『むくげ通信』185号/2001年1月
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「朝鮮人強制連行実数カウントプロジェクト」の提案
飛田 雄一
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はじめに

 私は、ここ何年か強制連行の調査活動に関わってきた。1990年には「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」が名古屋からはじまったが、1999年、第10回の交流集会を熊本で開催するまでその事務局の一端をになってきた。熊本集会で一応の区切りをつけた交流集会は、2000年からは各地の調査グループが独自によびかけをおこなって開催する方式となっており、昨年9月神戸で開かれた「強制連行調査ネットワークの集い in 神戸」もその方式で開かれた。

 強制連行に関する調査研究は、1960年代の朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965)を嚆矢とし、70年代には「朝鮮人強制連行真相調査団」による全国的な調査が行なわれ、いくつかの書籍も出版されている(金英達・飛田雄一編『朝鮮人・中国人強制連行・強制労働資料集1994』1994、神戸学生青年センター出版部、巻末文献目録参照)。80年代には70年代に調査活動に関わった人々などの活動が継続され、さらに新しい仲間も加わって活動が広がっていった。90年代の全国交流集会の動きもそのひとつである。朴慶植さんが60年代に蒔かれた種を収穫する作業であったとも言えるかもしれない。

 最近私は、日朝国交回復に関連するブックレット(明石書店)の強制連行の項目を担当することになって、朝鮮人強制連行に関するこれまでの記述をあらためて読みなおしてみた。そこで気づいたことは朝鮮人強制連行の実数に関する記述がほとんどないということである。中国人強制連行の場合には『外務省報告書』によってその実数が明らかにされているのに比べると大きな違いがある。1980年5月のノ・テウ大統領大統領訪日の際に約束した「名簿探し」の結果、「発見」されたいわゆる朝鮮人強制連行者に関する「厚生省名簿(1946年)」によって16府県、66,941名の名簿が明らかとなったが、それはおよらく1946年当時に行なわれた厚生省による調査の一部に過ぎないものである。

 朝鮮人強制連行の実数について『朝鮮人強制連行の記録』には、「日本への連行が約100万」という表現がある。そして朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配 下』(1973、青木書店)では、1,129,812および1,466,022の2種類の数字を紹介して「以上二通りの数字のどちらをとるにしても、百万を突破することは確かなようである」としている(この数字に誤りのあることについては、飛田雄一・金英達・高柳俊男・外村大「共同研究・朝鮮人戦時動員に関する基礎研究」『青丘学術論集』第4集、1994.3、参照)。同『在日朝鮮人運動史 8・15解放前』(1979、三一書房)では「こうして一九三九―四五年間に約一五〇万人が日本に連行され、石炭山に約六〇万人、軍需工場に約四〇万人、土建に約三〇万人、金属鉱山に約五万人、港湾に約5万人が配置された。このほか軍人、軍属として約三七万人、従軍慰安婦として数万人が動員されている」としている。また山田昭次「解説・強制連行」(『近現代史のなかの日本と朝鮮』1992、東京書籍)では、琴秉洞「日本帝国主義の朝鮮同胞強制連行と虐殺の実態について 上」(『月刊朝鮮資料』1974.8)の152万人説の統計上の誤りを指摘して訂正した数字として 「1939年から1945年までの総連行数は1,199,875名、つまり約120万名ということになる」としている。またおそらくもっとも新しい朝鮮史のテキストでないかと思われる『世界各国史2 朝鮮人』(2000.8、山川出版)には、「三九年から四五年までに日本に強制連行された労働者の合計数は一〇〇人以上と推計される」と書かれている。

 朝鮮人強制連行については資料が乏しく公の機関による数字の公表がなされていないために様々な説がでてくることはしかたがないことである。山田昭次氏が同解説でのべているように「私たちは朝鮮に対して謝罪すべき実態の全貌をまだみるところまで至っていない」のである。

三菱と強制連行

 昨年12月、「強制連行調査ネットワークの集い」の番外編?として、呉の朝鮮人強制連行跡地を訪ねるフィールドワークが行なわれ私も参加した。その夜の酒も入っての交流会の席で「三菱」が話題となった。おそらく朝鮮人を最も多く強制連行したのは三菱であると考えられるが、その三菱が北はサハリンから南は沖縄まで、さらにできることなら南洋諸島まで連行した朝鮮人・中国人の実数を積上算的にカウントしてみようというような話になった。その一覧表ができたらそれを材料にして「強制連行調査ネットワークの集い2001」を開催しようということになった。その一覧表を誰かが作ってくれたらその集会を私が準備してもいいと言ったような記憶もあるがその後バタバタとしていて忘れかかっていた。が、年が明けて竹内康人さん(浜松市)がその一覧表を送ってくれたのである。短時間にすごい作業をされたものだと感動した。三菱の強制連行に関しておそらく入手できるすべての文献を調べて、北はサハリンから南は南洋諸島まで一覧表にしたものである。堀内稔さんがそれを清書してくれたのが表1(全6頁の一部)、これまでに「文献」に表された数字を表に落したものである。広島での酒の席でのポイントは、文献に基づく一覧表を示して文句があるのならそれぞれの事業所の数字について、「その事業所はなかった」とか「444人は333人の誤りだ」とか指摘しくれ、その指摘が正しければすぐにその数字を訂正する、ということだ。竹内方式は表1(略)のように典拠文献を示して**年の連行数、あるいは**年の現在員数を書き込んでいる。美唄炭坑のように複数の数字がある場合の表の作り方等、今後検討すべき課題は残っている。ちなみに「仮推定数」も入れられない事業所が多いが、現時点での氏の仮推定数を合計すれば68,770人である。三菱は強制連行数も多いゆえに訴えられている裁判も多いが、三菱関係者?が一堂に会して「三菱強制連行問題」を討論してみたいものだ。(強制連行調査ネットワークの集い 2001は、茨木の仲間が主催して9月8〜9日に開かれることが決まっている。すくなくとも三菱はそのテーマのひとつとなる。

 この三菱プロジェクトのことを考えながら先に述べた朝鮮人強制連行の実数が明らかでないことにも思いをめぐらしていて、「これしかない」と思ったのが今回提案する「朝鮮人強制連行実数カウントプロジェクト」である。

 以下のような原則のもとに都道府県ごとに「**県朝鮮人強制連行一覧表」をつくる。

プロジェクト原則

  1. ここで「朝鮮人強制連行」とは1939年7月の国民徴用令以降、朝鮮半島から日本「本土」の事業所等に朝鮮人を動員したことを言う。(軍人・軍属、「従軍慰安婦」は除く。日本国内で現地動員されたものは含む。)
  2. 資料は刊行された文献による。(プロジェクトとして独自調査は行なわない。引用するためにまず論文を書かなければならないということになる。)
  3. 「厚生省名簿」等、名簿のあるものは「最少の連行数」に実数をいれ、その他文献から「最少」「最大」の数字をいれる。
  4. 今後のために数字を入れられない事業所等についても典拠文献とともにその事業所名は表に入れておく。
  5. 都道府県ごとに責任者を決めて一覧表を作り、最少・最大の連行数もカウントする。
  6. 最終的に全都道府県の総括表を作って公表し、それぞれ個別の事業所について異論・反論がある場合は文献によってそれを述べてもらい、それが正しい場合は一覧表を訂正する。

兵庫県版の出来具合は如何?

 さてかなり大きな風呂敷を広げたが、そのために範を示す必要があると考えて作成したのが表2である。兵庫県の朝鮮人強制連行に関する文献を網羅的に集め(比較的研究が進んでいる兵庫県の場合でも文献数は限られている)から先に述べた「原則」のもとに表を埋めて言った。兵庫県は総数で66,941名の「厚生省名簿」の中で最も多い13,477名となっており、このような一覧表が作りやすい条件となっている。(兵庫朝鮮関係研究会『在日朝鮮人90年の軌跡―続・兵庫と朝鮮人』1993,12、神戸学生青年センター出版部、によればこの日本政府発表の兵庫県の数字と実際に名簿をカウントした数字とは合致していない。また、実際にカウントした13,430も事業所の合計と合致していない。作成者金英達の計算ミスか?)

 一覧表を作成してその「最少」「最大」をカウントしてみると、それぞれ、17,399、21,383となる。表2を第1次試(私)案として公表するが、この最後の数字についてだけの批判は受けつけない。あくまでも個々の事業所の数字について批判をしていただきたい。それは先に「原則」において書いたとおりである。

 兵庫県では1986年9月に1947年3月の「知事引継演述書」が公開されている。そこに「警察部公安課」の作成した「第三国人の人口表」があるが、そこに朝鮮人「徴用工員等の帰国者数」として25,000があげられている(兵庫朝鮮関係研究会『鉱山と朝鮮人強制連行』1987.8、明石書店)。

 また、官憲の資料から兵庫県の「移入者」を調べると表3(略)の通りである。現在までに公表されている『特高月報』等により1943年末までの数字はひろうことができるが、44年、45年の数字がひろえない。強制連行は募集(1939〜42)、官斡旋(1942〜44)、徴用(1944〜45)の3段階をへて行なわれたが、『特高月報』『社会運動の状況』では募集と官斡旋については区別して数字が掲載されている。いずれも累計の数字であるが、1943年12月現在の移入数は合計すれば3,343である。移住者総数1,588とあるのは移入者数1,189と呼び寄せた家族399を合わせたものである。(前掲「共同研究・朝鮮人戦時動員に関する基礎研究」参照)

 1944年12月末の数字としてあがっている13,236は、金英達編『戦後補償問題資料集第2集』175頁に収録されているもので1944年末の兵庫県の数字としては唯一のものである。いずれにしても統計数字から見ようとするときには44年、45年の空白が大きく、総計数字から実態に迫ろうというのはいまのところ難しいようである。

 今回提案するプロジェクトは統計数字から実態に迫ろうという方法ではなく、事業所ごとの連行者の数字から実数に迫ろうとする方法である。いずれその方法によって全国的に積み上げられた数字と全国的な統計数字とを比較検討し、朝鮮人強制連行の実態により近づけるようにしたいものである。兵庫県サンプルをごらんいただき、項目の立てかたも含めてご意見をいただきたい。そしてこのプロジェクトへの参加を呼びかけたい。

『むくげ通信』総目録むくげの会神戸学生青年センター