むくげ通信164号

南京大虐殺の現場を訪ねる旅/飛田 雄一

 

今年8月、神戸・南京をむすぶ会の訪中団の一員として初めて南京を訪ねた。中国には3回目である。最初は、国会議員について北京からウルムチ、トルファンまで行った。さすが社会主義国というか、団長と平団員との車に極端な差があったり、パトカーの先導で走ったりという旅行で、まさに「大名旅行」であった。

2度目は、『むくげ通信』でも書かせてもらった延辺行きである( 109号、110号、1988年7〜9月)。延辺に住む朝鮮人独立運動家・柳東浩さんにお会いするためのひとり旅で、硬座の夜行列車に乗ったりと苦労はしたが出会いの多い楽しい旅だった。この2回の中国への旅は、その待遇において雲泥の差があった旅でもあった。

 

中国ツアコンことはじめ

今回の旅は、「神戸・南京をむすぶ会」の事務局長としての参加で、ツアコンでもあった。中国語の全くできないツアコンは、役に立たないこともあったが、なんとか無事に帰ってきた。むすぶ会は、96年4月〜5月に神戸王子ギャラリーで開催した「丸木位里・俊とニューヨークの画家たちが描いた南京1937」絵画展の実行委員会が、離れがたくてできた会だ。南京大虐殺の60年目にあたる今年97年に南京大虐殺の現場を訪ねることを会の大きな目的にしていた。

 

中学生、高校生、壮年、・・・・

団員は12歳から72才(顧問の林同春さん)までの28名。女性が6割、在日華僑が2割とバラエティーに富んだグループだ。最年少の太田悠さんの感想文を紹介しておこうと思う。

 

 

「私は友達とこのツアーに参加したわけですが、ツアーは一言で言うと、ほんとによかった≠ナす。南京大虐殺のことを多く学んでおきながらよかった≠ニいう言葉で表現するのは、ちょっとダメな書きかたかもしれないけれど、たくさんのことを学んだことにしても、親なしでちゃんとできたってことにしても、本当にこのツアーは私にプラスになることばかりでした。

 今でも鮮明に覚えているのはやはり、南京大虐殺記念館で聞いた、幸存者の方の話でした。思い出したくもなかったのに、それでも涙ながらに虐殺のことを語ってくださるのを見ていると、言葉がでなくなってしまいました。

 私は、日本に帰って、夏休みの課題だった「公民新聞」に、南京大虐殺のことをまとめました。書きたいことが多すぎて、何から書けばいいのか分らなかったので、かえって、さっぱりとした新聞になってしまいましたが、心の中に今回のツアーのことをやきつけているのでいいかなと思いました。

 私は一生このツアーのことは忘れないだろうし、南京大虐殺についてもこれからもずっと学び続けていきたいと思いました。」 (太田 悠 中学2年、女)

 

南京大虐殺国際シンポジウム

日程は、8月12日に関空を出発して上海へ、そしてその日の内にバスで南京へ。翌13日は、「南京大虐殺国際シンポジウム」に参加した。基調講演の「“南京大屠殺史”研究の歴史的経過と今後の任務」(陳安吉)は、これまでの南京大虐殺研究を概括し現在の問題点を整理したすばらしいものだった。翻訳文は近々発行する報告集にも集録する予定である。南京戦に参加した元日本軍兵士・東史郎さんの発表は、先の太田さんの感想文にもあるが、現地で聞くとさらに迫力のあるものだった。

南京には3泊して虐殺の現場を訪ねるフィールドワーク、南京大虐殺記念館見学、幸存者の証言集会等をした。1937年当時、南京に入場した日本軍は、数々の虐殺を行いながら北進し長江沿岸で最も大規模な虐殺事件をおこしている。フィールドワークはその現場を訪ねるものであった。

 

早乙女愛「南京1937」

ただ最初の日の夜、市内の劇場で観た映画のことに触れておこうと思う。一昨年中国で封切られた中国映画「南京1937」で早乙女愛ら日本人も出演している。日本人女性(早乙女)と中国人男性のロマンスを軸として、南京大虐殺を大きなスケールで描いている作品だ。もちろん中国語の映画だが、英語の字幕がついているのに驚いた。日本の侵略をテーマにした映画であり日本人も出演しているのに日本語の字幕がないことにショックを受けた。日本軍大将松井石根役として出演された久保恵三郎さんらの努力により、今年中に日本でも上映されることになったので、是非観ていただきたいと思う。

最近、南京大虐殺当時、国際安全区代表のドイツ人・ラーベが書いた「日記」が発見されて話題をよんでいるが、その安全区も映画の舞台となっている。史実に徹したという呉小牛監督の執念が伝わってくるが、安全区さえも日本軍が蹂躙した戦争の実体を、映像はリアルに示してくれる。

 

三井・淮南炭坑の万人坑

今回の旅のもう一つの目的地は、淮南だった。パール・バックの「大地」の舞台で、戦中に三井が経営した炭坑に「万人坑」が残っているということだった。淮南には南京から5時間半バスに揺られて到着したが、戦後、淮南に日本人がくるのは初めてだと聞いた。10年前にその万人坑を中心とした記念館の建設が始まったが、資金不足で頓挫している。でも、発掘中である万人坑を見せていただいた。その炭坑では、約7万人の中国人が苛酷な労働に従事させられ1万3千人が死亡したといわれる。当初は、事故、病気等で死亡した中国人労働者をそのまま放置していたが、その数の増大により、幅3b、深さ5b、長さ20bの溝を3本掘ってそこに死体を集めていったという。3本の溝の一部を発掘して記念館の一部にするための作業の途中だったのである。幾重にも累々と積み重なった人の骨は、侵略戦争の残虐さを事実そのものとして私たちに示していた。

 

「書をすてて街にでよう」!?!?

淮南では2泊し、翌日バスで合肥まで出てから飛行機で上海にもどった。来るときには通過だけだった上海では、職人芸的なモンゴル料理を食べたり、旧外国人居留地を散策したりした。今回の旅の、1週間というのはメンバーが年齢を越えて仲間となるのに充分な時間であったように思う。

現地に学ぶことの大切さはよく強調される。日本国内で強制連行の現場を訪ねた時にも感じるが、歴史的事実をリアルに再現してくれる。日本軍が激戦の後に入場して日の丸を掲げた南京中華門にも登ってみてそのことを感じた。今回、若い世代とともに旅をし、彼女たちの瑞々しい感性に触れることによって益々その感を深くした。「書を持って現場へ出よう」ということだろうか。

 

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