青丘文庫月報・137号・99年3月8日
巻頭エッセイ
「朝鮮人移民」とは何か
−河明生『韓人日本移民社会経済史(戦前編)』によせて
坂本 悠一
最近の続々と刊行されている在日朝鮮人史の研究書のなかで、きわめてユニークな題をもつのが、河明生『韓人日本移民社会経済史(戦前編)』(明石書店、1997年)である。「大韓民国」国籍の人々が多数を占めるに至った今日でこそ、「在日韓国人」という用語も珍しくなくなったが、植民地の呼称が「朝鮮」であった戦前期については、「在日朝鮮人」という用語が一般的である。これにもまして注目されることは、彼らを「移民」と呼んだことであり、「社会経済史」と銘打った表題も、類書としては、おそらく初めてのことであろう。在日二世の若い著者は、戦前の「在日韓人」を「自由意志に基づく移民」、すなわち「経済的理由」による「労働移民」と正当に定義し、彼らを「日本経済の構成員」と位置づけている。本書のモチーフをやや独断的に拡大解釈すれば、「植民地支配の宿命のなかで翻弄された哀れな人々」から、「所与の環境のなかでそれなりに知恵を働かして生きたしたたかな人々」への、在日朝鮮人像の転換といってもよいのではないだろうか。
ところで、筆者も最近「福岡県における朝鮮人移民社会の成立」という拙い論稿を発表した(韓国文化研究振興財団『青丘学術論集』第13集、1998年11月)。この「朝鮮人移民社会」というタイトルは、1996年9月の時点で、韓国文化研究振興財団に研究助成を申請した際のもので、河氏の著書名とは期せずして一致したことになる。拙稿については、何人かの方々から感想や批判を頂戴したが、そのなかには、この「移民」という言葉に違和感を覚えるという在日一世や老練な研究者からの意見もあった。確かに、従来の在日朝鮮人は物理的「強制連行」か、さもなくば経済的に「強制」された日本渡航か、どちらかの産物という捉え方が一般的であった。それに加えて、日本における「移民」研究が、日本からの「出移民」の歴史、それもハワイや南北アメリカといった「外国」へのそれを主たる対象とし、日本から植民地への移民や、植民地から日本への「入移民」を視野の中に入れてこなかったという事情もあるだろう。しかし、今日のいわゆる「外国人労働者」問題すなわち「国際労働力移動」をめぐる議論を鳥瞰するとき、日本における「オールド・カマー」外国人労働者である「在日朝鮮人」の存在は、そのほとんどが解放後まもなく帰国したと推定されるいわゆる「強制連行」=戦時労務被動員者を除けば、「国際労働力移動」すなわち「移民」(=migration)という社会現象に包括されることは明白であろう。従来の「在日朝鮮人史」研究は、日朝間の支配・被支配関係の個別特殊性に拘泥するあまり、こうした世界史的に通用する概念を排除してきた結果、その歴史を「差別」「抑圧」と「抵抗」「運動」一色に塗り込めてきたのではないだろうか。この点は、もちろん研究主体側の姿勢だけでなく、「在日朝鮮人」の存在そのものに起因する理由もあると思われる。そのことの本格的な検討は一大テーマに価すると思われるが、河氏の見解との相違を含めて、以下考えているところを仮説的に述べておきたい。
戦前の日本「内地」と植民地間の人的移動=「移民」については、もともと日本の植民地支配そのものの期間が長くても半世紀で終わり、「出移民」については日本の敗戦=「解放」と同時に引き揚げが行われて「還流」が強制されたことによって、長期の社会現象として定着しなかったことが基本的な特徴であろう。しかし、「入移民」側の中国人と朝鮮人については、全員が「還流」せず、朝鮮人にかんしては、戦時労務動員が開始される1939年時点の「移民」者約120万人のうちの半数にあたる60万人程度が、戦後も日本に残留した。河氏は、戦前の「韓人移民」はまだ「永久的移住」ではなく、戦後の残留者によって「韓人移民社会」が形成されたとするが、私見によれば、これら少なくとも約60万人の朝鮮人は、すでに戦時期までには日本「内地」社会に相当程度定着し、「移民社会」を形成していたと思われる(詳しくは拙稿参照)。戦後の大きな変化は、日本が植民地宗主国でなくなったこと、また出身地である朝鮮との通交が遮断され定住を強制されたことである。その結果、朝鮮人は「帝国臣民」という地位からは解放されたものの、特定の本国をもつ「外国人」としての権利も保障されず、その法的地位は米日当局の治安政策によって専決されてきた。その後、日韓条約という片面「講和」によって変化は生じたが、今日の定住外国人としての「在日韓国・朝鮮人」問題の枠組は、この戦後のアジア冷戦体制に規定されたアメリカの占領政策および日米安保体制によって形成された(占領期については、金太基『戦後日本政治と在日朝鮮人問題』勁草書房、1997年参照)。このように考えてくると、植民地期における対日「移民」と戦後=解放後の残留「移民」をおしなべて「在日朝鮮人」として一括することは妥当ではないであろう。拙稿では、広義の「在日朝鮮人」のうち、その原型に相当する戦前の対日「移民」を「日本内地在住朝鮮人」とした。彼らが「移民」である限りにおいて「国際労働力移動」という概念に包括されることはいうまでもないが、それは植民地から宗主国にたいする「帝国内労働力移動」という「国際労働力移動」の一亜種であった(ちなみに、1930年時点における「帝国内労働力移動」の人数は、日本「内地」からの流出約128万人(うち朝鮮へ約53万人)、「内地」への流入約42万人(「うち99%が朝鮮から)に達していた)。この観点からすると、河氏のように、対日朝鮮人「移民」を、「経済的後進地」から「経済的先進地」への「移民」として位置づけ、その規定要因を、「国際労働力移動」理論一般の労働力需給関係や賃金格差だけに求めてよいかどうか、日本側の渡航管理など政策的要因も視野に入れた分析が必要ではないかと思われる。いずれにせよ、「移民」という概念を導入したからといって、ただちに実証的成果が得られるというわけではないが、「在日朝鮮人史」研究に、またそれよりもいっそう立ち遅れている「在朝日本人史」研究にも、こうした世界史的視野にたった比較史的な方法が求められているのではないだろうか。
第177回朝鮮民族運動史研究会(1月17日)
植民地時期の釜山地域における都市と工業地区形成の特性
金 慶 南(京都大学人文科学研究所)
植民地時期における朝鮮の都市拡大過程と「工業化」の進行過程について、釜山地域を中心に検討した。開港期・韓末には東莱が行政・文化の中心地であったが、日帝の勢力拡張によって次第に日本専管居留地を中心とする釜山浦地域が行政・交通の中心地として浮上した。
釜山に定着した日本人は専管居留地を中心に市街地計画をたてたが、それは自然地形によって洞名を付けたり道路線を区分したり程度であった。そして日本人の生活のために食料品工業などの消費財工業が大倉町を中心として、船舶建造工業などが影島を中心として発展した。この時期迫間・大池などは土地闇買と高利貸を通じて土地を確保のため全力を傾けていた。
「韓日併合」以降、1914年に釜山府に釜山鎮・影島を編入し、1925年に伝統的に慶尚道の行政の中心地であった晋州から釜山へ道庁を移転した。それによって新しい都市釜山が作られ、釜山を中心にあらゆる行政体制が変わるようになった。1920年代釜山の工業構造は食料品・紡績・陶器・ゴム工業など、主に労働集約的であると同時に軽工業中心の産業であった。一方、鉄道局の機械器具工業を含む製品を生産するための機械を生産する技術は全面的に日本を始めとする先進諸国に依存する従属構造が深化した。そして工場の設立によって工場労働者が釜山府全体人口の約10%まで増加した。
釜山都市の拡大過程と工業用地の造成過程は埋め立てによるものであった。迫間房太郎・香椎源太郎・米倉清三郎など小数日本人へ富が集中され、彼らが釜山経済を左右した。この過程でこれら資本家は30年代に新しく進出した日本独占資本とある程度対立関係に立つことになった。その中で朝鮮人資本家は殆ど大資本に成長することができなかった。また日本人大資本家の独占的利権に対して、下層日本人を始め朝鮮人の道庁移転反対運動・住宅撤去反対運動・西面釜山府編入反対運動等が発生した。しかしそれは完全に無視された。1930年代になると、釜山は日帝の大陸兵站基地の後方基地として認識され、市街地計画はこの目的を達成するため展開された。これによって、釜山は「南鮮工業地帯」の中心地として確定された。この過程で、釜山鎮と影島に各々工業地区が形成された。
このように、釜山の都市化と工業化は密接な関連を持っていたが、それは朝鮮総督府の大陸兵站基地の政策によって促進されたという特殊性を持っていたのである。そして釜山の工場が埋め立て地に密集していたことと労働集約的産業に集中していたことは、釜山の工場労動者の労働運動、特に労働争議の形態を規定する客観的土台になったと考えられる。
第212回在日朝鮮人運動史研究会(1月17日)
「箕面市外国人市民施策懇話会と箕面市外国人市民アンケートについて」藤井幸之助(略)
青丘文庫研究会のご案内
※会場はいずれも青丘文庫(神戸市立中央図書館内、地図参照)
【研究会の予定】
4月11日(日) 堀内稔(在日)、未定(民族)
【月報巻頭のエッセー】
5月号(林 茂)、6月号(金森 襄作)、7月号(福井 譲)
※前月の20日に原稿をよろしく。
編集後記
飛田 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp
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