====================================================================== 青丘文庫月報 2005年3月1日 PDFファイル版 図書室 〒650-0017 神戸市中央区楠町7-2-1 神戸市立中央図書館内 TEL 078-371-3351相談専用TEL 078-341-6737 編集人 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内 飛田雄一 TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円 ※ 他に、青丘文庫図書購入費として2000円/年をお願いします。 ホームページ
http://www.ksyc.jp/sb/ e-mail hida@ksyc.jp ====================================================================== ●青丘文庫研究会のご案内● ■第269回在日朝鮮人運動史研究会関西部会 3月13日(日)午後1時〜3時 「『韓国併合』前後期から1920年代の滋賀県における朝鮮人」稲継靖之 ■第230回朝鮮近現代史研究会 3月13日(日)午後3時〜5時 「米ソ共同委員会と李承晩」 李景a(ミン) ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫 ●巻頭エッセー 西宮市史・資料編の編纂に携わって 松田利彦 昨年(2004年)の末に、西宮市現代史編集委員会編『西宮現代史』第3巻(資料編―社会・教育・経済分野)が刊行された。この10年間ほど編集専門委員の一人として関わってきた西宮市史編纂事業のなかで、私の関わった分野としては一応はじめて本として上梓された成果である(第2巻は既刊なるもこちらには関わっていない)。阪神間の各自治体では、高度成長期に自治体史の編纂がおこなわれ、西宮市の場合も1960年代後半に『西宮市史』が刊行された。バブル経済がはじけ高度成長期も過去の歴史となった今、これらの地域ではふたたび自治体史編纂の動きが進められており、『西宮現代史』の場合はその先駆けになるものだと聞いている。 今回刊行された『西宮現代史』第3巻は資料編であり、自分で執筆した部分はほとんどないのだが、それでも私にとっては「現代史」に向き合うことの難しさを教えられた仕事だった。私の担当したのは在日外国人(主には在日韓国・朝鮮人)関係と同和問題関係であった。前者については、1948年に創立された阪神朝鮮初級学校(創立当時は朝聯阪神初等学院)をはじめ在日のコミュニティーが地域に形成されており、また後者については、1973年9月から2ヶ月あまり部落解放同盟が市の同和事業方針を問題として西宮市役所を占拠するという有名な事件があるため、いずれも重要な問題だった。 資料の収集は、少なくとも私の「本業」(植民地期朝鮮の支配政策史研究)に比べるとむしろ容易だったと思う。市史編集専門委員という立場上、行政側の資料にはほぼ自由にアクセスできたし、民間側でも協力して下さったところが多かった。ただ、集めた資料を市史として刊行する段階では大変気をつかうことになった。阪神朝鮮学校関係資料は大部集めたのだが、同校が2001年に統廃合されたため一部の貴重な資料は掲載許可が下りなかった。また、同和関係については、当時対立関係にあった諸団体には今もしこりがあり、バランスよく各団体の資料を配列すること自体難題だったこと、実名や地名をどの程度出すかについても細心の注意を求められたことがあげられる。資料編の私の担当箇所には(もちろん新発見の貴重な資料も多々含まれているのだが)、一見平凡な新聞記事が載せてあるだけ、という箇所もある。大抵は上記のような事情による苦渋の選択の結果である。 この仕事を始めた当初は、西宮在住の故・鄭鴻永さんをはじめ青丘文庫の研究会のメンバーからも、市史編纂事業について注文兼苦情兼要望の声を受けたが、そのような方々から見ると出来上がったものが満足すべき水準には届いていないかも知れない、という自覚はある。言い訳めくが、それでも市史として在日や同和問題について何も触れないという事態だけは避けたく、市史としてこれらの問題を取りあげたということ自体に意味を見いだしていただければと思うばかりである。 今回の資料編の刊行に続き、現在は本文編の刊行を準備している。普通の学術論文を書くのとはまた違った荷の重さを改めて感じている。 ●第267回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2005.1.9) 「1934年、『内鮮融和』の本格化と日本人・朝鮮人の対応の一例 〜高級住宅街・東豊中住宅開発の朝鮮人労働者をめぐって〜」 塚ア昌之 1932年、大阪屈指の高級住宅街、東豊中住宅の建設が始まった。六甲山を西に眺望できる風光明媚な丘陵地である。その建設には家族を含めて700人にも及ぶ朝鮮人たちが当り、現場付近にバラックを建て、居住した。山の切り崩しという危険な作業があるため、事故が頻発し、4人の朝鮮人労働者が死亡した。 この北摂地域はそれまで朝鮮人が少なかった地域であったが、この直後から、隣町の岡町内鮮共済会をはじめとした朝鮮人「融和団体」が付近の町村で次々と結成されていった。中には、日本労働総同盟大阪合同労働組合池田支部のように朝鮮人親睦団体から労働組合に発展していったものもあった。 1934年、大阪府で行政主導の「内鮮融和」が本格的に検討され始めた頃、東豊中の朝鮮人集落に関する抗争・犯罪・不衛生という問題が度々、報道された。「恐ろしい」、「汚い」=「厄介者」の朝鮮人のイメージが形成され、地元の熊野田村当局も立退きを要求するようになる。朝鮮人しか行わない低賃金で危険な労働であり、なおかつ、彼等に良好な住宅を与えていないことなどは全く問題にされなかった。 しかし、突然、この朝鮮人集落への評価が一変する事件がおこる。土木労働者の元締めで、村長格の李成浮フ家に、父親が病人で生活に困窮した日本人家族が養われ、集落の人々も様々に面倒を見ている美談が報道されたのである。その結果、岡町内鮮共済会がこの朝鮮人たちに対して豚小屋に隣接する河川敷の府有地を利用して、「美しい」アパートを提供しようということになった。府有地の借主は豊中町の収入役であり、この河川敷や堤防上には他の小屋も存在していた。地域の区長の了解も得て、会員(多くは朝鮮人)の労力提供で順調に工事も始まった。 ところが、対岸の日本人住人たちが建築地は河川堤防地として建物は許されないし、水防上からも危険が多いと建設反対運動を起こした。ついで、建設地側の住民も同調して運動を起こした。対岸の村にも「内鮮融和」団体は存在していた。岡町内鮮共済会は建設続行を主張したが、府河港課が不許可を決定、撤去が通達された。岡町内鮮共済会は、豊中町長・収入役・町議らに働きかけ、代替地を選定・提供するように奔走したが、結局、府有地の借主、つまり、豊中町収入役から内鮮共済会に金一封を提供することで中止になった。豚小屋は許されても、朝鮮人の居住は許されなかったのである。 この美談が生まれた4月に第三期工事が終了したが、すぐに開始されるはずの第四期工事の着工は延び延びになっていた。そして、アパート問題が挫折した直後の7月中旬に、半年間の工事延期が朝鮮人労働者に伝えられた。朝鮮人たちは、直ちに日本労働総同盟大阪合同労働組合池田支部の支援の下に、争議を開始し、工事を請け負っている中井組の工事現場事務所に押しかけた。岡町署によって、数名が検束された。 結局、この争議は総同盟全体の支援を受けた様子もなく、「円満」解決と伝えられながらも、労働者の敗北で終わっていく。彼等は日本人からの差別にも敗れ、労働争議にも敗れたわけである。そして、その4ヵ月後の11月、李成浮轤フ行き着いた先は、「融和会」を組織することであった。窃盗などする一部の不良な者の行動を戒め、生活の向上を目指すというのが、結成理由であった。「恐ろしい」、「汚い」朝鮮人から脱却し、日本人に「好かれる」朝鮮人になろうという下からの「自主的」な「融和」運動であった。 翌1935年2月、日本人の豊中町議らが乗り出し、周辺町村の朝鮮人200名で「内鮮国防同志会」が結成された。おそらく、李成浮燻Q加したことであろう。会の目的は、「融和会」と同じように融和・人格向上・生活改善があげられたが、さらにその上に、「皇道精神」が付け加えられた。「日本国民」でありながら、兵役免除の朝鮮人は、その分、「皇道精神」を身につけ、日本のために尽くせというのであった。朝鮮人の「自主的」な「融和」の動きを日本人が上から利用し、日本人側からの「融和」を押し付けたのである。 これらの動きは、1934年に発足し、後の協和会に発展していく「大阪府内鮮融和事業調査会」が朝鮮人同化政策を掲げていくことと、軌を一にして起こっていった。下からの「融和」と上からの「融和」、両者の動きが一体化する中で、「内鮮融和」が本格化していくのである。 ●第267回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2004.12.19) 「神戸市長田区湊川大橋「朝鮮人部落」の形成から撤去まで,そしてその後」 本岡拓哉(大阪市立大学大学院前期博士課程) 「高架線にそって東へ,ぬかるみ道をたどってゆくと,やがてバラックの大群が行く手をふさぐ。このあたり,高架線両側の道路予定地と新湊川両岸をうずめる数百のバラックは,空襲被災者の仮住居の名残りではない。ここがこのような姿になったのは,昭和二十四,五年以後のことである。新湊川にかかる湊川大橋にたつと,床を半間から一間も川の上にはみださせたバラックが,延々とつづく壮観をみることができる。神戸市民はこのバラック街を「大橋の朝鮮人部落」と呼んでいる。」(下中邦彦編『日本残酷物語 現代編1』より抜粋)
本発表では神戸市長田区の湊川大橋周辺に広がっていたバラック住宅地区の形成から撤去,そしてその後の居住者の動向について報告した。 戦前からこの地区には,住宅差別を受けて住む所のない朝鮮人たちがバラック住宅を構えていたようであるが,戦後の慢性的な住宅難の中,奄美出身者をはじめ様々な場所からの出身者が寄り集まった。昭和35年時点で約300戸,500世帯,1,500人が居住する神戸市最大規模のバラック住宅地区が形成されていた。 この地区は新湊川沿いの市有地の上に立地していた。そのためこの地区上にあるバラック住宅は「不法占拠=区画整理事業上の障害物」であり,さらには建築基準法違反や衛生的な問題なども重なって,撤去対象となった。そこでの撤去の方法を確認すれば,神戸市は代執行で強制撤去させるのではなく,移転補償費を巡って個人交渉を進める方法に出た。そのため居住権を盾に抵抗しようとする住民運動は骨抜きとなり,団体交渉として機能しなかったのである。阪神高速湊川ランプが完成する昭和45年までにこの地区の住宅はほとんど撤去された。 撤去後,立退き民はいかに住まいを獲得したかを確認すれば,たしかに公営住宅を斡旋された者もいたが,多くは自らの貯蓄と市からのおよそ10〜20万円の移転補償費を元手に,近隣の低家賃住宅に吸収されたようである。昭和45年頃から神戸市のインナーシティでは空洞化現象が見られるが,そこで空室となった借家が立退き民たちの受皿になったと捉えられる。また,朝鮮人については北朝鮮へ帰国した者も多かったと聞くが,データとしての実証性に乏しくここでは指摘のみに留めておく。いずれにせよ,立退き民は住宅政策のフォローアップを受けることはなく,自助努力に任されたのであった。 これまで戦後の都市形成において,バラック住宅地区は都市計画上の撤去対象と見なされてきた。本発表では居住者の立場に立つことで,神戸市の住宅政策が「居住の権利」を軽視してきたことを確認できた。今後は,この地区を「生きられた空間」としてより明確に描くことで,戦後神戸の都市形成に対するオルタナティブな視点を提示していきたい。 【今後の研究会の予定】 4月10日、在日・西秀成、近現代史・ソ・ジヨン、5月14日、6月12日、 ※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。
【月報の巻頭エッセーの予定】 2005年4月号以降は、文貞愛、森川展昭、山田寛人、横山篤夫、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。 <編集後記> ★ ここ2、3日急に暖かくなってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私の職場の神戸学生青年センターは、恒例の六甲奨学基金古本市が始まりますが、本の整理におおわらわというところです。3月15日から5月15日まで開催します。是非、お越しください。掘り出しものもあります。 ★ さて月報年間購読料の更新の時期になりました。郵送で月報を受け取っておられる方は年間購読料3000円を郵便振替でご送金ください。メールニュースは無料です。「青丘文庫研究会会員証」を希望される方は、学生会員を例外としてこの購読料をお支払いください。また図書購入募金として2000円を有志の方にお願いしています。こちらの方もよろしくお願いします。 ★ 在日朝鮮人運動史研究会のメンバーは2005年度(05.4月〜06.3月)会費5000円をお願いします。会員の方には毎年秋に発行する『在日朝鮮人史研究』を3冊さしあげます。 ★ 花粉症の季節です。私も昨年から目が痛くなってきています。みなさま、気をつけてどうなるものか分かりませんが、気をつけましょう。飛田雄一hida@ksyc.jp |