『むくげ通信』208号(2005年1月)

史片114
 協和会体制移行と甲南終美会   堀内 稔

 協和会とは戦時下おける朝鮮人の抑圧・統制組織で、治安維持による日本国内の戦時体制の確立と皇国臣民化による朝鮮人労働者の動員を目的とした。その組織は府県単位で、各警察所管内ごとに支会が設置された。協和会の具体的な活動は、神社参拝、和服着用、神棚の設置、国防献金などであった。

 協和会設立の事業を進めるにあたり原則とされたのは、既存の融和団体を無条件で取り入れたりその連合体をつくるようなことは避けることであった。そのため、各地の融和団体は協和会への移行にあたっていったん解散させられたが、解散から協和会への移行が明確になっている融和団体は数少ない。解散して芦屋協和会へと移行した甲南終美会はその一つである。

  兵庫県内の協和会の設立は、193712月の伊丹協和会を皮切りに、翌383月の林田協和会、同11月の宝塚懇話会、同12月の灘親和会と続き、1939年に入るといっきにその数を増した。芦屋協和会は394月に設立された。当時の芦屋署の管轄は、精道村、本山村、本庄村で、精道村は現在の芦屋市、本山、本庄村は神戸市東灘区である。

 その前身となった甲南終美会は、芦屋署の肝いりで「有名無実におちいっていた」とされる槿華青年会、東華自治会、朝陽親睦会の三団体を解散させ、19376月に発足の運びになっているとされる(『大阪毎日』1937.5.14阪神版)。兵庫県社会課の19373月の調査によると、精道、本山、本庄の三ヵ村に居住する朝鮮人は2,800名であった。会の事業は内鮮融和、紛争事件の解決、服装風紀の改善、失業者就職斡旋、衛生諸設備などで、「半島人の有力者を招き着々準備を進め」ていると報じられている。

 ところで解散させられた三団体であるが、阪神東華自治会は193012月に本庄村の姜岩伊らによって設立された団体で、193512月青木公会堂で開催された第6回総会では夜学の拡張と消費組合支持が決議されている(『民衆時報』1936.1.1)。槿華青年会は19362月に本庄村深江の李敬哲らによって設立された団体で、同年3月より会員子弟に朝鮮語を教える夜学を開始したが、県当局は内鮮融和に悪影響を及ぼすとして夜学への通学を阻止したため夜学は閉鎖に追い込まれた。朝陽親睦会は、1937年に本庄村村会議員に当選した朴柱範が顧問をした民族親睦団体である。

 これらの団体は、左翼的消費組合である阪神消費組合と密接な関係をもっていた。東華自治会の幹部である金炳善は阪神消費組合青木支部責任者であったし、同じく幹部の車甲得は阪神消費組合の第6回総会で理事に就任している。朝陽親睦会の朴柱範も阪神消費組合の幹部であった。また槿華青年会の夜学も、本庄村青木にあった阪神消費組合の支部活動の一環としての夜学を受け継いだものと推測することもできる。

 しかし、左翼的な活動はもとより民族的な活動も非常に困難な時代であった。当局の干渉によってこれら団体は、ほとんど活動できなくなっていたと考えられないことはない。一方当局側からすれば、左翼的あるいは民族的性向の指導者のいるこれら団体は目障りだったであろう。そこで解散させて融和団体の性格の強い甲南終美会が設立されたのではなかろうか。問題はこれら団体の指導者であるが、そのまま甲南終美会に入ったのか、あるいはそこから逃れることが可能だったのかについては不明である。

 甲南終美会の活動としては、19383月に総代会を開いたこと(『神戸新聞』1938.3.19兵庫県版)、同年4月総代会の決議に基づき6510銭を皇軍慰問金として献金した(『大阪毎日』1938.4.13阪神版)こと、同年7月の阪神大水害時に芦屋署特高係の指揮の下に約130名の会員が、本山村の土砂を除去したこと(『神戸新聞』1938.7.27兵庫県版)が報道されている。

 1939328日付『神戸新聞』阪神版は、「終美会を解散/芦屋内鮮協和会をつくる」との見出しのもとに、「一層基礎を強固ににし生活風俗の改善向上、衛生思想の普及、精神作興などにつとめるため[4]一日終美会を解散、改めて芦屋内鮮協和会をつくることになり四月上旬その発会式を行ふ」と報じた。この時点での芦屋署管内の朝鮮人は3,500人だったとされる。

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