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青丘文庫月報・185号・2004月2月1日
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●青丘文庫研究会のご案内●
第258回在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2月8日(日)午後3時〜5時
「大阪府堺市と和泉市び境界に位置する光明池築造」 三宅美千子
第224回朝鮮近現代史研究会
2月8日(日)午後1時〜3時 「中国の朝鮮族の海外進出(仮題)」 崔 海 仙
「古代シルクロードと朝鮮」(雄山閣)を上梓して 張 允 植
2004年2月7日、出版を祝う会での著者と奥様。
私は1995年9月から5年間、延べ160余日を5回にわたって、西域シルクロード旅をした。そのときの踏査・体験と調査、研究によって生まれたのが本書である。その中から新たな発見の幾つかの例を紹介したい。「シルクロード」という言葉が使われ始めたのは19世紀末で意外と新しい。いわゆる「絹」の道である。そのシルクロードのシルが朝鮮語であることを知り、それこそ、目から鱗が落ちたのだが、スウェーデンの地理学者で探検家のヘディンが、彼の著書「シルクロード」で指摘したように絹を意味するラテン語は朝鮮語のシルから来ており、なおラテン語のセリカム=シルカムは、ヘディンも知らなかったようだが、これも「絹・糸」を意味する朝鮮語である。このことはシル、シルカムという朝鮮語が外来語としてラテン語に定着していたことを意味する。新羅の絹がラクダの隊商や海のシルクロードを通じて1万キロに及ぶ路程の果てに、ローマに運び継がれていた事実は、絹(シルク)を媒介として古代朝・中の東西文化交流・交易が、いかに旺盛であったかを窺い知ることができ、その壮大なロマンに掻き立てられた。朝鮮の三国時代にそれぞれの国で絹生産が活発に行われたが、そのなかでも新羅の絹が最も優れていて、ローマ貴族に大変人気があった。とくに朝霞(あさか)錦(にしき)は周辺の国々の国王をはじめとする高位貴族たちのあこがれの的であったという。
これまでシルクロードと古代朝鮮との関係はあまり論じられなかった。私は本書をつうじて初めて古代シルクロードと朝鮮との関係に多面的な光をあててみた。漢、唐の西域経営に関わってシルクロードを開拓し、逆境のなかで築かれた高句麗・百済・新羅の古代朝鮮の遺臣たちや使臣、僧たちの功績はあまり知られていない。高句麗の将軍・高仙芝について、イギリスの考古学者であり探検家であったオーレル・スタインは著書「古代ホータン」において高仙之によって確保されたシルクロードによって東洋の紙と火薬製造技術が西洋に伝播されたことを称え、さらに「ヨーロッパの歴史を逆転させた」という意義をもつ、史上に名高いナポレオンの「アルプス越え」を「子供の遊び」と比喩しながら高仙之のヒンズクシ山脈の突破を激賞している。百済の遺将・黒歯常之は不敗の将軍といわれ、吐蕃、突厥の戦乱をあざやかに平定して大いなる功績を立て、モンゴルの総督も歴任した。新羅の慧超は唐から東南アジアをめぐり、インド、パキスタン、アラビア、シリアまで巡礼し、踏査の過程で、自己の体験、見聞の記録を『往五天竺国伝』という旅行記に残した。
これは唐の僧・玄奘の『大唐西域伝記』にも劣らない不朽の価値を持つ。慧超こそ、10年間、徒歩で37ヵ国の広大な地域を巡歴した世界にも稀な大旅行家である。
■訂正とお詫び■
前号の青丘文庫月報(2004年1月号)の<巻頭エッセー>「関西大学、横田夫妻講演会に思う 」 の中で、横田夫妻の講演会の主催を関西大学人権問題研究室としていましたが、関西大学人権問題委員会の誤りでした。訂正するとともに、関西大学人権問題研究室、ならびに関係者の方々の名誉を深く傷つけたことを、心から反省し、お詫びいたします。 塚ア昌之
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<第254回在日朝鮮人運動史研究会関西部会 2003.10.12>
4・24阪神教育闘争を振り返って見て 梁 相 鎮
我々在日同胞の民族教育の権利を守り、発展させるのにおいて忘れることが出来ない4・24阪神教育闘争55周年に際し、4・24当日,兵庫県庁内での交渉現場にいた者としてその実体験記を記す。
米軍は、極東侵略政策の要になる日本を反共の砦として、朝鮮侵略の後方基地とするために在日朝鮮人の中心である民族教育を否定する占領政策を露骨に顕わにして、朝鮮人学校の廃止を強行した。1848年2月13日,米軍占領軍の指示を受けた兵庫県教育部長は、朝鮮人学校の閉鎖と校舎返還を通告し、4月23日,県と市は、MPと武装警官を動員して「校舎返還仮処分」を断行した。
私は当時、民青兵庫県本部の一員として、「県民族教育対策委員会」の指示の下に各支部と要請・陳情団との連絡係をしていたので4月24日の当日,金台三氏を代表とする交渉団との連絡係として県庁に先に行った。
ところが驚いたことに知事室応接室の扉が破られていた。しかしこれは、何者か知らない怪漢が扉を壊したことが始まりでその黒眼鏡の怪漢は、応接室のソフア−に座り、傲慢な態度で煙草を吸い終わると、突然,立ち上がり、知事事務室の扉を蹴破り始めた。私達はこれを押しとどめようとしたがこれを止めることが出来なかった。金台三氏ら交渉団が入って来て交渉が始まったが、この怪漢の姿はすでに消えていた。後に尼崎の同胞から「その怪漢は、尼崎市守部にいる建青の<アリラン特攻隊>の者で現在尼崎にいない、南朝鮮に行ったとの噂がある」教えられた。これは、我々の民族教育を弾圧する口実をでっち上げる陰険極まりない挑発陰謀であった。
交渉が始まって11時頃にMP2名が知事室に入り、岸田知事を連れ出そうとしたので同胞たちは、MPの前に立ちふさがった。私も知事の腰にしがみつき逃さないようにした。これに対してMPが拳銃で威嚇したので、ある女性が上着を引き破り、胸をさらけ出してMPに「私を撃て」と叫んだのでMPは、拳銃を撃つのをためらい、知事を連れ出すことも出来ず退散した。そのMPは、軍事裁判でそのような事実ついて証言している。
県庁前には、県下から集まった約1万名の同胞達で黒山のようになって抗議行動が展開されていた。このような同胞たちの激しい闘争に県知事等は折れて、学校閉鎖の撤回を含む5項目の確約書を獲得した。同胞たちは、連日の闘いの疲れも忘れ、勝利に酔っていたが、米占領軍第8軍司令官アイケルバ−カ−中将は、これをすでに「無効」と宣言し、午後11時30分,神戸基地管内に「非常事態宣言」を発令し、MPと警察が協力して一斉検挙に乗り出し、2,000人を越える同胞たちを無差別に襲撃して検挙した。
検挙された同胞たちに対する県知事らの首実検があり、当日県庁にいた交渉団とその場にいたと思われる同胞が選び出されて軍事委員会裁判(A級)9名,軍事裁判(B級)30名,神戸地裁(C級)97名が「駐日占領軍の安全及び占領目的に対する有害な行為」という「罪名」で裁判に付された。先に県知事室の扉を破った建青のアリラン特攻隊の怪漢について記したが、建青の一部分子が非常事態宣言による朝鮮人狩りに協力してMPを朝聯幹部自宅に案内する反民族的犯罪を敢えて行った。検挙されたABC級以外の同胞は、建青県本部で建青に入れと強要され、加盟した者は無罪放免,拒否した人は、50円の罰金刑を受けた。建青のこのような悪辣な行為が<韓国籍>が増加していく原因の一となった。
私は、偶然のことに朝鮮人狩りの魔手から逃れたが、もし捕まっていたら当日,県庁にいたとして文句なしにA級裁判で重労働15年の臭い飯を食うところであった。
1949年9月8日,米占領軍の命令により、朝聯と民青が強制的に解散させられ朝聯学校を含む財産も没収された上に、10月19日に第二次学校閉鎖命令が出されたが、県下同胞たちと支援者など延べ4万人が「学校閉鎖命令」の撤回を求めて抗議行動を展開した結果,兵庫県下においては、一校も閉鎖されることなく民族教育の火は消されなかった。
特に獄死した朴柱範先生の人民葬(1949年11月30日)に参列者1万5千人の大葬列団が西神戸学校から県庁前を通り春日野道斎場まで葬式デモを行ったことは、先生の意志を継ぎ民族教育権利を守る固い決意の表明であり、抑圧者に対する血の抗議であった。
そのために日本占領米第8軍司令官アイケルバ−カ−中将は、日本占領政策失政の責任を問われてマッカ−サ−によって解任され、当然受ける栄誉もなく貨物船で寂しく帰国させられたと聞いている。まさに在日同胞の民族教育を守る闘いは、米軍の対日占領政策に大きな打撃を与えた偉大な勝利であった。米軍の前には日本天皇も頭を下げる占領下において在日朝鮮同胞は、民族の尊厳と教育権利を守ったのである。
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<第256回在日朝鮮人運動史研究会関西部会 2003.12.14>
『日本人の朝鮮観についての一考察』-中間報告-
豪州クイーンズランド大学院文学部歴史哲学宗教古代史研究科博士課程 石黒由章
人種・民族問題を考える場合、研究対象であるグループ(たとえば在日やアイヌ、部落民)によって彼らに対する偏見の原因に多様性が生まれてくることは否めない。例えば、朝鮮人はかって日本の植民地人であったからとか、部落民は江戸時代、士農工商の下に置かれていた最下層の人の子孫というように。過去の政治的経済的社会的体制が現在の偏見や差別に直接もしくは間接的に結びついていることは、日本国内にとどまらずどこにでも見られる現象である。アメリカの黒人問題や、ユダヤ人問題、オーストラリアにおける原住民アボリジニ問題がこのことを示している。しかし、人種・民族、もしくは偏見・差別というカテゴリーで括る以上、あらゆる対象グループにもあてはまる共通の理由のようなものが仮定されたとしてもおかしくはないであろう。つまり、幾多ある偏見や差別の原因を木の枝だと例えるならば、木の根っこの部分がそれらに共通する理由ということになる。枝は木の根っこから分かれて生長したように、あらゆる偏見や差別も1つの根っこからの分化生長とみるならば、今日までの日本人の朝鮮観の研究が、この根っこの部分に比較的無関心であったことをここで注意しておきたい。つまり主題にかんする考察の前提をなす部分の研究が比較的不充分であったということである。
今回の中間報告では、自己帰属性と集団帰属性という概念を使って、この根っこの部分を検討してみた。そしてこれらの検討を通して以下のことを提起した。@人間は誰でも生まれながらに個人であるとともに、その所属するグループが用意されている。このことを個人の側からいうと、われわれは生まれたときから、自己帰属性(セルフ・アイデンティフィケーション)と集団帰属性(グループ・アイデンティフィケーション)を併せ持っているということになる。A日本人の朝鮮観は、自己帰属性からの働きかけと、集団帰属性からの働きかけの交錯地帯に成立する思想形態で、その中心点が自己の側にかたよる場合には社会的朝鮮観よりも自分の朝鮮観に傾きやすく、集団の側にかたよる場合には自己の朝鮮観よりも社会的朝鮮観に傾きやすい。B新しい認識は、古い認識に規制されつつ、次にくる認識を規制する。B認識の単純化が日本人の朝鮮観の1つの源泉である。C戦後の日本人の朝鮮観の多様化は、彼等の集団帰属性の分化生長の表れ。
上記のことを踏まえ考えるならば、日本人の朝鮮観(主として偏見や差別)は、その起源まで遡って考えたならば、遅れた朝鮮に対する蔑視感や日本人の国家主義の発揚といった、歴史的要因論がどこにも認められなくなってしまう。この点で、なんでも要因をまっさきに考える近代的思考様式で、ものごとの起源を割り切ってしまおうとするのは、たいへん危険であるかもしれない。つまり結果において要因となることでも、必ずしもそれが起源とはいいがたいのである。私自身も含めて、歴史的要因論から日本人の朝鮮観を論じてきたこれまでの研究が、つっこまれて返答に一番困ったところも、ここにあったような気がする。
偏見や差別にはさまざまな理由がある。日本の韓国朝鮮人問題とユダヤ人問題、もしくはアメリカの黒人問題を同列に論じるわけにはいかない。なぜなら、それぞれ異なった歴史的社会的背景を持っているからである。しかし偏見や差別を作り出すのは人間であり人間の集合体である社会であるから、それらの間に根本的に相似た性質がいくらあったからとて、それは少しも不当でないばかりか、むしろこうした相似た性質の存在を認め、それを適切に表現する、ということがすなわちわれわれの他の社会的民族的グループに対する認識の表現であり、その究明は我々の態度を正しく認めることにもなるであろう。日本人の朝鮮観の研究は必ずしも偏見や差別という問題にばかり結びついているのではない。われわれは、個人であるとともに集団の一員であるという、われわれの人間的地盤の中に深く根ざしたものを明らかにすることによって、われわれの朝鮮観についても深く自省する材料を与えるものでなければならないのである。
それでは今回の報告が、日本人の朝鮮観の解明にどのくらい貢献したのか、といったことが問題になってくる。残念ながら、現時点ではほとんど貢献していないように思える。1つの論理を提起しただけで、いまだ完結していないからである。また、たとえ完結したとしても、それが正しい方向にわれわれを導いてくれるかもわからないであろう。それらは大きな課題である。正しい方向性を模索しつつ、次回の報告のときには、完結性をもった論理を発表したい。
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【今後の研究会の予定】
2004年3月14日(日)在日・塚崎昌之、近現代史・李景a4月11日(日)在日・石黒由章、近現代史、未定
※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。
【月報の巻頭エッセーの予定】
3月号以降は、広岡浄進、福井譲、藤井たけし、藤永壮、堀内稔、堀添伸一郎、本間千景、松田利彦、水野直樹、文貞愛、森川展昭、山田寛人、横山篤夫、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。
<編集後記> 2004年度(4月〜)の購読料3000円、図書購入費募金2000円、在日会費5000円を
郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>でお願いします。
★ 本号は、活字だらけになってしまいました。お預かりしている原稿も次号まわしです。
★ 金光烈著『足で見た筑豊朝鮮人炭鉱労働の記録』2004年2月、明石書店刊、四六版432頁、定価本体4800円(税込5040円)が出版されました。坂本悠一さんが、税込み定価5040円のところ送料込み4000円で販売中です。希望者はsakamoto@econ.kiu.ac.jpまで。
★ 神戸港強制連行の副読本800円も出版されました。希望者は、800円+〒110円=910円を郵便振替<00920-0-150870
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