『むくげ通信』177号(1999.11.28)
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「戦時下神戸港
における朝鮮人・中国人強制連行」覚え書き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめに
神戸港の歴史は1868年の兵庫港としての開港に始まる。1882年に神戸港と兵庫港が一体化された後、1919年の第2期修築工事をへて、1923年には国の「重要港湾区域」となる。戦時下には国の管理のもとに利用されたのはもちろんである。戦後1951年に国に変わって神戸市が「港湾管理者」となって現在にいたっている。
この神戸港にも戦時下朝鮮人・中国人が強制連行された。広い意味で神戸港というとそこにある三菱、川崎の造船所等への朝鮮人の強制連行もあるが、本稿では戦時下神戸船舶荷役株式会社に強制連行された朝鮮人・中国人について報告を行ないたい。
1996年の南京大虐殺絵画展を契機に結成された「神戸・南京をむすぶ会」
(代表・佐治孝典、事務局・神戸学生青年センター内)は、本年6月、東京華僑総会所蔵の日本港運業界神戸華工管理事務所・神戸船舶荷役株式会社『昭和二十一年三月華人労働者就労顛末報告書』の復刻版(以後『神戸港報告書』、2000円〒380円)を発行し調査活動を始めた。また去る7月27日には、神戸港からさらに石川県七尾港に再び強制連行された黄国明さん(河北省原陽県在住、、78歳)が七尾に来られた時、神戸にも来ていただいて神戸港の現地調査と証言集会を行なった。朝鮮人の強制連行に関しては、兵庫朝鮮関係研究会
(代表・徐根植)が、いわゆる1946年の厚生省名簿の兵庫県分( 13,477人)を入手し、その中の神戸船舶荷役株式会社の148名についての調査を始めている。10月14日には、神戸華僑総会、兵庫県朝鮮人強制連行真相調査団(朝鮮人側)、兵庫民団権益擁護委員会、兵庫朝鮮関係研究会、むくげの会、神戸・南京をむすぶ会、神戸学生青年センター等が、「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」
(代表・安井三吉神戸大学教授)を結成し、本格的な調査活動が始まった。神戸港の戦時下の船舶荷役を一手に行なっていた神戸船舶荷役株式会社に強制連行された中国人996名中786名、朝鮮人148名の名簿をもとに、確認されている中国人生存者に加えて朝鮮人からの聞き取り調査も期待されている。
「神戸市史」における強制連行
『神戸市史
第3集産業経済編』(神戸市、1967年3月)には、中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標−中国人強制連行事件の記録』(1964年3月、新日本出版社)を引用して強制連行された中国人労働者996名、その後の転出者330名、内死亡者17名という数字が紹介されている。また朝鮮人強制連行について『大阪港史 第三巻』より「(昭和)一九年ごろまでに主要一二港について半島労務者の配慮ママ?を完了、うち二〇〇人は倉庫荷役の完璧を期するため、とくに東京・大阪・神戸・関門各港に増配した。/大阪港 四〇〇人(倉庫五〇人)/関門港 二五〇人(倉庫五〇人)/神戸港 二〇〇人(倉庫五〇人)」と引用している。そして「右に述べたような一連の事実は、港運会社上層部以外は港湾関係者であっても一般神戸人には知られていない」と結んでいる(675〜677頁)。筆者は落合重信氏である。『新修神戸市史・歴史編W近代・現代』(1994年1月)では、
『朝鮮人強制連行調査の記録・兵庫編』(1993年、柏書房)等を参考に朝鮮人強制連行について記述しているが、神戸港についての記述はない(867〜873頁)。中国人強制連行と「事業所報告書」
戦時中日本には38,935名の中国人が強制連行され135の事業所で強制労働を強いられた。その内6,830名(17.3%)が死亡している。1946年日本政府は、『
華人労務者就業報告書』(いわゆる『外務省報告書』、田中宏・松沢哲成編『中国人強制連行―「外務省報告書」全五分冊ほか−』(1995年1月、現代書館、所収。以後『外務省報告書他』と記す)を作成したが、その時、135か所の事業所すべてについて 『華人労務者就労顛末報告書』(いわゆる『事業所報告書』)を作成した。復刻版の『神戸港報告書』はその117番目の「港運華工管理事務所」のものである。『外務省報告書』は日本政府によってその存在を否定されていた。「現在それはございません。ないことだけは確かであります」(1958年4月9日、衆議院外務委員会での松本政府委員の答弁)、あるいは、「一度外務省には詳細に個人名を並べた収容所調査簿があったわけでありますが、それが終戦直後焼失いたしまして、現在その詳細なものがないことは確かでございます」(1958年7月3日)という具合にである(田中宏・内海愛子・新美隆編『資料
中国人強制連行の記録』1990年12月、明石書店、内海愛子解説、655頁)。『資料
中国人強制連行の記録』には、1964年6月、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会による『中国人強制連行に関する報告書 第四編 連行された中国人の名簿』が収録されていおり、これは『外務省報告書』および『事業所報告書』をもとに独自調査の結果を加えて作成されたものだ。これらは1964年当時すでに東京華僑総会が所蔵していたものであるが、それが公表されたのは、1993年夏のことである。1993年8月14日NHKスペシャル「幻の外務省報告書−中国人強制連行の記録」として放映されたのでご覧になった方も多いと思う。その後この内容は、NHK取材班『幻の外務省報告書−中国人強制連行の記録』(1994年5月、日本放送協会)として出版されている(ビデオは神戸学生青年センターにある)。公表の経緯についてはビデオおよび『幻の外務省報告書』を参照願いたい。この『外務省報告書』はGHQに提出するために作成されたものではない。当時この調査にかかわった元外務省調査官・平井庄壱氏は「戦犯になるのを防ぐため、GHQに調べられる前にあらかじめ準備しておかなければならないと、この調査をやったのです」(『幻の外務省報告書』、58〜59頁)と語っている。また、アメリカの公文書館で発見された「華人労務者就労事情調査ニ関シ協力方依頼ノ件」には、「華人労務者ノ就労事情ニ関シテ曩ニ貴省に於テモ之ガ関係事情調査相成タル趣ノ本件ニ関シ不日連合軍ノ取調モ予想セラレ居ルノミナラズ‥‥」(『外務省報告書他』、22頁)とある。
また、『事業所報告書』も元調査員・大友福夫氏によると、「事業所側は一生懸命報告書を作成していたが、それは、問題になったときのために、申し開きをするための材料を提供する、整えるという意味で書かれていることはまったくのきれい事だった」ということだ(『幻の外務省報告書』、41頁)。
神戸港への中国人強制連行
中国人強制連行はよく知られているように1942年11月27日に閣議決定された「華人労務者内地移入ニ関スル件」によって始まる。その「第一
方針」には、「内地ニ於ケル労務需給ハ愈々逼迫ヲ来シ重筋労働部面ニ於ケル労力不足ノ著シキ現状ニ鑑ミ左記要領ニ依リ華人労務者ヲ内地ニ移入シ以テ大東亜共栄圏建設ノ遂行ニ協力セシメントス」(『外務省報告書他』、139頁ほか)と書かれている。神戸港に連行された中国人は先に述べたように996名、そのうち330名が、神戸空襲により神戸での作業が困難となってのち、室蘭、七尾、敦賀に「移送」されている。『外務省報告書』(『資料
中国人強制連行の記録』、310~313頁)、復刻版(『神戸港報告書』)および『中国人強制連行に関する報告書 第四編 連行された中国人の名簿』(『資料 中国人強制連行の記録』、563〜573頁)より連行された中国人について整理すれば次のようになる。#は、名簿に名前の786名につけた通し番号である。一次
大連1943.9〜神戸1943.9.9 210人この210人(名簿なし)は、
〜全員集団送還、〜神戸1944.4.15〜大連
二次
大連1944.4〜神戸1944.5.4 203人この203人(#1~#203)は、
〜神戸で死亡(呉日敬#97)(梁永華#118)2人
〜残留(李興旺#95)(馬宝元#182)
2人〜集団送還、神戸1945.4.24〜大連
199人2.日華労務(自由)
三次
呉淞1944.9.16〜下関1944.9.25〜神戸1944.9.26(#204〜#254)
51人四次
呉淞1944.9.15〜下関1944.9.29〜神戸1944.10.12(#255〜#304)
50人五次
呉淞1944.9.3〜下関1944.10.11〜神戸1944.10.12(#305〜#336)
32人この計133名のうち、
〜港運函館へ1944.12.5 130人
※(『外務省報告書』によればこのうち47名が死亡。『資料
中国人強制連行の記録』の『名簿』では48名。氏名についは後述。)〜港運敦賀へ1945.2.15@
1人〜神戸で死亡(兪詳興#275)
1人〜集団送還/神戸1945.11.6
〜博多1945.11.7〜塘沽(王尚富#335)1人
3.華北労工協会(六次
訓練生、七次 行政)六次
青島1944.10.22〜下関1944.10.28〜神戸1944.10.30
300人この300人(#337〜#636)のうち、
〜港運敦賀へ1945.2.15A
(@+A100名の内1名死亡)
99人〜さらに残り99名は1945.4.13七尾へ
〜この99名のうち1名七尾で死亡
#599高徳銀
〜港運七尾へ1945.4.27(うち2名七尾で死亡)
#581朱新修
#632李鴻昌 100人〜神戸で死亡(黄照正#360)(趙来運#366)
(陳流科#479)(龍振三#486)(張天光#530)(李修義#577)(任永運#602)(康的紀#614)
〜集団送還、神戸1945.11.6〜塘沽
93人七次
塘沽1944.11.25〜下関1944.12.15〜神戸1944.12.16
150人この150人(#637~#786)のうち
〜神戸までの車中で死亡(
桃 洞#786) 1人〜神戸で死亡(趙福栄#702)(
耿和善#749)(王徳栄#771)(張満良#777)(郭興元#785 )
5人〜集団送還、神戸1945.11.6〜塘沽
143人〜残留(
王樹林#780) 1人
「福昌華工」とは福昌華工株式会社のことでこの会社が「満州」での強制連行を担当していた。「特別」というのは特別供出のことで、「荷役造船等ノ経験ヲ有スル華工ヲ中心トシテ編成セラレ素質最モ良好ナルノミナラズ死亡率亦低シ」と言っている。このグループは大連の荷役労働者を強制連行してきた「試験移入」段階のもので、労働者を借りてきたというようなものらしく、それぞれ1944年4月の段階で送還している。『報告書』には「試験移入ノ結果ハ概ネ良好ナル成績ヲ収メタルヲ以テ昭和十九年二月二十八日ノ次官会議決定ヲ以テ曩ノ閣議決定ニ基キ之ガ実施ノ細目ヲ定メ昭和十九年度国民動員計画ニ於テ三萬名ヲ計上愈々本格的移入ヲ促進セシムルコトトナレリ」と書かれているものである。
「日華労務」は「華中ニアリテハ労務供出ノ目的ノ為特設セラレタル日華労務協会之ニ当リ」(同213頁)という協会である。その協会が「主要労工資源地ニ於テ条件ヲ示シ希望者ヲ募集スルモノナリ」という「自由募集」で合計1,455名を強制連行している。
行政供出と訓練生供出が中国人強制連行の中でもっとも数が多い。合計38,935名のうち行政供出が24,050名、訓練生供出が10,667名で合わせれば全体の89.2%にも達する。これをすべて行なったのが華北労工協会である。
その「行政供出」は、「中国側行政機関ノ供出命令ニ基ク募集ニシテ各省、道、県、郷村ヘト上級庁ヨリ下部機構ニ対シ供出員数ノ割当ヲナシ責任数ノ供出ヲナサシムルモノ」であるという。『外務省報告書』自身もこの行政供出は「問題ヲ包蔵スル危険アリ」「半強制的ニ供出セザルヲ得ザルニ至ラシメタリ」(同221頁)と不備を認めている。
訓練生供出というのは、「日本現地軍ニ於テ作戦ニ依リ得タル俘虜、帰順兵」を収容所で「訓練」したのちに強制連行したものである(以上は『外務省報告書他』、111〜113頁および215〜221頁)。
被連行中国人の出身地と年齢
1.福富華工(特別)
一次(大連1943.9〜神戸1943.9.9)の210人については事業所報告書に名簿がなく、出身地、年齢とも不明である。
二次(大連1944.4〜神戸1944.5.4)の203人
については、山東省130、河北省32、江蘇省29、安徽省5、河南省2、湖北省2、奉天省1、関東省1、大連1、年齢は18歳から51歳、平均32歳となっている。2.日華労務(自由)
三次51人、四次50人、五次32人の計133人については、上海104、江蘇省10、河南省9、浙江省6、天津2、河南省1、不明1、17歳から57歳まで平均28歳。
3.華北労工協会(六次
訓練生、七次 行政)六次300人については、河南省225、山東省38、四川省11、湖北省10、狭西省8、安徽省3、湖南省3、江蘇省2、河北省2、奉天1、甘粛省1、察哈1、17歳から52歳、平均25歳(旧軍人)。
七次150人については全員が河北省出身で、16歳から54歳、平均32歳となっている。
中国人の死亡者と負傷者
死亡者は、報告書によるとすでに述べたように神戸に到着するまでに列車内で死亡した1名を含めて神戸港での死亡者は17名で、整理したのものは次頁の表のとおりである。外務省報告書(『資料
中国人強制連行の記録』、593頁)には、死亡原因として、公傷2、私傷0、伝染病4、一般11とある。神戸から更に強制連行された330名のうち、函館で48名、敦賀で1名、七尾で3名が亡くなっている。神戸港に強制連行された996名のうち名簿のある786名については、合わせて69名が亡くなったことになる。
函館で亡くなった48名は以下の通りである。
#204仇正山、#215李 文、#223唐志成、#225邵嗣恒、#226陸阿華、#227李林江、#228趙杏生、#229張竹明、#232李福根、#233王保悲、#235華阿狗、#237任其祥、#238揚少慶、#239荘則栄、#240王徳康、#244曹慶元、#245趙順発、#252朱栄根、#257笵純如、#260姜桂慶、#261陳炳栄、#262揚植枝、#264応 龍、#265胡仁芳、#268趙振麟、#269胡伯年、#270杜鶴鳴、#271周三男、#279胡金業、#280李悟真、#287王阿毛、#289周雲鶴、#290張松延、#291鄭木慶、#292夏新根、#300馮楽忠、#302朱生濤、#304趙金栄、#305金祖源、#307曹洪祥、#318魏裕錦、#319呂孟康、#324 金生、#325沈新高、#328湯安生、#329翁伯年、#330張竹軒、#331張阿貫。
(※ #261陳炳栄は、『名簿』(『資料 中国人強制連行の記録』566頁によれば1945年11月22日死亡となっている。この1名が『外務省報告書』にカウントされていなくて47名となっているのかもしれない。函館へ再び強制連行された130名のうち48名が亡くなったというのは驚くべき数字である。)
負傷者についても名簿のある786名については、記載があるが、それがどこまで事実を反映しているかは不明である。
外務省報告書の総括表(『資料
中国人強制連行の記録』、515および631頁)によると、負傷者数13、罹病者数41、不具疾病者数2、そして公傷・重傷は3名で、2名死亡、1名不具者、私傷・重傷は1名となっている。一方神戸港から直接あるいは敦賀経由で七尾に再連行された中国人から多くの失明者がでている。
敦賀経由の中国人は、#350李雲中(右目)、#378王庭(左)、#398郭豊亭(両眼)、#403張春栄(両)、#406呂洪山(両)、#423朱同喜(左)、#434蘭福安(左)、#603張栄軒(両)、七尾直行の中国人は、#447王文義(両)、#466呉満星(右)、#471張栄礼(両)、#483徐福堂(両)、#498候玉成(右)、#503郭保如(両)、#506周林(両)、#507劉改成(両)、#531馮克倹(両)、#601婁岐山(婁本正、左)の合計18名である。「失明患者続出ニ就テ」という「現地調査覚書」では、「転入華労中ニ於テモトラホーム患者ガオリ、失明セル者ノ殆ドガ之等華労ナリ」(『外務省報告書他』39頁)と言い訳している。1996年8月に訪中して聞き取りをした石川県グループの『痛苦の証言・50年を越えて−七尾強制連行の生存者を訪ねて−』(1997年7月)によると、神戸から七尾に強制連行された房照云さん(1988年死亡)の弟・房照順さんは、「七尾では目が悪くなった人がたくさんいたそうで、失明した人も64人いたのですが、港で同じような仕事をしていた神戸ではどうでしたか」という質問に「失明者は10人程いたと」と答えている(33頁)。
# 95 李興旺は、神戸港で脊髄骨折(「私傷」)の重傷を負い戦後、入院を理由に「残留」となっている。この李さんかも知れない中国人の消息を、後述する中国人宿舎の新華寮の近くにある隈病院で伺った。隈病院は死亡者のうち2名の死亡診断書をかいている病院だが、去る11月9日飛田が隈病院を訪問して元事務長・坂口吉弘氏(1922.1.21生)から伺った話である。氏は復員後1945年12月7,8日頃から隈病院に勤務したが、1946年夏ごろ隈病院に入院していた中国人を白浜の国立療養所(温泉病院?)へ連れて行った。氏は彼と仲が良かった。付添は坂口の他、神戸市より2名、中国人の世話人1名(世話人として残留した#182馬宝元か?)であったという。
また#199 趙学信は、右足切断(公傷)の記録が残っている。言い訳の多い事業所報告書でも「傷害殊ニ公傷発生状況及ソノ原因」として、「何レモ作業中船内ニテ受ケルモノニシテ華労自身ノ不注意ト言語ノ不通ニヨリ生ジタ場合多シ」(『神戸港報告書』107頁)と書いている。
4ヵ所あった宿舎
宿舎は、事業所報告書(『神戸港報告書』、93〜100頁)によると、次の4ヵ所があったようである。
@三友寮
神戸市生田区中山手通7丁目859、314坪4合、□□(判読不明)二階建三棟、平屋建二棟、建坪248坪5合、福昌203名、「元日人港湾労務者三〇〇名ノ宿舎ヲ改造転用セルモノ」
A萬国荘
第2次北支工150名、「元映画館ヲアパートニ改造セルモノ」1945年3月17日の空襲後、「強制家屋疎開」により4月14日に150名は新華寮に移転した。
B新華寮
神戸市生田区北長狭通7丁目58、「元日人港湾労務者三〇〇名ノ宿舎ヲ改造転用セルモノニシテ諸施設完備セル申分ナキ宿舎ナリ」とある。現在のJR神戸駅より東、宇治川商店街南入口の少し東、現在のライオンズマンション付近。
第1次北支華工300名、1945年2月15日に99名が敦賀へ、4月27日に100名が七尾へ移り、残り100名のこの寮に先の萬国寮より150名が入った。ここも3月17日の空襲で3分の1が焼失し、海岸宿舎に移転した。
7月神戸に来られた黄国明さんは、「港と宿舎の往復しかしなかったのでどこが宿舎か分からない」とのことだったが、資料調査によるとこの新華寮にいたと考えられる。図面は、上の通りだが吹き抜けがあったという黄さんの話は図面の中庭のことだと考えられる。また「空襲のときガード下に逃げこんだ」ことを覚えているというが、それが新華寮からすぐ南にあるガードのことか作業中の波止場から逃げこんだ別のガードのことかは分からないようだ。
C海岸宿舎
同じく3月17日の空襲で焼失した栄町通5丁目貿易会館跡を急遽修理して8月3日新華寮より移転した。
中国人の生存者
すでに強制連行から50数年がたっているが、「七尾中国人強制連行を調査する会」の努力によって、神戸から七尾に連行された中国人のうちで次の5名の生存者が確認されている。いずれも河北省原陽県在住者である。
#361秦世泰
#363肖景声
#500王安民
#502黄国明(去る7月に来神)
#561王勤州
また大阪・中国人強制連行をほりおこす会の中国での調査活動のなかで、河南省の#562賀( ?)文清さんの生存が確認されている。
「補償要求」の実現
『事業所報告書』および『外務省報告書』は中国人に強制労働をさせた企業が自らの責任をのがれ、かつ日本政府に対して中国人を「雇用」したことから受けた「損失」を補償してもらうことも目的としていた。そのため中国人を「雇用」したことから得た利益と経費を計算して、その「損失」を補償してもらったのである。
『外務省報告書』には、「‥‥政府補償ヲ入ルルモ尚相当額ノ赤字ヲ示シ其ノ額ハ推定収入53,977,466円ニ対シ支出ハ193,645,642円(内訳終戦前経費123,972,638円終戦後経費69,673,004円)ニ上リ政府補助金56,725,474円ヲ入ルルモ業者トシテハ82,942,702円ノ赤字トナリ居レリ」(『外務省報告書他』133~134頁)と、書かれているのである。
その「根拠」が各事業所毎に数字としてあげられているが、港運神戸については以下の数字となっている。
収入
990,270円終戦前経費
1,488,971終戦後経費
232,862支出計
1,721,833円損失総額 731,563円
このような21ヵ所の事業所をもった日本港運業会は、12,656,962円を日本政府に請求し、その42%にあたる5,340,445円を得たのである(『外務省報告書他』780~783頁)。強制連行した中国人に対する補償を何ひとつしない企業と日本政府の間でこのような許しがたい行為が行なわれていたのである。
朝鮮人の神戸港への強制連行
おなじく神戸船舶荷役株式会社に強制連行された朝鮮人については、先の「神戸港‥‥調査する会」での金英達さんの報告を紹介させていただく。朝鮮人強制連行のいわゆる厚生省名簿は、名簿があるのみで先の中国人の『事業所報告書』のような詳細な記録はない。
人数は、148名で全員が「官斡旋」による強制連行である。神戸に来た日時および人数はは以下の通り。
1944年9月10日
65人9月14日
24人12月23日
59人死亡者は、呉伊相(1945.6.3)
病気で送還された者は計10名で、1944年10月13日
4人、1945年5月15日 1人、同6月18日 5人。逃走した朝鮮人は計27人で、1944年9月13日から1945年6月23日までの期間に、1〜14人で逃走している。
帰国(集団送還)したのが、110人(1945.10.8)である。
生年は、1930年(1945年当時15歳)から1890年(1945年当時55歳)である。
出身地は以下の通り。
1944年9月10日入所者
忠清南道錦山郡
全羅北道鎮安郡
1人慶尚南道居昌郡
1人1944年9月14日入所者
全羅北道金堤郡
同
高敞郡 1人同
井邑郡 1人1944年
12月23日入所者忠清南道錦山郡
全羅北道金堤郡
39人同
鎮安郡 1人未払金の欄にはいずれも記載がない。
中国人関係の『外務省報告書』には、「本格移入」のための「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」(1944.2.28)が紹介されているが、すでにその中に、「華人労務者ノ作業場所ハ朝鮮人労務者又ハ俘虜トハ厳ニ之ヲ区別スルコト」(『外務省報告書他』、146頁)と書かれている。全国の強制連行現場でこのような措置がとられていたようである。
おわりに
私にとっては地元の神戸港における朝鮮人・中国人強制連行の調査をやっと始めることになった。50数年を経過して遅過ぎるスタートであるかも知れないが、できるだけのことをやっていきたい。幸い神戸港の船舶荷役に関しては神戸船舶荷役株式会社が朝鮮人と中国人を強制労働させ、かつその両方の名簿が残っているという好条件がある。
中国人についてはすでに先行しているグループの調査により生存者が確認されており、朝鮮人についても連行された地域が比較的狭い地域であることから生存者を見つける可能性も高いものと思われる。
「神戸港‥‥調査する会」では、調査を担う運営委員をつのり、定期的な集まりも始っている。関心をもたれる方の参加を期待したい。
(調査する会の連絡先は神戸学生青年センター内、個人年会費は、3000円、郵便振替<00920-0-150870 神戸港調査する会>)
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