青丘文庫月報・146号・2000月2日

図書室 〒650-0017 神戸市中央区楠町7-2-1 神戸市立中央図書館内
078-371-3351相談専用 078-341-6737
編集人 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
飛田 雄一 078-851-2760 FAX 078-821-5878
郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円
ホームページ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb.html

 

●青丘文庫研究会のご案内●

第222回 在日朝鮮人運動史研究会会
2000年2月13日(日)午後1時〜3時
報告者 福井 譲
テーマ
「 国立公文書館所蔵:内務省警保局による朝鮮人関係資料 」

第185回 朝鮮民族運動史研究会
2月13日(日)午後3時〜5時
報告者 藤井たけし
テーマ
「大韓民国初期反共体制の成立と麗順事件」

※会場はいずれも青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

※3月の研究会
3月12日(日)在日(福井譲)、民族(李景a)

巻頭エッセイ

ソウル最近井戸端会議事情 渡辺直紀

韓国に留学したにもかかわらず、下宿のアジュンマ(おばさん)の名前もろくに覚えず帰国したというような話は、留学体験記などでもたまに見かける。こちらの母たちは、子供の名前を前につけて「〇〇オンマ」(〇〇の母さん)と呼び合うので、フルネームの方は、いちいち本人に聞き出しでもしない限り、普通に顔を合わせている分には絶対に分からないからである。

彼女らが仮に職場などに通う身であったなら、そこではフルネームで呼ばれるのだろう。だが、私の配偶者も含む、わが近所の大多数のアジュンマたちは、子供たちが遊ぶ空間にともに身を寄せ、互いに子供の名前を冠した「〇〇オンマ」という呼称で呼び合っている。そして、収入がいかほどにもならない内職を融通し合い、あるいは時に道端にゴザを敷いて一緒に針仕事などをしながら、井戸端会議さながらに地域情報を交換するのである。「どこどこの産婦人科は切らなくてもいい腹を切った、あれはきっと暴利をむさぼるためにちがいない」とか、「A幼稚園は子供だけやたら集めるだけで何も教えないからよくない、やっぱB幼稚園に通わせよう」とか、幾分、地域社会に対する不満を込めたような類いの話だ。朴泰遠の長編『川辺風景』(1936〜37)に出てくる清渓川沿いの洗濯場を彷彿とさせるような世間話である。

道端にできるその母と子の輪に、最近、父親たちの姿が目立ち始めた。IMFの不景気がまだ冷めやらぬせいだろうか、昼間どこも行くあてのない彼らは「〇〇アッパ」(〇〇の父さん)と呼ばれながら、結構その場の雰囲気を楽しんでいるようだ。私も特定の職業を持つ身ではないので、一度、昼間からその道端会議にお呼ばれに預かったが、私は他のアボジたちと違って、どうもその場に溶け込めず困ってしまった。子供たちは遊び、母親たちは針仕事と、それぞれれっきとした「仕事」があるのに、手持ち無沙汰の状態で、どうやってその場をやり過ごしたらいいものか迷ってしまったのである。

そのように私がオロオロしていると、もうすぐ幼稚園に上がろうかというヘギョンが、「アジョッシ(おじさん)、コンニチワ」と日本語まじりで挨拶してきた。うちには子供がいないので、私は「〇〇アッパ」ではなく「アジョッシ」だ(ちなみに私の配偶者は、子供たちから「イモ」と呼ばれている)。私が日本人であることを知っているヘギョンオンマが、娘を差し向けたのである。韓国の英才教育もここまできたかと私が驚いていると、そのヘギョンが今度は両腕を回して腰を振りながら、「コンニチワ、コンニチワ、オハヨウゴジャイマシュ……」と日本語の歌を歌いだした。

聞くと、私の横でその愛娘の姿をニコニコ見つめるヘギョンアッパは、日本に7年間、アニメ制作の勉強に行ってきたのだとか。日本の大衆文化開放とかで自分にも少しは仕事が回ってくるかと思いきや、全くそのおこぼれにも預かれず、井戸端ならぬこの道端でお茶を濁しているのだそうだ。「景気はずいぶんよくなったはずなのに、なかなか難しいですな」と、ポケットから花札を取り出して配りはじめるヘギョンアッパ。久しぶりの花札にこちらも少し緊張しながら、韓国ルールなど思いだそうとしていると、向こうの方からどやし声が聞こえてきた。「真っ昼間から恥ずかしいから、とっとと家に帰ってテレビでも見てなさいってば!」──ヘギョンオンマである。その横で一緒に笑いながらこちらを見つめる、この地域の内職の元締・チンジュオンマ、そのまた横で懸命に針仕事にいそしむ、生真面目が信条のジェウォンオンマと、そして私の配偶者。

花札をかき集めてすごすごと退散するヘギョンアッパの後について、バツが悪くなった私も早々にその場を切り上げた。やはり、いくら父親たちが昼間暇になったとはいえ、道端で花札などしていては、よくなる景気もよくならない。それにもまして、企業から締め出された父親たちが、昼間、子供やその母親たちの声で賑わう道端で安穏と過ごそうとしても、そう簡単にうまくいくものではない。川辺の洗濯場も井戸端も道端も、働き者のアジュンマとその子供たちの独壇場であることは、今も昔も変わりないのである。

第183回 朝鮮民族運動史研究会(12月12日)

併合前後の朝鮮人「民籍」と「名前」

――「内地人ニ紛ハシキ姓名」の禁止―― 水野直樹

一九〇九年制定された大韓帝国の法律民籍法は、それ以前の戸籍とは異なる「近代的」な戸籍編製を目的とするものであった。韓国政府を実質的に掌握していた日本は、民籍事務を内部警務局(局長松井茂)の所管とし、日本人巡査・憲兵、朝鮮人巡査補・憲兵補助員を動員して、一九九九年七月から翌年四月まで朝鮮全土で民籍実査を行ない、民籍を作成した。民籍簿の様式は当時の日本の戸籍のそれを下敷きにして作られたものであったが、民籍法に定められた内容は、日本の戸籍法とは異なって朝鮮の慣習をある程度反映したものであったといえる。

民籍の実査は、人民の「誤解」、女性を登録すると日本人に連れ去られるという「噂」、当局が慣習を把握しえていなかったことなどから、容易には進まなかったが、当局は告諭を発したり、人民を集めて「説得」したり、あるいは朝鮮の慣習と衝突しないやり方をとったりした。特に、成人女性の名を登録することが困難であったため、とりあえず父姓と続柄・年齢などだけを記載するにとどめることとした。

こうして、一年近くをかけて、民籍の作成が終わったのは、併合直前であった。この結果、朝鮮全体の戸数・人口は三年前に比べて、それぞれ一七%、三二%増加することになった。当局の把握の程度がそれだけ高まったわけであるが、性別の比率は男百に対して女八九となっており、民籍上で女性を把握するには不充分なものであった。その後、一九一〇年代に朝鮮総督府は民籍を整理して、実態を反映するものに改めていく作業をすることになるが、ひとまずは併合直前の段階で支配の対象となる住民の登録(すなわち「人の支配」)を制度的に確立したのである。

こうして住民の属性を登録した民籍が法的な意味を持つことになったが、そこに登録される姓名に対して日本は、どのような政策をとったのであろうか。

併合直後から一部の朝鮮人官吏・警察官が日本的な姓名に改め、それを民籍に登録する事例が見られる。官吏でない一般民衆の間でもそのような風潮が見られた。民籍法の規定では、改姓名は届け出さえすればよかったため、日本的な姓名を法的に持つ朝鮮人が生まれたことになる。

朝鮮総督府や朝鮮在住の日本人の一部では、これを「日本への同化」の表われとして歓迎する見方もあったが、他方では警戒・反対する意見も見られた。朝鮮人の「風俗慣行」などは日本人と異なるから、適用法規に違いが設けられ、官吏の給与・待遇でも格差がつけられている以上、「姓名に依りて一目日鮮人たることを判別」できるようにしておかねばならない、という意見であった。朝鮮総督府でもこれと同様の意見が強まったようである。ある役所で間違えて朝鮮人に日本人額の旅費を出したことが問題となった、ともいわれるが、結局、朝鮮人が「内地人ニ紛ハシキ姓名」に改めることを禁止する措置がとられた。一九一一年一一月一日に施行された総督府令第一二四号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」とそれに附随する通牒によって、姓名改称には警察の許可を必要とすること、「内地人ニ紛ハシキ姓名」への改称は許可しないこととしたのである。出生届の段階でも、日本人的な名を届けることはきびしく制限されることになった。また、すでに「内地人ニ紛ハシキ姓名」を持っていた朝鮮人には、圧力をかけて「復姓」させるという措置もとられた。

こうして、法律上の姓名に関しては、朝鮮人と日本人との間に差異を設けて、容易に区別しうるシステムが作られた。それは、植民地的な支配秩序を維持するために日本が必要とみなしたことだったのである。この政策が変更されるのは、一九三〇年代後半のことであると見られる。

第220回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会(12月12日)

梁永厚「1930年代在阪朝鮮人のジャーナリズム」(略)

編集後記  

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

青丘文庫学生センター