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神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会ニュース8号/2003年12月21日発行
いかり
※「いかり」は港の象徴である錨であり、強制連行され、神戸港で労働させられた朝鮮人や中国人の怒りでもあります。この二つをイメージするものとして、会のニュースの表題にしました。
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<目次>
元豪兵捕虜の手記を出版する平田典子さん(神戸新聞300.12.1、ホームページでは省略)
孫敏男
●訪問目的
鄭壽錫さんは、官斡旋による労務動員により大韓民国の中東部に位置する江原道から川崎重工業製鉄所葺合工場に連行されて1943年4月4日から1945年4月3日の2年間を芦屋市打出町で生活した。私は、2001年10月15日、ソウルに隣接したベッドタウンである安養市で、40年前に故郷をでた鄭壽錫さんから聞き取り調査を行った。
その後、聞き取り調査をまとめるために江原道の農業について調べた。雑穀主体の農業しかできない「とても貧農が多い地域」であることが、おぼろげながら理解できた。
私は、鄭壽錫さんから「1週間に2〜3回の軍隊訓練に行かされた。農作業ができなかったので、いっそのこと日本に行こうと思った。」と日本への渡航動機を聞いていた。あくまで鄭壽錫さんの証言は「強制的」でなく自らが「自主的」に応募して川崎重工業製鉄所葺合工場に勤務した気持ちで終始していた。
しかし、当時20歳で結婚したばかりの鄭壽錫さんが「なぜ」故郷を捨てなければならなかったのか、私は鄭壽錫さんの出身地をこの目でたしかめて、「軍隊訓練」が後押しした当時の江原道の状況を知りたいと思うようになっていた。
今回の江原道訪問の目的は、「軍隊訓練」という軍の後押しによる「強制に近い動員(連行)」が本当だったのかを確認するために、鄭壽錫さんが生まれ育った江原道横城郡安興面上安興里(現在は上安里に里名変更)を訪ねた。
[写真1 現在の原州駅舎]
●江原道横城郡への玄関口「原州駅」
2003年9月22日(月)の朝7時35分にソウル市南部バスターミナルを出発した。直通バスは、江原道横城郡への玄関口となる江原道原州市の高速バスターミナルに9時15分に到着した。すぐにタクシーに乗り京慶線「原州駅」へ向かった。
鄭壽錫さんたち一行30人は、1943年4月2日に原州駅から釜山に向けて出発している。
原州駅に向かう途中、タクシードライバーに横城郡安興面までバスで行くと何時間かかるかを尋ねると、乗り換え時間も含めて3〜4時間かかると言われ、夕方までにソウルに戻れないと判断したため安いバスをあきらめてタクシーで行くことに決めた。タクシー車内で朝食を食べようと原州駅舎撮影後に駅前の屋台で「オデン」でも食べようかと屋台を覗くと「トウモロコシ」「ジャガイモ」「サツマイモ」の蒸したものしかなく、選択の余地なく「トウモロコシ」と「サツマイモ」を買い、急いでタクシーに乗った。
[写真2 原州駅にて 釜山に向かう鉄路]
江原道は、雑穀主体の農業だということを改めて屋台メニューで勉強することができた。「トウモロコシ」は一粒一粒の歯ごたえとコシがあり美味しくいただけたが、「サツマイモ」は水っぽくて食べることができなかった。「サツマイモ」が好きな私は、やはり江原道はやせた土地が多いんだなとイモから学んだ。
[写真3 安興面事務所]
●異動していた柳英愛さん
タクシーで走ること25km、35分、30,000ウォンで安興面事務所に午前10時15分に到着した。途中「写真4」にあるような典型的な江原道安興面の農村風景を撮影した。手前に来年にまく種子採取用であるような「トウモロコシ」畑が写っている。
[写真4 安興面の農村風景]
鄭壽錫さん発見につながる本籍地調査に協力していただいた英愛さんに面会を申し入れたところ、3週間前の9月1日付で50km離れた面事務所に異動されていることが判明した。
事前のアポイントを取っていたら特別に旧職場まで駆けつけてくれたのかもと考えても後の祭り、応対に出た面事務所の男性職員は仕事が忙しそうで冷たく、途方に暮れてしまった。
ロビーで安興面内の地図を見つけたので愛想の悪い職員を強引にロビーに引っぱり出して「これと同じをくださいよ」と懇願して、ようやく安興面の詳細地図を手に入れることに成功した。
●パトカーをタクシー代わりに
私は、午後5時にソウルで娘と待ち合わせしている都合から、午後1時にはここを出発しないと間に合わないと考えて、地図を頼りに一人で目的地に行こうと決心した。
急いで安興面事務所を出てバス停に向かいました。時刻表を見ると1時間に1便しかありません。バスをあきらめて停まっていたタクシーを見つけてもいっこうに運転手が戻ってこない。歩いて行くしかない、とあきらめて歩いていると農協のスーパーがあったので、特産品を知るために農産物を見てみた。たしかに豆類を中心とした雑穀しかなかった。買いたかったが、歩いて行くと決めていたので買うのをあきらめた。
歩いているとパトカーが見えてきた。田舎の親切な「おまわりさん」をあてにして派出所の扉をたたいた。私のかなりいい加減な韓国語と地図とを駆使して「ここに行きたい」という説明は、鄭壽錫さんの本籍地が派出所のパソコン画面から確認できた頃から前進した。警察官は、やっと私が鄭壽錫さんの本籍地調査に来たことを理解して信用してくれた。事件が発生していなかったことも幸いし、親切な横城警察署東部地区隊のウォン・スヨン警察官は、私をパトカーに乗せて現地まで案内してくれた。
[写真5 親切な警察官]
●鄭壽錫さんの本籍地に到着
サイレンこそ鳴らさなかったが車上のパトライトを点滅させたパトカーが国道42号線を東に走り、地図上の「上安里」付近まで近づくと路端付近に駐車していたトラックは移動し、住民は不安そうに眺めていた。あとから考えると私を「犯人?」と勘違いしていたのかも知れないことに気づいた。
[写真6 安興里183番地付近を遠望]
安興面は、標高1000mの山に囲まれ、標高500mで国道42号線がほぼ東西を縦断し、国道に沿って山安川が西に向かって流れており、迂回しつづけて流末はソウルの漢江に接続されている。鄭壽錫さんの名簿上の本籍地は、安興面上安興里183番
地にあり、写真の背景となっている山奥に位置してる。鄭壽錫さんの戸籍上の本籍地となっている安興面上安里450番地は、日本から戻って購入した土地で国道42号線に沿って位置している現存しない「上安初校(国民学校)」の近く辺りだと教えてくれた。標高500mに位置している安興面では「平地」と呼べる条件の良い場所に位置していた。
[写真7 安興里450番付近]
●派出所で昼飯までご馳走になる
派出所にもどった後、感謝の気持ちで滋養強壮ドリンク剤「バッカス」を買って持参したら気持ちよく受け取ってくれた。さらにお世話になったお礼にとウォン・スヨン警察官にお昼ご飯をご馳走しようと考えて派出所まで「石焼きピビンバ」の出前を頼んでもらい私が支払うと強引に迫ったが「バッカス」だけで十分だと言い張って「ダメ」の一点張りで、とうとう私がご馳走になってしまった。
●横城郡庁と横城郡名物「トドギ」
横城郡庁の写真撮影を残すのみで、目的を達成して気が緩んだ私は、地元名物でも買って帰ろうと警察官に尋ねると「トドギ(ツルニンジン)」だと言うので、チャーターしてもらったタクシーの運転手に警察官から頼んでもらい、郡庁に向かう途中にある「トドギ直販場」まで案内してもらい買うことにした。
車中、タクシーの運転手に横城郡名物1位は「横城ハヌ(黄牛)」だと教えられていたら突然車窓にの横城ハヌの自然放牧風景
が現れて幸運にも写真におさめることができた。
[写真8 黄城の黄牛放牧風景]
次の写真は、横城郡名物2位となったトドギの「直販場」と「生トドギ」です。
[写真9 トドギ直売場]
[写真10 生トドギ]
横城郡庁は、労務動員の募集場所として川崎重工業製鉄所葺合工場が面接を行った場所である。郡庁3階に日本語の理解できる企画監査室予算係の韓成賢氏が居合わせたので、日本から1940年代の郡庁の写真を求めて来たと説明すると1960年代の生写真を提供してくれた。
[写真11 黄城郡庁]
朝鮮戦争で消失・焼失していて郡庁史編纂に困っている様子で、私に日本でもし終戦前の郡庁の写真が見つかれば是非教えて欲しいと頼まれた。「写真12」の中央が現在の郡庁で、右側建物が旧郡庁と説明を受けた。
郡庁で生写真を手に入れることが出来た私は、今日一日の収穫に気を良くし、ソウル行きのバスが発車するまでの待ち時間に一人で祝杯をあげた。
[写真12 1960年代の生写真]
●江原道は痩せた土地しかない山村
一言でいうなら安興面は「田舎町」だった。段々畑のない一面山林の写真だけを見れば普通の田舎町だが、今でも雑穀主体の農業に変わりがないように見えた。いまだに耕地化できていない山を抱え、特産品は米でなく「横城ハヌ」「トドギ」であり、水利の悪く山間の幅狭い耕地しかない「田舎町」だった。多くの里人を養なう余地がない地勢であることを知った。もし、日本の植民地統治と太平洋戦争が勃発していなければ都市に出稼ぎに行かざるをえないような環境を備えていたのが「江原道」であり「横城郡」であり「安興面」だったといえるのかもしれない。
●「官斡旋の実態」
潜在的に飢えを抱えた1940年代の「江原道」の農民は、食べて生きるための生産活動である農作業を「軍隊訓練」で奪われたのである。いまでも厳しい環境におかれている江原道を見てきた私は、「軍隊訓練」で容易に「労務動員」できたことを直感した。
さらに巧みに計算された「官斡旋の募集時期」は、もともと蓄える食料の少ない貧農にあって食料が底をつく季節である「3月・4月」に集中しており、全13回の内の9回となっている。結果的に全動員数1,398人の内の994人(71%)が、この時期に故郷をあとにしている。
強制的にではなく「自発的に日本に働きに行ったんだ」という「労務動員」された方たちの思いが形成されたのは、この見事というほかない「官斡旋の募集時期」にあったのである。
川崎重工業製鉄所葺合工場に「自発的」に「労務動員」されたと思いこんでいる朝鮮人のほとんどが朝鮮半島北部の山間部に住む20代の貧農出身者であり、5道1府40郡261面にわたり「労務動員」された若者の約8割は、戦後補償が未解決の朝鮮民主主義人民共和国の出身者でもある。
土の付着したトドギ
焼いて調理する前の洗ったトドギ
コチュジャンで和えたトドギ
平田典子
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神戸に連合軍捕虜として移送されたオーストラリア兵の記録「夏は再びやって来る」の著者、ジョン・レインさんの訪問記を書く前に、同氏が一体どのような経歴を経て、連合軍捕虜として神戸に移送されたのかを、まず簡単にご紹介します。
レインさんは、1922年イギリス生まれ。10歳の時に、オーストラリア連邦国の1つの州、「西オーストラリア州」に移り、農業労働者になるためにフェアブリッジ農学校を1938年に卒業しました。時勢の変化とともに、1941年、オーストラリア帝国軍隊の第2連隊第4機関銃大隊に入隊。そして、その翌年1942年2月15日、シンガポール陥落により、10万人にも及ぶ連合軍捕虜の1人となりました。同氏は捕虜になったその直後から、3年半に渡る捕虜生活の経験を日記に残し始めました。「夏は再びやって来る」は、その日記をもとに、捕虜としての悲惨な労働や過酷な取り扱いを受けた経験、日々の屈辱と恐怖の生活の様子などを書いた本です。
第二次世界大戦後1950年にオーストラリア連邦軍に再入隊し、ビクトリア州にある陸軍音楽学校の教師になっています。現在81歳で、西オーストラリア州の州都パースから車で1時間ほど行ったところにある、ピール地域近郊のピンジャラ郊外の静かな、自然に囲まれた住宅地に、ご夫人と2人で静かな日々を過ごされています。
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私が、レインさんと連絡を取り始めたのは、「夏は再びやって来る」の翻訳作業を始めて数ヶ月ほど経った昨年1月頃です。以来、一度も顔を合わせたことがないにもかかわらず、まるで数年来の友人のようにEメールによる連絡を取り合っていました。
20歳という青春の楽しい時期に戦争に向かい、いつ失うかもしれない命を覚悟しながら、捕虜としてのその辛苦に満ちた生活を乗り越えて、無事帰国するまでの同氏の記録を翻訳していくうちに、私は、まるでレインさんの人生の一時期を裏側からずっと追いかけているかのような気持ちになっていました。
また、レインさんもご自分が捕虜として過ごした神戸で、私という、戦争を知らない世代の神戸在住女性が自分の記録を翻訳しているということは、何か因縁めいたものを感じていたようです。
やがて、4月になり、「神戸港を調査する会」が、レインさんを是非神戸に招待し、講演会を開催して当時のご経験を話してもらおう、という計画を立ててくださったのですが、ご本人の持病のために、医者から承諾が降りず、結局その話も消えてしまいました。その時のレインさんの失望はかなりのものでした。神戸という土地を恨むどころか、むしろその場所を再び訪れて、神戸の人々と接し、語ることを心より望んでいました。
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5月になり、偶然仕事の関係もあって、私が西オーストラリア州へ訪問することなり、そのときにようやく、直接会ってお話を伺うことが実現することになりました。
いくらEメールで色んなことをやり取りしていても、実際会うとなると、何か緊張感もあり、また実際どのような方なのかを想像することは、不安を伴った楽しみでもありました。
そして5月18日、レインさんは、ご夫人のロンダさんと2人で私が滞在していたホテルまで、車で迎えに来てくださったのでした。私が少し遅れてロビーに向かうと、いきなり「ノリコ!」と笑顔で呼びかけて下さいました。
ご病気が重いと聞いていたのでしたが、とてもそのような様子はなく、とてもお元気で私もすぐにその笑顔に安心し、車に乗り込むやいなや、色んな話を始めました。
4月に神戸を訪ねることができなかったことが残念でしかたがない、と何度も繰り返し、また、当時の話になると、「ほら、本の中にあっただろう?覚えている?」と言いながら、なぜか楽しそうに、その状況を話すのでした。まさに本と同様、ユーモアと冗談が大好きで、人間味あふれる暖かなお人柄が、そのわずかな間で感じられました。「私は、神戸に移送されてラッキーだったよ。他の仲間達の話を聞くと、同じ日本にいても、全然待遇が違っていた。あれは、『ホリデー』だったね。」とウインクをするのでした。
やがて、車はピンジャラ郊外の静かな住宅地にあるレインさんのご自宅に到着。広い芝生が庭先にあり、オーストラリアらしい広い間取りのお家でした。裏庭には、川が流れていて、自家用の小さいボートに乗ってロンダさんとその川でのんびりと時間を過ごすのだそうです。自然と動物が大好きで、子供時代に過ごしたフェアブリッジの農場で、子供達に農場での生活について、教えたりしているとのことでした。
「神戸港の会」の皆さんからの寄せ書きを見て、1人1人何を書いてあるのか確認をしながら、とても嬉しそうに、うなずいていました。やがて、今度はレインさんに色紙を差し出すと、ロンダさんに代筆をしてもらった後、署名は自分がどうしてもしたいと、神経系統の筋肉の病気のためにほとんど動かなくなった震える手で、「ジョン・レイン」という名前を書かれました。
私が、本の中で意味が不明なところや、状況説明を求めると、昔のアルバムや記録などを取り出してきて、体全体で一生懸命に説明してくれたのでした。それを隣で、ロンダさんが、静かに笑顔を浮かべながら聞いていました。あるとき私の耳元で、「ジョンは、戦争のことをあまり口に出して話さないけれど、心に深い傷を負っているはず。たとえば、日本の捕虜となって死んでいった仲間の取り残された未亡人たちのうちで、未だ日本人を許せないと言っている人もいます。それは、そうでしょう。私は、それは当然だと思いますよ。」とささやかれました。年老いた夫の姿を優しく見つめる夫人の目は、青春時代に経験した夫の辛苦を、深い理解で見守っていることを表しているようでした。
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昼食時になり、レインさんの友人たちも交えて、ご自宅から少しはなれた、川べりの小さなレストランで、太陽の光を浴びながら外のテーブルで、食事を取りました。そのときも、大きなステーキをほおばりながら、ワインを飲んで、おしゃべりに花が咲きました。
現在という「時」を大切に、毎日毎日を堪能しながら日々を送られているレインさんの姿がとても印象的でした。それは、「命」の貴重さを誰よりも知っておられるからでしょうか?
「今でも日本語は少し覚えているよ。数字だってまだしっかりと言えるんだ。」そのとき飼っている犬に向かって「オイ、オイ!コッチ、コイ!コッチダ!」と言って私にウインクをするのです。「ほらね。」といわんばかりに。でも、その日本語は明らかに、レインさんが日本の警備兵たちに命令口調で言われていた言葉だったのです。私は複雑な心境で、苦い笑顔でそのウインクに答えました。60年も経った現在もまだ、言葉がしっかりと記憶されているのです。恐らく徹底的に訓練されていたに違いありません。
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やがて、数時間が過ぎ、別れの時がやってきました。再び私のホテルまで、車で送ってくださいました。最後の挨拶をするとき、「ノリコ、私は必ず『コウベ』に行くよ。そして、『トモダチ』だから、パースに来たら、きっと家へきてくれるね!」「神戸港を調査する会の皆さんには本当によろしく伝えてほしい。」何度も何度も握手をして、別れの時を惜しみました。
レインさんが捕虜として神戸に移送され、いつ帰国できるか、また、実際生きて帰れるかどうかも分からないその不安の中、終戦を迎え、無事帰国してから約60年が経とうとしています。そして今、その神戸の地で、戦争を知らない私が、偶然レインさんの書いた本に出会い、翻訳作業を手がけています。もう一度、レインさんの経験したことを、掘り起こし、ある1人の捕虜が神戸でどのような生活をしていたかを、この先もずっと記録として残されるように。
レインさんのように、日本人に対して、許しの気持ちをもって、友好的な関係を築いて行こうとされる元捕虜の方々は恐らく少ないと思われます。そして、だからこそ、平和な世界を心から願っている同氏の気持ちを、本を通して、伝えていく必要があると思いました。今回の訪問が、私にそのことをしっかりと植え付けたように思います。(2003年11月)
宮内陽子
このところ、社会が急速に危険な方向へと走り出しているように思います。憲法9条なんてあったっけ、戦争放棄なんてチャンチャラおかしい、差別発言を繰り返す知事が堂々の再選を果たす・・・などなど、数え上げれば切りがありません。日本もとうとうここまで落ちて来てしまったか・・・の感があります。
この現況は、しかし予定されていたことなのかもしれません。戦争経験者(被害者はもちろん加害者も含めて)がこの世から去っていく、その時期を待って、リベンジの機会を待っていた勢力が、我が世の春を謳歌し始めたのではないでしょうか。
確かに敗戦直後に捲土重来を願っていた人々自身の間でも、その後の時の流れの中で世帯交代が進んだことは事実です。しかし、その人々の思いは、しっかりと世代を超えて受け継がれていき、今に到っていると言えます。それならば、二度と戦争は嫌だという、被害者、加害者の思いも、受け継がれていって然るべきではないでしょうか。
自分自身は体験していない戦争の歴史を学び、忘れず、被害者、加害者の思いを受け継いでいくこと、戦争を二度と起こさないために、このことほど重要な作業はないでしょう。それを、自分の住んでいる身近な地域からはじめようというのが、今回のブックレット作りの目的でした。たまたま学校の教師をしているという関係上、中学生にも分かるように書いてごらんといわれ、沢山の方々のご協力と、ご教示を仰ぎながらとりあえず粗原稿を仕上げました。あまり専門的になりすぎず、かといって簡単過ぎても言いたいことが伝わらないということで、文章や、文字選びには結構苦労しました。
原稿を作っていく作業の中で、何十年と住んでいながら、自分自身も案外知らなかった神戸の歴史を見直すことが出来たのは、大きな収穫でした。強制連行・強制労働というものを、やはり書物の上でしか捉えられていなかったということにも改めて気づかされました。毎日見ている神戸港で、戦前から戦中にかけて、どんな理不尽なことが行われていたのか、証言の中に出てくる一つ一つの場面を想像することで、捕虜として、あるいは連行されて強制労働に従事させられた人々の思いに少しは近づくことが出来たような気がします。
また、これらの歴史の事実を、大切にし、発掘し、忘れず、記録し、語り伝えようとしている人達がおられるということも、本当に有り難いことだと感じました。高齢でありながら、若い人たちに自分の体験を伝えようと、はるばる海を渡って異国の地へ来られたお年よりたち、偏見、差別を未だに克服できていない日本社会の中で,営々と生活を築き上げ、研究、調査活動を続けておられる在日の方々、高齢のため、訪日をあきらめざるを得ないけれど、遥か日本へと思いを馳せてくださる方、この方々の真摯な思いを、本という形にして世に送り出す仕事に携われたことを幸せに思います。
危険な社会は、歴史を忘れることから作られていきます。戦争の歴史を学べば、後世の人々に二度と同じ思いを味合わせたくないという戦争体験者の思いを、我がこととして追体験することも可能です。その追体験は、必ず戦争への道に歯止めをかけるでしょう。であるからこそ、戦争をしたい人たちは、若い人たちに事実を教えたがりません。いわく「自虐的な歴史を教えるのは,有害だ。」、いわく「事実かどうかわからない,でっち上げだ。」いわく「過去に捕らわれるのではなく,未来志向で行こう。」等など・・・。
「空襲や、原爆のことは習っていたけど、侵略の歴史は知らなかった。」「何となくアジアを蔑視していたのは何故だったんだろう?」・・・。若い日に感じたこのような悔恨を、次の世代の人たちには繰り返させたくはありません。今、国境の壁はますます低くなり、沢山の若者が海外へと出ていきます。そして、沢山の人々が、日本へと移住してきています。こんな時代だからこそ、若い人たちには、様々な国の人たち、様々なルーツを持つ人たちと、過去を踏まえた上で、胸を張って対等な人間関係を築き、友情をはぐくんでいって欲しいと願っています。
今回のこの小冊子の出版が、そのために少しでもお役に立てば、望外の喜びです。
堀内 稔
「神戸港調査する会」の当初からの目的であった「論文集」の発行作業が大詰めを迎えている。さる12月6日、集まった各執筆者の再校をまとめて明石書店に送付した。細かい部分の交渉は残っているものの(飛田事務局長におまかせ)、すでに部数や価格の大枠も決まっており、後は明石書店での最終作業を待つばかりである。どうやら2004年の1月中には日の目を見そうだ。
会が発足した当初、出版部なるものがあった。会の活動に必要なパンフレットの発行や、最終的な活動の総括としての出版などを想定してつくられた部署で、責任者は金英達氏、サブの部員は高木伸夫氏であった。しかし、金英達氏が亡くなられ、後を継ぐはずの高木氏も会の運営委員会から遠のいている。ということで「論文集」発行の編集責任は、必然的にニュース班の私にまわってきた。
2001年の終わりころから、そろそろ「論文集」に取りかかるべきとの話が出て、具体的な作業は2002年から始まった。私が論文集の構成についての案を出し、飛田事務局長が明石書店との交渉にあたった。当初の計画では2002年末の発行などといっていたが、“予定”どおり1年ほど遅れることになった。
「論文集」内容は、これまで発行してきた会のニュース『いかり』がベースになった。すでに書かれたものを手直ししたり若干付け加えるだけだから、執筆者、編集者ともどもそれほど大きな負担にならないだろうと思ったが、いざ構成を考えるとなかなか一筋縄ではいかない。
初めに内容構成の案として出したのは、調査と証言編、研究論文編、資料編、会の活動報告という分け方だった。朝鮮班と中国班はそれぞれ2回ずつ現地調査を行い、強制連行された証人の講演会も行った。関係論文や資料もそこそこある、ということで内容を形態的に分ける案にしたわけだ。
しかし、討議を重ねるうちに朝鮮班、中国班、連合軍捕虜班の活動班別に分けた方が書きやすいということになった。すなわち朝鮮・韓国編、中国編、連合軍捕虜編に分け、それぞれに調査や証言、資料を入れる形である。そこで朝鮮班、中国班、連合軍捕虜班がそれぞれ責任をもって原稿をしあげることになり、編集長としての仕事は、その原稿をとりまとめるだけとさらに楽になった。
朝鮮班は金慶海、梁相鎮、徐根植、孫敏男の各氏で、徐さんが責任者。実際に韓国での調査にあたった孫さんの論文は、パソコンを駆使して連行者名簿を分析したり、高度なCADソフトを使った地図を入れるなど、たいへんな力作である。
中国班は村田壮一氏と安井三吉代表の二人で、村田さんが論文のすべてを再構成、足らない部分も書き足して非常にまとまった形に仕上がった。また安井代表は、新たに寄稿論文として李宗遠氏の「神戸に強制連行された中国人労工の調査と研究」を翻訳、充実した内容となった。
連合軍捕虜班は平田典子さん一人であるが、その内容は、精力的に集めた資料を駆使し、神戸港における連合軍捕虜の実態を初めて明らかにした中身の濃いものである。
最後に、飛田雄一事務局長がこれまで約3年間の会の活動の記録をまとめた。
これらの原稿を、2003年春頃には明石書店に送った。初校があがってくるまでかなりの時間が経過したが、ようやく最初に述べたとおり、大詰めの段階を迎えることとなった。そして書名も、「神戸港強制連行の記録−朝鮮人・中国人そして連合軍捕虜」に決まった。朝鮮人や中国人の強制連行と性格が異なる連合軍捕虜をどう書名に表すかについて苦慮したが、「そして」を入れることにより区別した。ただ、書名については明石書店が営業面を考えて独自のものを出す可能性もあり、これが最終決定ではないかもしれない。
2004年1月31日には、これも近く出版される「副読本」とともに出版記念会を予定している。最初に出版記念会の日取りを確定してから、出版までのスケジュールを決めるという悪しき?習性の観なきにしもあらずだが、ともあれ出版記念会が待ち遠しい。
(12月初めにこの原稿を書いて以降かなりの進捗があり、先日明石書店から、表紙のレイアウトを見てほしいとの連絡があった。12/20)
2002.11.14 第26回運営委員会、
2002.11.17 いかり7号発行
2002.12.12 第27回運営委員会、相生造船中国人強制連行について古川知子さんの特別報告「相生造船所中国人強制連行現地調査報告」(於/神戸学生青年センター、以下特に記載のないときは同所。)
2002.12.14孫敏男、兵庫在日外国人人権協会学習会で講演「川崎重工葺合工場に徴用された鄭さんの現地調査報告」(於/ひょうご国際プラザ)
2003.01.09 第28回運営委員会
2003.02.13 第29回運営委員会(元連合軍捕虜レインさんを招いて4月29日に講演会を開くことを決定。後日、体調が悪くなり中止。)
2003.03.13 第30回運営委員会(論文集、副読本、レインさん手記出版の相談等)
2003.03.17 神戸市と石碑設置について話し合い(安井三吉、金慶海、飛田雄一)
2003.03.23 大阪中国人強制連行追悼と証言を聞く会に運営委員会より溝田参加
2003.03.30 『現代中国研究』12号に安井代表「『記憶』の再生と歴史研究」発表
2003.04.10 第31回運営委員会、梁相鎮「神戸港に軍服を着た朝鮮人港湾労働者がいた−勤務中隊、農耕隊兵士名目 の朝鮮人強制連行」を報告
2003.04.13 韓青連神戸港等フィールドワークを金慶海、飛田が案内
2003.04.27 シンポジウム「神戸の空襲・戦災史をさぐる」(神戸学生青年センター)で神戸港のことなどを報告
2003.05.08 第32回運営委員会
2003.06.12 第33回運営委員会
2003.07.17 神戸市と石碑について話し合い
2003.07.31 第34回運営委員会
2003.09.11 第35回運営委員会
2003.10.04 部落解放研究全国集会のフィールドワークを担当(徐元洙、梁相鎮、飛田)
2003.10.09 第36回運営委員会
2003.10.19 神戸電鉄朝鮮人犠牲者の追悼会および焼肉の会(モニュメント前、烏原貯水池公園)
2003.11.13 第37回運営委員会
2003.12.9〜14 「南京・閉ざされた記憶」神戸展に参加
<論文集>『神戸港強制連行の記録−朝鮮人・中国人そして連合軍捕虜』(明石書店、4725円)&
<副読本>『アジア・太平洋戦争と神戸港―朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜―(仮題)』
(みずのわ出版、1050円)出版記念講演会のお知らせ
●日時 2004年1月31日(土)午後2時
●会場 神戸学生青年センターホール
●プログラム
一人芝居「柳行李(やなぎごうり)の秘密」 朴明子
朝鮮人強制連行と神戸港 金慶海、徐根植、孫敏男
中国人強制連行と神戸港 村田壮一、安井三吉
連合軍捕虜と神戸港 平田典子
<副読本>のこと 宮内陽子
●参加費 500円
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<論文集><副読本>をご購入ください。特価販売いたします。
■論文集(明石書店、4725円) → 3800円(送料210円)
■副読本(みずのわ出版、1050円) → 900円(送料160円)
郵便振替<00920-0-150870 神戸港調査する会>でご送金ください。
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★久しぶりのニュース発行です。昨日から急に寒くなり、神戸でも初雪が降りました。 ニュースでもお知らせしましたが、論文集、小冊子、さらにはレインさんの本の翻訳も順調に進み最終段階を迎えています。風邪などをひかずにがんばりましょう(堀内)
★風邪をひきました。のどがいたいのです。それなりにがんばります。(飛田)
★来年、何とかレインさんが神戸に訪問出来ることを願いつつ。(平田))
★03年はご苦労さん!今年は3冊の本の出版と記念碑を建てておしまい!(金慶海)