青丘文庫月報・157号・2001月2月1日

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※ 2月11日の予定でしたが、図書館が休館日のため18日に変更します。ご注意ください。

第195回 朝鮮近現代史研究会
2月18日(日)午後1〜3時
テーマ:
「広開土王陵碑−実地踏査から考察する」
報告者:張

第228回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2月18日(日)午後3〜5時

テーマ:「関西学堂」について
報告者:堀内 稔
会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

巻頭エッセイ
現地踏査で見る広開土王陵碑          張允植

 昨年、8月12日から1週間、中国東北部(旧満州)を旅した。
 朝鮮族自治州 延吉市延辺美術館で中国延辺朝鮮族書協・在日高麗書芸研究会連合展を開催した。海外同胞どうしの歴史的にはじめての書芸展であり、文化交流という点からもその意義は少なくないものがある。
 書芸展とはじめて出会う在中書家たちとの真摯な懇談会、多情多感な宴会をつうじて、ながい間、感じたことのない熱い感激にむせぶひとときをたがいに過ごすことができた。このような溢れるような感動は一言でいえばたがいに海外に住んでいるものの、おなじ<同胞>、ひとつの<民族>という連帯感から湧きでたものである。このような熱い感激とあふれるばかりの民族的感情をたがいに、抱くことができることこそが、難しい理論や思想を超越してわれわれが祈願する<統一への道>につらなるものでなかろうかと思った。
 市内観光とすこし足をのばして図們市で豆満江のほとり対岸の南陽に懸かる橋から北朝鮮の同胞とたがいに手を振り合う。何故にこの橋を自由に往来出来ないのか、させないのか、複雑でむなしい思いをする。まったくナンセンスとしかいいようがない。
 帰路は念願の広開土王陵碑を訪ねる旅である。延吉から夜行寝台車にゆられて10時間、長春でロ―カル線に乗り換え通化まで8時間、翌日早朝バスで2時間、やっと集安に辿り着く。集安は鴨緑江の北側のほとりであった。
 なんとはるばる遠まわりをして辿り着いたことか、朝鮮の満浦から鴨緑大橋を渡るとそこが集安なのに、これもナンセスといわざるをえない。
 広開土王陵碑は西紀414年建立。1880年に再発見。実に雄壮にして巨大な立派な碑身である(高さ6・34メトル世界最大の碑身)。碑身に刻まれた名筆の1800余字の碑文は4〜5世紀、東北アジアの国々の情勢を簡潔にくまなくつたえる歴史的資料としてかけがいのない遺跡である。壁画や城などとともにありし日の高句麗の気概と雄大な実像を今に伝える貴重な史跡であり文化遺産である。同行のメンバ―19名全員、口を揃えて見学に来た甲斐があったと喜びあった。旅の終わり際に中国旅行会社案内員の王さんの話が印象にのこる。お客さんたちのツア―は中国でいちばん不景気なところばかり観光しましたねと団長の僕に語る。僕は彼に一言、言っておいた《そのうちに朝鮮が統一すれば我々が観光したところも景気がよくなるよ。集安も遠回りせず直接朝鮮から行くよ。しばし待ちたまえ!》。

第193回 朝鮮民族運動史研究会
2000年12月10日(日)
「朝鮮儒教史に対する私の視点」 姜 在 彦
※ 姜在彦先生の近著『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書、2001年1月、2000円+税)の概要を報告して下さいました。以下の目次参照。(ホームページでは省略)

第227回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2000年12月10日(日)
大洋漁業と朝鮮                           伊地知紀子

「大洋漁業」とは、現在「あけぼの」や「ニッスイ」と並ぶ水産加工食品の大手メーカー「マルハ」の前身だ。かつての大洋ホエールズを所有していたのが、この大洋漁業だった。その前身は「林兼」という。私が「はやしかね(林兼)」という言葉を初めて耳にしたのは、1997年済州島の大坪里においてであった。当時93歳の李さんは、自分が20歳くらいのとき大坪里に乗り込んできた林兼の様子を教えてくれた。
 林兼発祥の地は、明石である。その名称は、林崎村出身の中部兼松が、林屋の屋号で生魚運搬を商んでいたことから来ている。この林兼を受け継ぎ、後に大洋漁業の創始者となったのが、兼松の二男・中部幾次郎である。中部幾次郎は、1866年播磨国明石東魚町(現在の明石市本町1丁目)に生まれた。21歳で林兼の責務を担った当時、船の動力化の必要性を感じ入っていた幾次郎は、1905年大阪での第五回国内勧業博覧会でアメリカ製の巡航船を目にし、翌年日本初の石油発動機付鮮魚運搬船第一新生丸の建造に成功した。これを機に、林兼商店の操業に拍車がかかる。
 朝鮮の海は、李朝初期から西日本沿岸漁民の格好の漁場だった。1876年江華条約以降は、日本により朝鮮の海への支配が合法化され、特に西日本の各府県は朝鮮への出漁・移住漁村建設に補助金を出すほどであった。こうした状況のなか、1907年春、幾次郎は島根県美保関から対馬経由で朝鮮沿岸に乗り出した。それまで帆船では3日間かかった下関までの航行時間をわずか25,6時間に短縮したのである。その後、日本からの漁業者は次々と蒸気船、機船で朝鮮沿岸に進出するようになった。
 幾次郎は、1910年慶尚南道方魚津に朝鮮事業の根拠地を置き操業地を広げた。方魚津では、漁業のみならず鉄工造船所、商事会社、漁網会社、自動車会社、電燈事業までおこし、小学校や一般住宅を建設した。さらには、農場経営に踏み出し金海の未開墾地350町歩を買収、蔚山、東莢、慶州にも手を広げ2000町歩以上の水田を所有していた。1918年には土佐捕鯨の株過半数買収して捕鯨業に乗り出し、1921年九竜浦では定置漁業を直営した。定置漁場はその後朝鮮半島全体で47ケ所に増え、同業者の間で支配的地位を築いていった。1920年には下関の彦島に冷蔵庫を設置、1927年頃からは江原道から清津に至る地域に、缶詰、イワシ油、〆粕、ミール工場などを設置した。林兼は1925年株式会社となり、朝鮮の海で築いた財を基に、北樺太、沿海州での北洋漁業、南洋捕鯨、そして軍需に応えるべく台湾、満州、南方へとさらに勢力を拡張していった。
 現在、JR明石駅の北側、明石公園大手門入口に、銅像の中部幾次郎が立っている。この銅像は1928年に建立された(戦時中の金属回収で供出され、1951年再建)。市立明石中学新設の折り多額の寄付をし、日本水産界の先駆者と呼ばれ勅定の藍綬褒賞を受けた幾次郎に対し、明石市は市議会の決議にもとづいてこの銅像を建てた。まさに、国家の御墨付きの地元の名士であった。そして、その財産は幾次郎が朝鮮の海に進出することで築かれた。今回は、大洋漁業の朝鮮進出の概略を報告したに留まった。今後は、朝鮮での大洋漁業のより具体的な姿と朝鮮人との関わりが見える資料を探していきたい。

【今後の研究会の予定】
2001年3月11 日(日) 李景a(近現代史)、未定(在日)

月報の巻頭エッセー (予定)

2001年3月号(李昇Y)、4月号(堀内)、5月号(出水)、6月号(姜在彦)、7月号(浅田)、9月号(金森)、10月号(金慶海)、11月号(坂本)、12月号(伊地知)

12月号(田部)、2002年(ワールドカップの年!!)1月号(飛田)、2月号( )、3月号(本間)、4月号(藤永)、5月号(佐野)、6月号(梁永厚)、7月号(文貞愛)、9月号(藤井)、10月号(金河元)、11月号(高木)、12月号(森川) ※ 前月の20日までに原稿を飛田までお寄せ下さい。(先号の巻頭エッセーの当番表は間違っていました。以上のように訂正します。よろしくお願いします。飛田)

編集後記

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

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