青丘文庫月報・165号・2001月12月1日

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●青丘文庫研究会のご案内●

第203回 朝鮮近現代史研究会
12月9(日)午後1〜3時
テーマ: 「朝鮮初期少年運動−1919〜1925」
報告:仲村 修

第235回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
12月9日(日)午後3〜5時
テーマ:「文芸作品に現れる在日世代のアイデンティテー−戦後の主要作品から」
報告者:梁永厚

会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内、地図参照)

        ※終了後、忘年会を開きます。

<巻頭エッセー>
「朴 妙 玉」   金 慶 海

 彼女は、1886年に長崎で生まれたと思われる。とすれば、在日朝鮮人としては二世の第一号になる。彼女の父親は朴泳孝で、1884年のク−デタを金玉均らと共に起こした青年政治家らの一人。彼女の母親は李としかわからない。その李さんが、朴の後を追って長崎に着いたのが1885年の末。長崎の彼女を朴が訪ねている。だから、妙玉が1886年に長崎で生まれただろううと推測される。
 彼女は、幼少時を長崎で過ごしたと思われるが、満で13歳になった彼女は1899年10月、父親・朴泳孝に連れられて彼が住んでいる神戸に来る。
 神戸に来た彼女は、ただちには入学できず、色々とあってだろうか1901年4月に、JR元町駅付近にあった親和女学校に入学する(今の親和学園、女子だけの中・高・大を運営、中・高は灘区に移転)。この女学校への妙玉の入学だが、この学校の創設者でもある校長・友国晴子は勇断して受け入れたのではと思われる。と言うのも、当時、朴を狙う刺客らが神戸にもウヨウヨしていたので、禍が自分の学校に及ぶことを避けて、受け入れる学校がなかったのではなかろうか。だからだろう、彼女の名前もいくつか使い分ける。本名以外に、それに近い朴妙子、朴玉子や、父親が通名として使っていた山崎をとってその下に、妙子や玉子、玉を使う。
 彼女は、この学校の本科4年生の時(1906年)に、こんな漢詩を書いている。
「朝はやき庭のなかめの涼しさに夏しらきくの花咲きにけり」
 妙玉は、1907年3月に同校を卒業するが、それは同校では最初の外国人であった。
 1907年6月に、特赦された朴泳孝が帰国し、直ちに宮内大臣に就任した。父親からの連絡を受けた彼女もその後を追って6月末に、親和女学校関係者らの盛大な見送りを受けながら神戸港を発ち帰国する。しかし、大臣就任直後に反逆罪のような罪をかぶされた父親が同年9月、済州島に島流しにされるが、「孝女妙玉」(「大阪毎日新聞」)は共にかの地に向かう。彼女は済州島では、島の女性たちを集めて裁縫や識字活動などを行った。このような活動は、親和で学んだことを実践したのではなかろうか。
 一年ほど近くのちに、彼女だけが先にソウルに帰郷して、父親を待つ。そのような時の1908年8月、「満」韓旅行を行っていた親和女学校の校長・友国さんがが訪ねてる。ソウルに来た校長はほとんどを妙玉の家に投宿し彼女と長い時を過ごした。
 その後の彼女の動きについては、まだ調べてないので不明。
しかし、この時までの彼女の足跡を見ていても、幼少・青年時代の彼女の身の上にも亡びつつある祖国の悲運に翻弄された波瀾万丈の人生が垣間見える。

第232回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会9月16日(日)
「朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動―吹田・枚方事件を中心に」文貞愛(大阪外国語大学4年)

 1950年6月朝鮮戦争が始まると、その前年に強制解散された在日朝鮮人の中心的団体であった在日朝鮮人連盟の後継団体を準備していた在日朝鮮人らは、それに先立って非合法の祖国防衛委員会を結成し、アメリカの後方支援を担っていた日本政府に対し反戦運動を展開する。
 吹田事件は1952年、朝鮮戦争開戦2周年を期して6月24日夜、伊丹基地粉砕と反戦を訴えるキャンプファイヤーを開催、夜通し集会をしたあと、一部の参加者が未明に吹田操車場を目指してデモ行進をし、操車場内で軍需物資輸送のための軍臨列車を壊そうとしたが列車はなく、警官隊との応酬のなか吹田駅から電車に乗って大阪駅に向かうが、そこで待機していた警官隊から弾圧を受け、多くの参加者が負傷した事件である。逮捕者は300人近くにのぼり、111人が起訴された。この集会の参加者は2千から3千ともいわれ、在日朝鮮人の徹底した組織動員があったといわれている。
 枚方事件は、旧枚方陸軍工廠を小松製作所が払い下げ、砲弾製造を再開しようとしていたことに反対したもので、同年6月23日深夜から翌日未明にかけて、中核自衛隊と祖防隊のメンバーからなる遊撃隊によって水圧ポンプにダイナマイトの時限爆弾が仕掛けられ、二つのうち一つが爆発したが、被害はメーターのガラスが割れる程度であった。この事件の関係者90数名が逮捕され、うち65名が起訴された。
 吹田事件、枚方事件ともに、非合法化され地下潜行した日本共産党中央の指令に基づく軍事行動であったが、日本共産党は事件後、武装闘争を自己批判し、55年の第六回全国協議会でそれまでの路線を分派による「極左冒険主義」とした。在日本朝鮮人総聯合会も、それまでの在日朝鮮人運動を日本革命に従属していたと自己批判し、日本共産党と決別するに至る。
 枚方事件の元被告・脇田憲一氏は、当時の実力行動に加わった者の立場からこの二つの事件を再検証しようと、現在総括にとりかかっておられる。また、メディア関係者によって吹田事件に関わった人々から体験を聴く会が昨年から始められた。しかしながら、当事者の方々にとってはいまだ歴史として語れない問題が多く残っているようだ。
 戦後の在日朝鮮人の左翼運動は日本共産党の指導下にあったが、それは形式的な側面が強く、朝鮮人団体の独自性があったことは指摘されているが、一方で朝鮮人は日本共産党による誤った路線の下で「利用された」というような認識も根強く残っている。それは日本共産党が現在に至るまで、この時代の問題を「党史の空白」として積み残していることも大きいだろう。
在日朝鮮人運動と日本共産党の関係は、戦前からの関係や共和国とのつながりなど細かく見ていかねばならないが、本稿では、日本人と在日朝鮮人が立場を超えて、ある共通の目的の下に共に闘ったという経験を、当時のその状況の中で運動に組みいっていった人々の個別の体験において捉えなおすことができればと考えている。
(中間報告ということで調査不足な点、未熟な部分が多かったのですが、発表の場を下さり、また叱咤激励をいただき、ありがとうございました。)

第233回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会10月14日(日)

朝鮮人強制連行の概念  洪 祥 進

 今年の夏は日本の中学校の「新しい歴史教科書」採択が国際的に注目されたが、これまでの経緯から見ると、その論点のひとつが「慰安婦」問題(以下.軍事的性奴隷)には「強制連行」がなかったとの主張である。
 朝鮮人強制連行とは行為が行われた当時の用語ではなく歴史用語である。この用語が広く知られたのは朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社.一九六五年)の出版が契機となった。ここでは主に国家総動員法による炭鉱・軍需工場・土木作業所への「募集」「管斡旋」「徴用」形式を中心にまとめているが、軍事的性奴隷、軍人・軍属等の問題も触れている。私自身もこれまで、基本的には同様な視点で朝鮮人強制連行との用語を使用してきた。
 ところが近年、国連人権委員会、国際労働機関等さまざまな分野でこの問題が討議される中で国際法による本格的な研究が開始された。私は一九九二年以降、国連人権小委員会等でこの問題を他のNGOとともに提案し、審議を見つめる中で、他民族に対する加害行為は加害国の国内法ではなく当時の国際法の視点で見ることが不可欠であると学んだ。当時の国際法に限界はたくさんあるがしかし、その国際法にも日本は違反したのである。
 すなわち、日本政府の法令等による「強制連行」は最も典型的な問題点であるが、それ以前の「肉体的・精神的」な移動形態、全てを「朝鮮人強制連行」と見るべきである。
 一九〇五年当時の国際法の分析によると「強制を肉体的強制に限定する論者は少なく強制は肉体的強制のみならず精神的強制を含むと考えられていた」(坂元茂樹『関西大学法学論集』第四四巻四・五合併号一九九五年一月)としている。さらに日本政府も「慰安婦」問題の「強制というのはどのような内容」との質問に「単に物理的に強制を加えるということのみならず、おどかしてといいますか、畏怖させてこういう方法を本人の自由な意思に反してある種の行為をさせた、そういう場合も広く含むというふうに私どもは考えております。」(参議院予算委員会。一九九三.五.三.谷野作太郎内閣官房内閣外政審議室長)と答弁している。
 すなわち「強制連行」には「騙して」「いい仕事がある」「カフェーで働く」等の本人の自由な意思に反する「精神的強制」による移動形態を含むと言える。
     (ホン・サンジン。朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側事務局長)

第233回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会10月14日(日)
朝鮮開国直後にあった六つの事件  金 慶 海 (次号で報告)

【今後の研究会の予定】
2002年1月13日(日、在日・佐藤典子、近現代史・伊地知紀子)
     2月10日(日、在日・梁仁実、近現代史・未定)

【月報の巻頭エッセーの予定】
2002年1月号(坂本悠一)以降は、伊地知、田部、飛田、李昇Y、本間、藤永、佐野、梁永厚、文貞愛、藤井幸之助、金河元、高木、森川。※締め切りは前月の15日です。よろしくお願いします。

●編集後記●
 もう師走となりました。1年はとても短いようですが、普通は?365日しかないのでしかたがありません? 12月号の月報をお届けします。金慶海さんの10月近現代史例会での報告は、紙面の都合で次号にまわさせていただきます。
 去る11月23〜24日、「山陰線工事朝鮮人労働者の足跡をたずねるフィールドワーク」に行ってきました。好天にめぐまれ、余部鉄橋、城崎本線などの景色も最高でした。山陰線工事で犠牲となった朝鮮人労働者7名の名前が刻まれた「招魂碑」が久谷八幡神社にありましが、今年はその石碑建立90周年にあたります。「韓国併合」以前から朝鮮人労働者が日本で働いていたことが近年明らかになってきていますが、その調査の嚆矢となったのがこの山陰線の件です。
 岩波ブックレット『日本の植民地支配−肯定・賛美論を検証する』(水野直樹・藤永壮・駒込武編)が発行されています。みなさんご購入ください。
          (飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

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