『週刊朝鮮』(韓国) 掲載文(むくげ通信200号、2003年9月) 日本の市民による韓国研究30年『むくげの会』 筆者 李正熙(京都創成大学教授) ごく普通の日本人たちが「抑圧される在日韓国人の歴史やハングルを学ぼう」と 1971年に発足。古代朝・日関係史、食文化、朝鮮民衆運動史、大衆歌謡など 多様な分野における実証研究を継続している。 神戸市には30余年間、韓国・北朝鮮・在日同胞に関する研究をしてきた普通の市民で作った団体『むくげの会』がある。先日『むくげの会』の集会場所として利用している神戸市灘区にある神戸学生青年センターを訪ねた。中年男性の会員8人がさわやかな笑顔で迎えてくれた。彼らはたびたび冗談を飛ばして和気あいあいとした雰囲気をかもし出しながら、自分たちの活動がはじめて韓国に知られることに緊張するようすも垣間見せた。 会の世話人である飛田雄一氏(52)は「同僚とこの会をはじめたときは20代前半の若さだった」と言い、「その後の私の30年の歳月はこの会とともにあったと言っても過言ではない」と話を切り出した。 この会は1971年1月、当時はまだ韓国に対して日本人の関心がほとんどなかった時代に、15名の若い人が日本人の立場から「社会的に抑圧されている在日韓国人の歴史とハングルを学ぼう」という趣旨のもとに発足した。そして会の名称には、植民治下朝鮮において抵抗運動を象徴する花である「むくげ」を入れた。発足当時の会員は飛田氏をはじめ3名が残っていて、のこり5名はその後に参加した。この会はその後研究領域を朝鮮族の歴史・文化などに拡大した。 震災までは毎週火曜日に研究会 『むくげの会』は当初から1995年1月の神戸大地震が発生するまでは毎週火曜日に研究会をもった。その後は月2回に減らしたが休んだことはない。実際に大学研究者でも30余年間に月4回、あるいは2回の研究会を欠かさないで続けることは容易なことではない。そのうえ会員はすべて仕事をもっている。彼らは職場での働きの余暇を利用して研究活動をおこない、研究会を通してそれぞれの研究を深化させている。 彼らはまた『むくげ通信』という通信を通して自分たちの研究結果を発表し、これを整理して本として出版している。この通信は26頁の分量で隔月に発行し、神戸大地震のときを除いて発行を休んだことはない。今年1月までに196号が発行され、発行部数は毎回550部である。 1977年、大企業の社員だったときに会員となった佐々木道雄氏(55)は「ヨーロッパの場合、隣国の文化を学ぶのはあたり前のこととして受け入れていると聞いた」と言い、「隣国である韓国の文化を知ることによって、逆に日本のことを知ろうと思ってこの会に入った」と言う。その後彼は韓国人の暮らしと民俗文化に関する研究を始め、特に韓国を中心とした東アジアの食文化の研究に心血を傾けている。彼はその代表的なものとして松茸を例に挙げる。 「日本人はマツタケ料理を日本独特の食文化だと思っている。14世紀に李穡(イセク)によって書かれた『牧隠集』の詩の表題に〈松茸〉が登場するが、日本でもマツタケというときはこの漢字を使用する。17世紀と18世紀に出てくる日本の事典は、朝鮮の『東医宝鑑』〔1613年に許浚(ホジュン)が編纂した漢方臨床医学書〕に出ている“キノコの中の第一は松茸である”という記述をそのまま引用している。中国の文献に松茸がはじめて登場するのは1912年で最近のことである。したがって“松茸がキノコの中の王である”という考えは朝鮮にその起源があり、それが日本と中国に伝えられたものとみる。このようにマツタケ一つだけをみても、韓・中・日間には食文化の相互交流があったものと思われる」。 現場調査・史料を通じて具体的研究 佐々木氏はこのように食物の材料を通して東アジア三国の食文化を比較し、その中で三国文化の接点を研究した本を2巻発行した。 税関に勤務する寺岡洋氏(61)は専門家も難しい古代朝・日関係史を研究している。彼は「古代日朝交流史を研究すれば、ある側が一方的に文化を伝えたのだというよりも、交流が密接だったということを学ぶようになる」と言い、「日本の遺跡を踏査してみれば、日本は朝鮮から統治と国家運営方式など幅広い文化を受け入れた」と述べている。 『むくげの会』結成当初からのメンバーである堀内稔氏(55)は、植民地時期の朝鮮と日本で、日本に対抗して繰り広げた朝鮮民衆の運動史を整理している。1998年に出版した『兵庫県朝鮮人労働運動史』は1905年から1945年までの四つの新聞記事を読んで整理したもので、執筆に8年間要した。 「ただ韓国が好きだから」といって会に入ったと言う山根俊郎氏(51)は、『むくげの会』でずっと南北韓の大衆歌謡を研究してきた。研究する大衆歌謡は日帝時代から最新歌謡まで多岐にわたり、これを総整理している。彼は毎日のように衛星放送を通じて韓国の放送を視聴し、毎年韓国を訪れてカラオケ喫茶で最新の歌謡を学ぶ。最も好きな歌は趙容弼の「帰れ 釜山へ」である。彼は好きな盧士燕のヒット曲「出会い」について次のように言う。 「『出会いは偶然ではない。それは生きがいだ』、この歌詞から感じるのは韓国人の率直さである。日本人はどんなに好きでもしゃべらないことが美徳として受け入れてきた。しかし韓国人は好きなものは好きと率直に表現する傾向にある。その極端な例がこの歌詞ではないだろうかと思う。個人的には、韓国人の率直さは自分の心を率直に表わすところにあると考えている」と。 彼らの研究はとても具体的である。大学研究者たちが今まで手をつけてこなかった研究領域を、主要な史料と現場調査などを通して開拓してきた。堀内氏は「大学に勤務する研究者もわれわれの研究を認めてくれている。具体的な研究だからこそ彼らの研究に多くの助けを与えていると言える。彼らとはお互いに対立する関係ではなく、補完的な関係にある」と強調する。 このようにして、彼らは自分の研究に対して強い自負心をもつ。佐々木氏は「韓国の食文化を研究する専門家はいるが、私のように包括的な食文化でもって韓国文化に接近した人はいない」と述べる。寺岡氏も「はじめは京都に行き、大学教授から指導を受けたが、むしろ今は彼らの集まりに招かれて行くほど…」と自信満々に言った。 毎月5千円の会費で運営 『むくげの会』は会員だけの閉鎖的な集まりではない。大学の研究者、在日韓国人歴史学者はもちろん、韓国の研究者とも交流をしている。特に今まで彼らの研究会に招かれて講義をした韓国人は、高銀・黄ル暎・朴元淳・李泳橲・安秉直・朴洪圭氏など有名人が多い。 この会の運営は外部の助けを受けることなく、会費だけでまかなわれている。会員は毎月5千円(5万余ウォン)の会費を納める。一般の集まりではふつう会費が500〜1000円であり、比較するとかなり高い会費である。この会費は外部から人を招いたときの講演料、『むくげ通信』発行代金、出版補助金などに使われる。 職場で働きながらこのような活動を持続するのは並たいていのことではない。市役所に勤務する山根氏は「この会を通じて習った韓国語が大きな助けになった。役所に韓国からお客が来れば私が通訳を担当する」と言い、「会の活動と職場の仕事は相反しない」と強調した。寺岡氏は「初めは妻がこの活動をよく理解してくれなかったが、一つ一つの研究成果を示すことによって、今は積極的に支援してくれる」と言う。佐々木氏は最近になって個人の事情から職場を辞めた。しかし彼は「新しくやることが私を待っていて、これからの人生についてまったく心配していない」と言い、「この会の活動が余生をさらに意味あるものにしてくれる」と確信している。 この会も問題はなくはない。会員のすべてが50歳を超えて高齢化し、彼らの活動を継続していく後輩がいないという点である。飛田氏は「それでも強いて後輩の養成はしない」と言った。彼は「われわれの会がなくなったとしても、今までしてきた活動とこれを記録した本が後世に読まれて知られるのであれば、それはそれで満足である」と言い、「会員すべてがこの世上から亡くなるときまでこの活動は続けるだろう」と力強く述べた。 (翻訳 信 長 正 義) |