青丘文庫月報・155号・2000月12月1日

図書室 〒650-0017 神戸市中央区楠町7-2-1 神戸市立中央図書館内
078-371-3351相談専用 078-341-6737
編集人 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
飛田 雄一 078-851-2760 FAX 078-821-5878
郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円
※ 他に、青丘文庫図書購入費として2000円/年をお願いします。
ホームページ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb.html

●青丘文庫研究会のご案内●
第193回 朝鮮民族運動史研究会
12月10日(日)午後1〜3時
テーマ: 「朝鮮儒教思想史に対する私の視点」
報告者:姜在彦

第227回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
12月10日(日)午後3〜5時
テーマ:「大洋漁業と朝鮮」
報告者:伊地知紀子
会場:青丘文庫
(神戸市立中央図書館内、地図参照)
※ 終了後、JR神戸駅北の平衛六で忘年会をします。
忘年会にのみ合流可です。078-361-2626

巻頭エッセイ
朝鮮社会の魅力とは? 李 景 a

 ヨーロッパやアメリカで最も「人気のある」アジアの国は日本であり、中国であろう。その証拠に、数多の日本研究者、中国研究者らを挙げられよう。綺麗で豊かな日本は、欧米の若い人々にとっては行ってみたい「神秘な国」であり、その文化の祖先だとする中国に関心があるのは当然であろう。しかし、どうだろう。冨士山、芸者、そして天安門も陳腐な話ではないだろうか。
 いま、世界でもっとも注目されているのは、朝鮮社会ではあるまいか。第二次大戦後、東西イデオロギーの対立で国土は南北に分断され、あげくのはて民族同士の骨肉相食む戦争まで経験した朝鮮半島では200万人以上がその犠牲者となった。世界20カ国が関与して冷戦の修羅場であったのだ。しかし、独裁者は塗炭に喘いでいた民衆をしり目に、権力維持に汲々とした。
 ところがその後、南は西洋社会の工業化の体験を圧縮する形で迅速に近代社会に生まれ変わったし、政治の民主化も一応成し遂げた。北も一時は、千里馬運動や自主外交の推進で第三世界の注目を集めたことがある。
 その二つが、分断50年を経て、東欧社会主義圏の崩壊から10年後、いま電撃的にこれまでの敵対関係から「共存」への道を歩み始めている。折しもアジアの新時代を迎えて、その中心国として浮上している。詩人・金芝河が謂うように世界の、民主政治の「アテネの春」が朝鮮半島に根を下ろす日がくるのではないか。金大中大統領がノーベル平和賞を受賞したのも偶然ではないのだ。テレビ画面にも現れなかった北朝鮮の金正日労働党総書記(国防委員長)が6月の南北首脳会談で衝撃デビューを果たして、南北はどうにか「軟着陸」を試みているのである。
 だが、朝鮮社会が魅力的であるには人々が闊達で、多情多感なことも大事だが、「世界に開かれた社会」であり、普遍的な価値観で引き付けるものがあってこそである。麗しき山河の自慢や朝鮮民族だけの「主張」を繰り返しては世界から顰蹙を買うのはむろん、人類社会のモデルにはほど遠い存在となってしまう。いそぐべき課題は、社会的弱者、そして異なる民族との融和を追求することではないだろうか。

 

第191回 朝鮮民族運動史研究会
2000年10月8日(日)
赴戦江水電工事と中国人労働者 堀内 稔

赴戦江の水力発電所工事は、興南の朝鮮窒素の工場に電力を供給する目的で行われた大工事である。朝鮮窒素は、野口財閥の日本窒素(現在のチッソ)が朝鮮進出する際に設立された会社で、水電工事は1926年から1930年にかけて行われた。鴨緑江の支流である赴戦江の上流をせき止めて貯水池をつくり、反対側の山壁にトンネルを掘り、さらに鉄管によって、本来なら黄海に流れるべき水を、日本海に注ぐ城川江に落とすことによって発電するというものであった。朝鮮北部の特殊な地形により、こうした流域変更方式の発電が可能になったといわれる。
 この工事に多数の中国人労働者が働いた。赴戦江の水電工事が始まった1926年当時、中国では内戦の混乱もあって中国から朝鮮へ渡る中国人労働者が増えつつあった。また、朝鮮内の事業主は低廉な労働力を求め、こうして流入してくる中国人労働者だけでなく、自ら中国に人を派遣して積極的に労働者を募集した。彼ら中国人労働者は、朝鮮各地の土木工事などに従事したのである。
 赴戦江の水電工事の場合、厳しい環境の山奥の工事にいかにして労働者を集めるのかが問題であった。当初の労働者供給計画では6千人の労働者が必要とされ、これを渡日労働者2,500人、咸南地方人1,500人、中国人2,000人でまかなおうとした。このうち渡日労働者というのは、渡航制限によって日本に渡ろうとして釜山で足止めされた労働者である。実際に、渡日労働者の一部は赴戦江の水電工事に送られたが、その定着率は悪かったといわれる。結果、中国人労働者が半数近くを占めることになった。彼らは、主に土砂の運搬などに従事した。
 貯水池から水を誘導するトンネルは、竪坑を掘ってから本坑を横に掘り進む方式で掘られた。本坑で出た土や岩を、竪坑から滑車を使ってトロッコごと外へ運び出すのである。中国人労働者は、この土や岩を運び出す作業に従事していたのである。一方堰堤工事では、バラスを掘ったり、掘ったバラスを貨車に積んだりする単純労働が中国人労働者の仕事だった。
 本国での募集までして中国人労働者が使用されたのは、賃金が安かったからであるが、一方で賃金は全く支払われなかったという証言もある(岡本達明/松崎次夫編『聞書水俣民衆史5−植民地は天国だった』草風館1990年)。飯場もなく寒い夜には集団凍死したという証言をはじめ、いくつかの証言から、中国人労働者が悲惨な境遇におかれていたことが浮かび上がってくる。たとえば、「食い物といったら、一食に小さな饅頭が二つに油のギラギラしたスープが茶碗に一杯です」といった具合だ。
 事故も頻発した。ダイナマイトの爆発、貨車の衝突などで工事中に200人以上が死亡し、負傷者は数え切れないという。日本人の死亡者は10人以下で、ほとんどが朝鮮人と中国人だった。こうした犠牲者の慰霊塔を建てたいと思って本社にいったら、死者がいかに多かったかを宣伝するようなものだとして、許可されなかったという証言もある。
 日本の植民地下朝鮮で、朝鮮人以上に厳しい条件で働いた中国人労働者。その背景には朝鮮人の中国人に対する蔑視感がなかっただろうか。工事は1930年で終了するが、1931年7月の万宝山事件で朝鮮内の中国人は、大きな変化をきたすことになる。

第226回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2000年10月8日(日)
「李朝末期に来日した朝鮮女性たち」 金 慶 海

李朝末期(1876年〜1910年)に来日した朝鮮女性についての【大阪朝日新聞】、【神戸新聞】、【神戸又新日報】らの報道記事を拾って点描してみた。それを見ると、数十人にも及ぶ女性らが様々な理由で来日し、色々なことをしていることが解る。
その女性たちについて、いくつか紹介する。
△先ず、政治家らの女性たち
・亡命者、朴泳考を慕って来た女性とその間にできた娘。
 1884年12月のクーデターで失敗した金玉均、朴泳考らが日本に亡命。その翌年の1885年10月、朴の後を追って女性(姓名不明、22,23?)が来日した。多分、彼女が来日女性の第一号と思われる。彼女は朴との間に妙玉(ミョオク)を産むが、すぐに他界。この妙玉は、在日二世の最初だと思われる。
 この妙玉は、亡命者の娘として数奇な運命を父と共に歩んだ。長崎(福岡か?)で15歳まで他人に預けられて育ち、その後は、朴が住んでいる神戸に来て神戸女学校に入学。
 1907年6月、父・朴と共に帰国するが、父が済州島に流島の処分を受けたので、島流しに同行する。そこでは、女性たちの教育に尽力するが、父の特赦によって1910年6月、本土に帰る。
・外交官たちについて行動を共にした女性たち
 最初に渡米したのは、駐米外交官として赴任する李完用と李采淵の婦人たちのようだ。その彼女らが、渡米の途中の1888年に日本に寄港してアメリカに行った。日本でなく、アメリカまで行ったということは、それだけで大変な行為ではなかろうか。
△留学生たち
 1885年に、官費留学生として4名の女性たちが慶応義塾に入学した。彼女ら以外にも、私費留学生らが来日している。残念なのは、その後の彼女たちの動きが解らないこと。
 1908年4月現在で、日本での女性留学生が約百人と、【朝日新聞】は報じている。
△労働者たち
・飲食店で働いた女性たち
 1895年に、神戸で朝鮮蕎麦を出す「日韓楼」が開業したが、そこの女給としてソウル出身の3名の女性が働いた。あまりもの忙しさで、ストライキをする。
 それ以後、東京、大阪、京都でもそのようなところで働く女性たちがいる。
・肉体労働者か?
「労働者(下関)」の見出しで、『男女70名鹿島組の手にて7日朝大阪に送れり。右は電鉄工事に従事するものなりと』だけ【朝日】が報じている(1909.8月)。彼女らも肉体労働をしたとは思いにくく、夫婦で来て炊事婦として働いたのでは? 行き先はまだ突き止めていない。
△ 妓生
 1903年にあった大阪博覧会に16歳から22歳までの官妓5名が来て、客を接待する。彼女ら以外にも、何組かが来日しているが、大きく報じられたのは、植民地化される時の1910年の5〜7月に来日した妓生たち。13歳〜19歳の8名で、歌舞をする気品が高尚で評判だったとのこと。大阪、京都、神戸、名古屋、東京と巡回する。
観光団のメンバーとして来日
 朝鮮が植民地になったその直後の1910年の10月〜12月にかけて、日本の新貴族の称号をもらった人たちの婦人連が日本観光の名目で来日。20人ほど。
 彼女らの来日を見ると、次のようなことが特徴的だ。
1.19世紀末ごろからボチボチと来日している。
2.李朝末期に、封建的人身呪縛にがんじがらめだった彼女らが、海外に出たと言うこと自体が、非常な勇気の要る行動だったと言える。
3.比較的に恵まれた女性たちが留学・技術の習得の目的で来日したり、食べるために肉体労働者として来日した女性たちがいたということ。
4.しかし、帰国後の彼女らの行動が解らないことが私の弱点。皆さんのご教示を願う。
5.来日した彼女らは、ほとんど定着していないのではと思うが。これも不明。

【今後の研究会の予定】

2001年1月14日(日) 本間千景(民族)、未定(在日)

 

月報の巻頭エッセー

2001年1月号(出水薫)

※ 前月の20日までに原稿を飛田までお寄せ下さい。

 

『在日朝鮮人史研究』30号がでました!

(2000年10月、A5、175頁、2400円)

※ 月報購読者特価、送料とも2000円を

郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>で送金下さい。

 

編集後記

 

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

青丘文庫月報一覧神戸学生青年センター