青丘文庫月報・149号・2000月5月1日

図書室 〒650-0017 神戸市中央区楠町7-2-1 神戸市立中央図書館内
078-371-3351相談専用 078-341-6737
編集人 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
飛田 雄一 078-851-2760 FAX 078-821-5878
郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円
※ 他に、青丘文庫図書購入費として2000円/年をお願いします。
ホームページ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb.html

 

●青丘文庫研究会のご案内●
第223回 在日朝鮮人運動史研究会&第187回 朝鮮民族運動史研究会
5月14日(日) 大津市でのフィールドワーク−宇治川水力発電所水路、大戸川発電所などを見学、 余裕があれば「渡来人」がつくった磨崖仏を探します−
※参加者は、車の都合がありますので、5月11日までに連絡ください。(飛田、TEL 078-851-2760 FAX 821-5878、rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)
午前10時、JR石山駅前集合&出発 飛田の当日の携帯電話は 090-9050-8227
案内・資料作成(宇治川は水野氏、大戸川は松下氏、磨崖仏は仲尾氏?)
午前中宇治川の水路を見た後、瀬田の唐橋あたりで昼食(弁当持参です!)
午後4時Or5時解散の予定です。

巻頭エッセイ
インターネットによる朝鮮関係データベース雑感 堀内 稔

 10年数前、パソコン通信を使って朝鮮関係の情報のやりとりができないものかと考えていた。当時、NECのパソコン通信ネットに「アリラン」という朝鮮関係全般を話題にしたコーナーがあったが、もう少し学術的な、たとえば朝鮮関係の論文などをデータベースにして誰でも検索できるようなシステムをつくりたかった。自分でホスト局を開設することも検討したが、パソコンはともかく、データベースを検索できるようなホストにしようとすればソフトがとても高くつくのであきらめた。
 時代は変わってインターネット時代。ホームページでかつてのホスト局開設のようなことが簡単にできるようになった。長年考えていた朝鮮関係のデータベースもあっけなく実現した。さすがに誰でも検索できるようなデータベースになると、普通一般のホームページを開くようなわけにはいかない。それが可能なプロバイダーをさがすか、自前のサーバーを持つことが必要だという。そのため、他の人のホームページにのっかった。京大の水野さんのホームページ(http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna)で在日朝鮮人関係の新聞記事見出しデータベースを、金明秀さんのホームページ「ハン・ワールド」(http://www.han.org)で雑誌記事検索のデータベースをそれぞれつくってもらい、データを提供したのである。
 新聞記事見出しのデータベースは、戦前の在日朝鮮人の新聞記事見出しを検索できるようにしたもので、朝鮮飴売りの資料を調べていたとき、全国の飴売りの新聞記事を見ることができたらどんなに便利だろう、と思ったのがきっかけ。私は神戸を中心とした地域の新聞記事見出しデータを提供したが、そのほかに北九州や広島などのデータも入っている。雑誌記事検索のデータベースは、『むくげ通信』に連載している書誌探索のデータを提供したもの。「ハン・ワールド」に雑誌記事検索のデータベースをつくるというアイデアも、水野さんから出たもののようだ。私は、渡りに舟とばかりにその提案にのっかった次第である。
 一方、私が所属しているむくげの会のホームページは、神戸学生青年センターの飛田さんが開設しているから、私があらためてホームページを開設する必要性はほとんどなくなってしまった。したがっていまだに「ホームレス」の状態にある。ただ、これまでの体験からいってホームページを管理していくのは、マメでないとできないと感じている。手紙のやりとりなどに関しては、元来がズボラな私の性格では、ホームページをうまく運営していくことはおぼつかない。「ホームレス」でよかったとも思うこのごろである。

 186回 朝鮮民族運動史研究会(4月9日)
「満洲事変と間島――朝鮮軍の間島併合論を手がかりに」 広岡 浄進

間島(延辺)はいかにして満洲国の一部となり、間島在住朝鮮人は満洲国あるいは日本帝国とどのように関わりを持ったのであろうか。この問いへの手がかりとして、本報告では満洲事変の際に朝鮮軍から提起された間島における国境線変更(朝鮮への併合)論の経過をたどり、それが間島現地に及ぼした影響、間島と朝鮮とのつながり、について考察をつなげていく端緒としたい。
 1931年9月に満洲事変が勃発したとき朝鮮軍が奉勅命令を待たずに鴨緑江を越え奉天へ向けて関東軍に援軍を派兵したことは知られているが、朝鮮軍司令官・林銑十郎の『満洲事件日誌』を見ると、彼が同時に豆満江対岸の間島への出兵占領、ひいては朝鮮への併合を構想していたことが記されている。前任の司令官・南次郎(事変時には陸軍大臣)が在任中の前年30年8月に参謀本部に宛てて、国境線の変更が根本的解決であると強調している(このときには現時点での軍事行動は困難と結論しているが)ことから、この構想は朝鮮軍の中で温められてきていたものとも推測されうる。
 事変にあわせて間島の治安を悪化させて出兵の口実とするための準備は事前に朝鮮軍側で着手されていたが、事変勃発の直後には在間島総領事館と現地中国側官憲とが協力して治安を維持したため工作は失敗し、朝鮮総督・宇垣一成の助言もあってこの9月末には出兵・占領を一旦断念、朝鮮軍は間島の「自治」「独立」工作に期待をかけつつ出兵の機を探る。ところが同年末にはこれが「間島方面ノ独立計画ノ裏面ニハ民族自決ヲ高唱セントスル気分濃厚ナルヲ認メ来ル」ため、「総督府ニテモ之ヲ抑圧スル事ニ意見一致」し、林司令官は再び間島併合を構想の第一とする。しかしこれは関東軍の容れるところではなかったようである。朝鮮軍からの働きかけがかんばしい反応を引き出せていない様子は林の日誌からも窺われるが、結局32年4月初に朝鮮軍から臨時間島派遣隊が派兵されるに際して、間島が満洲国の領域に属することが確認される協定への了承を、関東軍から求められることになる。(この間の関東軍・朝鮮軍・総督府三者の交渉の過程に関する史料は、外務省記録からも防衛研究所所蔵の陸軍側史料からも出てこなかった。)
 宇垣朝鮮総督はこの間どう考えていたのか。31年10月に若槻首相に宛てて送った書簡では、満洲事変の追認を求めているが、間島の処遇について具体的に言及してはいない。くだって翌32年2月・3月になって、『日記』に間島への出兵が列強世論に悪影響を及ぼすおそれがあるので、出兵には反対してきたのだという記述が出てくる。
 間島の朝鮮併合論自体は朝鮮軍以外ではまともに検討されることはなかったのかもしれない。しかしこのこととおそらく連関して、民生団のように間島在住朝鮮人が「自治」に期待をかける動きを取り始める。しかもそれは日本側の思惑通りのものでもなかった。この相互の関係について注意を払うべきとのアドバイスを頂戴した。
 本報告は発表者の修士論文作成に向けての準備報告を兼ねるつもりであったが、会場にて「日本側内部での議論だけを追いかけても広がりをもたない」という趣旨の批判を頂戴した。現状では材料不足の感は否めないため、今後、36・37年の満洲国治外法権撤廃の時期まで広げ、この時期における朝鮮人の動きを同時に追究しながら、修士論文に間に合わせたい。

第222回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2月13日)

「国立公文書館所蔵:内務省警保局による朝鮮人関係資料」 福井 譲

国立公文書館(東京都千代田区北の丸公園)では,政府の各行政機関によって作成された公文書が保存されている。『警察庁文書』はその中の一つであるが,基本的に警察関係の資料が公開される例はあまり見られない。同文書が警察大学校から国立公文書館に移管されたのは1997年,一般に公開されるようになったのはようやく昨年(99年)の9月になってからのことである。
 この『警察庁文書』は大きく「内務大臣決裁書類」と「内務省警保局長決裁書類」とに分けられ,前者としては1896〜1947年(うち1897〜99,1905,07〜09,17,22,39の各年分は欠如),後者は1906〜1920年分が収められている。ここには警保局によって作成された朝鮮人関係資料が含められており,発表者は昨年12月,1910年代を中心に内務省によって作成された「内地」在住朝鮮人関係の通牒類をいくつか発見することができた。確認したものは以下の通りである。

T。内務大臣決裁書類
「韓国人居住労働者ニ関スル件稟請」 1906年4月19日
「内地在留朝鮮人視察並月表調整方ノ件」 1910年9月8日
「労働者タル朝鮮人保護ノ件通牒」 1911年1月23日
「朝鮮人戸数人員及職業別調二関スル件」 1912年11月16日
「漂着朝鮮人救済費ノ件」 1912年4月1日
「朝鮮人内地渡航外四項二対スル事務取扱方ノ件」 1918年7月12日
U。警保局長決裁書類
「朝鮮人ニ於テ娼妓名簿登録申請者ニ関スル件」 1910年4月19日
「明治四十四年中内地在留朝鮮人ニ関スル調」 1911年12月18日
「朝鮮人タル芸妓ノ現在調」 1912年8月17日
「内地朝鮮間ニ於ケル鉄砲火薬類ノ譲渡譲受ニ関スル件」 1914年3月30日
「内地在留外国人調ノ件通牒」 1914年10月15日
「要視察人取締ニ関スル件通牒」 1915年1月9日
「要視察人尾行引継書様式改正ノ件依命通牒」 1915年10月9日
「朝鮮人巡査採用ニ関スル回答書翰案」 1916年8月11日
「日鮮労働者争闘度数其他調査ノ件」(庁府県) 1918年12月12日

まずこれらのうち,内務大臣決裁書類に見られる「内地在留朝鮮人視察並月表調整方ノ件」(10年9月8日),「朝鮮人内地渡航外四項二対スル事務取扱方ノ件」(18年7月12日)は,それぞれ通牒名は異なるものの,内務省秘第857号「朝鮮人戸口職業別人員表ノ件」,内務省秘第1528号「朝鮮人内地渡航外四項ニ対スル事務取扱方連絡ニ関スル件依命通牒」と同内容のものである。これに対し12年11月16日の「朝鮮人戸数人員及職業別調二関スル件」は,これまで内務省秘第1351号「朝鮮人二対スル視察取締ニ関スル件依命通牒」(朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』第1巻所収)を通じて存在自体は知り得たものの,通牒名および原文の不明であった「内務省警第250号依命通牒」と同一のものと思われる。
 警保局長決裁書類にある「明治四十四年中内地在留朝鮮人ニ関スル調」(11年12月18日)は,同年1月から9月にかけて月毎に作成された「内地在留朝鮮人戸数別人員表」および「職業別人員表」の二種類の統計表である。各月末における道府県別の数が記載されており,併合直後に内務省によって作成された統計として極めて興味深いものである。これは調査対象年月からして継続的に各道府県警察による統計を集計したものと思われるが,しかしこれ以降の統計や同時期における指示事項に関しては今のところ明らかではない。
 これらの史料から,内務省が1910年代においても既に「対朝鮮人政策」を立案,実施していたことが推察できよう。ただし同時期の朝鮮総督府のように,朝鮮人を雇用する「内地企業」への対策・指示事項に関しては今だ不明である。また定期的に在住朝鮮人に関する統計の作成が指示されていたことを窺い知ることができるものの,それがどの程度厳密に履行され,効果を得ていたのかについても未だ明らかではない。これらの点に関し,今後さらなる資料発掘が期待される。
 なお蛇足までに,従来原文の不明であった「労働者募集取締規則取扱手続」(朝鮮総督府警務総監部内訓甲第4号,1918年3月12日)についても今回発見し,その内容を知り得ることができた。この内容に関して,類似点の見出される満州国勅268号「労働統制法」(1938年12月1日)も念頭に置いて,今後の課題としておきたい。

6月の研究会 6月11日(日)午後1〜5時、民族(田慶江)、在日(未定)

月報の巻頭エッセー
6月号(広岡浄進)、7月号(金森襄作)、9月号(佐野通夫)、10月号(休刊)、11月号(水野直樹)、12月号(坂本悠一)、2001年1月号(李景a)

編集後記

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

青丘文庫月報一覧神戸学生青年センター