むくげ通信203号 /2004年3月

日本語教師として接した韓国の若者       中西智子

 

 学校の前で同僚と(左から2番目が筆者)

 

 「いつか韓国で働きたい」。高校時代から韓国に関心を持ち、大学時代、10カ月という短期間であったが交換学生としてソウルで生活した私は、ずっとそんな思いを抱いていた。

 大阪の日本語教師養成講座を修了すると、私はソウルを中心に語学学校や大学の日本語学科などに履歴書を送った。そして最初に返事を受け取ったのが時事日本語学院だった。しかも場所はソウルの中心部で、歴史ある古い建物と新しいビルが混在する、私の大好きな鐘路。迷わず決めた。そして2001年8月、念願かなって私は日本語教師として、再びソウルの地に降り立った。

 韓国の語学学校は、朝が早く夜は遅い。会社や学校が始まる前と終わった後に勉強できるように、早朝と夜間に授業時間が設定されているからである。私の担当授業は、文法をひととおり勉強した学習者を対象とする会話クラス(月〜金。1コマ60分)だったが、1時間目は午前6時40分に始まる。それから休み時間を挟みながら午前は11時まで3コマ、午後は5時50分から9時10分まで3コマの授業があった。学生は毎日、自分の都合にあわせて、6コマのうちのどの時間にでも出席できる。11時から夕方6時前までは教師にとって長い「昼休み」になるが、会議や勉強会など特別な用事がなければ自由時間だった。帰宅は午後10時前で、シャワーを浴びて簡単な夕食をとり、翌日の授業の確認をして就寝。そしてまた翌朝5時半に起きて、6時40分から授業。韓国での日本語教師はとにかくタフでなければ勤まらない。

 このような勤務時間のため、ゆったりくつろいだ気分になれる暇はなかなかなかったが、それでも毎日充実していて楽しかった。私は何より、好きなソウルにいて、ソウルの空気を吸って、ソウルの活気を肌で感じながら働いているということだけでうれしかった。学校の近くには景福宮や仁寺洞、南大門市場があり、昼休みに散歩がてら訪ねることもできた。食事も楽しめた。寮で自炊する時間の余裕がなくてもっぱら外食に頼ったが、路地裏の小さな定食屋から雰囲気のいいレストランまで、手ごろな値段で食事ができ、飽きることがなかった。それに何と言っても学生たちがすばらしかった。体調が悪いときなど、ときにはつらく感じる勤務時間ではあったが、それでも頑張れる力を与えてくれたのは学生たちの「熱心さ」と「真面目さ」だった。それにみな本当に礼儀正しかった。韓国の冬は厳しいが、どんなに雪が降ろうがマイナス15度になろうが、朝6時40分の授業に遅れなかった。

 会話クラスの学生は老若男女が混ざり、日本語の勉強を始めた動機も職業もさまざまだった。日本のアニメや音楽に関心がある高校生。日本に留学を希望している大学生。日本企業で働く人や日本人と取り引きのある会社員。南大門市場のおにいさんや免税店のおねえさん。日本特派員をめざす記者。日本へよくゴルフに行くというマダム。子どものとき日本語で教育を受けたという年配の紳士。会話クラスは1カ月で教科書1冊を終える授業編成になっていたから、毎月新しいクラスになり、私は毎月新しい学生と会うことができ、本当にたくさんのさまざまな人々との出会いがあった。

 日本と韓国の間には35年間の植民地支配という「不幸な」歴史がある。韓国語の中には、タマネギ、ツメキリ、ヤリクリ、シタバタラキ、アンコなど日本語の言葉が残っていて、若者はその語源を知らずに聞いたり使ったりしていた。たまたま授業中にその言葉が出てきたとき、「日本語ですよ」と言うと、彼らはみな「知らなかった」と言った。けれども彼らのほうから「歴史」についての話が出ることは一度もなかった。そのような話になりかけると、彼らのほうが避けた。それでも時にはそういう話になることもあった。ある日、たまたま「歴史」の話になったとき、ひとりの学生が言った。「日本がしたことは悪い。でも大切なのは未来だ」と。そして彼は「国は悪いが個人は別だ」とも言った。これは彼一人の考えではない。私が出会った学生たちはみなこういう考えであった。歴史は歴史として心にとどめ、日本の文化や学ぶべきところは素直に認めて、受け入れようとした。

 2年間の韓国生活で忘れられない思い出はたくさんあるが、とくに感動したのはやはり2002年ワールドカップのときのあの熱気だろう。韓国戦のある日、学生たちは赤いTシャツを着て学校に来た。私たち日本人教師ももちろん赤いTシャツだ。試合が夜のときは授業にならなかった。学生が授業に来ないか、来てもみな試合のほうが気になる。そうなったら教師も授業をやめにして1階の大型テレビの前に集まり、一緒に韓国チームを応援した。学校の外でも同じだった。街頭応援のために交通規制がしかれ、光化門や市庁前は赤い人波でおおいつくされた。街頭に出ていない人は食堂や居酒屋のテレビの前で応援した。韓国全体が1つになって応援し、まさに韓国中が「開店休業」状態だった。財布を取られたり寮に泥棒が入ったり、「しょっぱい」こともあったが、それを帳消しにして余りある、たくさんのいい思い出とすばらしい学生たちとの出会いがあった。

 日本では、教科書から強制連行の記述を削除しようとする動きなど、歴史認識をめぐってまだまだ解決されない問題が残っている。けれども民間ではどうだろうか。ワールドカップで多くの日本人が韓国選手の活躍を応援し、BoAや最近の「冬のソナタ」をはじめとする韓国のドラマ、映画の人気に見られるように、日本の若者の韓国に対する距離は確実に近くなっている。

 日本語を学び、自分の目で日本人を見て、日本について考える韓国の若者はこれからも増え続けると私は思う。日本語教師の力は微々たるものだ。けれども私は日本語を教えることを通じて、学生たちに「日本」を教え、彼らの心に将来の日韓関係を作る小さな種を播きたい。日本に関心を持ち日本語を勉強した若者がいつか親になったとき、彼らは自分の知っている「日本」を子どもたちに教えるだろう。そしてその子どもは父や母を通じて日本に関心を持ち、彼らがまた日本語を勉強するかもしれない。国と国の関係がどうであっても、個人と個人の理解はそれを越え、さらには国と国との関係を作る力になる。私はそう信じている。 私は2年間の勤務を終えていったん日本に帰って来た。しかし私は、日本語教師としてさらに経験を積んで、またあのすばらしい学生たちに会うために韓国へ戻るつもりだ。

 学生と仁寺洞でお茶

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