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青丘文庫月報・167号・2002月2月1日

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●青丘文庫研究会のご案内●

第205回 朝鮮近現代史研究会
2月10日(日)午後1〜3時
テーマ:「済州島の巨大軍事地下施設−『本土決戦』における済州島の位置付け−」
報告者:塚崎昌之

第237回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2月10日(日)午後3〜5時
テーマ:「戦後日本映画における「在日」観」
報告者:梁仁實

会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

<巻頭エッセー>
2001年済州島への旅           伊地知紀子

 去年は2度済州島に行った。春と秋。春は金慶海さん、門永秀次さん、高正子さんの4人で、秋は1人で。去年は、毎年その頃に行っていることに加えて別の理由があった。植民地期、済州島から兵庫県相生市の播磨造船所に強制連行された人々に会うためと、ハワイの捕虜収容所にいた済州島の人に会うためだった。播磨造船所に強制連行された人々が厚生省名簿では2215名、うち済州島出身者は218名。そのうち、春に5名、秋に3名の方々に御会いすることができた。ハワイのほうは、済州島出身者16名。生存者は見つからず、2名の方の遺族に御会いできた。播磨のほうについては、1月の例会で報告したので、月報3月号に概要は掲載予定である。
 今回の済州島への旅(調査なのだが)のなかで、春は特に内容が盛り沢山だった。金慶海さんと門永秀次さんは、初めての済州島。ちょうど4・3事件の行事が目白押しの時期でもあった。済州大学の趙誠倫教授が日本へ研究のため来ておられたため、空いている家を貸してくださり、友人の安美貞さんと玄ヘギョンさんが車を出してくれるという、とても恵まれた条件が整えられた。問題は、調査ができるかどうかだった。
 事前に手紙で調査についての説明と強制連行された人々の名簿をを送っていたが、伝わっているかどうか...。心配しながら、済州島に行って確認し始めた。あまり協力的でない所もあったが、全般的に市庁、邑面の各事務所は協力的であった。韓国で何かするとき、人の繋がりがとても力を発揮することはよく知られていると思うが、まさにその通り。調査の内容にとても共感してくれる人がいると、その人の指示でどんどん戸籍も出してくれる。しかも、コンピューターで事前確認するから、早い。事前に調査表を作成し、1人1人の生死と遺族の行方まで調べてくれた所もあった。日本軍の格納庫や4・3事件関係地を案内してもらったこともあった。そんな助けを受けて、春には5名の方々に御会いできた。秋に再訪したときは、さらに3名の方々に御会いできた。
 年齢徴用であるため、みなさん79歳になられる。8名の方々それぞれ、当時の様子を当時に戻ったように次々と語ってくださった。その内容は、共通する部分もあれば、当然噛み合わない部分もある。個々人の印象によって、記憶の濃淡も出てくる。食事のひどさ、食べたこともない木の皮を出されたこと(かつお節だったらしい)、食堂で配膳の女の人に工場で指輪をつくってプレゼントをし食券を誤魔化してもらったこと、脱走のときの様子、空襲のなかで仕事の図面を守ろうとしたこと。どの方も、日本からやっとの思いで故郷に戻り、その後4・3事件に遭っておられる。朝鮮戦争に行かれた方もいる。大きな変動を生き抜いて来られた世代の方々である。
 いろんな思いを持って帰途についた。別れ際に、背筋をピンと伸ばして見送ってくださった、当時分隊長だった高さん。人員の編成人数や分類の仕方まで細かく説明してくださった、当時小隊長だった梁さん。父の話に聞き込む林さんの息子。兄が北海道に連れていかれたため、次は自分だと覚悟していた金さん。なかでも、春に一度会うことを断られ、秋に再度お願いして会っていただけた禹さんの言葉は、何度も思い出される。「春に言われた時は、今さら何を話すっていうんだと思ったけどな、あとでじーっと考えてみたんだ。そうしたら、わしが生きている間に残せるものは、こんなことくらいかと思って話そうと決めたんだよ」。

第234回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会11月11日(日)
もう一つの略奪鉄道,南朝鮮鉄道」と奴隷航路,関麗連絡船」  梁 相 鎮

 日本帝国主義は、朝鮮侵略の手段として海港の開港と整備,鉄道敷設になみなみならぬ国力を投入した。
 1875年9月,「雲揚号事件」を口実に強要した「江華島条約」を始めとする侵略的諸条約により釜山,元山,仁川が開港し、日本人居留地が設定されることにより朝鮮侵略の足場が築かれた。
 日本帝国主義は開港地を拠点に侵略の道筋をつくるために鉄道敷設に総力をあげた。
 「朝鮮に於ける鉄道は・其の萌芽は日清戦争前後に於ける激甚なる列強の権利獲得運動の軋轢の中に生じ、錯綜を極めたる国際場裡に処して・我が国権下に重要鉄道建設の大業を成就し」たと、「朝鮮鉄道史」は自画自賛している。
 朝鮮に於ける幹線鉄道は軍用鉄道として日清、日露戦争にまた、朝鮮の資源略奪、大陸への侵略鉄道として大きな役割を果たした。それがために鉄道敷設に日本軍部は、工兵隊を動員し朝鮮の農民を大量に狩りだして建設を急がした。
 日本帝国主義は朝鮮に於いて鉄道網を早急に完成させるために本線以外の支線を民間資本による鉄道建設をもくろみ「朝鮮私設鉄道補助法」(1921,4,1)を制定し補助率年8分,補助年限10〜15年,補助最高額250 〜500 万円,という高額配当を保証した。この砂糖に群がるアリのように日本の資本家は朝鮮の私設鉄道建設に投資した。
 その一つが「南朝鮮鉄道」であった。「南朝鮮鉄道」は調蜜な人口と豊富な海陸の物産は、年産 米120万石,麦30万石,綿花1万2千d,繭1万5千石.林産500万円,海産物600万円の集散で全南宝庫の名を欲しいままにしている全羅道の豊かな平野を縦貫し、湖南線から光州を経て麗水に至る鉄道建設を建設しこれを京釜線のバイパス鉄道としてまた、麗水港を釜山港に継ぐ港として鉄道連絡航路を開設することにより湖南平野の物産略奪と商品販売市場の拡大を図り、日本の朝鮮植民地支配と日本独占資本に植民地超過利潤を豊かに分配する典型的な植民地鉄道であった。
 このような全羅道の宝庫に目を付けた根津嘉一郎(東武鉄道社長)大橋新太郎(共同印刷社長)を始めとする50人の発起人により、資本金2千万円,配当年9分(国家補助8分「南朝鮮鉄道会社」を設立,「朝鮮郵船」等の競争者を押し退け1927年2月認可を受けた。
 「南朝鮮鉄道」の事業計画は、@沿線開拓、10万町歩,A5千馬力水力発電,B直通航路経営で、第1期工事、麗水−順天−宝城−和順−光州(1930.12開通、第2期計画線 順天−南原−全州−裡里(益山)湖南線に接続する予定であつたが朝鮮総督府に買収され朝鮮鉄道局全羅線 (1936,12開通)となった。光州−松汀里間て湖南線に接続する慶全西線は朝鮮総督府鉄道局が敷設した。これにより全羅南道の鉄道はほぼ完成した。
 「南朝鮮鉄道」の重要事業の麗水港築港は、大倉喜八郎の釜山、鎮南浦での埋立て方式にならい海底40万坪を浚渫して水深10m,3千d繋船岸壁,465m、防波堤 240m、築造,荷揚げ能力 年 50万d、海浜10万坪埋立,鉄道延長線建設と麗水港駅舎建設、新市街地造成等の規模で「加藤組」が請負、1929年に着工した。
 築港工事に必要な「徳忠里」の耕作地(当時市価5円)を買収するのに荒蕪地なみの坪1円20銭としたがために紛糾し工事中止と会社側が態度を硬化したために郡守が調停に乗り出す一幕もあり、賃金不払い、工事損害賠償問題で1930年12月,1,900人が同盟罷業に立ち上がった事件も発生している。
 「南朝鮮鉄道」は、麗水−光州間の鉄道敷設と麗水港築港だけで1936年(昭和11)朝鮮総督府鉄道局に買収,移管された。
 「関麗鉄道連絡航路」を開設した川崎汽船株式会社は、川崎グル−プの中核企業で1919年(大正11)川崎造船所(川崎重工業)から分離して神戸で発足した。
 川崎汽船は、朝鮮経済の植民地的再編成の中軸となった「土地調査令」(1910年) による土地収奪と併せて、1920年に産米増殖計画をでっちあげ農産物の略奪が本格的になった時期,1924年に阪神−<南鮮>航路開設し、阪神・木浦・群山・仁川・鎮南浦の往復航路で、復航の朝鮮米輸送を主とする配船を行い朝鮮の資源略奪に一役買っていた。
 船荷値下げ競争に明け暮れる川崎汽船は、他の汽船会社との競争から生き残りを賭ける先行投資として、1930年12月,麗水を起点として順天−光州経由で太田に官営鉄道(京釜線)に連絡する<南朝鮮鉄道>の開通の前に独占的な下関−麗水間船車連絡航路を開設して、会社唯一の貨客船航路に昌福丸(3000トン級)と傭船慶運丸を就航させた。
 その後、1931年3月12日,朝鮮総督府告示(第130号)により鉄道連絡航路として定められた。しかし開設当初鉄道は光州まであり、沿線も未開発であったことから利用者は少なかった。昌福丸第1次航の船客は19人(往復航)慶運丸も6人(復航)という成績であった。就航3年間で赤字40余万円、朝博丸を廃止して昭勢丸(770トン) に変更した。
 累年赤字に悩みながらも朝鮮植民地支配と略奪の重要幹線としての運航を継続した。次第に略奪航路の重要性が認められて1934年4月,朝鮮総督府命令航路にに指定され補助金年額3万4千円、全羅南道庁から年額6千円の補助金を同時に支給されるようになり、名実共に鉄道連絡船航路となった。
 1941年12月,日本帝国主義は太平洋戦争に突入するに及んで日本より大陸への戦時輸送増加と全羅線の開通、全羅地方の発展と共に貨客は増勢をたどり1940年についに黒字を計上した。 (*1934/1941、旅客数2.8倍、貨物トン数2.2倍)
 麗水港から移出される米穀は1934年12月から統計に現れて35年末迄の在米高は23万842石、36年1月から同年10月まで25万6344石 (農林省米穀局「朝鮮米関係資料」1936.6.3発行)と記録され朝鮮の資源略奪港としての役割が定着した。
 その麗水が朝鮮の豊かな資源略奪流出する港になっただけでなく離別の港にもなった。
 私が、1942年8月に済州島から麗水回りで帰る時,麗水の町では、船待ちする官斡旋と言う強制連行者の集団があちらこちらでを引卒者の号令の下で訓練が行われていた。訓練で号令を掛けても日本語の号令が分からず、その動作が出来ない者に暴行を加える乱暴が行われた。余りの酷さに群衆のなかから抗議の声が上がると傷痍軍人の記章をつけた引率者が殴り掛かり喧嘩となつたが、警官が来て殴られた朝鮮の青年を連行して行く理不尽を目のあたりにした。
 私の親類の者が隊長になつて北海道の炭鉱に行く100名程度の強制連行者の集団もいたが、此れも号令が分からずウロウロしているのを見る時、日本軍国主義者のサ−ベルの下でどの様な運命が待っているのか、暗い気持ちになったことを思いだした。当時の朝鮮人の日本語理解力は50%程度であったがために「徴兵制度」が実施できす「志願兵制度」を取らざるを得ない状況下にあった。言葉は知らなくとも棍棒があれば幾らでも働かせると考えての強制連行だったのかと思わざるを得ない。
 関麗連絡船は、先に私が目撃した麗水での強制連行者に対する横暴凶悪な取り扱いに見られるように、この連絡船で多数の朝鮮の男女青年達が強制労働の地獄の坩堝に送り込まれて行くもう一つの奴隷航路となった。
 1942年,全羅南道羅州女学校を卒業した孫相玉女性が、校長から日本語が良く出来るので第1次「半島女子挺身隊」の隊長として行くようにといわれ全羅南道庁所在地光州に集められた13歳から16歳位の女子と、忠清南道から来た女子と併せて300人が麗水港駅から鼓笛隊の歓送を受けて関麗連絡船に乗り名古屋に向かったという証言がある。
 また,兵庫県相生市にある播磨造船所に徴用名目で強制連行された済州島の人や、略称「神戸港強制連行調査会」の孫敏男氏の「神戸船舶荷役」に連行された人の現地聴き取り調査の際,湖南線金堤駅から麗水に行き船に乗ったとの証言を得ている。
 従って朝鮮の全羅南・北道,忠清南・北道,済州島等からの強制連行者は、この関麗連絡船により日本に強制連行されたことが十分に知ることが出来る。正に関麗連絡航路は、関釜連絡船航路につぐ奴隷地獄航路であった。
 しかし戦局の敗色が濃くなり、米軍の潜水艦の攻撃や機雷の投下,米軍機の空襲等で関門海峡が通航不能となり、旅客の揚陸は山口県吉見や仙崎、福岡の博多に移動して行われた、同年5月に昌福丸と春潮丸が触雷して沈没した。残った朝博丸も老朽化して8月初めにドック入りしたがために関麗連絡航路は休航となり、関麗連絡航路はその運命は終わった結果,解放された強制連行者は再び此の船に乗り故郷に帰ることが出来なかった。

第203回 朝鮮近現代史研究会12月9日(日)
朝鮮初期少年運動(1919年〜1925年)と児童文学 仲村 修

 児童文学は子どもの心の発達に欠かすことのできない心の食糧である。外国の児童文学を知ることは外国の心を幼い心でうけとめることであり、子どもたちは外国の児童文学からも自然に栄養を吸収する。韓国の児童文学を知ることは国際化の時代に要望されるひとつの可能性であり、日本の子どもたちにアジアとの共生の芽を育てることでもある。
  日本ではこれまで韓国児童文学の研究はほとんどなされなかったが、それはその重要性に対する認識が欠けていたにすぎず、重要でないということではなかった。
 近代朝鮮における児童文学は、1919年3月1日におきた3・1独立運動以後に成立した。それは民族独立の希求の挫折のなかから、民族を再生させようとする民族指導者たちと広範な民衆の呼応という民族運動のなかではぐくまれた。つまり農民運動・女性運動・青年運動と、青年運動から派生した少年運動である。これまで少年運動の研究は他の運動の研究に比して注目されることが少なかったが、民族再生の夢の受け取り手の研究として忘れられてはならないものである。
 宗教組織である天道教・天主教・基督教・仏教団体等の少年運動、さらにボーイスカウト(少年軍)運動、そして組織をもたない自主的な各地方の少年会等は、3・1独立運動後つぎつぎと誕生し、1925年末で363団体に達した。それらは知徳体の涵養と、植民地教育体系のなかで得ることのできない民族的アイデンティティーの保護育成と社会参加に大きく寄与した。
 活動内容には、6年間の合計で多い順にならべると、講演会・討論会・童話会・歌劇会・オリニナル(子どもの日)・各種スポ−ツ・水害救済活動・早起き会、季節ごとにはポルムノリ・端午ノリ・秋夕ノリなどが見られる。
 また、植民地支配イデオロギーと本来的に背反する性格をもっていた少年運動は、その当初から、学校当局や警察からの弾圧の対象になった。弾圧は当然少年運動全体にも、その文芸的活動にも、機関誌にもおよび、その十全たる発展を大きく阻むことになった。ちなみに組織自体への弾圧は16件、行事での弾圧は54件が新聞等の調査から認められた。
 本研究の最終目標は、少年会活動のなかの文芸関係の諸活動――童話(口演童話)会・歌劇会・童話公募等が、朝鮮における近代児童文学の発展と重要な相関関係にあったこと、言いかえれば、その源泉であったことを究明しようとするものである。児童文学黎明期の重要な担い手たち(翻訳家・口演童話家・童謡詩人・童謡作曲家等―方定煥、李定鎬、尹克栄、馬海松、高漢承、鄭順哲、丁洪教、李元珪、高長煥等)の多くが、同時に少年運動の担い手でもあったこと、少年会雑誌(機関誌)の文芸欄が次代の童謡詩人・童話作家たちを育てるゆりかごであったこと、そして1920年代の活動の盛り上がりこそが、次代の本格な児童文学の発展期を準備したことを明らかにしようとするものである。ちなみに、日本における「赤い鳥運動」のような形が具体的に認められない朝鮮では、この少年運動がその役割の一部をになったと言うことができるのではなかろうか。

【今後の研究会の予定】
3月10日(日)(在日・徐元洙、近現代史・未定)
4月14日(日)(在日・松田利彦、近現代史・李景a)

【月報の巻頭エッセーの予定】/2002年3月号(田部)、以降は、飛田、李昇Y、本間、藤永、佐野、梁永厚、文貞愛、藤井幸之助、金河元、高木、森川。※締め切りは前月の15日です。よろしくお願いします。

編集後記

 2月号の月報をお届けします。本誌に郵便振替を同封しています。月報は年間購読料が3000円、他に図書購入募金2000円にご協力いただければ幸いです。在日朝鮮人運動史研究会は機関誌発行のために5000円を徴収し機関誌3冊を入手するようにしています。よろしく。また無料の青丘文庫メールニュースもだしています。希望者は飛田までメールをください。
               (飛田雄一
rokko@po.hyogo-iic.ne.jp

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