むくげ通信205号(2004年7月)

史片(111)

戦前神戸市の教導委員制度       

堀内 稔

 「市内に在住する朝鮮人の生活向上をはかるため、神戸市に教導委員十五名を設くることとなり、その発会式ともいふべき第一回会合を二十三日午後四時から市立林田食堂(林田は現在の長田)で行ふこととなった」−神戸市の教導員制度を報じた1927年10月23日付『大阪朝日』の記事の一部で、見出しには「他都市に例のない」制度であることが掲げられている。

 教導委員とは、「朝鮮人の事柄を専門に扱う方面委員」だとされる。方面委員とは現在の民生委員にあたる組織で、教導委員は神戸市教導委員規定によって市長が嘱託した名誉職だという。

 上記新聞記事によると、教導委員が取り扱う事柄は次のようなものであった。

 @朝鮮人の生活状態を調べて向上の方法  を講究すること

 A日本人と朝鮮人の融和をはかり社会公  共の精神を鼓吹すること

 B職業の紹介、住宅の斡旋をすること

 C保護救済の方法を講究すること

 D就学奨励、人事相談に応じること

 こうした制度は、新聞で報道されているとおり他の都市にはなかったであろう。では、なぜ教導員制度が神戸市につくられたのか。そのいきさつを示す明確な資料はないが、制度発足の1ヵ月前に発表された神戸在住朝鮮人の調査報告書、「在神半島民族の現状」(神戸市社会課)が契機となっていることは容易に想像がつく。

 この調査が実際に行われたのは1926年の5月から6月にかけてで、調査は「市内在住朝鮮人の意志を代表し得る有力者」28名に委託された。教導委員の多くはこの調査を委託された28名の中から選ばれているし、教導委員が取り扱う事柄は、調査の課程で明らかとなり、問題とされた事柄であった。

 教導委員は各警察署の管区をそれぞれ担任区域とし、1区域あたり2〜4名が教導にあたり、各区域には常任委員も1名ずつ配置した。

 どのような人物が教導委員だったのか。1930年4月に出された朝鮮人に対する神戸市の2回目の調査、すなわち「神戸市在住朝鮮人の現状」では、各区の教導委員を中心として、19名に調査事務を委託したとして、次の名前を挙げている。

 権奉昭、禹照舜、金正祈、呉達淳、姜聖秀、盧諾奉、崔太文、姜文煥*、崔仁c*、金守奉、李丙学、朱雲錫、崔在俊*、裴喜源*、朴徳龍*、朴文順、郭寅培*、朴表魯、李海俊*(*印は1回目調査も委託された人)

 「教導員を中心として」とあることから、この中には教導委員以外の人も含まれているはずである。そこで新聞記事等から、確実に教導委員であった人物を列挙すると、崔仁c、姜文煥、権奉昭、朴升*、李海俊、韓仁敬 (*は不明字)の6人である。このうち韓仁敬(「民衆時報」広告)、李海俊(1937年の戦捷、防共の祈願祭の記事)を除く4名は、「神戸又新日報」が1932年8月初めに連載した住宅問題座談会の出席者である。

 このうち韓仁敬、朴升*両人は、神戸市の第2回調査を委託された19人に含まれていない。教導委員のメンバーが一部入れ替わっていることも、充分に考えられる。

 また、1930年ハングルによる選挙投票が認められたことにより、同年2月神戸市では朝鮮人9名にハングルの開票事務の委託をしているが、9名のうち1名を除2回目の調査を委託した人物と重なっている。

 1回目の調査を委託された28名のなかには、左翼系統の人物も若干混じっていた。しかし、左翼系統の人物が教導委員に選ばれることはまず考えられない。実際、権奉昭、姜文煥のふたりは内鮮融和会、崔仁cは内鮮興助会、崔在俊は良民良心団、李海俊は鮮人救済会、韓仁敬は戊辰協和会といった融和団体のリーダーであり、メンバーであった。これ以外の教導委員と目される人物も推して知るべしであろう。

 1932年4月兵庫県内鮮協会が林田区で、朝鮮から妓生を招いて慰安会を行ったことに対し、朝鮮人各団体から批判の声が上がった。団体のなかには内鮮興助会といった融和団体も含まれており、これらの団体と教導委員の有志が、内鮮協会は救済指導といった本来の趣旨を忘れ、朝鮮人の目下の問題を等閑視しているとの内容の具申書を知事に提出するという動きも一部にあった。

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