青丘文庫月報・136号・99年2月10日

 巻頭エッセイ
京都の東九条「0番地」と「東九条マダン」
金 慶 南  

大学2年生のとき、繊維工場で働いてはじめてお金持ちと貧乏人の差について体験的に知った。そして、歴史の勉強をはじめる。しかし、私の歴史観は井戸の中の蛙と同じだった。京都の東九条「0番地」と「東九条マダン」をみて、私は歴史をどのようにみたらいいのか考えさせられた。
 植民地時期の朝鮮の某国民学校で日本人の教師が小学生たちにした質問をあるお爺さんから聞いたことがある。先生が「日本人と朝鮮人は何が同じで何が違うか?」と質問して、生徒たちは「顔は同じですが、言葉は違います」と答えたという。半世紀後の1998年京都の東九条で「マダン祭」を見た。そこでは 顔も同じで、言葉も同じだった。水野先生と一緒に「マダン祭」に参加して、日本の植民地支配下の朝鮮と現在の日本に住んでいる朝鮮人・韓国人について多くの考えが交差した。
 「東九条マダン」は韓国のどんな「マダン」より大きくて広かった。幼いとき、村で食べた綿菓子もあったし、ノルディギ(朝鮮のシーソー)とゼギチャギ(足でける羽根つき)もそこにあった。朝鮮人・韓国人・日本人が一緒に暮らす姿がそこにあった。しかし、彼らの跳ね回る姿はただ楽しいだけではないように感じた。その理由は何だろうか?
 それは私が東九条の「0番地」をみたからなのか。「0番地」は太平洋戦争前後の時期に朝鮮人が東海道本線などの鉄道工事を従事したことから形成された所だという。人にとって最も大切なことは命であるが、その命を守るために京都駅南部の鴨川沿いにバラックを建てて彼らは困難な生活をはじめた。日差しは人間みなを平等に照らすが、自分の生活条件と意識によって全然違う状況に感じるそうだ。この場所は2〜3年後にはなくなる運命にあるという。私は彼らの歴史といままでの生の重さを感じていつの間にか目頭を濡らしていた。
 しかし、在日朝鮮人・韓国人の未来は「東九条マダン」において見ることが出来たのではないだろうか? クライマックスで、日本の太鼓と朝鮮のチャンゴ・ケンガリ・チンが調和して、祭に参加した日本人と朝鮮人が一緒に踊りながら大きい輪になった。それは壮観だった。「マダン祭」から帰るとき、私は井戸の外へ旅行をしたいと思った。

(※ 2月号発行時に、このエッセーの後半部分が欠けていました。月報3月号で訂正し、3月8日にホームページも訂正しました。/飛田) 

第176回朝鮮民族運動史研究会(12月13日)
植民地期・済州島における「文化運動」とその人員構成
藤永 壯

1920年代初頭、植民地朝鮮では文化・啓蒙活動を通して民族解放に向けての自己努力を強調する実力養成運動=「文化運動」が展開された。済州島においても各地域ごとに多数の青年会が結成され、啓蒙・修養活動を繰り広げたが、そのほかにも「文化運動」を志向する社会運動団体が組織されていた。本報告では、1920年代前半に組織された済州島の「文化運動」団体とその構成員の動向を主たる分析の対象とし、この運動が内在していた社会改革的志向と民族改良主義的志向を意識的に抽出することで、植民地期における済州島社会の状況を復元しようと試みた。
 地域有力者を中心とする「文化運動」の改良主義的性格は、その内部に批判勢力を胚胎させ、1920年代半ば以降は、この批判勢力を中心に形成された青年社会主義者の一団が、済州島の民族解放運動をリードする存在となった。しかし「文化運動」は社会主義運動だけに収斂されたわけではなく、植民地権力と関係を結んだ実業家や改良主義的範疇にとどまった青年会も存在し、これ以外にも植民地権力に非妥協的な立場をとる民族主義者も相当数いたものと思われる。植民地期・済州島の民族解放運動は社会主義者を中核勢力としつつも、その周囲には、それぞれの思惑で行動していた民族主義者や一般大衆の存在があり、地域社会の中で深刻な階級対立やイデオロギー対立が発生しなかったところに、その特徴があったと言える。
 なお本報告の内容は、論文「植民地期・済州島の実力養成運動団体とその人員構成―1920年代を中心に―」として、本年6月発行の『大阪産業大学論集 社会科学編』第112号に掲載する予定である。 

第211回在日朝鮮人運動史研究会(12月13日)
「日本人が見た戦時下の朝鮮人強制連行視察記」をめぐって 横山篤夫

「大阪・尼崎・神戸で訪れた幾つかの大工場はすべてみな巨大な製鋼工場だつた。‥‥この数多い製鋼工場の何処にも、若い半島工員達が内地人工員と肩を並べて一生懸命に働いてゐた。」という書き出しで始まる視察記は、1944年5 〜 6月頃書かれた文章である。筆者は当時の京城帝大教授で、戦後東大教授、武蔵大学長を歴任した鈴木武雄である。朝鮮人強制連行が官斡旋から国民徴用令による徴用に移行する時期に「近畿の工場に敢闘 する半島産業戦士達を訪ねて」という標題で『金融組合』1949年8月号に発表している。同誌は、朝鮮総督府の朝鮮農村に対する植民地政策の一翼を担った朝鮮金融組合の機関誌である。
 従来、朝鮮人強制連行については、炭坑や鉱山を中心にその実態が明らかにされて来た。一方、都市の重工業分野については、その解明の必要は指摘されながらも余り手がつけられてこなかった。1990年秋に結成された大阪府朝鮮人強制連行真相調査団の調査活動に参加して以来、大阪南部を中心に地元の歴史の掘り起こしを進めてきた。そして当時の商工都市大阪の、全体の中で強制連行の状況を知る手ががりを探していた。その中で一連の知事引継書が公開され、1944年度の「集団移入労務者数13,258人」という大阪府の地方長官会議資料を入手し、『朝鮮人強制連行調査の記録/大阪編』(柏書房・1993年)に収録することができた。
 しかし具体的な工場での様子は、今一つ明らかではない。そこで上記の視察記の存在を知り史料として公表したいと考えた。この視察記は、朝鮮総督府によって当時組織された国民総力朝鮮聯盟が、総力戦に協力する朝鮮の姿を「内地」に紹介し、併せて強制連行された朝鮮人を「慰問激励」する等の目的で、各界の30人を派遣した帰還報告の一つとして書かれたものである。従って厳密な史料批判が必要な文献である。しかし一定の事実を反映していなければ説得力を持ち得ないこと、論説ではなく「視察記」であることから見えてくる部分がある。これ等のことを史料紹介として付け加えて『在日朝鮮人史研究』28号に公表する機会を得たが、その概要を報告した。また、同時に『金融組合』に掲載された視察記の高松@修「四国への旅」(愛媛県内子町の昭和鉱業大久喜鉱山と推定される)と、丸岡明「河鹿記」(九州の炭坑と高崎・仙台・宇都宮の陸軍部隊の学徒兵、栃木県下の平安南道からの農業報国青年隊訪問記)や、他に派遣された人々のレポートも検討・公表される必要があるのではないかと問題提起した。
 討議では、この視察記で紹介された朝鮮総督府の肝入りで派遣された人々の動向は神戸新聞には詳しく紹介されているし、他の新聞もあたってみる必要があること、国民総力朝鮮聯盟の機関誌も調べて派遣された30人の全体像をみる必要があること、執筆陣の人物像についてはもう少し丁寧な調査・分析がいる等々のご指摘を頂いた。
 (史料紹介文は関大教授岡村達雄氏と共同で作成したが、横山の責任で報告したものである)

在日朝鮮人史研究28号<朴慶植先生追悼号>(1998年12月)目次

朴慶植先生追悼号号の刊行にあたって 山田 昭次
朴慶植先生年譜
朴慶植先生を追悼する祭文 崔碩義
朴慶植先生の在日朝鮮人史研究について 山田 昭次
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一九二〇年代後半の在日朝鮮人の民族解放運動 金 仁徳
京都時代の尹東柱−南炳意さんに聞く 林 茂
植民地支配下の朝鮮人強制連行・強制労働とは何か−「強制」の性格を改めて問う−山田昭次
解放後初期の在日朝鮮人組織と朝連の教科書編纂事業 魚 塘
営まれる共同性−日本で生まれた済州人の親睦会 伊地知 紀子
資料紹介@ 戦時下の日本人が報じた朝鮮人強制連行の視察記 岡村達雄/横山篤夫
資料紹介A 日韓会談での朝鮮人軍人・軍属・被徴用労働者に関する論議
  −韓国外務郎政務局編発行「第六次韓日会談会諌録(U)」(一九六大年刊)の「一般請求権小委員会」の「被徴用者等閑係専門委員会」(一九六二年二月) 金英達
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「追悼・朴慶植先生」
伊地知紀子/岡本真希子/金森襄作/北原道子/金廣烈/金富子/金 浩/金 栄/木村 健二/倉橋葉子/小林知子/高柳俊男/外材大/長澤秀/樋口雄一/飛田雄一/堀内稔/水野直樹/三田内登美子/岸田由美/ドナルド・スミス
会の記録(1997.9〜1998.7) A5、200頁、2400円

※ 特価 2000円(送料共)。郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>でご送金下さい。

青丘文庫研究会のご案内

第178回朝鮮民族運動史研究会
1999年2月14日(日)午後3時
報告者 安準模
テーマ 「 『日韓合同授業研究会』のとりくみ」

第213回在日朝鮮人運動史研究会会
2月14日(日)午後1時
報告者 金慶海
テーマ 「横山レポート(98.12、本月報参照)への新聞記事による補足」

※会場はいずれも青丘文庫(神戸市立中央図書館内、地図参照) 

【研究会の予定】
3月14日(日)福井譲(在日)、李景a(民族)
【月報巻頭のエッセー】
3月号(藤永)、4月号(坂本)、5月号(林茂)、6月号(金森)、7月号(福井譲)
※前月の20日に原稿をよろしく。

編集後記

青丘文庫学生センター