青丘文庫月報128号(1998年4月1日)

第203回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会例会(98年3月15日)

石碑・石塔・石像が語る在日朝鮮人史・日朝関係史

――関西における石造史跡の探訪・調査のあれこれ    金 英 達

 

 「金石文」史料は、古代・中世史研究において貴重なものであるが、近代の在日朝鮮人史研究においても、同時代史料として価値が高いものである。特に、石造物は重量感があり、歴史を可視し触感できるので、フィールドワーク(現地学習)のスポットとして利用できるのがよい。

 一昨年から、いくつかの大学で「人権論」(民族問題、在日外国人問題)の講義を担当するようになったので、受講生とともに在日朝鮮人史・日朝関係史を実地学習する候補地を関西近辺で探すようになった。

 そこで、石造史跡に限定して、石碑・石塔・石像の探訪記録を報告した。歴史的人物の墓地巡りも魅力的なものだが、関東の某グループのようにのめり込んでしまいそうなので、今回は意識的に除外した。

 まず、解放前に建立された朝鮮人の名前が刻まれている工事犠牲者の慰霊碑の調査リストを紹介した。兵庫朝鮮関係研究会の徐根植氏が作成した13ケ所の一覧表である。ここで、横山篤夫氏から大阪府和泉市の光明池の慰霊碑について指摘があったので、第14番目のスポットとして、近々現地見学に行ってみようと思う。

 次いで、大阪市城東区の京橋駅近くの「鬼城繁太郎氏永世不忘碑」(1928年建立)を紹介した。玉井硝子製造所の朝鮮人職工が立てた工場主の顕彰碑で、現在も工場街の一角に現存している。そして、この碑についての新聞報道記事を調査する過程で、吹田市(大阪府三島郡吹田町)の晒工場の工場主顕彰記念碑、大阪の四天王寺境内の「内鮮無縁墓塔」(どちらも同年建立)というものがあることが分かり、現在その所在について問い合わせ調査中である。いずれも、当時の“内鮮融和”運動との関連がうかがわれる。

 さらに、高野山奥の院の島津藩建立の「朝鮮陣敵味方供養碑」(1599年)はよく知られているが、斎藤実文書によると、この碑が日本人の博愛を証明するものとして、日本が国際赤十字に加入するときに有力な資料となったとされている。この点を調べてみたいものだと話し合った。

 兵庫県猪名川町は、朝鮮総督府政務総監・下岡忠治や大物植民者・富田儀作らの出身地であるが、その町立文化施設「静思館」には、虎の石像があり、朝鮮の陵墓の石羊、望柱石がある。また、安養寺の本堂には朝鮮の宮廷で使用されていたものと思われる直径1m80pの巨大な太鼓がある。はたして本物かどうか、現地調査に同行していただいた京都の高麗博物館の金巴望研究員が調査鑑定中である。

そのほか、淡路島の西淡町江尻の江善寺の「高麗陣打死衆供養碑」、高砂市の十輪寺の「九十六人溺死霊供養塔」、大阪市鶴見区の花博記念公園(鶴見緑地公園)の韓国庭園前の石像群(芦屋市東山町の山本清雄邸にあった石像品)、京都市右京区嵐山の「湯豆腐 嵯峨野」の前庭に並ぶ石人群、京都市北区紫野の大徳寺の総見院の「朝鮮石の彫り抜き井筒」などを紹介し、結論のない談義をワイワイガヤガヤとした。

 

第167回 朝鮮民族運動史研究会例会(98年1月25日)

解放直後の延辺(1945年8〜12月) 金森 襄作

 

ソ連軍歓迎デモ最中の朝鮮群衆に中国人が「お前ら朝鮮人は日本人と同じだ‥‥ 自分の国に帰れ」と叫んだように、「満州国」滅亡は「新日本人」であった在満朝鮮人にとっても存亡の危機でもあった。しかし、ソ連軍は彼等を被圧迫民族、かつ「満州」地域に少数民族として止まることを認めた。そして占領軍と民衆との連係、あるいは軍政に友好的な民衆団体の組織化をを容易にすべく、ソ連に避難していた旧中共東北抗日連軍(周保中)を派達した。彼等は各地の警備指令部に所属(副司令)させ、強力な権限を付与したが、朝鮮人多住地域、延辺には康信泰(大尉)朴洛権ら朝鮮人幹部5名を9月派遣した。

解放直後の延辺は極度に治安が乱れ、龍井や延吉では池喜謙、崔時命ら青年が自主的に武装団や青年団を組織し始めていたが、来延した康は彼等先進的活動家約10名を即時入党させ、党組織「中共延辺委員会」(10/20)と軍組織「延辺保安団」(10/9、彼の警備領)を作った。そして分散的大衆団体を「延辺労農青年婦女同盟」に統合(9/19)し、それを「人民民主同盟」へと拡大発展させ(10/20)、これを基盤にして地方政権を樹立する活動に全力を傾けていった。この方策は延辺朝鮮人にとって移住権・土地所有権のみならず、軍事権・参政権参与をも漢族同等に与えられることを意味し、多くの朝鮮人が非常に積極的に参加し、「満州」で一番早く11月20日、民主的地方政権樹立のはこびとなった。その5日前、中共本部は直接老幹部を延辺に派遣したため、「延辺地方委員会」「行政独察専門署」のトップの座には老幹部を据えたが、この地方政権の性格は後の1952年成立の民族自治区と大差ない民族的性格のものとなった。閔選庭「朝鮮民族は政治・経済・文化の面で発展的権利を享受され‥‥民族の言語・文字・風俗・宗教・信仰の面で享受される」(新年辞)

勿論、当時民族自治区という問題意識はなく、一般的な民族平等原則から樹立された政府ではあったが、朝鮮人多住地域、しかも抗日連軍の朝鮮人幹部指導下に党・軍・大衆団体・新地方政権幹部のほとんど全員が在延朝鮮人によって占められた当然の結果であったといえる。

この政権は1946年、「土匪殲滅作戦」と同時に、中共本部司令より1年早く第一次土地改革を行っていくが、延辺系中共幹部と抗日連軍系(在延新幹部も含む)との連係のもと、実質的には後者主導で行われていく。

 

神戸学生青年センター出版部の新刊案内

韓国基督教歴史研究所編著・信長正義訳

3・1独立運動と堤岩里教会事件 予価1800円

 

 

 

 

第169回 朝鮮民族運動史研究会例会(98年3月15日)

ハワイ時代の李承晩 李景a

 

李承晩は、1910年10月に米国で留学生活を終えてほぼ6年ぶりにソウルに戻った。そして彼はYMCAの幹事として教育と伝道活動を行うようになったが、それは祖国での初めての仕事であった。

ところが1912年3月、李承晩は日韓併合後の重苦しい雰囲気につつまれた国内情勢を後にして二度目の出国をした。米国のミニアポリスで開催される世界メソジスト教会大会に朝鮮教会の代表として参加するためであったが、李承晩はその後米国に留まるようになり1945年10月に祖国に戻るまで、じつに33年間を海外で過ごすことになる。その間李承晩は、主としてハワイに滞在したが、彼がホノルルを完全に離れて米国本土のワシントンに移っていったのは、太平洋戦争が近づく1939年3月であった。

報告のねらいは、李承晩の人物像を究明する上で欠かせないハワイ時代の彼の軌跡を明らかにするところにある。しかし資料などの制約があり、本日はハワイの同胞社会の形成過程および李承晩の初期活動を朴容万との関係で捉えてみたいと思う。

メソジスト教会大会の終了後、李承晩はアメリカ各地を放浪した後、翌年の2月友人の朴容万の招きによってホノルルに到着し、以後ハワイの同胞社会を中心に民族運動を展開した。彼は米国政府に対して朝鮮独立を請願する、穏健・慎重な姿勢をとっており、外交優先主義を唱えただけに独立運動の手段として武力を行使する行動を厳しく非難した。

例えば、李承晩はスチブンソンを暗殺した張仁煥、田明雲に対して、また安重根に対しては「一国の名誉を傷つけた犯罪的暗殺者」と糾弾したし、軍事的に日本に対抗するのは夢に他ならないと主張した。彼はハワイ在留の約5000人の同胞社会においてキリスト教的教育を行うことに、また伝道師としては極めて熱心であったが、1919年以前に彼が能動的に行った独立運動は殆ど見当たらないのである。

当初、李承晩はメソジスト教会付属朝鮮人中央学院長の職につき、同時に月刊『太平洋雑誌』を発刊するなど「文治派」首領を以て自ら任じ、武断派の首領たる朴容万主管たる武官学校を攻撃したし(朝鮮統治史料第7巻 p.953)、さらに独立軍団の維持費問題などで国民会の首脳陣を追い詰めては、1916年同組織を改革すると主張しては「乗っ取る」ことに成功した。 李承晩は、国民会は言論や軍事訓練だけでなく教育にも投資するべきだと主張しては国民会所有の土地を売買して、学校経営に援助することを要求した。そしてついに土地の名義人となる国民会を掌握し国民会の財政を乱用するに至ったが、李承晩に対抗する指導者は存在しなかった。

朴容万は、李承晩の唯一のライバルであった。彼は1877年7月江原道鉄原に生まれ、官立日本語学校で学び、日本留学性として東京で中等教育を受けては帰国して「万民共同会」で活躍した。そして逮捕された朴は、獄中で李承晩に出会い、それから二人は意気投合し「義兄弟」の契りを結んだのである。1905年渡米した朴は、Colorado Preparatory Schoolを経てネブラスカ州立大学を卒業(政治学専攻)した。また朴は在学中(1908-12年)に同州のKearney,Hastingsに朝鮮人「少年兵学校」を設置し、運営したことで知られる。朴は北米地方国民会総会の機関紙『新韓民報』の主筆などを歴任したし、1910年代の在米朝鮮人社会でもっとも活動した人物であった。だが、朴はハワイにおける李承晩との熾烈な暗闘が原因で、結局形勢不利な状態に陥りハワイを離れて1919年以後中国に活躍の場を求めていったのである。彼は屯田兵式の軍の養成を主張するなど急進派の指導者であったが、1928年北京で同胞に暗殺されてしまった。

 

青丘文庫研究会のご案内

第204回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 

98年4月12日(日)午後3時

報告者 飛田 雄一

テーマ「神戸市立外国人墓地に眠る2人の宣教師―W.B.スクラントン、L.L.ヤング―」

 

第170回 朝鮮民族運動史研究会

98年4月12日(日)午後1時

報告者 廣岡浄進

テーマ 「在満朝鮮人民会と朝鮮人民団設立運動」(仮題)

 

※ 会場は、神戸市立中央図書館

(078-371-3351、地図参照)

 

巻頭エッセー担当

5月号(堀内稔) 6月号(藤永壮) 7月号(水野直樹)8月号(休刊)

9月号(坂本悠一) 10月号(横山篤夫) 11月号(浅井良純)

12月号(藤井たけし) ※締め切りはそれぞれ前月の20日です。よろしく。

 

編集後記

月より研究会は新年度に入ります。希望されていた方には新しい「青丘文庫研究会会員証」を4月の研究会の時にお渡しします。休まれた方には5月の月報といっしょに送ります。昨年度は、蔵田雅彦さん、韓皙曦さん、朴慶植さんが亡くなられた寂しい年度でしたが、今年度はいい年度になることを願っています。

丘文庫月報の年間購読料は、3000円です。送金がまだの方は、表題のところにある郵便振替にお送り下さい。また、見本誌を適宜お送りしていますので送付希望者があればご連絡ください。

研究会は原則的に第2日曜日に開いています。開かれた研究会ですので奮ってご参加ください。

(編集長/飛田 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp

 

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