を聴くことができた。ことし八四歳になる曽秀蘭さん(女)は、自分を除く家族一三人が日本軍に殺された。八四歳になる邱栄貴さん(男)は、江東門や中華門付近で聞いた日本軍の残虐行為を証言した。当時はまだ一歳だった傅兆増さん(男)は、父母からことあるごとに聞かされてきた当時の様子をきわめて明瞭具体に話した。何故いまになっての証言か。曽おばあさんは、自分は読み書きができないためにいままで機会がなかったといっている。得心はいく。

 紀念館を見ておばあさんおじいさんの話を聴いて、幾十万の南京の犠牲者たちに思いを馳せなければならないと思っている。

 

六 南京大虐殺の紀念

 盧溝橋事件は八月一三日には上海に飛び火、海軍陸戦隊が中国軍と交戦。近衛内閣は「暴支膺懲」を声明し、上海派遣軍を投入して戦火は華中に拡大。いっぽう蒋介石も全国総動員令と最精鋭部隊を投入して上海防衛に全力を傾注。激戦のすえ一一月五日第一〇軍が杭州に上陸するに及び、ついに中国軍が敗走。上海を抜いた中支那方面軍は、参謀本部の制令線を越えて首都南京へ進撃。そして例のように現地軍に引きずられた大本営は、一二月一日南京攻略を下命するにいたる。上海戦での思いもかけない苦戦による中国軍民への敵愾心の増幅、頭から補給を無視した急進撃等々が、つづく南京戦での常軌を逸した日本軍による虐殺・略奪などの背景を準備することになる。

 一二月七日方面軍「南京城攻略要領」示達を前後して始まった南京戦は、一二日夕刻になって南京防衛司令官唐生智の撤退命令。翌一三日南京城は陥落した。一七日の入城式を前に城内外の掃討は峻烈を極め、この時期を頂とする南京アトロシティーの痕跡が、今も城内外のあちこちに残っているのである。

 前回報告したように江東門紀念館に行けば、ほぼこれらの全貌はつかめる。でもやっぱり実際に訪ねてみたい。見てきたところを簡単に羅列するが、できれば南京にはこの何十倍の記念があることを想像してほしい。

南京大学(旧金陵大学)  当時の国際安全区の中にあり、二五の難民収容所の一つ。天文台そばの金陵 大学難民収容所及遇難同胞紀念碑は、虐殺の埋葬地を示す。

旧ラーベ邸  『ラーベの日記』の主の邸跡。今は南京大学職員の住居に。ラーベは国際安全区委員会 委員長として中国人救済に活躍。

鼓楼病院  空襲や侵入してきた日本兵の暴虐で傷ついた中国人を、アメリカ人医師たちが献身的に治 療した病院。今も活動中。

北極閣遇難同胞紀念碑  北極山の至る所に埋められていた遺体叢葬の紀念碑。その数約二千。

東郊叢葬地紀念碑  紫金山を望む城外の、中山陵(孫文陵)近くにある集団埋葬地の一つ。

普徳寺叢葬地紀念碑  中華門外の雨花台はかつての刑場。蒋介石は共産党を弾圧し、戦後は戦犯谷寿 夫らもここで処刑した。叢葬地の一つ。

利済巷の旧慰安所跡  日本人居住街があったところで、この「慰安所」は将校用のものだったらしい。 建物は今は中国人が使用。

ゆう江門叢葬地紀念碑  下関に通じる城門。殺到する兵士・市民が虐殺され、慈善団体が五千を超す 遺体を埋葬。

中山埠頭遇難同胞紀念碑  下関の港。対岸に逃れようとした武装放棄の兵士・市民多数が犠牲。華僑 招待所や大方巷から連行された万余も殺され、江に流された。

煤炭港遇難同胞紀念碑  近くの和気洋行(英国資本の精肉工場)に避難していた数千人の中国人を煤 炭港の倉庫に連行、虐殺。江に流す。

草鞋峡遇難同胞紀念碑  幕府山崖下の長江岸で、いっぺんに五万七千人が虐殺された現場。

玄武門  玄武湖公園の入口の門。南京裁判の東史郎さんと同じ部隊だった故増田六助さんが、ここで の虐殺を証言。

 

七 この国の歴史認識

 『週刊新社会』の読者は一二月一四日号インフォメーション欄を見てほしい。そこには、いわゆる戦後補償を求める中国やアジアの人たちの提起した裁判に関連する情報がいっぱい載っている。この種の裁判は、これらの他に花岡の中国人強制連行もあればフィリピン人「慰安婦」もあるという具合に、敗戦から五〇年を経たいま日本のあちこちで、驚くほど多くの裁判がたたかわれている。それぞれ事情や性格の違う訴訟をいっしょくたに論じるのは如何かとは思うが、概ねそれらに対して日本の裁判所は、すでに事案から二〇年以上が経過しており裁判で争うべき利益は消滅しているとして、当事者たちの必死の提訴に門前払いを喰らわせることが目立つ。ひとり裁判所の判断でこうなっているわけではなく、政府や財界などが一体となった日本の支配者階級こそがこの判決を維持していることは明らかだ。

 ところで南京の報告を書きながら並行して野田正彰『戦争と罪責』(岩波書店)を読んだが、そこに指摘するように今日の日本の社会は、「富国強兵の軍国主義イデオロギーを、経済成長中心の資本主義イデオロギーに移行させた」だけの強張って、攻撃性の強い社会だ。過剰な競争の支配する、人間が暮らしにくい社会だと思う。基本的には経済的下部構造に由来するもので、この社会を人が人らしく生活を送れる社会に変えていくためには、労働運動や政治の在り方を変えていく闘いが不可欠である。同時に豊かな文化をもつ社会を構築するために、戦後の日本の社会が怠ってきた過去の歴史、侵略戦争の過去の直視が、どうしても必要になってくる。

 過去に真っ正面から向き合うとなれば、いま提起されている多くの個人賠償の裁判は、われわれにとって避けて通ることのできない課題であることは間違いない。もっといえば、日本政府が賠償責任を負うべき、そのもととなった歴史上の出来事について、賠償裁判が提起されているかどうかにかかわらず、まずきちんとそのことを知らなければならないだろう。

 こういうふうに考えていくと、日本と中国との間で、日本と朝鮮・韓国との間で、日本とシンガポールとの間で……といっぱいあるが、中国との間に限っていえば、私は南京大虐殺がその典型にすえられて考えられなければならないのではないかと思っている。

 

前日までに今回のフィールドワークは予定をすべて終え、八月一七日中国で初めての雨の中を南京站(駅)から火車で上海に向かう。上海では旧虹口公園で魯迅の墓(残念ながら記念館は工事中で見られなかった)や、一九一九年の三・一独立運動後朝鮮人独立運動家たちが上海で組織した亡命政府ー大韓民国臨時政府跡などを見学し、翌日の帰国で今回の南京・東北の旅を閉じた。

(『新社会兵庫』一九九八・九・二二号から一二・二二号まで七回連載)

神戸・南京をむすぶ会神戸学生青年センター