神戸・南京をむすぶ会
第3回訪中団・報告集

1999年8月13日〜20日、南京・太原・大同・北京

集まった原稿から順次収録して最終的にパンフレットにいたします。(99年9月1日/飛田)


1999.8.15 記念館前で

3回目の訪中を終えて/佐藤加恵
「雨が降ると濁流に変わるような山道」/宮内陽子
中国を訪ねて/三木栄子
南京の家庭訪問と進圭社村/由 佳世子
「神戸・南京をむすぶ会」第3回訪中団に参加して/中村みはる
はじめての中国/小城 結衣 
向日葵/徳富 幹生
神戸・南京心連心会第三回訪中感想文/門永秀次 
『中国・南京を訪れて』/加藤英明
山西省の山奥に/門永三枝子
三度南京を訪れて/小城 智子

水かさを増していた長江

<記録編>@

●8月13日( 金 )/1日目(記録/小城智子)                                                      11:40 関空4F−G集合。1番乗り三木さん 9:37着 あとは 11:00, 11:15 ・・・・ (約1名は交通事故に出くわしてやや遅れる)
11:55 日中青年旅行社の石井さん説明、出国記録健康申告書の記入、結団式、パスポ−トの回収
12:38 搭乗券配布
12:52 搭乗のための施設利用カ−ド購入。手荷物チェック,ベルトのバックル,ブレスレット           などのチェック
13:24 シャトル−37ゲ−トに→東方航空 MU516
13:45 出発
13:54 いよいよ離陸、機内食は 飯(麺)鶏肉 青大豆青菜、炸菜 サ-モン ハム レモン オリ-ブ、 まくわうり、スナックはピ-ナッツ、飲み物はコ-ヒ、コ-ラ、アップルまたはオレンジジュ-ス、日本茶 ビール、淡路島の全島が綺麗に見える。
15:30 中国が見えてくる「無人島?」と言う。緑が先ず目に飛び込んで来る。畑、水路と広がり、家々が間近かに。
15:40 着地OK(14:40 1時間 得して 25時間に)上海31℃(今年は冷夏である)、入国手続きに並ぶ。無事に荷物とも対面した。南京の戴(タイ)さん、北京の徐(シ-)さんの出迎え(例の渋団扇を持参)トイレの温風機は手をぐっと挙げて近づけないと風が出ない。来年は国際線として浦東に空港ができるのでもっと便利になるとのこと。パラパラ小雨と雷の中を荷物を押して車道を横切る。
バス乗車(明心速 南京を)滬寧高速公路  (乗用車120Kバス110Kトラック100K 二車線では怖い)                    16:03 ガソリン給油、凄い雷鳴にびっくり、湿地帯のように公園や畑に水が溜まっている。
16:33 花橋(停車取○)南京まで240K、周囲には赤黄オレンジの鮮やかなカンナの花、溜め池か養殖池が多い。太湖どがあり、舟が使われている所もある。新らしい家 洒落れた家が多い。屋根のひさし檐(イェン) には、しび(鵄尾)のようなものが付く。北方は故宮の屋根のように 目立つものが付いているが南方にはあまりない。この辺りは中間の地域なので様々に入り混じっているとのこと。                                               17:24 梅村(メイソン)−無錫市(1978年名古屋市と姉妹都市)−のパ−キングで休憩、ここは太湖の東側にある。真直ぐ公道が続く。
18:14 南京まで104Kの看板が目に付いた。19時ころ 暗くなってくる。
19:17 料金所に到着。
19:23 初めてのトンネルを抜け、中山門を通過して 南京城内へ。中山東路を西へ行くと賑やかな街。建国50年を記念してライトアップ、右折で上海路 更に北へ、左折すると王台山体育館がある。
19:38 南京古南都飯店(4ツ星ホテル)に。2Fレストランで夕食は日本風中華料理 座高の高い人向きのテ-ブル椅子なので やや食べ難い。好評 1は高菜のような野菜入りの饅頭 、2 細長い豆の炒めもの N3 麻婆なす、あと、前菜風鳥肉豚肉 瓜の細切り、染み豆腐風 野菜青大豆とセロリ-炒め、日本風酢豚、檄辛麻婆豆腐、熱い海苔とたまごのス-プ、鳥肉炒め、焼き飯あっさり味、西瓜とまくわ瓜風デザ-ト
20:51 1Fロビ−に全員集合、銘心会南京・松岡さんの挨拶と神戸南京をむすぶ会・佐藤さん挨拶と南京大学記念館長・朱成山(チュションシャン)さんの挨拶があり解散となる。
21:30 部屋に荷物が着いた。通貨の両替。長い一日 終了。各自部屋で休息、安眠。郵便局 10時 〜 17時、売店 22時半、絵はがき無料でホテルのを貰う(売っていない) 切手1枚 5元(Air Mail)

●8月14日(土)/2日目(フィールドワークの部、記録/宮内陽子)

8:40 ホテル出発、バス乗車
 戴さんの話を聞きながら燕子磯へ向かう。以下、戴さんの説明。「ラーベの旧居の保存を求める声が南京で上がっている。また、1644部隊(中支那防疫給水部、部隊長は731部隊の石井四郎が兼任)の遺跡が発見された。そこは軍の所有地で、門を新しくする工事をしたとき、人骨が出てきた。但しその場所の保存は軍との関係で難しいとのこと。」
 9:10 燕子磯着。古くからの公園で、南京の景勝地のひとつ。階段を登って、崖ふちに出ると、眼下に長江の濁流が流れている。陶行知(20世紀前半活躍した教育家)の碑「想一想 死不得」(よく考えよ、死んでも何にもならないとの意)や清の乾隆帝の七言絶句の碑がある。公園の一番奥、長江に突き出すような崖の上に「遇難同胞紀念の碑」がある。日本軍に追われ、脱出口を求めて長江河畔に殺到した南京の軍民が逃げ場を失って虐殺された。しばらく黙祷を捧げる。 
10:00 燕子磯出発
10:20 旧和記洋行到着。現在は南京天環食品(集団)有限公司。公司から女兆徳未執務室主任と呉さん出迎え。倉庫にしまっていた「和記洋行界」のコンクリート碑を出して見せてくれる。以下の説明は呉さん。「和記洋行は英国資本の食肉会社だったのでここなら大丈夫と考えた難民が多数逃げ込んだ。しかし、従業員証がない人々は日本軍によって煤炭港などへ連れ去られ殺害されて長江に流された。その後、日本軍の倉庫として接収された。当時の建物の大部分は今も残っている。和記洋行の英国人社長は日本軍に拉致され、戦後戻ってきて会社を再開。ソ連と提携したり、市場経済になる前は売り上げはよかったが、現在業績は余り振るわない。しかし、今も南京を代表する会社の一つ。主にアヒルの塩漬け(ペキンダックに対する南京ダック。自由に走り回らせて育てるのでペキンダックなんかよりずっとおいしい?そうである。)等を作っている。」
10:40 バス乗車、すぐ近くの煤炭港碑へ向かい、説明を聞く。
11:00 長江大橋着。建国50周年を控え、足場を組んで塗装工事など化粧直し中。屋上の手摺りなども取り替え工事をしている。
11:45 バス乗車。レストラン南京雙門楼賓館へ。昼食。昨年と同じく錫の酒器を盛んに勧められる。
13:35 バス乗車。南京軍区の裏門、白骨出土地の側を通る。
14:25 利済港49番地着。
 20年前から住んでいるというお年寄りが入口におられたので話をお聞きする。余りよく知らないが、慰安所があったということは聞いているとのこと。町内会前会長の劉さん(72才)に来ていただく。以下、劉さんの話。「1943〜1944年頃慰安所があった。その頃、自分は日本軍が来るというので避難、その後南京に戻ってきた。日本人女性が多かった。(着物を着ているとみな日本人に見えたのであって実際は日本人ではないのかもしれない、とは戴さんの注釈)中国人女性もいた。高級将校が使っている場所のようだった。当時は汪兆銘政権があり治安は安定していたが、49番地のあたりは恐くて近寄らなかった。将校が酔っ払って三々五々やって来ていた。30番地付近に戦死した日本人の慰霊碑がある。」
 以下、戴さんの補足。「18番地の慰安所は中国人女性が多く、下級の兵士が利用していた。公開はしていない。」
15:05 バス乗車。
15:25 清涼山公園着。
 南京名所の一つ。園内の清涼寺に「還陽水」井戸があり、死んだ人がこの水を飲むと生き返るという伝説がある。碑があるはずということで、園内を探し始めるが見つからない。公園の受付の人も知らないと言う。結局、碑はどこかの大学の校内に移設されたと判明。
16:10 バス乗車。
16:15 五台山着。
 碑には「1937年12月〜38年2月にかけての虐殺で多くの人々が殺され、崇善堂や紅卍会が4回にわたり245体の遺体を埋葬した。」と刻まれている。幸存者の王如貴さんが揮毫。建立は1988年7月。碑の前で記念撮影。
16:35 バス乗車。
16:45 中華門着。説明を聞き参観。
17:20 バス乗車。
17:40 金陵大厦着。シンポジウム組と合流、夕食。
19:15 バス乗車。
19:35 古南都飯店帰着。1808号室にて明日のスケジュール打ち合せ。
20:00 解散。
21:00 ロビー集合、夜の町散策。
 漢口路を東へ、南京大学、ラーベ旧居前を通り中山路へ。水餃子店でビールと野菜水餃子を注文。
22:30 ホテル帰着。

●8月14日(土)/2日目(シンポジウムの部、晴のち雲、記録/加藤英明)

侵華日軍南京大屠殺史最新研究成果交流会(神戸・南京を結ぶ会からは 徳富、加藤が参加)
8:40 宿舎の古南都飯店 出発
8:30 南陵大廈(会場) 到着
9:00 朱成山副会長より発表者及び参加者の紹介。
高興祖会長より交流会開始のことば
(これより侵華日軍南京大屠殺史研究成果交流会が始まる)
9:00〜 11:30 午前の発表者及び発表課題
1.記念館館長 朱成山 南京大屠殺遇難者、幸存者及び性暴力受害者の状況
2.日本銘心会 松岡環 軟禁戦参加兵士の日記と証言から見えた「太平門」での集団虐殺
3.上海師範大学歴史系 蘇智良 日本軍の南京における慰安婦問題の調査
4.日本東四郎支援実行委員会 小山小夜子 東四郎南京裁判、東京高等裁判所判決の批判
5.山東省53研究所 孫金銘 孫継成の金陵日記の発見
6.上海復旦大学歴史系 趙建民 日本軍の南京における性掠奪
7.江蘇省青年乾部管理学院 楊夏鳴 南京における安全区
8.南京大学歴史系 姜良芹 南京大屠殺の新たな原因を探す
11:30〜2:00 休 憩
12:00 金陵大廈にて昼食。(豪華な中華料理)
13:00 一部は莫愁湖公園見学
14:00 午後の研究成果交流会開始
14:00〜16:30 午後の発表者及び発表課題
1.南京大学歴史系 高興祖 南京大屠殺における日本軍の慰安所の状況
2.日中華僑交流促進会 林伯耀 天津における日軍慰安婦供出システム
3.南京師範大学歴史系 経盛鴻 東四郎訴訟の中国の意図と日本の意図
4.中国第二歴史档案館 戚厚杰 天皇主義、皇族主義が及ぼした南京大屠殺
5.日本出版労働組合連合会 俵義文 歴史を改竄する右派勢力の最近の動向
6.広島県教職員組合 藤川伸治 日の丸、君が代を巡る広島県教育の現状と課題
7.広島県日本中国友好協会 由木栄司
8. 江蘇省档案館 徐立剛 南京大屠殺前後の間、南京に留まった欧米外国人の心の内
9.南京大学歴史系 徐少紅 南京市政当局の救済工作
10.南京大学歴史系歴史所 張究文よりの言葉
16:30 侵華日軍南京大屠殺史最新研究成果交流会 閉幕
(今回の交流会は 中国側の発表の際、日本語の通訳がいなく〔日本の発表者には通訳がい                    たのに〕参加者の私たちには、殆ど判らなかった。) 

●8月15日(日)/3日目(記録/ 中村みはる)

午前中は南京大屠殺記念館を訪れ追悼祈念式典に参加、見学、その後市内虐殺跡地の祈念碑の清掃活動、さらに中国人学生らの家庭訪問、そして北京に飛行機で移動し、太原行きの夜行列車に乗り込むところまでが本日の日程である。
 朝8時23分予定より15分遅れで古南都飯店を出発。8時37分に「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞祈念館」到着。日本側は我々「神戸・南京をむすぶ会」の他に「銘心会」と広島からのグループが記念館の職員や中国人学生と共に入口前広場に並び、追悼記念式典が始まった。献花、黙祷、挨拶と続き、日本側からは「銘心会」の松岡さん、若者を代表して「むすぶ会」から加藤英明君が挨拶に立った。前夜、夜の街に繰り出そうという一同の誘惑を振り切って書き上げた原稿には、2年前の南京を訪れたことが自分の転機になったこと、これからも「南京大虐殺」を研究したい趣旨が誠実な言葉で綴られていた。式典後、館内の見学に移るが、遺骨陳列館を出て驚いた。2年前には資料展示館にいく通路に過ぎなかった場所が一面に掘り返され、人骨が多数晒されている。テント屋根が掛けられている部分は去年の増築工事の際に出土し、3月の下水工事の際新たな人骨が出土し、今日も発掘は続けられているとのこと。去年の骨には刺し傷、銃痕が残っていたが、今年出土したものには楔様のもので首や腰を刺された跡が残っているそうである。改めてこの記念館の敷地自体が大虐殺の現場の一つであったことを思い知らされる。
 記念館出口でA、B2班に分かれバスにも別々に乗り込む。中国人学生も一緒に乗り込み家庭訪問先をバスの中で教えてもらう。この頃から雨がポツポツと降り始め、雨足は勢いを増してきた。B班は北極閣の祈念碑へ、筆者の参加したA班は11時15分東郊 葬地祈念碑に到着。バスを降りた直後はまだ雨が降っており、のどかな農道はぬかるみだらけであった。ようよう碑に辿り着くと、枯れ枝、雑草に埋もれており掃除のしがいがあった。花を供え、追悼。バスまで戻ると家庭訪問へ。筆者の訪問先は解散場所の中山門の手前にあり、我々だけが慌ただしく降りる。訪問先は金陵職業大学で建築を専攻する姜星君(20才)のお宅で、お父さんが勤めている地震局の官舎の5階にあり快適な3LDKである。彼の同級生4名も一緒で、12時15分に我々がなだれこんだ時にはお母さんとお姉さんが昼御飯の準備の真っ最中であった。冷やした緑豆のぜんざいに始まり御馳走が次から次へと出てきてたちまちテーブルの面が見えなくなった。中国語を解さぬ筆者はひたすら食べ続け、白いきくらげをシロップで煮るとなかなか美味であることを知った。学生たちはみな屈託なく伸びやかな雰囲気で、日本の若者に較べると純朴である。夏休み前の大学の先生の呼び掛けに応じてこのプログラムに参加したそうだ。3時間後にお宅を辞し、タクシーに分乗し、金陵職業大学の3階のホールに向かう。市内各地に散っていた全員が戻ってくると、幸存者の聞き取りをする「銘心会」や中国人学生や加藤君と別れ、南京空港へ出発した。4時45分空港着。ここで最後まで時間を心配してくれた通訳の戴さんとも別れ一同焦りながら駆け込んだが、我々の乗るはずの便は遅れるとのこと。9時過ぎ発の太原行きの夜行に乗れなかったらどうなるのだろう。結局40分遅れの6時15分に離陸し7時55分北京空港着。友宜促進協会の何さんたちが出迎えてくれる。すぐバスに乗り目指すは北京駅。8時45分、巨大な北京駅前の広場に着く。さあ、急ごう。6番プラットホームヘ。しかし駅前の群衆はおびただしく、みんな必死で人の波をかきわけながらスーツケースを引っ張りながら進む。ほとんど走っている。前の人とはぐれたら最後だ。人々が吸い寄せられている改札口はご丁寧にも工事中のため狭められている。ここからがまだ長いのだ。最後の力を振り絞らなければならない。はたして我々は明日の朝、太原に着くのだろうか。_

●8月16日(月)/4日目(記録/洪浩秀

730 夜行列車にて太原駅着。バスでホテルへ。
    山西省人民対外友好協会国際交流合作部副部長梁海林氏に迎えていただく。
805 ホテル太原国旅大厦賓館着。
825 ホテルにて朝食。
920 バス乗車。
 通訳は、山西省中国旅行者何榮麗さん。偶然にも山西省人民政府外事?公室の
何清氏の娘さんで、何清氏にも同乗していただく。
太源市は昼と夜の気温の差が14〜5℃。大陸性の気候で、雨が少なく、湿気が少ない。人口は230万人で中規模の都市である。通勤時間だったせいか、自転車に乗っている人が多い。その中で、小学生の子どもが手提げのかばんを持って、しかもそばに母親が付き添っている姿が目に付く。また、南京市では余り見かけなかった黄色のワンボックスのタクシーが多い。
進圭社村までの片道4時間30分の間、進圭社村で聞き取り調査をされている張双兵氏(羊泉村の学校の教師)から説明を受ける。
 張さんは1953年生まれ。子どものときから父やおじいさんたちから日本軍のことは聞いていた。そして大人になって仕事をしていく中で、周りの人たちからいろいろと聞いていくうちに状況がだいぶわかるようになった。中国に対する日本軍の侵略については強い怒りを持っている。それは人類に与える被害が大きいからだ。中国人はこの戦争で2300 万人も失った。その財産などの損失は数え切れない。人々は、幸せになるために戦争は要らない。だから日本政府も、昔の戦争を反省して、これから二度とこのような戦争を起こさないようにする。これが調査の目的ですと語ってくれた。
1205 約1時間、ぬかるんだ道で立ち往生しているマイクロバスが道をふさいでいてストップ。近くの村人や子どもたちも集まり、昼食中だったらしく、手にはどんぶり鉢と箸を持っている。何十人という大人がいるにもかかわらず、数人以外が何もせず見物していて、せっかちな我々が手伝おうとするが結局は余り役に立たないうちに無事車は脱出した。
 道中、何箇所かで道が途中で川を横切っており、雨が降れば道がなくなるということをはじめて得心した。
1424 進圭社村着。村役場で挨拶をした後、万愛花さんが監禁されていた家(ヤオトン)と、候東娥さん、リシュウメイさんが監禁されていた家(ヤオトン)を見学する。万愛花さんが監禁されていたヤオトンでは住んでいたおじいさんの許可を得て中を見せてもらう。暗い。狭い。そしてあまりにも貧しい。急にどかどかと入り込んできてはた迷惑な上にかってな事をとも思うが、後で「大地の子」に出てきた家を思い出した。家の中でひときわ立派な額入りのおじいさんが写っている写真が目に入った。以前ここを訪ねてきた日本人の調査団の人からもらった物だという。ここでは、葬式のときにその人の写真が飾られていることがとても立派な式だそうで、写真自体がとても貴重なものなのだ。
1540 村役場で村長さんがカップラーメンで昼食をもてなしてくれる。
1620 進圭社村出発。
1800 張さんと同じく戦争被害者の調査をしている李貴明さんの家(西烟鎮西村)で趙潤梅さん、楊秀蓮さんと会う。本当に食べきれないほどのご馳走をもてなしていただく。
1832 バス乗車。
1850 戦争被害者であるが原告ではない尹林香さんの家にいく。
1910 尹林香さん宅を出発。ホテルに向かう。
2120 ホテル着。

●8月17日(火)/5日目(記録/由 佳世子

820 ホテル出発
850 太原戦犯管理所跡着
    現在、山西机機の付属幼稚園園長先生に聞く
    自転車置き場の壁(当時、食堂)
    1階教室の壁(色を塗り替えて使用)
910 出発
915 林伯耀さんバスで北京へ
935 双塔寺(永祚寺)着
   13層高さ55mの塔に登ろうと思ったが閉まっていて残念
1010 記念写真
1050 出発
1105 太原駅前レストラン 華苑大酒楼 で昼食
1215 出発、ガイドの梁海林さんとお別れ
1220 太原駅着
     山西省人民對外友好協会副秘書長劉晋凌氏に迎えていただく。
1245 列車出発
1950 大同駅着
2000 バス出発 大雨
2015 大同雲崗賓館着、ホテル内のレストランで夕食
     食事中、停電

●8月18日(水)/6日目(記録/三木栄子)

(泊りは、大同市の大同雲崗大厦賓館でした。)

7:00  モ−ニングコ−ル
7:30  朝食         小城結以ちゃん腹痛で病院へ
8:45  ホテル出発      ガイド  何 亜華さん
大同市の概要
 
海抜1080b、大陸型気候(冬−29℃)(降雨8月中心に400_程度)
 人口270万人、1992年は120万人であったが周りの市町との合併で増加
 周囲は死火山、強風の為黄砂が積もる。
 石炭の産出 平年2000万トン、 良質の石炭で火力発電用に使われる(7000カロリー)
       九州の火力発電所へ輸出 そのため大牟田市と姉妹都市
 炭鉱労働者30万人 現在不況のため半分の炭鉱が休業
 粟の産地、玉蜀黍、馬鈴薯が名産、馬鈴薯は韓国へ輸出
 炭鉱労働者の賃金、地下労働者 3500元、地上労働者 2000元
 10年前は私営炭鉱が30箇所あったが不況で安全状態が悪く閉鎖された。
万人坑 煤峪口南勾、万人坑近くの老人は75歳位の人は日本人を憎悪していて会いたがらない。10数年前までは8月15日に小中学生は学習のため、万人坑に来ていたが、現在は時々になった。
 労働者は大同近くの中国人を集めて手掘り。(失業者や騙された人)、1日13から14時間労働 1日1元 ここから必要経費を引く。
 1籠65キロ、12・3歳から50歳ぐらいの人、鞭で強制的に。
 食事 朝 玉蜀黍の餅1つ お粥1椀  夕 玉蜀黍の粥 2椀
 生産量 (日本軍支配中)
      1937年 
      1941年 300万トン
      1943年 500万トン
※ 日本軍侵略/日本企業と中国政府との合弁会社の形を取る37年から45年の間に6万人以上の労働者が死ぬ。1000トンの為に4人死ぬ。
      1945年 760万トン、
      1945年以降国民党に搾取される。
      1949年解放。

9:25 第一炭坑に到着  雨の後でもあり、大変寒い。
     資料館の見学 副館長さんの案内
10:25 万人坑前で追悼の会、花環をささげる
      佐藤団長の追悼の言葉、 20ヵ所×6万人以上の犠牲者の冥福を祈り 
      日本の人にこの事実を伝えたい。黙祷。

万人坑 煤峪口南勾は周囲に20余りある坑のなかで乾燥と坑の状態が良く保存されているが周囲の坑は露天の物が多い。上の坑は深さ70メートル下の坑は35メートル、中に一杯死体が投げ捨ててある。死んだ人を詰めたり病気の人を生き埋めにした物もある。その場合、衣服・髪などはそのままで、ミイラ化している物も多い。
 1979年まで万人坑階級教育展覧館
 1980年から大同市坑務局万人坑博物館
      日本人の見学者 年間 500人位 (今年は8月現在300人)
11:00 館長さんに会いお話を伺う
      当時の坑夫の宿舎は坑口に近く、大部屋に土で作ったベッド、その上に草を敷いた。冬は麻袋を掛けた。枕は煉瓦、1房に4・50人
    「先週も、夫を探して安徽省から1人の老婆が尋ねて来た。」と館長さんが話しておられた。
11:25 記念写真を撮って出発
12:10 ホテルで昼食、買い物に外出する人もいた
14:30 ホテル出発、雨が降り出し、気温も益々下がる。
15:05 雲崗石窟 着
      長さ1キロ、5100体の仏像 2センチから17メートルまで
      第5窟は15年で完成、5000人が転落死した
      第17窟は仏像の一部を日本軍が持ち去っている。
17:00 出発
17:30 地元のデパ−トで買い物
18:30 出発
18:50 夕食  ホテルで休憩
22:30 ホテルを出発、ガイドさん ドライバ−さんにお土産を渡す、団長より。
22:45 駅着
22:50 改札
23:05 乗車出発、3段の寝台車で北京へ。

●8月19日(木)/7日目(記録/徳富幹生)

06:10 北京駅に着く。到着前車内に「ここに幸あり」のメロディ流れ 今日も会の幸運を予感する。メロディは韓国歌謡「イビョル(別離)」に代わり、劉さんとは北京駅で別れる。
06:50 北京僑園館に入る。洗顔、更衣など 暫時休憩。
08:40 僑園館を出発する。
09:45 中国人民抗日記念館に到着。
イ)張承鈞(チャンスンキン) 館長の挨拶を受ける。
「皆様のように中国に理解のある方々を歓迎します。戦争は中国人民3500万人の死傷者と6000億ドルの損失とをもたらしましたが、当然日本人民も大きな損失を蒙りました。当記念館は特に国内の青少年と世界中の人々に 戦争の事実を知って貰うことと、世界中の人々が再びこのような戦争を起こさないことの 二つを目的にして建設され、増築されました。」
ロ)「無名戦士像」に「会」の花輪をささげ 参加者一同が1分間を黙祷。ささやかながら心からなる追悼の式を行う。
ハ)展示のリアリティが強烈。地図とグラフや数字と資料をふんだんに駆使して歴史を「証明」しようとする。エネルギ−に圧倒されて声なしの状態。                                        ニ)昼食に頂いた水餃子(すいぎょうざ)美味だったが、中村さんと洪さんは体調すぐれずバスの中で静養。
11:50 廬溝橋上に立つ。鉄柵に保護され欄干を飾る280体の獅子像はコピ−だとか。大切な歴史文化遺産(日本人にとっても)だから 特別の保護措置が執られることは当然であろう。たもとに連ねる売店も出現し かって1985年に徳富の目に写った風景とは異なっていた。「事件」当時の弾痕が残る 壁と再会できなかったことに悔やまれる。
11:45 帰館。中村さん 洪さんの身体不調が続き 二人は北京市内の散策を諦めることになる。
13:00 僑園館を出て故宮に向かう。13時15分から故宮参観したが、大変な人波を縫って 建造物の外観を眺めながら故宮を突き抜けるだけでも困難を覚えた。従って収蔵の品々を見る時間なし。
16:30 このころより 中国国際友誼促進会秘書長 趙学曾(チョウシュエソン)さんによる歓迎宴。                       イ)「平和、正義、右翼への反攻のために皆さんが活動されていることに敬意を表します。これからも共に世界平和のために頑張りましょう。」
ロ)北京ダックの「実演」まで見せて貰い御馳走に舌鼓を打ちながら 安堵感も伴って疲労が全体的に漂う。三木拓生くんは腹の調子が悪く箸が使えなかったようだ。
20:30ころ帰館。洪さんと三木くんは病院へ向かう。同室の飛田と徳富は競うようにトイレヘ。

●8月20日(木)/8日目(記録/ 門永三枝子)
モーニングコール 5:30
朝食       6:00
ホテル発     6:30
北京飛行場着   7:10
飛行機離陸    9:20
青島着     10:40
青島発     11:50(以上中国時間)
大阪着     15:10(日本時間)
解散      15:40

「慰安所」のあと

 

<記録編>(2)門永秀次

8月13日(金)

11:30神戸南京心連心会が関西国際空港に集合する
13:40関西空港を発つ(MU516)
14:45(以後北京標準時)上海虹橋機場に着く

 戴國偉(南京国際交流公司)・徐明岳(国際友誼促進会)など旧知の出迎えを受け、15:40瀘 寧高速公路を南京に向かう(この頃上海はつよい夕立に見舞われる)
19:20中山門から南京城内に入り、夜の照明が幾分派手になった中山東路を経て宿舎の古 南都飯店(広州路208号)に到着する
古南都飯店泊

8月14日(土)

飯店での朝食までに、広州路を中山路まで散歩。去年訪れた旧ラーベ邸を外から望む
………………………………市内虐殺跡地の現地訪問………………
燕子磯江灘遇難同胞紀念碑
 燕子磯公園。2年越しの現地訪問が実現した大虐殺の現場
和気洋行旧址と煤炭港遇難同胞紀念碑
 「天環食品」の看板が掛かる現在は政府直営の聯合食肉加工廠。当時はイギリス資本の 食肉工場で、租界地のため難を逃れていた(宝塔橋難民区ともいわれていた)多数を日本 軍が煤炭港の倉庫に連行したあと虐殺。1992年3月南京市人民政府から「南京市文物 保護単位」に指定されている
南京長江大橋から城内外を眺望する
 大橋は建国50年を迎える化粧直しに忙しそう。長江の水位は昨年の洪水時とあまり変 わらないが、靄って対岸の浦口は見えない
栄1644細菌戦部隊(中支那防疫給水部)跡をバスの中から見て通り、つぎに戴の骨折りで昨 年も訪ねた利済巷49号の慰安所跡を訪問。町内会?の主任をしているという劉(72歳)の話を聞く
  劉 1943年から1944年頃のことを覚えている。日本人の女性が多かった。軍の幹部の出入りが多かった。利済巷18号にも慰安所があって、こっちは中国人女性が多かった。利済巷30号には日本兵の納骨堂(慰霊碑)があったことも覚えている。
清涼山遇難同胞紀念碑
 国際安全区の西端に接し清涼寺を含む公園の中に紀念碑があるはずで捜索したが不明。戴國偉が朱成山(江東門紀念館館長)に問い合わせて、碑は河海大学構内にあることが判明した
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞五台山叢葬地紀念碑
 254体の虐殺遺体が埋葬されている。1988年7月南京市人民政府によって碑が建立された
中華門から城内外を眺望する
 この日は少し曇ったどんよりして蒸し暑い日で、景色は遠望が効かない。幕府山もはっ きりとは見えないくらいだった
古南都飯店泊

8月15日(日)

8:30侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館前で日中合同追悼集会
 “銘記歴史,共創未来”中日青年交流活動並悼念南京大屠殺遇難者儀式。日本の青年を 代表して神戸から参加の加藤英明が演説。小城結以も献花をする
 記念館の見学はゆっくり時間をとれないで駆け足の参観。去年あらたに35体の遺骨が 発掘された現場に接して今年もまだまだ発掘作業が続いている
東郊叢葬地紀念碑と北極閣紀念碑を参加者は二組に分かれて訪問し、沈黙(追悼)の時
 金陵職業大学の学生たちとともに北極閣附近遇難同胞紀念碑を訪ね、かんたんな除草・ 清掃をしたのち沈黙の時で悼念を表す
金陵職業大学学生宅交流訪問
18:10予定を大幅にすぎ、北京での時間を気にしながら南京機場を発つ(MU5169)

北京機場に着くが列車の時間に余裕がなく、バスは高速道路をかなりの速度で飛ばす。北 京站ではたいへんな雑踏の中をかき分けて六番線をめざし急ぐ
21:10すぎ北京站を発ち太原へ向かう(2段4人の1部屋,車中泊)

8月16日(月)

7:30太原站へ着き、宿舎の太原国旅大厦賓館に入る。万愛花(太原市在住,98.11月2回目 の来神)らの歓迎を受ける
進圭社村・西烟鎮・后河東村を訪ねる
 賓館で朝食ののちバスで盂県進圭社村へ向かう。案内は張双兵(盂県羊泉村在住,学校教 員)・何清(山西省外事弁公室,98.11月来神)、通訳は何榮麗(山西省中国旅行社,万愛花ら と99.9月来日予定)が務める
 西烟鎮での李貴明(西烟鎮西村在住,98.11月来神)との合流は不首尾でそのまま進圭社に 向かうが、前日の雨のせいで道がぬかるみ先行の路線バスが轍を取られ約1時間の立ち 往生。けっきょく予定をかなり超えて進圭に到着する
 進圭社村では万愛花の拉致監禁された窰洞などを見てまわったのち、村長の用意してく れたお湯をもらい持参のカップ麺の昼食をとる
 進圭からの帰路、西烟鎮に李貴明を訪ねる。李宅では趙潤梅(98.11月来神)・楊秀蓮(98.11月来神)とも再会し、一家をあげた大歓迎を受ける。趙潤梅も二曲を披露する
 そののち羊馬山砲台跡を望む后河東村に尹林香(楊時通の妻=原告尹玉林の姉)を見舞う
 后河東村は、山西省性暴力について貴重な証言を残した楊時通(98年没)が当時「維持会」 の会計を務めたり後に抗日村長を務めた村で、「楊家院子」が置かれたりした。この村の 関係では楊時珍(楊時通の妹)・楊・尹玉林(尹林香の妹)の3人が今回の訴訟の原告となっ ていたが、楊は今年2月他界し三女が裁判を継承する予定
夜かなり遅くなって賓館に戻り、万愛花といっしょに夕食懇談
国旅大厦賓館泊

8月17日(火)

太原戦犯管理所跡(現在は山西機器公司の運営する幼稚園)
 撫順と並ぶ日本人戦犯管理所。朝鮮戦争の勃発で一時撫順の戦犯もここに収容されていた。かつての面影はほとんど残っていないが、壁の一部がその当時のまま。また現在は 教室になっている部屋にアーチ状の出入口があり、わずかに当時の造作を残すのみとなっているという
双塔寺(永祚寺)の参観
12:45太原站を発ち大同へ向かう
 黄土高原の山間地を縫うように列車は走る。太原は海抜八百b、大同は海抜1千bだそうだ
20:00大同站に着き、宿舎の大同雲崗賓館に入る。たいへんな夕立のため予定を変更して 賓館で夕食。途中落雷のため停電、持ち合わせのペンライトを灯して食事をする
雲崗賓館泊

8月18日(水)

大同炭坑に向かい、大同砿務局展覧館を副館長の案内で見学ののち煤硲口砿の万人坑(大 同砿務局万人坑博物館)を訪れる(時折の雨のせいもあってか気温はずいぶん下がってお り、南京で求めた自転車用の合羽が役に立つ)。沈黙(追悼)の時をもち献花ののち万人 坑を見る。去年の平頂山と同じように遺骨の表情がすごい
 展覧館貴賓室で羅名富館長とわずかな時間懇談する
雲崗石窟を参観する(雨、傘を賃貸しする商売がある)
22:30大同站を発ち北京へ向かう(3段6人の寝台車,車中泊)

8月19日(木)

5:50北京西站に到着し、宿舎の僑園飯店へ入る
中国人民抗日戦争紀念館(盧溝橋)を訪れ、貴賓室で張承鈞館長の歓迎を受ける。献花をし たのち半立体の映画(“盧溝橋事変”半景画)を観る。館内を見学は、時間が少なく全て の展示を見ることができずにたいへん心残り。中国人の子どもたちがノートを片手に父 や祖父といっしょに見学をしているのが目につく。きっと夏休みの宿題ではなかろうか などと推察する。館内では映画の撮影も行われていた
盧溝橋を歩く
故宮を見物する
 ここも建国50年準備か補修・化粧直し工事が目立つ。時間がなく一通り見ただけに終わる
天安門広場は前を通るだけで王府井大街へ。町中に王府井天主堂を見つけ少し驚く
僑園飯店泊

8月20日(金)

朝食は、故障者続出でたいへんわびしい人数だった
9:20北京機場を発つ(MU525)
15:10(日本時間)関西空港に着き、第3回訪中団を解散する


追悼の言葉を述べる加藤英明さん 

<追悼の言葉(8・15 記念館で/加藤英明)>

みなさん、はじめまして。日本の神戸から来ました 神戸・南京を結ぶ会の加藤英明です。わたくしはいま京都市にある龍谷大学という大学に通っています。わたくしがこの虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難記念館)を初めて訪れたのが2年前の97年で、今回で3度めの訪問です。最初の南京訪問でこの虐殺記念館に出会った時、それまで何も知らなかった自分が恥ずかしかったと言う記憶が鮮明です。わたくしと同じ日本人が 過去に犯した中国人民に対する虐殺、放火、略奪、強姦などの残酷極まりない非人間的行為を取ったことを、始めて認識し非常なショックを受けたのでした。特に、映画「1937」を観て以来、わたくしはこの南京大虐殺の真実をもっと詳しく知ろうと思い、こつこつと自分なりに調査を進めています。大学の卒業論文にも南京大虐殺を取り上げるつもりです。
 わたくしが南京に来て何時も感ずるのは、日本では同じ年代の人たち殆どが本当のことに対し 大変無知であることです。わたくし自身もそうですが 日本の学校では詳しく南京大虐殺の事実は教えられません。また右翼勢力の傲慢な人たちや、自由主義史観の狭い視野の人たちの影響で、南京大虐殺はウソだという間違った歴史誤解が広がりつつあります。恥ずかしいことですが、日本の若者は事実に就いては何にも知らないのです。中国人に対していまだに差別的な考えを持っている日本人も、わたくしの回りにはいるのが現実なのです。
 南京にはこのような立派な記念館があります。われわれが南京に来たとき中国人はいつも常に温かく迎えてくださるのです。今年の春南京で知り合った友達と一緒に記念館を訪れ、言葉は全く通じませんでしたが 今後このように日本の若者が中国の若者と共に記念館で逢い 親近感のうちに歴史の真実を学び語り合うことが 非常に大切だと思います。二度とこのような悲惨な事件を起こさないためにも、わたくしはさらに調査を実施し、一人でも多くの若い世代の日本人がこの記念館に来られるよう、努力いたします。追悼の意を込めて日中両国の永遠の友好を願うものです。
 以上、追悼の言葉といたします。


南京大虐殺記念館で花輪をささげる

<感想文編>

3回目の訪中を終えて/佐藤加恵

 今年で三回目になる訪中団は、ものすごい強行スケジュールで、上海、南京、大原、大同、北京とかけぬけた。途中、夜行寝台車での車中はく二泊。圧巻であった大原で往復9時間のバス行の進圭社村訪問があり、最高温度36度〜最低15度の変化あり、しかも雨天行もあり、この7泊8日の旅のヘビーさには一行の心身に大きな影響を及ぼした。そして、一番若い中学生から身体の不調がうったえられ、次いで年齢の若い順から胃や腸がおかしくなっていった。最後の北京で40代〜60代組がダメージをうけ、帰国の途についた時には約2名のみが元気であっただけであった。

林伯耀さんが大原に着く前に「いよいよ無茶苦茶な旅のはじまりですよ」と我々を驚かされたが、現実になるとは思ってもみなかった。今思えば無謀な計画であったのだろう。北京で入院患者を置いて帰る結果にならなかったのが、せめてもの幸であった。

私自身も、帰国後10日間ぐあいが悪く、5日後から仕事に出たが、なかなかきっちり直らなかった。昨年は約一週間でもとにもどったのにと、年々体力が低下するのがわかる。来年は諸先輩のアドバイスを聞き、少しゆるやかなプログラムにしなければと反省している。

何といっても旅の中心は大原の進圭社村を訪れた事である。過去二回、万愛花さんと数人のタージエ(おばあさん)を神戸にお迎えし、証言を聞き、交流会をしている。

その時の証言の一言一言が、今も記憶にあたらしい。資料やビデオで村の様子や性暴力が行なわれた場所等くわしく見てはいるが、現実の時と村にいるのではない。

実際にバスに乗り、前日大雨が降ったぬかるみの道で大型バスが泥に車輪をとられて動かなくなったのを一時間も待ち、やっとそこを脱出して黄土高原に向った時は、事実ホットしたものである。延々とつずく黄色土高原の景色や山々の横にあいたヤオトン(大きな穴であるが、今もそこに住むもいる)を見ていると、どうしてこんな奥地まで日本軍が徒歩で進軍してきたのか等、ぐっと現実味をおびてくる。とくに昨年、万さんとともに神戸夫訪れた趙潤梅さん、揚秀連さんに再会した時の喜びは大変なものであった。

しかし、全団員にとって一番ショックであったのは、河東村の小さな小さな小屋にいた尹おばあさんにあった時であった。その小屋のきたなさといい、頭にけがをして垢にまみれたあわれな姿は、お風呂にも入ってないだろうし、身体も拭いてもらったことがないのであろうか、年齢もさだかでない。何時ごはんを食べたのであろうか、土間のお鍋にはおかゆも入ってなかったという。その頭の傷は息子の嫁になぐられたとの事。この農村でどんなことがあるのであろうか。単に貧しいだけではないものを感じた。日本軍の性奴隷になったがゆえの二重の差別なのか。同じ立場の、趙さんの家族にかこまれた幸せそうな笑顔と対象的な尹おばあさんの姿に、今も涙を禁じ得ない。万さんが韓国のナヌムの家のような、みんなで暮せる家が、創りたいと希望している意味が解る出会いであった。加害者である日本側で、これらの女性たちを何とか支援できないものか、裁判闘争だけでなく・・・・・・・と思わせられるひとこまであった。

 三年まえの第一次訪中団で、淮南の万人抗に行ったが、今回は大同の万人抗を訪れた。保存の様子がだいぶちがった。以前に訪れた知人の話によると、二層になっている万人抗の上段が工事中で開けてもらえなかったし、資料館もととのってなかったし、パンフレットを希望したが、なかったとの事。今度、私たちがいった時には、上段にも入れたし、パンフレットも用意されていた。「一年に日本人は何人ぐらいきますか?」との問に、500人ぐらいとの由。昨年いった平頂山惨殺記念館よりは多いのである。しかし、同じ大同の雲崗石窟には何万人とおとずれるのに、わずか500人である。何とか旅の費用を安くして、若い人たちを募集し、南京大虐殺を中心とする過去の史実を正しく学び、それらの歴史を忘却しないための旅を、まだまだ続けなければならないと思う。 

「雨が降ると濁流に変わるような山道」/宮内陽子

 三年連続の夏の訪中、行くべきかどうか色々迷ったが、最終的に行くことに決めた最大の理由は林伯輝さんの言葉だった。「山西省の進圭村へは、雨が降ると濁流に変わるような山道を何時間もかけて行くのです。そんな所にどうして日本軍が行ったのか、行って考えてみて下さい。」

 昨年、一昨年の二度の訪中の時は、被害者の思いを少しでも追体験したい、何十年も隔てた「平和」な日本で暮らしていると、ともすれば忘れてしまいそうになる被害者のことを現地に立って心に再び刻み込みたいというのが主な目的だった。今回も勿論それはあったが、もうひとつ、加害者の心情にも迫りたいというのがあった。なぜ、そんな山奥の村村で日本兵は万さんを、李さんを、劉さんを性奴隷にしたのか。

 山西省は、八路軍と対峙する最前線、もっとも熾烈な戦いが行なわれた場所の一つ、どんなことが行なわれてもおかしくないという予備知識はあったが、知識以上のものを手に入れたかった。そして実際、雨風に深く浸食された黄土高原を縫って、果てしなく広がるとうもろこし畑、ひまわり畑の間を、往復十時間バスに揺られて行くうちに、次第に輪郭を現してくる感覚があった。

 家郷を遠く離れ、補給もままならない戦地に、抗日の意識の高い、或いは面従腹背の民衆に囲まれ、いつ帰れるとも知れぬ状態に置かれた日本兵の集団。どこまでも青く輝く空、照りつける太陽のもとにそそり立つ黄土高原、見はるかす緑の畑を見ていると、彼らの絶望感が実感を伴って感じられた。この華北の高原はそこに暮らす中国民衆にとっては厳しくも豊かな母なる大地であろう。しかし、侵略者にとっては、拒絶の意志を持って向き合ってくる見知らぬ異郷である。閉ざされた隔離された集団、いつ襲撃されて戦死するかも知れない、そんな彼らの自暴自棄の気持ちが中国民衆への惨酷をきわめた仕打ちとなって現われたのだということを、その是非は別として納得できた。

 日本という国は、一人一人の兵士をこのような非人道的な行為を行なうまでに追い込んでいったことをどのように考えているのだろうか。人でなし=日本鬼子(リーベングィズ、中国人は侵略者をこう呼んだ)の罪は各兵士の罪であると同時に国家の罪である。そして日本の歴史の中で犯されたという点で、日本人である私もその罪を引き受けることが求められている。罪を引き受けるということは、とりもなおさず事実を知り、被害の回復をはかり、原因を究明し二度と犯さないようにすることである。

 被害者の万さん達からは、提訴という形で彼女達の尊厳回復を求める取り組みが始まった。しかし一方で、進圭村からの帰途、声をすら上げられないお年寄り、貧しさの常識を越える貧しさの中で死を思いつつ生きておられる被害女性に会った。勿論、戦後補償要求の動きすら知らず一生を終えた被害者は私達の想像以上の数に登るだろう。

 更に続いて、大同では無造作に放りこまれ、半ばミイラ化した遺骨も堆積する万人坑を訪ねた。ついこの間も、南の安徽省からお年寄りが、何十年も前に消息を断った夫を探して訪ねて来られたという説明を聞く。大同はその日、夏には珍しい冷たい雨。赤茶けた山々が連なる炭坑にぽっかりと口を開ける万人坑、夫を探す年老いた妻。胸が締め付けられるようなイメージ。私にとってはイメージにすぎないが、当事者にとってはそれはこの何十年と続く日々の現実なのだ。

 中国を侵略した何百万人もの日本兵は、各地でこのような悲しみ、苦しみをばらまいて行った。そしてそれは今も本当の意味で償われてはいない。個人としても、国家としても。今、かの小林よしのりは「父祖の性欲を許せ」などと叫んでいる。しかし、赦しとは罪を自覚し償ってこそ初めて可能になる。そうでなくしてどうして赦されようか。かくしてこの日本列島には赦されない鬼子達が跋扈し、様々な恐ろしい法律が制定されてゆく。

 この1999年が歴史の大きな転換点として、将来苦渋とともに思い起されることのないようにしたい。そのためには被害者の尊厳の回復は勿論のこと、加害の繰り返しを許さない、加害へと追い込んでゆかない人権文化の創造の急務を痛切に感じさせられる旅となった。

中国を訪ねて/三木栄子

 小学生の時、広島の被爆者の女性を中学校に招き、お話を伺ったことが有りました。「原爆の子」の投稿者の方でしたが、顔や体にまだケロイドの跡がはっきりと残っていました。その方に私がした質問は今ではひどく残酷な答えを要求するものだったかもしれません。「あなたはアメリカを憎いと思っていますか。またこんなことが二度と起こらない為に、今まで何か活動をされてきましたか。」というものでした。坂口さんという中年のご女性でした。彼女は「アメリカを憎いとは思っていません。戦争を憎んでいます。そして家族がいますので今まで生きてくる事で精一杯でした。」と、少し申し訳無さそうに答えられたのです。なぜ一番の被害者が声を挙げないのだろう?中学生の私の大きな疑問でした。その後、日本がアジアでしてきた、数々の残虐な行為を知り、言いたくても言えない戦後の広島の人々の苦しみも、なんとなく理解できたのでした。坂口さん達被爆者は戦争を起こした人々のために、ケロイドも家族7人の死も表明する事もできずに戦後を生きたのではないでしょうか。

 しかし、その事に気づいたのは、教員になってからでした。教科書にはほとんど書かれず、何か他人事の様に感じていた私に、同僚たちから、同和教育の資料から、日本軍のアジアへの残虐な行為を知りました。“731部隊、南京大虐殺、性的暴行と強制連行、信じられない程の行為を、私の父の世代がしてきたのだ。そして平気な顔で「軍隊は良かった」と言っているのだ。嫌悪感と絶望。そして新しい疑問。「なぜアジアの人々は戦争責任を追求し尽くさないのか。」”日本は謝ってはいなかったからです。

 今回の訪中の時、同僚の宮内さんから「これはほんの一部だけど」といわれて分厚い資料を頂きました。虐殺暴行剥奪破壊。「あの人の良さそうな日本のおじさん達がしたことなのだ。」足立区のコンクリ−ト詰め殺人、神戸の少年、サリン事件にオウムの拉致殺人、人間はどんなにもよい人間にもなれるし、状況によってはどんなにも残虐になれるのだ、と妙に納得できる昨今の社会状況です。「その中でなぜ中国の人々は大きな声が挙げられなかったのだろう。それを見て感じて来なければならない。」それが私の課題でした。

 上海から南京へのバスは真っ直ぐにひたすら真っ直ぐに何時間も続きました。太原から進圭社村までも黄土高原の畑や荒野や崖っぷちを通って、行きに7時間かえりに7時間。一体何のためにあんな田舎まで進軍したのだ、と思うぐらいの距離を日本軍が侵略し、性的暴行と連行略奪とを何年も続けたのです。精神的に判断力の無くなるような、進軍と名誉欲と潜在的恐怖(死)の中での行軍、そして虐殺を当然と考え、多民族を卑下して当然という戦前の考え方と差別意識、好意で考えたとしてもそんな言い訳しか思いつきません。

 そしてその被害者の「おばちゃん」(ガイドをしてくれた、何さんは何度も聞き取りに来られているお嬢さんで、万さん張さん楊さん尹さんたちを「おばちゃん」と呼んでいました。自分に近い人、すぐ近くにいる悲惨な目に合った人への、親しみと労りを感じる呼び方でした)達は他の村人に害を及ぼさないようにとか、子供がいても無理やりに脅されてとか、銃を突きつけられてとか、人間的な尊厳をいっさい無視されて性暴行や病気をその身に受けたのです。そして終戦になると、日本の田舎などでもそうですが、こんどは共同体の中で、日本への協力をしたとか、体が汚れているとかいう理由で迫害されたのです。

 そして韓国より悲惨なのは、声を出すことの出来ない状況が複合的に重なっていたことです。周恩来の戦後補償無用というスピ−チ(多分に日本という敗戦国への温かい配慮から来た物でしょうが日本の右派にとってはなんと好都合なのでしょう)によって、日本からの償いは無く、国内の文革の嵐の為に補償は何も得られず、発言力もない中、子供はいない上(体は子供のできない程に痛めつけられている人がほとんど)最低の生活を強いられたり、自殺に追いやられたり、家族にも言えず我慢していたり、という生活をしていた人が大部分です。この中で誰が「補償を」と声を挙げられたでしょう。戦後50年を過ぎ、まだ極貧のなかで玉蜀黍の腐ったものと、僅かに養女の運ぶ粥で食いつなぎ、水瓶に顔を突っ込んで死にたい、という尹さんの状況は決して特別では無く、言いだせない何万人もの「おばちゃん」の存在を推察させずにはいられません。

 戦争は銃や大砲やミサイルで撃ち合うから悪いだけではなく、社会の底辺にいる人に皺寄せがゆき、その人々の人生を尊厳無きものにするからです。そしてその中で必ず戦争を利用し、戦争によって自己利益を得ようというひとびとが生き続けるからです。そんなことはない、と言うひとは、このところ起こっている日本のいろいろな事件が、戦前と同じで自己の利益しか考えず、なりふり構わず利益追求する人々の姿を、うんざりするほど見せつけられている日々から、容易に推測できるのではないでしょうか。

 今回の訪中で追悼の会を持つたびに、此の悲惨な現実を知り、次の世代に現実を伝えることを誓いました。今まで私が30年ほども、本当の中国の被害を知り得ず、いま日本でその現実の重さ、悲惨さを無視する動きのあるなかで、悲惨な目に遭いながら、「もう永くないのだから」と真実を語ろうとしている「おばちゃん」達のことを日本の若者に伝えなければならないと思います。それは、中国の被害者の為でもあるし、日本が誤った行動をし、世界からまた軽蔑されるような国に成らない為でもあります。そして、この平和に浸りきった日本のなかに、「そんなことはないよ」と囁きながら、巧みに軍備を揃えさせたり、攻撃が最大の防御等と誤魔化して、不幸な人を量産し、自己の利益を捻り出そうとする人びとや、そんな不気味な動きを画策して憚らない人々の動きを、ひしひしと感じているからです。

 今回の訪中は、知らなければいけない現実を、目の前に見せてくれました。中国の心優しい人々と、この訪日を計画してくださった皆様に感謝いたします。

 

南京の家庭訪問と進圭社村    由 佳世子

 今回の旅行で楽しみにしていたことの一つに南京での家庭訪問がありました。中国の一般家庭への訪問。大学生との交流でしたが、その親たちは、どのような気持ちで受け入れてくれるのだろうかと考えると、不安もありました。裕福な家庭。一人っ子の彼女。両親もとても暖かく日本からの団員を迎えてくれました。学生が5〜6人来ると言われていたようでしたが、私たちは、紀念館の通訳の常さんを含めて3人、そして80代の男性も一緒だったので、朝から作っていただいていた、たくさんのごちそうも残ってしまいました。彼女の部屋に案内され、パソコンで作ったプレゼンテーションを見せてくれたり、映画スターのポスターがあったり、今時の若者でした。

 彼女との別れを惜しんで、南京、北京から太原への夜行列車は、快適なものでした。

 山西省、進圭社村は未解放区で、今回訪れることができたのは貴重な体験であったと思います。個人ではきっと行けない。その分、見学したというだけで終わりではなく、自分たちへの課題もあると思う。

 太原から何時間もバスに揺られて、見渡す限りのひまわり畑、トウモロコシ畑、山や川を越えてやっとたどりついた進圭社村。自分の目で見て、本で読んだことが、一つ一つ理解できてくる。

 きっと山西省以外の省にも多くの性暴力被害の村があるだろう。

(9月1日 学校で)

 生徒が夏休みの思い出を書いているときパンダのマスコットを配りながら中国の旅行のことを話すと、一人の生徒がテレビニュースで南京の追悼式を見て

私が映っていたと話してくれた。それを聞いて、何人かが興味を持ち、南京大虐殺のことを話すと熱心に聞いていた。まだ、社会科で習っていないことだけど、しっかりと聞いていた。歴史が少し身近になったようだった。若い世代に少しずつ伝えていければいいなと思った。

「神戸・南京をむすぶ会」第3回訪中団に参加して/中村みはる

 2年ぶり2回目の参加をさせていただきました。前回は初めての訪中で見るものすべて珍しく気が高ぶったまま慌ただしく過ぎた印象が強いのですが、今回はやや余裕も生まれ車中2泊を含む強行軍でありながらあらゆるものを落ち着いて受け止めることができました。今回の日程に南京での家庭訪問や進圭社村の訪問などが加わり、多くの中国の人々と触れ合う機会が持てたことも大きいと思います。無邪気でのびやかな南京の大学生は目を輝かせて「建築家になりたい」「日本やアメリカに行きたい」と語ります。物質的にも恵まれた都会の中流家庭を見た目には山西省の農村の貧しさは胸をえぐられるようでした。
 進圭社村の万愛花さんの監禁された家に現在住むお爺さんの火の気のない納屋のような部屋を見たときには、50数年前にこの部屋に引っ張ってこられた万愛花さんの恐怖心と同時に夜一人ポツリとほこりをかぶった部屋にいるお爺さんの姿が想像されてその場にいるのが辛いようなこわいような感覚にとらわれました。いたるところで餌をついばむ鶏やたわわに実るなつめの木など村の風景がのどかなだけに部屋に一歩入ったときの暗さが忘れられません。南京や上海のような都会の変貌ぶりに較べると時が止まったような山西省の農村の姿は日本軍が徘徊していた頃もこのようであったかと、切り立った黄色い崖、乾いた土に繁る高梁、岩肌のヤオドン、何を見ても切なくなります。黄色い大地の中で素朴に暮らしていた人々にとって日本軍はどんなにか恐ろしく理不尽な存在だったことでしょう。人はどんな人でもただ一度の人生しか生きられないのに、虫のように日本軍に殺された村人や万愛花さんのような苦しみの半生を送った女性たちのことを思うと、戦争をいとも安易に美化する昨今の日本の有り様がたまらなく恥ずかしかったです。
 最後の北京で力尽き宿で半日伏せっていたことはかえすがえすも口惜しいのですが、大事に至らず何よりでした。多くの方にご心配をかけ誠に申し訳ございません。とりわけ同室の宮内様にはいろいろお世話頂きこの場を借りてお礼申し上げます。謝々。

                                         はじめての中国 小城 結衣         

私は「神戸・南京を結ぶ会」へ伯母と一緒に参加しました。伯母の参加は4回目なのですが、海外へ行ったことのない私がこれに参加したのです。初めて日本という国を出たことが感じられなかったのは勿論、『国境の線、境がありません』ので中国へ来た思いはあまりありませんでした。
 長江の見える燕子磯へ行きました。そこで前の戦争で日本軍が南京に攻め込んで来たおりに、中国の人たちが長江を渡河すればきっと日本軍から逃れることができると、大勢がここへ集まったのですが渡す船の数が足りず、幅広い長江を泳ぎ渡ることも不可能であったところを、追いついた日本軍が後方から次々と虐殺していったそうです。
 日中合同追悼式に参列し、私は花をささげる役をさせていただきました。献花の時「日本の政府は南京大虐殺のことで正式に謝罪しないばかりか『そのようなことはかっての日本はしていない。』と否認を続ける人達がいる。」と聞いたことを思い出し、殺された中国の人々に、どんな顔を向けたらいいのかと悩みました。
 その後、中国の家庭を訪問し、とても暖かく優しいもてなしを受けました。また、大学の事、アニメやドラマ、映画などと話しは盛り上がりました。次に来るときは、中国語と英語をもう少し頑張ろうと思います。
 大原の進圭社村に往く道、還る道、とても遠くて凸凹の道でした。日本軍はこんなところまで攻め込んで来たのですから、とても異常な精神の状態だったと思います。萬愛加(Wan ai hua)さんの監禁された村へも行きました。村長さんがとても温和な人だったので驚きました。                                                  日本軍に捕まり強姦された人の家族のところへも行きましたが、良い人ばかりで大歓迎してくれました。しかし王改荷さんの村に行ったときがく然としました。村の多くの人から「日本軍を援助した」として白い目で見られていることでした。とても胸が痛みました。
 この旅行で強く感じたことと言えば“人間という生き物は恐ろしい”ことと、日本軍がこんなにも虐殺・強姦を行ったのに、否認している人達が大勢いるという事実です。あくまでそれらの犯罪がなかったと思うなら一度、中国の実地へ勉強に来て見たらよいと思います。そこには生々しい傷痕が今もなお残されているからです。
 途中、体調がおかしくなり迷惑をかけてしまいましたが、初めての経験がたくさんできたので、楽しかったです。

向日葵  徳富 幹生 

両側にそそり立つ断崖が奇観を呈して、山峡の幅は広い。断崖の急斜面で、ときには山羊が草を食み、天はあくまで高く青い。断崖のそれぞれの麓から山峡の中央地溝(氾濫原表土帯)めがけて、玉蜀黍(とうもろこし)と粟(あわ)と向日葵(ひまわり)の段々畑がせまってくる。
 ぼくたちのミニバスは、上下や左右の不規則振動に襲われっ放しで、道とも川床ともつかぬぬかるみと、でこぼこの表土上を喘ぎあえぎとにかく走っているのだ。60年前くらいとは恐らく道路事情は変わっていまい。向日葵畑に潜んでいるかも知れない八路軍(共産党の最強部隊の名称)の襲撃に怯えながら、日本軍の一般兵士たち鉄砲を構えたまま揺れるに任せて、トラックの荷台に乗せられて北西に向かったに違いない。バスの喘ぎが止んで普通の呼吸に戻ったとき、山々は遠くに離れ、ぼくたちは太陽に輝く向日葵の海を泳いでいた。泳ぎながらぼくは、とりわけ3本の向日葵のことを思い描いていた。
 15歳と17歳の少女の夏は、太陽に向かってきりりと花びら開き、太くて強い茎持つ向日葵だった。19歳の若い母親は、乳飲児を抱きしめながら病死した夫の遺体(なきがら)に誓っていた。強風にはなんとか茎しならせて避けてみせます。子供と一緒に、決して太陽に背向けぬ向日葵になりますから・・・・・・・・・。
 そんな向日葵たちの花びら引きちぎり、茎ヘし折り、軍靴で踏みにじったのは日本鬼子(リ-ベンクゥイズ)だった。ぼくたちの父さんや知り合いの小父さんたちだった。
 ポプラ並木を通り抜けて、再び山が近づいたとき、ぼくたちのバスは中国山西省陽泉市孟県の進圭社村に到着した。村には至る所に杏子(あんず)が、どの木もいっぱいに実をつけていた。太陽は中天に輝き、村のすみずみまで光が溢れている。張双兵さんに案内された門をくぐると、他のどの木よりも大きい杏子がどの木よりも多くの実を付けていた。杏子の枝々の間から窰洞(ヤオトン)の入口が見えた。窰洞の一室はかって地獄の間だった。万愛花さんが3回に亘って拉致され監禁されて、連日、性奴隷を強いられ拷問に呻吟した「部屋」の闇は、見事に「歴史の事実」を証明してくれる。「部屋」に立ち尽すぼくたちのところに、村に溢れている筈の光が届いてこない。そして闇の中に、大原の宿舎でぼくたちを出迎えてくれた万愛花さんの笑顔が浮かび上がったとき、そのときからぼくは貝になってしまった。
 広大な向日葵畑の中に集落が形成されたような西烟鎭で、村人たちみんなが穏やかに微笑んで平和だった。李貴明さんと一緒に趙潤梅さんと楊透連さんはぼくたちを迎えてくれた。終始にこやかに纏足(てんそく)と年齢を労るかのように椅子に座り、ぼくたちの為に歓迎の歌2曲も歌った趙さんの語った言葉が忘れられない。あの忌まわしい過去の事実を記憶から消せな    いでいるし、記憶が甦るたびに今もなお精神の平静が崩れて錯乱の世界から逃れられなくなるという・・・・・・・・。
 バスはさらに南へ下って、后河東村の村はずれの一軒家の敷地前に停った。形だけの垣根の扉を開けると、そこには 華やかに大輪の花を誇るかのように庭中いっぱいに巨大な向日葵が林立していた!その向日葵の林を縫って庭の奥に進むと、樹々の枝に覆われて光の一筋さえ許さないような一角に、粗末で小さな家屋がひとつ、昼間にしてなお家の中は夜。土間の椅子に腰を下ろしたまま動きを忘れた尹大娘(インタ-ニャン) 向日葵を掻き分けてやってきた東洋鬼(トンヤンクィ)に、肉体と人格を破壊された大娘は、そのことを理由にして戦後になっても、他村に嫁いでいる娘を除いて、自分の子供や親族や村人たちから疎まれ続けてきたようで、何度も死を考え実行にも移したがままならなかったようだ。「最近、あなたたちのような訪問者の激励の声が聞けるようになってから、生きるという気持ちを持てるようになった。」とそんなふうの話しをし、弱々しいけれど微かな笑みを見せ、夜波の暗さのなかで尹大娘のまなこが少し光り、ぼくの瞼も熱くなったのでした。
 大原の宿舎に戻るために、ぼくたちのミニバスは矢張り向日葵畑の一本道を走っていた。窓に触れんばかりの大輪の花に感歎の声を揚げていたみんなの顔に、だんだん困惑の色が増してくる。窓外に広がる向日葵の花一本一本の総べてが、西に傾いた太陽に背を向けているではないか・・・・・・・・。 
      1999.9.1 「防災の日」に

神戸・南京心連心会第三回訪中感想文/門永秀次 

(一) 三回目の南京・中国。南京での時間が短かったので、全体の旅程からどうしようもないけれどまだまだ市内のあちこちの虐殺跡地を訪ねることは、やり続けなければならないと考えている。心連心会がこれからも南京現地訪問の企画を続けていくとすれば、はじめて“南京”に接する人たちに導入のフィールドワークはぜひとも必要だが、何度か回を重ねる人も出てくる。どこを選ぶか、どこを見学するか。折り合いはつけなければならない。同じ様な矛盾は、フィールドワークとシンポジウムとの間にも生じてくるだろう。後者の問題はもうしばらく参加者の自由にまかせる以外にないと思うが、前者については全体の日程の制約は大きいができるだけ南京における自由時間を増やす方向で検討してみてはどうだろうか。経験者組は南京に馴れて「南京はもういい」となりかねない。しかし日本の過去の歴史や民衆レベルでの日中間関係を考えていこうとする際に、やっぱり南京は軸にすえられなければならないと思う。経験者組も目的・問題意識を鮮明に自由時間を活用して、現地訪問の活動をより豊富にしなければならないんではないかと、これは自分自身に言い聞かせている。

(二) 今回の南京は、ほんとうに時間が短かった。その中でまだ訪れたことのなかった燕子磯など虐殺現場を訪ねたが、とにかく記念碑のある現場は全て一度は行ってみたい。そんな気持ちが非常に強くなった。また今回は幸存者の話を聞く機会がなかったが、やっぱりおじいさんおばあさんの話、聞けるうちはできるだけ聞いておきたいという気持ちもある。

学生のうちを訪問する企画、中国の人びとをいっそう身近に感じることができた。彼らは本音ではもっと若い日本の学生の訪問を期待していたのだろうが、期待を裏切ったのは申し訳ないけれどわれわれにとってはいい機会であった。戦争・虐殺の話については話題にすることを何か抑制しているような印象を受け少しもの足りない面もあったが、中国の発展に対する期待、民衆の生活環境などを垣間見ることができ、率直な話の機会をもてたことはとても感激している。機会があれば彼や彼女たちを逆に日本に呼んで、また話をしてみたい。

(三) 中国行には南京は欠かすわけにはいかないが今年は山西省を訪ねること、すごく楽しみにしていた。ビデオで観た黄土高原、烏河に沿った進圭社への道。本来の目的を決して忘れているわけではないのだが、実は子どものようにわくわくしていたのだった。その景色は十分に感動し堪能した。

 だがそれ以上に現地で万愛花さんが閉じ込められた窰洞の前に立って、改めて日本が発動した侵略戦争の本質けっきょく戦争というのは、訪れた村のようにただの農村、平和な民衆の生活を破壊し、人の命を奪い傷つけることだと思い知らされた。訪ねた進圭社にしても西烟鎮・后河東村にしても、こんな村に兵を配置して八路軍を抑えることができるとほんとうに考えたのだろうか。そんな疑問を抑えきれない。だが事実あったわけで、日本では時の流れにまかせ、あるいは意図的意識的に消し去ろうとする歴史上の事実と、それを告発する生身の人間の存在を忘れてはならないし、人びとに知らしめていかなければならない。

 太原で再会した万さん、西烟鎮の李貴明さんの家で再会した趙潤梅さん・楊秀蓮さん。万さんの一種威風堂々とした態度には思わず心からの敬意を表したくなる。李さんの庭でわれわれ一行の歓迎に唄を披露してくれた趙さんの表情もすごく印象的だった。いっぽう后河東村で見舞った尹林香さんはまた強烈だった。家の様子・生活状況など現在のこれら全てが、全部ではないにしてもやはり当時を引きずっていることなど思いめぐらすと、山西省裁判の意義やその支援について自分なりに考え決意を新たにするところはある。

(四) 今年も振り返ってみればずいぶんたくさんのところを訪問できたと思う。大同の万人坑。去年の平頂山のときと同様に万人坑に捨てられた人たちの告発の眼差しはすごい。凄まじい。これも侵略・戦争を伴ってモノが人間を手段にしてしまった究極のすがたかと思うと、率直に言ってやり切れない。

 北京・盧溝橋の抗日戦争紀念館は、これはまた時間が足りなさすぎた。もっともっとゆっくりと時間をかけて見学しなければならない。夏休みの子どもたちがノートを手にして親や祖父と一緒に参観しているのを見つけた。中国の子どもたちにはこんなふうに戦争が、父母や祖父母の代の歴史が伝えられていってるんだなと印象深かった。日本だって学校でのまともな歴史教育を充実させると同時に、ほんとうはこんな場所が必要だ。ピースおおさかのようなところもあるが、いま神戸で構想されている平和祈念館は、加害の展示云々の前に人間が起こした戦争も自然現象の地震(もちろん人災の側面を忘れているわけではない)もいっしょくたにした「平和祈念」館なのだ。こんなもので人間のまともな認識を育て継承できるはずがない。何のための記念館かと思う。

(五) われわれが一定の目的を持って、中国を旅するところを選んでいるということもないわけではないが、中国にはかつての日本帝国主義による侵略戦争の跡が無数にある。今回もそんな思いをよりいっそう強めた。しかしいま日本では理屈や人びとの意識の上からその事実を消し去ってしまおうという策動や、そんな歴史を敢えて否定して単純な回帰ではないけれど再び強力な軍備を備えた国になろうとする反省のない道に一歩踏み出した。私自身は、日本の選択しようとするこの方向への反対を鮮明にして、これからも心連心会にかかわっていきたいと思っている。

 『中国・南京を訪れて』 加藤英明

 私は、97年の『神戸・南京を結ぶ会訪中団』に参加して以来の二度目の参加であるが、今回は残念ではあったが太原や大同、北京には行かずにその後も南京に残って卒業論文の作成のため調査を行なった。

 私自身、今回で3度目の南京訪問であるが、記念館の中を一度もじっくりと見たことがなかった。皆さんと別れてから2日間かけて記念館を訪れたが、多くの中国人の親子が来館していたことに驚いた。同時にきちんと歴史の真実を子供たちに教えているんだなぁと改めて思った。逆に日本人には誰一人として出会わなかった。朱成山館長も「団体で訪れる日本人は最近多くなったが、その人たちもじっくりと記念館の中を見ることはない。」とおっしゃっていた。今回の目的の一つである南京の大学生に聞き取り調査をした結果でも、70人中全員が南京大虐殺を学校で詳しく教わっていて、そのうちの52人が記念館を訪れたことがあり、また6人が3回、15人が2回記念館を訪れている。(8月18日、河海大学生33人、8月19日、南京大学生37人に調査。)果たして日本人の大学生はどうだろうか。私自身、日本でも同じく調査してみようと思っている。また、今回『神戸・南京を結ぶ会』で日中合同追悼会や学生達との交流会に参加したが、私達日本団に若い人が少なかったことに金陵職業大学の学生たちは、非情に残念だったそうである。私自身も、中国側は大学生が参加してるのに日本側には大学生が少ないのは非常に残念であった。来年以降は、もっと若い世代の人たちが参加しやすい方法(例えば参加費をもっと安くする、若い人たちにもっと宣伝するなど。)を考えて欲しいと思うし、私自身も努力したい。

 今回、南京を訪れてシンポジウムに参加したり、団の人たちと話をして、日本において右翼集団や自由主義史観、教科書をつくる会などの人たちの動きが活発になっていること、特に僕と同じ世代の若い人たちに大きな影響を与え、またもや歴史の真実をきちんと教えようとしていないことを再確認した。中国の学生たちもそのような日本の動きを特に気にしているようだったが、私が南京を訪れたときはいつも中国の人たちはよくしてくれて、今回もいろんな所に連れて行ってくれた。「復讐するより、日本人と平和な関係を作りたい」と言っていた言葉が印象深い。それに対して、私達日本は本当に情けないと思う。過去の歴史を直視しようとせず、隠そうとする態度...。何とかしなければいけない。

 今回は、10日間という短い期間ではあったが、南京市内を歩き回ってほぼ全ての虐殺地跡を見た。しかし、集団で虐殺されたり、埋められたりした場所に現在記念碑が建っているのだが、そこだけではなく南京の街の至る所で日本人は中国人を殺害した。私が立っているこの場所でも60年前私と同じ日本人が何の罪もない中国人民を殺害したことを考えてみると何ともいえない気持ちになった。特に今回初めて、長江大橋の上に登って壮大な揚子江を眺めて、なぜこんな広い所を泳いで渡ろうとしたのか。はっきり言って無謀である。しかし、何もしないで日本軍に殺されるよりは、また、泳いで逃げたほうがましなほど日本軍の攻撃は激しかったんだろう。この河いっぱいに死体が浮かんでいたなんて想像するだけでも恐ろしく感じた。しかし、これは事実であり、歴史から目をそらしてはいけないのである。私自身、今後更に調査を行なって良い論文が書けるよう努力したい。最後に、飛田さんをはじめ神戸団の皆さん今回は短い間でしたが色々とお世話になりました。また、ご一緒に旅行が出来ることを楽しみにしています。(21歳、男、大学生)

山西省の山奥に 門永三枝子

 今年の旅行で一番印象に残っているのは、何と言っても山西省の山奥の村へのバス往復でした。一面のひまわりとトウモロコシ畑や、水平な地面が一気に隆起したり陥没したりしたような珍しい黄土風景に時間のたつのも忘れて、わたしは予想したほどには疲れませんでした。でも到着した進圭社村の人々(全員ではない?)のあまりにも貧しい暮らしぶりを目のあたりにして、胸がつぶれそうでした。万愛花さんが閉じ込められていたヤオトンに今住んでいるおじいさんは、みんなで写真を撮るというので、着変えてくると言って中に入ったかと思うと、何と冬服の人民服を羽織ってでてきました。これが唯一の彼の正装なのでしょうか。

 電気製品や家具はおろか、食器一つ満足に無さそうなこの農村の貧しさは一体何なのだろうと、疑問を持たずにはおれませんでした。三光作戦と中国の人々が呼んだ日本軍の農村地帯への孅滅作戦によって、ねこそぎ奪われた痛手は、かくも大きな爪跡を残しているのでしょうか。それにしてもすでに50数年。私は自分の存在が、親たちの世代の功罪の上にすべてを負っているという、原罪意識に似たような思いにとらわれます。清潔でお湯をふんだんに使えるこんな生活をしていて許されるのだろうか、と。

 乏しく「質素」の極限のような暮らしの中で、万さんたちを支え活動している張双兵さんや李貴明さんをなんとか援助したいものです。私たちの泊まっている太原のホテルへ早朝お土産だと言って、大きなダンボールを持ってきてくれたときは、思わず涙がでました。粟と酢とひまわりの種。私は精一杯の中国語で、「真的、真宝的。謝謝、非常感謝 。」と繰り返しました。このときもらった粟を時々ごはんに混ぜて食べながら、物質だけでは決して得られない人とのつながりのあたたかさというものを繰り返し感じています。回を重ねるごとに、とっても充実したすてきな旅行です。来年こそだれか少なくとも自分よりは若い人を誘って参加したいと思います。 

三度南京を訪れて   小城 智子

 今回の南京への旅は、南京大虐殺の跡地を訪ねることと合わせて、大同炭鉱の、万人坑へ行くこと、日本軍からの性暴力被害を訴え、裁判を起こしている万愛花さんを初め、多くの女性が暮らし被害にあった山西省進圭社村周辺に行ってみることが、大きな目的であった。事前の集まりで、雨が降ると道がなくなるとか、バスでも、悪路を4時間はかかる、とか、2回も夜行列車という強行スケジュールだとか、食事が脂っこく下痢を起こしやすい、(「正露丸」必携)という諸注意を受け、いくらか心配になった。が、こんな大変なところまで、何故日本軍は攻め入ったのだろう、と考える旅になる、という説明に共感した。

    1. 南京大屠殺遇難同胞紀念館

8月15日は、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館での日中合同の追悼の場に臨む。加藤さんの挨拶に、本当に嬉しくなった。日本の若者に私たちは歴史の事実は正しく伝えたい、という思いを新たにした。

3度目の紀念館だが、今年も新たに遺骨が発掘されている。昨年の発掘場所の隣に下水管の工事をしようとして、今年3月に発見され、この日も発掘の作業中であった。骨に、10センチぐらいのコの字型の釘が打ち込まれていた。一体誰が何のために打ち込んだのか。長江沿いの大虐殺の跡地であり、どこから骨が出てきても不思議はないと言われてきたが、2年続けて目の当たりにすると改めて被害の凄まじさを感じる。

    1. 大学生宅家庭訪問

 今回の旅行で、今までにないプログラムとして、楽しみにしていたのが、 中国の大学生の家庭に家庭訪問をするということだった。3人ずつ分かれて、中国学生とタクシーに分乗、白下区にある沙さんのお宅に伺う。古いアパートのようだが、中は質素だが清潔な感じの3DK、少し狭いが、物もあまり多くない。目を引くのは、彼女の部屋のパソコン、居間と両親の部屋にあるテレビくらい。自分の部屋の本箱の下半分がタンスで衣類が入っている。冬物は、小さい納戸に入っているとのこと。レストランのような豪華な昼食がずらりと用意されたが、テーブルは、折り畳み式で、イスもいろいろな物が、8人分そろえられた。お母さんは、働いているので、お昼の2時間の休みにご自分の妹さんも頼んで、料理を作りに帰ってこられたと言うことで、しばらくして、職場に戻られた。お父さんは国営企業が上手く行かないので、機械関係の自営業に変わり、今手が放せない、と言われていた。航空大学の左先生の素晴らしい日本語で、生活ぶりや、勉強のこと、将来のこと等聞いていたが、沙さんのお家はイスラム教なので、豚肉は食べないとのこと。「南京にも教会があるが、自分は行かないので、何人くらいいるのかは知らない。」と言っていた。南京は特に、ということだったが、中学校の社会で、かなり丁寧に中日戦争について学ぶ。日本帝国主義による被害の様子もくわしく学習する。「日本では、加害の歴史を学ばないときく。若い人が知らないと言うのは、おかしいと思う。」という話しになる。アジアの青年達と交流するために、不可欠な課題だと思う。せっかくの機会なのに、直接には、余り話できず残念だった。英語の単語はほとんど忘れていて、出てこない。3人の女性も英語はかなり片言で、お互いに言っては笑ってしまう。馬さんは、英語もかなり話し、「今、日本語も習っています。」と日本語で話してくれたが、私の英語と変わらない、挨拶程度なので、次にまだ進めなかった。中国語はとてもとてもだが、今度は英語の単語くらいおさらいしてこようかな、と思った。

職業大学生の4人は、今どんどん広がっている高速道路の管理の仕事をする予定だとか。大学と言っても、その時の要請に応じて、専門家を作っていく、と言うのがストレートに行われているようだった。

 この企画は、勿論若い人同士も良いが、全体にも、お互いの生活を知る機会として、続けて欲しい。

(3)山西省進圭社村

 16日には、いよいよ太原進圭社村に出発。とても、小さいバスに、キャンプ用の小さなイスまで入れて、ようやく全員座れる。この小さなバスでないと行けない事や、このバスでもずいぶん贅沢な事が、後で分かった。山間の細い道へ入っていくのは、予想通りだが、川をバスで渡っていくのにビックリ。ぬかるみ道で、立ち往生するバスにもビックリ。運転手さんが、ずいぶん時間をかけて、そこから抜け出すのにも日頃の経験を感じる。こういう悪路はよくあるのだろう。子どもの頃、兵庫県の但馬に帰るときの峠越えを思い出した。9号線ができて通らなくなったが、昔バスが谷底に転落し多くの人が亡くなった、と、祖母に聞かされ、バスが傾く度に目をつむったあの恐怖に比べれば、と思いながら、ジエットコースターのような乗り心地を楽しんだ。岩山の上まで、トウモロコシや粟、ひまわりが植えられている。治水対策もあるだろうか。村は、時折見えてくる。ヤオトンといわれる洞窟の住まいのようなものも時たま見える。山西省は、このような山あいの貧しい地域で、抗日戦線八路軍が拠点とした所であり、他方、炭鉱など、鉱物資源もあり、日本軍としては、支配したい所だが、支配しにくい地域だったと思われる。そのため、村を焼き払い村民を1カ所に囲ってしまったり、虐殺したりして、無人区というものを作ったのではないか。抗日戦線八路軍をおびき出すための暴行や報復の虐殺も多かったのだなあ、と思う。万愛花さんを初め、性暴力被害者も、その犠牲者である。この広い土地で、移動も困難な中で、地理を知り尽くしている中国人民を少数で支配するというのは、実際には無理であるし、ゲリラ戦に対応する日本兵は、大変な恐怖心に駆り立てられたのではないか。この様な中での支配は、暴行拷問と、女性を「慰安婦」として差し出させ忠誠を迫り、一方で、人質とするといったやり方になっていったのではないか。被害にあった女性達やその家族にとって、戦後は終わっていない。今、日本で行われている裁判は、その中でも本当にごく一部だなあ、と改めて思う。とうもろこしや、ひまわり畑が続き、山羊や羊、鶏や、ブタを飼う山際の農村地帯だが、黄土高原に被われ、上海周辺の豊かな土地ではない。戦争から60年近くたったが、まだまだ、日本軍が接収したという、家が残って使われている。村長さんの素朴な歓迎ぶりもびっくりした。中国人「慰安婦」裁判を支援する会を初め、日本人支援者の来訪が続いていることもあるかも知れない。

 李さん宅での歓迎にちょっとほっとした。この辺りでは、豊かな方だろうと言うことだが、その彼が、仕事をし、母親や、家族の世話をしながら、日本軍による被害を調べている。また、張先生は、小学校教員の月550元という賃金の半分近くを費やして、日本軍の与えた被害について調べているのにも、頭が下がる。おつれあいが病気で、家のこともあるけれど、早くしないと、被害者や知っている人がいなくなってしまう、と心配される。日本も同じだが、今は時間が急がれることである。こういう方々への支援もできないものかと思うのだが。

 たいへんな悪路で、驚きの連続だが、自分の足で立ってみて初めて分かることがたくさんある。来て良かったなあと思った。また、ここまで何度も足を運び調べ、道をつけておられる林伯耀さんに心から、感心し感謝する。

(3)大同炭鉱万人坑

 大同では、大同炭鉱の万人坑に見学に行った。

 1937年10月から、日本軍が大同を占拠、日本企業鹿島建設の前身が、炭鉱を支配。山西省だけでなく、山東、江蘇、河南、河北と、広範囲の地域から労工を集めてきた。最初は1日1元の良い仕事がある、とだまして集めてきたようである。実際には、かびの生えたとうもろこしの粥や、饅頭を1個と言った食事や住まい以前の小屋に寝起きさせ、食費や住居費を賃金から差し引き、ほとんど手渡されなかったという。また、重労働とマイナス29度と言った寒さで、病気になっても、治療もさせず、伝染病になっても、隔離するだけ、といった状態で、病気がひどくなると、まだ生きていても、使わなくなった、坑道に投げ捨てていったという。日本が占領した8年間に奪った石炭は、1400万トンあまり、6万人の人々が亡くなったという。一昨年の南炭鉱の万人坑に重なる。よく見ると、頭蓋骨などの白骨が幾重にも重なっている。また、皮膚がついているミイラ状の骨、服を着ていたり、髪の毛の残っている骨もある。気温の低さが、この保存状態を作り出しているのかも知れない。これが、それぞれ40M近く、70M近く続いていると思うと、そこで酷使された人々のうめき声が聞こえてくるようである。岡の下には、簡単な博物館があった。大同市では、学校から、1度は子ども達は学習にくるそうである。日本人で見学に来るのは、年に約500人とか、平頂山よりやや多い。雲崗の石窟に近いということで見学に来る人が多いのかも知れない。ともあれ、より多くの日本人に、ほんの60年ほど前に同じ日本人がしてしまったことを、見て置いて欲しい。

(4)北京、廬溝橋、中国人民抗日戦争紀念館

 19日には、北京に行き、廬溝橋と、そのそばの中国人民抗日戦争紀念館を参観した。

 紀念館では、夏休みと言うことで、メモ帳を持って、あるいはおじいさんの説明を聞きながら、回っている子ども達の姿も見かけた。

 展示の最後の方には、国の中で争い国が遅れていくと、周りの国からいじめられ、こんなにひどい目に遭わされる。新しいことをしっかり学び、豊かな国をつくって、2度と侵略されないようにしよう、と若者に訴えているようだ。現在の核も持つ、強い中国、という姿勢が貫かれているように感じた。

 抗日の闘いの展示の中で、救われたのは、日本軍の中にも、捕虜になってからだが、「戦争で死んでも、家族は喜ばないぞ。戦争はやめよう」というビラをまいたり、日本軍の駐屯地近くへ来て、マイクで呼びかけたりした人々がいたようである。あの山西省の山中で、学習したという記録があった。本で、野坂参三が指導した、と言ったことが書かれているのを、ちらっと見たが、さすがに、野坂の名前はなく、鹿地亘という作家の名前が指導者として、書かれていた。

 今、日本人の精神構造が、いかに非人間的なものか、戦争による神経症などがない、自分たちのしたことは、戦争だから仕方ない、と合理化し、戦後も企業人間として、過労死するまで働き続ける世界でまれにみる、傷つきにくい精神構造を維持し続けてきた、と問い直されている。この抗日戦に加わった日本人の戦後も知りたいと、思った。 

 今回も、知らないことが何と多いことか、と思う旅だった。昔、父が、「八路軍は強くて、こわかった、突然襲ってきた。」と言っていたことや、「八路軍は、日本軍や国民党とちがって、農民の物をとったりしないから、中国人が味方していたからな。」と言っていたことが、つながっていく。そうすると、はとの世話だけして済むわけ無いなあ、とも思える。父のアルバムも、はがされた所が多い。語らなかった部分が、重くなるが、私たちが、受け継ぎ、戦争の狂気と、非人間性を語り継ぎ、戦争ができる国ではなく、2度と戦争をしない日本にしていきたい。新ガイドラインが、決定され、民間人の戦争協力が強要され、「日の丸、君が代」が国旗国歌として、法制化去れ、強制されようとする今、自分自身が、戦争に荷担しない生き方をしたい、と強く思った。また、そう思う青年を増やしていきたいと思う。

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